第51回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「今を大切に」

著者 : 渡邊 勝子 (わたなべ かつこ)  福島県

「オレには夢がある、夢があるんだ!」
「夢がなんだ、今食べた事も、今日の日付も自分の年も記憶出来ないのに。三秒の記憶もできないで何が夢だ!」
自宅に退院した息子を責める私の声、毎日私の怒鳴り声ばかり近所中に響きわたった。
二〇〇八年七月、東京で夢に向かい頑張っていた息子は突然脳内出血を発症した。
先生は二十七歳の若さに賭けましょうと、手を尽くして下さった。生きている事が奇跡だったのだと思う。そして二、三か月後には身体障害者の申請を病院から勧められた。
転院する病院も見つからなかった。病状が重いのが理由だった。あったとしても遠い場所だった。そんな時、地元のK病院が、
「いわき出身の方が困っているならいいですよ」
と、転院を許可して下さった。
その年の暮れに、命を救って頂いた東京の病院から地元のK病院に転院した。
コンニャクのようにクニャクニャだった体が、ベットにどうにか腰掛けられるまでになった。すでに次の転院先が決まっていたが、私の心に迷いが生まれた。それは一八○日を過ぎるとリハビリの回数が激減する事だ。このままなら間違い無く寝たきりになってしまう。私は迷った。家族と相談して自宅への退院を選んだ。
退院が間近に迫った頃、病院から説明があった。
「淳也君は高次脳機能障害です」
高次脳機能障害とは頭のケガ、脳の病気、低酸素脳症等から起こる高次の脳機能の障害の事だそうだ。人それぞれ違うが息子には、記憶障害、物の認識困難、目では見えているのだが左半分の存在の無さ、何をどうしたら良いかという思考力の弱さ、自分の病気を認識できない等の障害が残った。発症してから何かおかしいと思っていた事全部が当てはまった。この障害とどのように共存してゆくか詳しく説明を受けた。が、私はこの障害について全く無知だった。そんな私のために、二十四時間息子に付き添う機会を病院側が用意して下さった。そして退院日を迎え、高次脳機能障害の車イスの息子との生活がスタートした。
あの頃、私の中にはこの障害と立ち向かい、完全に元の息子に戻せる自信が満ち溢れていた。でもその自信は、退院したその日に見事に打ち砕かれた。この障害の威力、脳の病気の怖さを見せつけられた。一番つらかったのは記憶が出来ない事だった。三秒前の記憶さえ困難だった。たった今食べた事が記憶出来ない。だからいつも
「腹減った、ご飯まだ?」
毎日、毎時間、毎分ごとにこの繰り返し。
「今、食べたんだよ」
「ウソだ、食べてねぇ」
この繰り返し。
体の動きさえ高次脳機能障害は息子から奪った。狭いベットの上で、長身の息子は頭をよくぶつけた。下に少し動けばぶつからないですむのに、さらに上に動いて、頭がぶつかっているのにそれでも上に動いて。動くのもベットの脇の柵に手を掛けるのだが、握り方も柵自体もわからない。息子が不憫ですごく悲しかった。
家族がいる時はどうにか持ち堪えられたが、日中の一対一の時間は長く、私は自分が壊れてゆくのがはっきりわかった。生きているそれだけで精一杯だった。
母親なら辛抱強く我が子を介護できる自信があったのに、自分が一番に変わってしまった自分を責めた。いつまでも目の前の現実を受け入れられず、あまりに変わってしまった息子を責めた。出来る事を褒められなかった。
私は我を忘れて何度も二人で死のうとした。すると決まって息子は、
「オレには夢がある、だから死なない。死ぬ時は一人で死ねるから」
と静かに言った。
芸能人になるのが息子の幼い頃からの夢だった。病気になってもこの夢だけは決して忘れる事はなかった。そして音楽と優しい性格だけが息子に残された。
それだけあればいいんじゃない? 自分の手で食事ができればいいんじゃない? 歌だけ記憶できればそれでいいんじゃない? 生きていればそれだけでいいんじゃない?
そう一番大事なのは命。わかっていても、体の障害と脳の障害をもつ息子の世話は言葉にできないほど大変だった。私には寛大な心がなかった。
退院してから一か月間は息子のベットの隣に寝た。同じ質問、同じ話の繰り返しに返事をしないと大きな声で家族を呼ぶため、皆が睡眠不足にならぬようにそばに付き添った。当時風呂に入るのも不安で私は入らない日が多かった。
ある夜、いつものように紙オムツをあてていた時の事。いつもの様に息子は、
「腹減った、ご飯まだ?」
の連続開始。そこで私はいつも考えていた事を実行してみた。次の食事に関心を持たせたらどうかなと思いこう答えた。
「明日の朝ご飯、何食べたい? 早く起きたら何時でも用意してやるよ。だから早く寝な」
すると息子は、
「わかった、何時でもいいの? 二時でも三時でも?」
「いいよ、そのためには早く寝ないとね」
「わかった」
そう言うと、息子はウソのように静かに寝たではないか。今までの地獄のような繰り返しはなんだったのかと思うほど。そして二時や三時に起きる事もなく、朝まで寝てくれた。
それからも、食事の記憶は次の食事に関心をもたせる事でどうにかクリアできた。
次に大変な事は、ベッドから車イスに移動する時や立ち上がる時の介助だった。体が一八○センチもあり重労働だったが、息子のリハビリのために頑張った。
だが、私はその日疲れていた。どうしようもなく早く横になりたかった。ズボンの後ろを掴むふりだけして、掛け声をかけた。すると、なんと息子はベットの柵に掴まり自分だけの力で立ったではないか。やった、毎回こうしようと思った。
あの頃の私の頭の中は、常にどうしたら良くなるか、それだけを考えていた。
そんな張り詰めた生活の中で、息子の歌声が私をほっとさせてくれた。息子は病気になる前に、自分で歌を作りギターを弾いて歌っていた。その曲を恩人のKさんがCDにしてくださった。こんな病気になるとは夢にも思わずに。病気になってから息子と私はこのCDを毎日聴いて歌っていた。食べた事、誰と会話をした事はもちろん、相手も会話の内容も、今日が何月何日も、今の季節も、何度も何度も教えても何も記憶出来ない、テレビも認識できない。そんな毎日の生活の中で、息子の歌に救われた。歌詞はおぼろげだが、テレビやラジオから流れる歌にあわせて歌う事が出来た。自分の知ってる曲だと喜んで。初めて聴く歌でも、音程を覚え歌える力を持っていた。音楽は本当に不思議な力を持っている。
二〇〇九年十二月。大きな出会いが訪れた。市の地域包括支援センターのイベント、それも音楽会に参加する機会に恵まれた。そこで「津軽海峡冬景色」を皆さんと歌っていた。
「いい声だね、うまいね。リハビリを兼ねてバンドに入らない?」
と、一人の女性が声をかけてくださった。しかし車イスなので辞退したら、
「そこ去年バリアフリーにしたの」
毎日落ち込む母と、そのせいで笑顔を忘れた息子は、喜んでバンドに入れて頂いた。そして広い練習スペースで生のバンドに囲まれマイクを持つ息子が誕生した。
バンドに参加し始めの頃は、体が左に傾きまっすぐに姿勢を保持する事が難しかった。声はボツンボツンと切れて伸ばす事が出来なかった。歌詞も記憶出来ないので右側から私が教えた。そんな息子がバンドに参加する度に姿勢も声も歌詞もどんどん良くなっていった。こんな日が永遠に続くかと思われた。
二〇一一年三月、東日本大震災が起きた。あの日息子はポータブルトイレに座っていた。私は長く尋常ではない揺れに命の危機を感じた。自分一人なら外にいつでも飛び出す事が出来るが、車イスの息子は簡単に外に飛び出せない。
「早く歩きなよ! 死んじゃーべよ!」
と、息子の肩を強く揺すった。
「大丈夫だよ、収まるよ大丈夫」
と、息子は冷静だった。息子が落ち着いていたから外に逃げる準備が早く出来た。何度も何度も繰り返し来る地震に、何回も何回も外に逃げた。寒い日で不気味なくらい静かで白い雪が降ってきた。
生活が少し落ち着いた頃、息子はテレビから流れる津波の映像に涙を流し、
「このしんさいでくるしむ人たちのために、なにかをしてあげたいと、せつに思います」
と、泣きながら言った。
この頃ほんの少し記憶が良くなった。
九月のある日、息子の前のテーブルにペンと紙を置き、私は掃除を始めた。戻ると紙に何か書いてあった。

あなたのなみだが心から消える時が来るなんてありえないよね

と、一行書いてあった。
「すごいね次は?」

もう少し私に力があれば
あなたを私の元にもどせる時が来るよね
大好きだったあのころにもどりたいな
でも本当にもどれるのかな
もどりたいな

奇跡を目の前でみせてもらった。詩の意味が繋がっている。こんな能力があったんだ。食事の記憶は出来なくても、音楽につながる事なら記憶できるんだ。
怒ってばかりの母に、笑顔の似合う以前の母へもどって欲しい……そんな切ない息子の心の声をきいたような気がした。私は急いでカセットテープを用意して曲をつけようと思った。が、息子には曲は難しいようだった。そこで声に出して読ませてみた。その感じから私が曲をつけた。
二〇一一年九月二十二日、息子はその歌に「あなたのなみだ」と曲名をつけた。お彼岸中で、たくさんの力が息子に奇跡をおこしてくれた。
しかし、震災の影響で大好きなバンド活動が休止状態になってしまった。
家の中で二人きりの毎日は限界だった。どうにかしないと大変な事になる。心の中で警笛が鳴った。私は自分を変える事ができなかった。
その頃、家から二十分くらいの所に原発事故で避難してきた方々の応急仮設住宅が出来た。そこに集会場も出来たと人づてに聞いた。行きたいと思ったが私には迷いがあった。自分が助かりたい為に集会場を利用して良いものか、息子の輝く笑顔を見たいだけの一心で行って良いものか、そして障害者の息子を快く受け入れてもらえるのか。
壊れた母は家族と相談して仮設の集会場に面接を申し込んだ。すると、
「良いですよ」
と、快く受け入れて頂いた。
二〇一二年四月二十日、第一回の訪問日、緊張と不安で一杯だった。仮設の皆様は慣れない場所で不自由な生活を強いられ大変な時期で、落ち込んだ母と障害者の息子をみて心がもっともっと深く沈んでしまったらどうしようと思った。
でも、そんな不安や心配は一瞬で吹き飛んでしまった。とても大きな温かい愛情あふれる空間に息子と私は包まれた。
ぎこちない母の会話、歌詞を覚えられない息子の歌、それでも大きな拍手を頂いた。優しい言葉を頂いた。私は生きる意欲を頂いた。息子に笑顔が戻った。
その夜息子に、
「今日、どこに行って来たの?」
「ひだまり」
こんな記憶できたのは初めてだった。
もっとびっくりしたのは、翌日、施設に入浴に行った時に、
「ひだまりに行って歌って来た」
と、職員の方に喜んで話したそうだ。よほど楽しかったのだろう。
そして毎月ひだまりに行くにあたり、私は息子に歌を覚えさせた。大きな文字で歌詞を書いて指で文字を追わせたが、次の行のスタートにいけなかった。だんだん文字が下がってしまうのだ。縦書き、横書きと工夫したが難しかった。歌詞を読む事が出来れば将来役に立つと思ったのだが。文字を指で追うのは諦めて、耳から何度も何度も歌を聴かせて覚える方法を選んだ。バンド活動の時も歌詞を文字で追うより、私が隣で教えてると気持ちが入るねと言われた事を思い出した。
息子はひだまりに行きたい一心で、自分から必死で歌を覚えようとした。いつも怒ってばかりいる母が、ひだまりと、この時間だけ変わるのを誰よりも一番息子はわかっていたのだと思う。
そして今年、二〇一六年七月、息子が病気になって八年が経った。あの日からひだまりには毎月行かせて頂いている。ありがたい事に一回も休む事なく。明日で五十五回目になる。
いつまでも皆様が健康で心が穏やかであったらと、私達は願う。
皆様は、私達の健康と淳也が笑顔で生活できるよう願ってくださる。
あの頃があってこの出会いが生まれた。息子の夢がかなっていたら生まれない出会いだったと思う。
はじめの頃は私が会話して息子が歌うパターンだったが、何年か過ぎた頃、息子中心で会話するパターンに変えてみた。ここなら大丈夫という安心感と、息子が大好きな場所で自分本来の姿を出してあげたかったから。
今では自分の言葉で皆様と私を笑わすまでになった。
ひだまりの皆様、本当にありがとうございます。
高次脳機能障害は年単位で良くなる障害。どこまで良くなるかは未知の世界だ。
楽しく笑いながら生活すると、本人も介護する側も一日が短く、心が軽く疲れない事を経験させてもらった。
どうしても心が沈んでしまったら泣けばいい。我慢せずに涙を流せればいい。そして眠ろう。好きなものを食べて愚痴をこぼそう。疲れている自分を褒めてあげよう。
息子の口癖は、
「笑顔で」
笑顔に勝る薬はないのかもしれない。作り笑いでも良いのかも。
肩の力を抜いて、何年先を案ずるより、今を大事に生きていけたらと思う。
体がつらい時は無理をせずに手抜きをするのもいい。
いつも感謝の気持ちを持ち生きてゆきたい。
息子の心に、家族の心に、空気入れの圧縮した空気のように笑顔を詰め込んであげたい。
今からでも遅くはないと思う。
私が息子との病気の生活をこうして文字にできるのは、ある一人の女性のおかげだ。
「淳也君の歌を織り交ぜてお母さんの自分史書いて。できれば個人個人に一冊欲しいの」
と、お願いされた。
書くことは嫌いではない。むしろ好きな方だ。とても光栄だが、息子の病気に関わる事となると話は別。願いを叶えてあげたかったが拒否反応が強く出た。
何年も気になっていたが踏み出せなかった。
ある日、自分史なら自分が中心でいいんだ、自分の幼い頃の事から書けば今に辿り着けるかも、息子の病気との関わりも書けるかもしれない……と思い書き始めたが、倒れた日の事になると涙があふれて頭痛が始まった。そんな繰り返しの連続で昨年六月、遂に完成した自分史。
「ひだまり」
息子と題名を決めた。息子が病気になってから書いた習字や絵手紙も載せた。
ひだまりの皆様やお世話になった方々に差し上げた。
この自分史を書く事で自分をさらけ出す事ができた。こもっていた膿を出す事ができた。
「ひだまり」を書いていなければ、一生心の闇のなかで疼いていただろう。
背中をポンと押して頂き感謝している。この女性の方はそれを見抜いての言葉だったのかもしれない。
「夢が何だ!」と、息子を罵っていた自分が、その夢で生かされた。
生きていて良かった。
支えてくださった全ての方々に感謝いたします。
ありがとうございます。
息子よ、ありがとう。

渡邊 勝子プロフィール

一九五七年生まれ 主婦 福島県いわき市在住

受賞のことば

正直、息子の病気と向かい合い今のような心静かな時間を過ごせる日々が迎えられるなんて夢にも思っていませんでした。そんな時に応募させて頂きました。
今回の受賞を息子はとても喜んでくれました。「笑顔で」「人生楽しまないと」これは息子の口癖です。この言葉を人生の道標にし辛い時も支えてくださる総ての方々に感謝しながらいきてゆきたいと思います。
素晴らしい賞をありがとうございました。

選評(鈴木 ひとみ)

「高次脳機能障害」を私達はどのくらい理解しているでしょうか。困難で辛い障害、という印象だけが独り歩きしている。当事者家族なら途方にくれるのも当然です。しかし正しく知ることは大切。そこには成長や喜びがあるからです。それは諦念の中に光を見るのではなく、もっと積極的に希望を持つこと。大好きな音楽が本人の回復を助け、母に笑顔を戻し、原発事故の被災者をも穏やかな境地に導いてくれる。私達は、高次脳機能障害というものの一端が少しだけわかった気がします。

以上