第51回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「僕達が障害児の親として成長すること」

著者 : 佐藤 康裕 (さとう やすひろ) 東京都

夫婦揃って人生あまり器用な方ではないようだ。結婚は遅かったし、子供が出来た時、僕はもう四十近かった。でも一人目の女の子はおしゃまで親をよく笑わせてくれる子で、二人目が元気な男の子だった時、僕達夫婦の人生はキラキラ輝いていたのだ。休みの日、僕と娘は公園のブランコや砂場で遊び、帰ってくるとベビーベッドですやすや眠っている息子を眺めたものだ。
娘は喋りだすのがとても早かった。同じように息子の俊輔も「マンマ」「ネンネ」とすぐに喋り、皆で喜んだが、それ以外の言葉はなかなか出てこなかった。「男の子は遅いから」と喋らない事を気にしないでいるうちに、一歳半を過ぎていた。さすがに夫婦で首をかしげる事が増えてきた。本当は違和感を覚えるのはそれだけではなかった。トコトコ歩くようになった俊輔と一緒に散歩に行くのだが、俊輔はいつの間にか僕達から離れ、見えない何かを追いかけるように、一人でどんどん遠くへ行ってしまう。親とはぐれてしまうという恐怖感はまったくないようであった。また娘は犬や猫が大好きで散歩中に見つけるとすぐに寄っていくが、俊輔は動物が目の前にいても全く関心を示さなかった。文字通り「眼中にない」ようだった。
(何かおかしい。この子は、普通の子とちょっと違うのではないか……)
気になることが度重なった。それでも、
(いや、大丈夫さ。もう少しすれば……)
と、僕達夫婦は互いに胸の中の不安を言葉にせず、笑うようにしていた。だが、定期健診から帰ってきた妻がポツリと言った。
「先生が、専門の医者を紹介しましょうかって……」
その時から、不安は現実になり始めたのだった。詳しい検査を受けた俊輔は、二歳半にして「一歳四か月程度の発達しかない」と診断された。発達が一歳分遅れている? その遅れは頑張れば取り戻せるものなのか? 俊輔は何か障害があるというのか? 不安で不安でたまらなかった。妻に隠れて神に祈った。
(どうか、どうか普通の子でありますように)

重い事が重なった。僕に、「本社・営業本部」への異動の辞令が下ったのだ。のんびりした郊外の営業所で、女性スタッフ達と地元のお客様の対応をする窓口業務の一係長から、いきなり本社の取締役会直下の営業本部へ。全国を指揮する営業戦略を策定する企画部門だという。同僚は「栄転おめでとう!」と言ってくれたが、僕の心は浮き立たなかった。俊輔の事で不安を抱えていた僕は、それ以上の大きな生活の変化を受け入れる心の余裕がなかったのだ。それでも「私達、現場の職員の声を本社に届けて下さいね!」とスタッフの女性達に託され、激励され、送り出された。

本社で、右も左もわからない日々が始まった。僕らが作る資料は役員が読み、取締役会で議論される。当然高いレベルが求められる。それだけでも苦しいのに、当時はIT化が本格的に進んだ時期で、本社はそれを先駆けて導入していた。ところが、僕はパソコンもインターネットも苦手というタイプ。情けないほど使えない人間だった。上司にはしょっちゅうイライラされ、資料は何度もやり直しを命じられた。どこをどう直したらいいかわからないうえに、パソコンの操作もわからない。文章作成ソフトのちょっとした表組みの直しだけで深夜までかかる有様で、呆れられた。

休日は子供と散歩するのが好きだった。娘とは手をつないで、歩きながら一杯お話をした。それは子供を持って初めて味わう幸せだった。だが、俊輔との散歩は違った。まったく心を通わす事ができない。道路の真ん中に一人でゴロンと横になって空を見上げていたり、公園の砂場ではよその子が砂の山を作っていても、まったく関心を示さず、そこを平気で横切って行ってしまったり……。公園では俊輔よりずっと小さい子が普通に喋っている。幼い子の舌っ足らずなお喋りは本当に可愛いものだ。それなのに、我が子にはそれがない。公園の陽だまりの中で僕は、よその子が喋るのが羨ましくてたまらなかった。
最終的な判定が下った。我が子・俊輔は「自閉傾向を伴う知的障害者」と認定された。
(知的障害……。知的障害、知的障害……)
人生でこんなにつらい事があっただろうか?

家でも会社でもどうしていいかわからなかった。僕はだんだん会社に行くのが苦しくなっていった。席にいると問い合わせの電話が鳴る。それに出るのが怖くて、給湯室の隅でうずくまっている事もあった。いつも不安で、自分に自信が持てず、何一つ判断ができない。家でも会社でもうなだれて、ため息ばかりつくようになった。こんな無能な自分がこのまま生きていけるとは思えなくなった。
「心療内科を予約してきたから行ってね」
と妻が言った。心配した妻は行動を開始したのだ。数日後、僕は仕事中に急に激しい動悸に襲われ、思わず上司に
「仕事を変えて下さい。無理です!」
と泣きついてしまった。そして既に病院を予約してある事を告げた。すると上司は嫌な顔をした。
「精神科なんて受診したら、本当の病人にされてしまいますよ」
帰って妻に
「病院はやめとくよ」
と話すと
「何言ってんの!」
と一蹴された。当然だ。
オドオドしながら一人で病院に行った。受付で指示され廊下のベンチで待つ。だが、しばらくすると、本当にそこで待っていればよかったのか不安になってくる。落ち着かずもう一度、受付に戻って確認する……。
僕を診察してくれたのは、優しそうなお婆ちゃん先生だった。
「とにかくまったく仕事が覚えられないんです!」
と訴えた。僕はうつ病の初期症状と診断され、
「これね、新しく出たよく効く薬なのよ」
というのを処方された。最後に先生は笑って言った。
「仕事ってさ、なんだかんだ言っても、やってりゃあ、出来るようになるのよ」
なんとか会社は休まなかった。俯いたまま帰宅し、俯いたまま夕食を食べる。布団に入って眠りにつく時だけが、逃がれの場へ行けるがした。そんな僕の布団に、小さな俊輔が潜り込んでくる。俊輔は僕の手を取ると、(ボクをだきしめて)というようにその手を自分の背中へと回すのだ。俊輔のぬくもり。僕は僅かな救いを感じる。(そうだ、この子を抱きしめたかったんだ……)。やがて僕は睡眠薬の力で眠りに落ちる。が、寝たと思うと、次の瞬間には、朝になっている。会社に行かねばならない朝に。冬だというのに、僕の体は全身汗でびっしょりだ。
春が来て、娘は小学校に入学。俊輔も「めばえ学園」という児童発達支援センターに入園した。普通の幼稚園は無理だと判断した妻が見つけてきた学園だ。残念ながら、僕はいずれの入学式にも行けなかった。晴れやかな場に出ていく勇気がなかったのだ。
それでも、お婆ちゃん先生の言葉は当たった。三か月が経過した頃、僕は自分の心の中に力が芽生えてきたのを感じた。パソコンも妻が見つけてきてくれたスクールで初級から学び、なんとか使いこなせるようになった。更に追い風が吹いた。取締役会でスタッフの商品知識不足によるサービス力低下が問題となり、営業本部に教育研修の強化が命じられたのである。実は本社の人間は現場経験の無い者が多い。しかし僕は営業所にいた時からその必要性を強く感じ、スタッフ向けの学習会を開いて自ら講師をやっていた。わかりやすく教える事が好きだった。そこで僕がその経験を活かし、テキストをまとめる事になった。最後に自分を救ってくれるのは「好きな事」だとつくづく思う。幸いにしてテキストは全国のスタッフから大好評で、僕も営業本部も面目躍如を果たす事が出来た。
「あなた、初診の日とは、見違えるようだわ」
お婆ちゃん先生が笑った。
「薬ももういいわよ」
こうして治療は無事終了した。
その頃には俊輔も楽しそうにめばえ学園に通い、僕達も我が子の障害を受け入れられるようになってきていた。そして僕達は危機を乗り切ったつもりだった。

鬱の症状を脱して一年程が過ぎた。俊輔は四歳になったが、言葉はなく、マイペースな事も変わらなかった。家族四人で出掛けたかったが、せっかく動物園や遊園地に行っても俊輔がいると人混みで寝っ転がったり、すぐに出口に向かって走り出したりで、楽しむどころか、ヘトヘトになるだけだった。そんな事もあって、僕と娘だけでこっそり出掛けたり、ヘルパーさんに俊輔を預けて夫婦で娘のピアノの発表会を聴きに行ったりした。
俊輔の行動で特にうんざりさせられるものが二つあった。一つは食べ方。ダラダラこぼすだけではない。口に入れた食べ物を少しだけ噛むと、ベエーと吐き出す。もう一つは、おんぶを要求し続ける事だった。朝から晩までおんぶさせられ腰痛になった妻が
「もう出来ない!」
と叫んでも通じない。ターミネーターのように何度でも背中にしがみつき続けるのだ。そのしつこさといったらない。
「俊輔、いい加減にしろ!」
僕はつい俊輔を叩いたり、突き飛ばしたりしてしまうようになった。言葉で言ってもわからないのだから仕方ないではないか。妻も我が子にうんざりして時々夜中に一人ですすり泣いている事があった。
そんなある夜の事だった。夕食時にいつものように食べ物を吐き出した俊輔を、僕は叩いてしまった。すると、俊輔は突然顔を真っ赤にし、泣きながら僕に掴みかかってきたのだ。狂ったように暴れ、掴む、引っ掻く、噛みつく。すさまじかった。さらに止めに入った妻にまで向かっていき、髪を掴み引きずり回した。まるで悪霊が取り憑いたようだ。なんとか僕が後ろから押さえて引き離したが、収まるまでそれから一時間以上暴れ続けた。最後は疲れ果てたのかぐったりして、そのまま眠ってしまった。
「ほっぺた、血が出てるよ」
爪でやられた傷だった。消毒してもらいながら、叩いた事を反省しながら妻に言った。
「もしかして、愛が足りなかったのかな……」
まだその時は、そんな綺麗事を言っていられたのだ。
その日以降、俊輔は毎日のように突然、癇癪を破裂させ、暴れるようになってしまった。
ある夜、四人で寝ている部屋でふと目が覚めた。暗がりの中で俊輔が妻を無理やり起こして、おんぶを要求していた。妻はもう疲れ切ってうなだれている。僕は起き上がり、
「俊ちゃん、お母さんは腰が痛いから、おんぶはできないんだよ。もうやめようね」
と何度もそう言い聞かせたが俊輔は聞き入れない。妻の背中にしがみつき、立て、立て、と揺すり続ける。妻はもう表情が無かった。
「俊輔、いい加減にしろ!」
僕はとうとう俊輔を突き飛ばしてしまった。俊輔は飛びかかってきた。僕の眼鏡が壊れた。俊輔の腕を押さえながら、こんな事がいつまで続くのだろうと思った。僕は俊輔を押し倒すと馬乗りになった。耐え続けられるのだろうか……。迷いながら、手が喉に伸びた。
「やめて! そんな事したら死んじゃう」
妻が叫んだ。手を放すと、再び俊輔は掴みかかってきた。その夜、手に負えず一一九番に電話してしまった。屈強な救急隊員が寝室に駆け込んで来た時、その姿に驚いたのか、俊輔は僕にしがみつき、おとなしくなったのだった。
翌朝、僕も妻も早く目が覚めてしまった。コーヒーを淹れ、今朝は大丈夫だろうか……と顔を見合わせる。と、そこへ俊輔が起きてきた。俊輔は真っ直ぐに母親のところに行くとソファーに並んで座った。妻がその肩を抱き寄せた。だが、俊輔は立ち上がると、妻の背後に回り込み、おんぶの要求を始めた。(もう、やめて……!)。妻は顔を覆った。
「俊輔、頼む、お願いだからやめてくれ!」
と僕が引き離そうとすると、俊輔は妻の髪を引っ張る。僕は台所へ走りタオルを取って戻ると、夕べ考えた方法を実行した。俊輔を力づくで組み伏せ、両手を後ろにねじると、その手をタオルで縛り上げたのだ。すると床に転がされた俊輔は急に憑き物が落ちたように静かになった……! 僕は汗を拭った。
「この手がいいよ。今度から暴れたら、こうやって縛ろう」
やっと有効な対処方法が見つかった気がした。僕と妻は頷き合った。その日、僕は会社を休んだ。俊輔がめばえ学園に行っている間に少し眠った。午後、妻が俊輔を迎えに行き、自転車に乗せて帰ってきた。
「めばえの先生がね……」
と妻が困ったような顔で言った。
「縛るのは良くないって。毛布でくるんで、馬乗りになるのがいいって」
「え……、そんな事言われても……」
そんな話をしていた時だった。帰ってきたばかりの俊輔がまた大泣きを始め暴れだした。何が引き金なのかもわからないまま悲しい格闘が始まる。妻が走って毛布を取って来た。僕は俊輔を突き飛ばし、その隙に頭から毛布を被せ、指示通り馬乗りになった。父親に押し倒された俊輔は毛布を剥がそうともがき、暴れる。毛布の隙間から突き出される手の爪が何度も僕の顔をえぐろうと狙ってくる。 その手を掴み毛布の中へ押し戻す。闘いは延々と続いた。その間に妻は、一時的にでも暴れる子供を預かってくれる施設がないか、児童相談所や福祉課に電話した。だが、答えは「無い」であった。その日も二時間程暴れてようやくおとなしくなった。くたくただった。「愛が足りなかった」なんていう甘い話じゃあない、我が子は狂人なのだ……と思った。
血の気が引く出来事が起きた。癇癪を起こした俊輔が、なだめようとした姉に噛みついてしまったのだ。娘の悲鳴。駆けつけると顔に噛みついている。嫌な音がした。(まさか! 頬を食いちぎった!)。だが、俊輔は姉には手加減していたのだ。赤い痕がついただけだった。妻はほっとしてへたり込んだが、
「こんなの平気、平気」
と娘は気にしなかった。

突然暴れだす息子との格闘の日々。(この子さえいなくなってくれたら……)と何度思った事だろう。交通量の多い道路の真ん中で手を放したら……、山奥に置き去りにしたら……そんな事を考えてしまう自分がいて、もう一人の自分が「親に死を望まれるなんて、俊輔はなんて可哀想な子なんだろう」と涙を流す。そんな時、俊輔を入院させてくれるという病院が見つかった。僕も妻もその話に飛びついた。できるだけ長期入院を希望! だが、それを止めたのはめばえ学園の先生達だった。
「今、ご両親と引き離してしまったら、俊輔君の心に傷を残してしまいます!」
先生達は俊輔を本当に大切にしてくれた。ほのぼの組≠ニいう可愛い名前のクラスで我が子は一杯の愛情に包まれていたのだ。学園ではその代わりに妻を応援するため保育時間を延長してくれるという。僕達は迷った。でもわかっていた。入院は逃げだという事を。親が楽をしてどうする。僕達は心を決めた。
「やっぱり、入院は、辞めます」
妻は病院に断りの連絡を入れた。
その一方、僕達は発達心理科の先生にも相談に行った。先生はそれまでの経過をじっくりと聞き、こんな事を指摘した。
「例えばね、お父さんとお姉ちゃんだけでこっそり出掛けたりしたってお話がありましたよね。もしかしたら、俊輔君は彼なりに、自分だけが置いて行かれるっていう事を、なにか寂しく感じていたのかもしれませんね」

帰宅すると、僕はいつも真っ先に妻に尋ねる。
「今日は俊輔は癇癪は起こさなかった?」
すると、ある日、妻が答えた。
「それが、ワァーって大泣きをしたんだけど、私の手を取って布団のところに連れて行くと、毛布を指差して、自分から毛布を被せろ≠チて要求したのよ」
そして俊輔は、妻が被せた毛布に一人でくるまり、ゴロゴロ転がりながら、癇癪の破裂を自分で抑えたという。
「そんな事したんだ……」
半信半疑だったが、数日後の日曜、僕自身もそれを体験する。いつものように突然大泣きし、暴れだした俊輔だったが、わめきながら家の中を走り回った挙げ句、寝室に走り、自分で頭から毛布を被った。そうして「ウーウー」と唸りながら懸命に自分で癇癪を沈めたのである。五歳の我が子は必死で自分と闘っていた。その姿に僕は妻の手を取った。希望はある。
「この子は、本当は、僕達の事を傷つけたくなんかないんだよ」
「うん。俊輔は優しいんだよ……」
僕は改めて心に刻む。俊輔は狂人なんかじゃない。やっぱり愛が足りなかったのだ。間違っていたのは僕達の方だ。
少しずつ変わりだしたのはその頃からだった。俊輔が癇癪を起こして暴れてしまう事は以降も続いたが、そんな時、僕は俊輔にではなく、神を怒鳴りつけてやった。
「神よ、どうして貴方は、俊輔にばかりこんな辛い目を合わせるのですか!」
俊輔が不憫であった。この子を一杯抱きしめてあげたかった。僕が鬱で苦しんだ時に、この子が布団でそうしてくれたように。

家族四人で公園に行った。もう俊輔だけ置いて行くなんて事はしない。お姉ちゃんと手をつないで嬉しそうに歩く俊輔。その後ろ姿には僕だって家族の一員なんだよ≠ニいう喜びが溢れているようであった。
それから三か月、俊輔が暴れる事はまったく無くなった。それは僕達の力ではなく、俊輔が自分で毛布を被って頑張り、自分の力で乗り越えた事だった。
多くの人に支えられ、障害を理解する事で、僕達はより深く心で結ばれた本当の親子になっていくのかもしれない。
いつだったか、あるサークルで俊輔がゲームのような教材を熱心にやっていた。
「ぜひ家でもやってみて下さいね」
と勧められ、早速やってみた。楽しそうにやるので、僕も毎晩張り切って俊輔と向き合った。ところがある日から急にやらなくなってしまった。
「ほら、やろうよ」
と笑って促したが、俊輔は教材を放り投げ、机から逃げ出す。
「ふざけるな! ちゃんとやれ!」
と僕は机を叩いて、怒鳴ってしまう。
翌週のサークルでも俊輔はその教材を投げ出した。でも先生は淡々と指導を繰り返し、逃げ出す俊輔を机に戻し、教材に向かわせる。陰で妻と見ていた僕は苦笑いで言った。
「僕だと、もうここで感情的になって怒鳴っちゃってるよね」
見ていると、俊輔は先生の顔色をうかがいながら逃げられないと悟ったのか、ヘラヘラ笑いながら教材をやり始めたのだった。実の親だから見えなくなってしまう事もあるのだなと改めて知った気がする。
あれから数年がたち、俊輔はもう中学生である。今も言葉は話さないが、穏やかで優しい子に育ってくれた。将来の事を思えば不安は一杯ある。でも、今、休日に俊輔と一緒にのんびり散歩をしながら、幸せだなあ、と思う事ができる僕達夫婦なのである。

佐藤 康裕プロフィール

一九六一年生まれ 会社員 東京都世田谷区在住

受賞のことば

書くことが好きで、不運な事が起きても、“書くネタにしてやる!”と作家気分に浸れる自分がいました。でも、うつにはそれも奪われました。頑張ることができなくなるのは本当に怖いことです。助かったのは家族のお陰です。今、俊輔は笑顔が多く、甘え上手で学校やデイサービスで皆に愛されています。障害はつらいこともあるけれど、悪い事ばかりじゃないと今は心から思えます。賞をありがとうございました。

選評(北岡 賢剛)

親の思いをありのままに伝えている作品。親としての不安、葛藤などが具体的に描写されているため、情景が浮かびやすく、共感を持った。特に「悲しい格闘」の表現は胸に迫ってくるものがあった。「頭から毛布を被せ、馬乗りになった」という表現は、余りにも愛しくて悲しい。読み手に誤解を与えかねないのではないかと案じたりもしたが、その事を通り抜けて、共に生きる家族の本質的な姿に、読み終えると同時に涙がこぼれた。

以上