青あざを鏡に映しながら、私はため息をついた。
滑って転んだ日から早一か月、肘と膝の青あざはまだ色を付けていた。最近、あざが一度付くとなかなか色が元通りにならないような気がする。昔は一週間もあればあざなんて消えていたのに。あれから玄関も庭も全く手が付けられていないし、掃き掃除も拭き掃除も草抜きもできていない。私は鼻から緩い空気を出して鏡の中のあざから目を逸らした。
玄関を開けると、庇のクモの巣はまた大きくなったように見える。あれもしないと、これもしないと、そう思うといらいらを通り越えて、力が抜けて、目の前のクモの巣に吸い込まれそうになる。
初夏の光が朝のひんやりした空気を拭い始め、気持ちにも少し温度をもたらしてくれるが、一人で歩くには大袈裟な明るさにも思えた。眩しすぎて前がよく見えなかった。あざをつくった原因でもある滑りやすいタイルの上を慎重に歩いて、やっと郵便受けに辿り着いた。郵便受けには新聞と一緒に白い紙が入っていて、また中古物件の情報かと思って見てみると、そこに「ワンコインで安心お助け隊! 家庭内のちょっとした困りごとをお手伝いいたします」と書かれてあった。どうやら一回五百円で簡単な雑用をしてくれるというものらしい。胡散臭いなと思いかけて、紙の一番下に書かれてある言葉に目が留まった。
『シルバー人材センター会員がお伺いいたします』
温度のある風が白い紙を控えめに揺らしたなと思ったら、去年亡くなった主人の自転車に乗って勢い良く走る後ろ姿が目に浮かんだ。六十五まで働いて定年したら、本格的に地域の人の役に立ちたい、そう言って始めたシルバー人材センターの仕事に生きがいを見出していた主人。近所の人からも、沢井さんのご主人は元気そのものだね、と言われていた人が心筋梗塞で旅立ってしまった。いつも二人で歩いていた散歩道の途中で自転車に乗ったまま倒れていて、近所の人が救急車を呼んでくれたが頭も強く打っていて手遅れだった。私は、いまだにその散歩道は歩けないでいる。夫婦二人でこれからっていうときに、主人は私を置いていってしまった。
息子は東京で嫁の実家に入り浸りで、なかなか帰ってこない。娘は隣の県に嫁いで子育てとパートで忙しく、なかなか帰ってこない。男を産んでも女を産んでも結局は同じで、家族を何かに盗られたような感覚が、私の元気を奪っていた。
「お父さん、どうしてこんな余計なことするのよ」
私は、独り言を言って、コーヒーをすすった。テーブルに置かれた白い紙をなぜか破り捨てることができず、ただ眺めていた。眺めているうちに内容を目で追ってしまっていて、どうやらこのワンコインサービスを利用できるのは身体の不自由な人か、六十五歳以上の人だということがまずわかった。私は、玄関先でこける直前に六十五になっていて、対象者なのねとおもむろに思った。その仕事内容がちょっとおもしろかった。エアコンのフィルター掃除、蛍光灯の交換、植木の水やり、なるほどね、確かに便利だね、そういえばあの人は植木の剪定が得意だったわなんて思いながら読み進めると、熨斗袋書き、洗濯物干し取り入れ、家具の移動、買い物代行、あらこんなことまでと思ったら、クモの巣取りという文字にちょっと胸が高鳴った。庇にできた大きなクモの巣が浮かんで、私は思わず電話番号に目をやった。
「お父さん、ありがと、やっぱり利用させてもらいます」
私はまた独り言を言って、早速受話器を取った。
数日後その日がきた。久しぶりに人がやってくると思うと少しどきどきした。お茶とお菓子も出してあげよう、うちわやタオルまで用意した。そわそわしているとインターホンが鳴った。はい、と出るとインターホン越しに意外なトーンの声が聞こえてきた。
「あ、私シルバー人材センターから来ました、遠藤と申します」
明らかに女性の声だった。私は慌てて玄関から門扉に向かった。滑りやすいタイルを気にすることもなかった。そこには、私と同じ年格好の女性が、サンバイザーを被り、首にタオルを巻き、満面の笑顔で立っていた。
「あら、女性ですか? 珍しいですね」
「はい、最近女性も登録できるようになりましてね、仕事内容に応じて振り分けられたりするんですよ」
私は、女性なら気兼ねなく何でもお願いできるような気がする反面、クモの巣はまあまあ高い所にあって大丈夫かしらと思った。それにこの人ができることなら私にだってできるのに、そう思うと五百円が少し惜しくなってきていた。
「クモの巣ね、庇の付け根にできてて結構高いんですけど大丈夫ですか?」
「はい、ちゃんと梯子も脚立もありますから大丈夫ですよ」
遠藤さんというこの女性は相変わらず満面の笑みでそう答えた。大丈夫ですよって私たちの年齢になって梯子って、と思いながらふと視線を右にやると、軽トラックが止まっていて確かに荷台に梯子や脚立やその他いろんな道具が積まれてあった。私は目が丸くなったまま遠藤さんにまた視線を戻した。遠藤さんは、少し小太りで、ファンデーションなのか日焼け止めなのか見分けがつかない白い顔をしていた。額には少し汗が滲んでいた。どう見ても細い体の私の方が軽やかに動けそうな気もしないでもなかった。
「じゃ、早速入らせてもらってもよろしいですか?」
私は、はいどうぞと小さく返事をして遠藤さんの顔を見た。急に険しい顔つきになって、目を細めて門扉から玄関の方を眺める遠藤さんの顔は同年代の女性の顔ではなかった。少なくとも私のように家にこもって食欲も元気もない女性とは何かが違っていた。
「ああ、結構高さありますね」
遠藤さんは低い声でそう呟いて、庇を見ながら玄関に近づいていった。滑りやすいタイルも彼女にはなんのこともなく、何かに挑むような、立ち向かうような逞しい後ろ姿に見入ってしまった。クモの巣を見上げる遠藤さんの横にそっと私も立った。遠藤さんは私より背が低く、横から見るとかわいらしい人だなと感じた。
「あっちの棒の方がいいかな」
遠藤さんはそう呟いて、クモの巣を睨んだ。かと思うと、また満面の笑顔で私を見て、
「ちょっと道具取ってきますね」
と言って、その体からは想像できない軽やかな小走りで門扉に向かっていった。私は、もしかすると遠藤さんは見た目よりも実際の年齢は若いのかもしれないと感じた。そう思いながら門扉を見つめていると、片手に脚立、片手に棒とゴミ袋を抱えた遠藤さんが門扉から姿を現した。私はその姿を見ていると、仁王の像が浮かんだ。
「お手伝いしましょうか?」
私は思わず大きな声を出していた。
「いえいえとんでもない、仕事ですから、お金いただいていますからね」
遠藤さんは笑顔でそう言いながら歩いてきた。私が、でも、と言うと、
「慣れてますから、大丈夫ですよ、奥さんよろしければ中でゆっくりしておいて下さい。終わったら呼びに参りますので」
遠藤さんは汗の滴る笑顔を崩さず、そう言って道具を置いた。私がいたら確かにやりにくいだろう、男の人ならとっくにそうさせてもらっている。でもなんだか気持ちがそわそわして、どっちが派遣されてきたかわからない心持ちになっていた。
作業が始まって、私は洗濯物を取り入れる振りをしてそっと玄関の方に視線を注いだ。遠藤さんは脚立の一番上に立って、綿あめを作るかのようにクモの巣を棒でくるくるからめ取り、手早くビニール袋に入れていた。私ならバランスが取れなくて脚立から落ちるだろうと思いながら、洗濯物を握りしめていた。遠藤さんは棒とビニール袋を持ったまま、後ろ向きに確かめるように脚立を下り始めた。私は、お茶とお菓子、と思い出して台所に向かった。思えば家の中で小走りしたのは久しぶりだった。
ここで結構ですと最初は遠慮した遠藤さんだったが、嬉しそうな顔で、玄関の上り框に座って、出したお茶を飲んでくれた。他愛ない世間話もすぐ終わり、遠藤さんは首にかけたタオルで顔を拭って、私に深々とお辞儀をした。身軽に運転席に乗り込んで、遠藤さんの運転する軽トラックは名残惜しさを全く感じさせずに軽快に去って行った。
私は、クモの巣のなくなった庇を見上げた。すっきりしたように見えて、なぜだか寂しい感じがした。取り払われたものは必要のないものなのに、私からひとつひとつ何かが去って行くようで心の中はすっきりしていなかった。
シルバー人材センターでは、一か月分をまとめて請求するらしく、このままでは五百円だけを振り込むことになり、私は何かもっとお願いしてみようと思うようになった。問い合わせてみると、私の予想通り指名も可能とのことで、私は何の躊躇もなく遠藤さんを毎回指名した。女性でもできそうな業務を選んでは、遠藤さんから感謝の声をいつももらった。そんな日々が続いて、私の主人が去年亡くなったことも含めていろんな話をするうちに、遠藤さんが私より二つも年上だということにまず驚き、遠藤さんもご主人を数年前に亡くされていて今は娘さんと暮らしていること、休みの日にウォーキングをしているということがわかった。私はウォーキングが元気の秘訣なのねと言うと、満面の笑顔で、そうですかね、といつも遠慮気味に相槌を打った。そして、驚いたことに、私と主人が以前一緒に歩いていた散歩道を遠藤さんも歩いていることがわかった。一年以上歩いていないあの散歩道を遠藤さんは歩いている。主人が息を引き取った場所でもあるあの散歩道を。
「よろしければ、沢井さんもご一緒にどうですか?」
遠藤さんの笑顔からそんなお誘いの言葉が飛び出して、私は一瞬目を逸らした。遠藤さんは、私の主人が亡くなった場所だとは知らない。私のことだから散歩道を歩きたそうな顔でもしていたのだろう、そんな表情で話していたのを察してくれたのかもしれない。
「歩きたいのはやまやまなんですけどね、まだちょっと体調がすぐれなくて」
遠藤さんは、柔らかい表情でうんうんと頷いてくれていた。あそこを歩くまでにはもうちょっと、かかるかなと思った。
遠藤さんにやってもらうことがなくなってきて、一週間くらい経った頃、夕方過ぎてやっと新聞を取りに出た私ははっと息を飲んだ。また同じ場所にクモの巣が出来ていた。昨日は気が付かなかったが、おそらく昨晩から今日にかけてクモが頑張ったのだと思った。ため息の代わりに私は口元が緩んで鼻歌が出た。遠藤さんに来てもらう口実が出来たとすぐに思ったからだ。そう思っていると庭に咲いていたあじさいが枯れているのに気付いた。あんなに鮮やかな濃い藍色がこんな焦げたような色になっちゃうんだねと思いながら、ちらっとクモの巣を見てすぐに目を逸らした。すると辺りがブルーグレーに染まっていることに気付いた。筆洗バケツいっぱいの水に、黒の絵の具をほんの少しだけ溶かしたような色。いったん沈んだ太陽が、まだまだ闇にはさせないぞと頑張っているような色。何かに追われているようで、浸っているような色。クモの巣がその存在を隠すようにブルーグレーの中に溶け込んでいる。まるで、ちょっと休憩させてと言っているようである。庭にずっと置いたままのバケツの中の水が真っ黒に染まって濁っていた。私は、クモの巣に愛着が湧くなんておかしいと思って、夜になる前にシルバー人材センターの電話番号を書いたメモを捜そうと思った。
遠藤さんは少し俯き加減で、これじゃ切りがないですねと言った。サンバイザーのつばと口元と顎のラインしか見えない横顔は、なんかかっこいいという感じがした。
「遠藤さんのサンバイザー、なんか女子プロゴルファーみたいですね」
「いえいえとんでもない、お恥ずかしい」
遠藤さんは、手を振って大きい声で笑って、その手で口を押さえた。手で覆われても笑い声の音量は変わらなかった。私は、相手の年齢も考えずにこうやって動かし過ぎるのもどうかと考えていると、目の前にサンバイザーが落ちてきた。はっとして見上げると、大きなお尻が私の視界の大部分を占めた。遠藤さんが脚立の上に立ち、壁に片手をついて髪を振り乱して棒を持った腕を振り回していた。どうして、この人はこんなに一生懸命になれるのだろう。どこからこんなやる気が湧いてくるのだろう。私は遠藤さんの全身から出ている、音がしそうな明るい力に圧倒された。
「遠藤さんもう大丈夫ですよ、そんなところで」
クモの巣はまだ若干家の壁に根を残していたが、遠藤さんの揺れるお腹と噴き出す汗を見て、私は自然と口が開いてそう言った。
「そうですか、じゃ仕上げに」
遠藤さんはそう言うと、スプレーをクモの巣とその付近に吹きかけた。白い煙は、私の気持ちを隠すように巣を覆った。
「ああ、どうしようかな、これじゃ毎回毎回料金をいただくのも悪いですしねえ」
「あらやだ、そんなことよろしいのに」
遠藤さんは携帯電話でセンター本部に電話をかけて、クモの巣の状況を伝えた。そうして、何やら詳しく聞いているようで、私は縁側に腰掛けて枯れたあじさいをどうしようか、またきれいに咲かすにはどうしようかと考えていると、遠藤さんは携帯を閉じて、ここから三丁目が近いかどうかを聞いてきた。私の足で七、八分だと答えると、
「三丁目の高峰さんっていう方がクモ獲り名人らしいんです。その方にクモをちゃんと獲ってもらった方がよさそうなんですよ」
私はいけないと思いながら久々に口に手をあてて笑ってしまった。高峰さんは八十前のおじいちゃんで、いつも近くのパン屋で会うとニコニコしながら会釈してくれる。私は高峰さんのおじいちゃんのかわいらしい笑顔を思い出していて、遠藤さんが次の言葉を言うまで、私は細かいことに考えが及んでいなくて幸せだったのか迂闊だったのか。
「あの、沢井さんがね前によく歩いてたっておっしゃってた散歩道を通り抜けたすぐのお家なんですよね?」
確かにその通りである。でもその道は主人が自転車に乗ったまま倒れて最期を迎えた場所。私は急に笑いが鎮まって頬が縮まっていくような感覚になった。遠藤さんにはまだ事情を話していない。
「沢井さん、あの散歩道元気になったら歩きたいっておっしゃってましたよね?」
私は遠藤さんの笑顔を見ながら、話そうか、でも何て思われるか、と逡巡を繰り返した。私の得意の取り越し苦労ならいいんだけれども、そろそろ断るのも変だしなと思った。
「そうですね、最近はなんか体の調子もいいから久しぶりに行ってみようかしら……」
「はい是非、沢井さんが高峰さんとお知り合いなら話しが早いですし」
「まあでも、遠藤さん、クモの巣ならそこまでしていただかなくてもいいですよそんな」
「いえいえとんでもない、この際、名人にお願いしてみましょうよ」
私と遠藤さんは名人という言葉に反応して、また、くっくっくと高い声で笑い合った。
散歩道に向かう道ではなぜか太陽に顔を向けたくなかった。日に焼けるのが嫌という気持ちはもう年齢と共に薄らいでいて、そうではなかった。日傘を低めに持ってアスファルトを見つめ続けた。
私の視界に散歩道の入り口の車止めポールが入ってきた。私は思わず顔を上げて散歩道を眺めた。散歩道は緑色のトンネルのように奥まで続いていて、巨大な喉みたいに見える。人の気持ちを吸い込むような感覚がして、私が来るのを待っていたんだと感じた。
遠藤さんは車止めポールに手を置いて、振り返ってレッツゴーと言った。遠藤さんの笑顔に引っ張られるように、私は返事をして一歩を踏み出した。その途端、どこからか長く続く風が吹いた。すると遠藤さんが声を出した。
「ああ涼しい、いい風、これってグリーン効果かしらねえ?」
私は、ほんといい風と言って光に反射する緑色たちを見上げた。木々の枝葉の隙間から太陽の光がきらきら輝いて、所々に咲いている花たちが揺れて、鳥のさえずりやセミの遠慮がちな合唱も聞こえてきた。ここってこんな場所だったかしら、と思った。
遠藤さんが、しょうがないなと急にそうつぶやいたので、私はどうかしましたか、と聞いた。遠藤さんは、少し真剣な顔つきになって話し出した。
「実はですね、ちょっとこの先に人が亡くなってた場所があるんですよ」
私は、一瞬音が消えたような感覚になった。鼻も口も喉も胸も閉じられて詰まったような感じがして目だけが開いているのがわかった。遠藤さんは続けた。
「その亡くなった方、元シルバーの方だったらしくて私がシルバーに入る少し前に亡くなったって聞いて、いつもお花をお供えさせてもらってるんです。それでね、今日はここ通るなんて思ってなかったから、お花しょうがないかって」
遠藤さんの微笑む横顔に木洩れ日のまだら模様が作られている。その輝きに何かを動かされた。今しかない、私は決心した。
「遠藤さん、実はね……」
遠藤さんは、まゆ毛を持ち上げて柔らかい顔を向けてきた。
「その人、うちの主人なんです」
「え! 沢井さんのご主人? その亡くなった方?」
私は少し口角を持ち上げて、ゆっくりと頷いて、お花のお礼を言った。遠藤さんはいつもながらに慌てた仕草で恐縮していたが、私が今度は優しく微笑んで包んであげた。私より動揺している遠藤さんに、声をかけながら歩いていると、ぼんやりと、街灯のように光を放つあじさいの花が見えてきた。ライトブルーの中に薄いクリーム色がまばらに散っている花は、周囲の濃い緑色の中に浮かび上がって、私を誘うように灯っていた。
「沢井さん、あの、あじさいの花のところですよね……」
確かに、あそこだ。主人の最期の場所となったのは。その場所にちょっとずつ近づくと、また少し涼しい風が吹いた。そして野に咲いていると思っていたあじさいの花は、よく見るとお供えされてあった。遠藤さんが大きくも小さくもない声で、
「まだあったんですね、あじさい」
遠藤さんが以前に供えてくれたものらしい。私は、ありがとうございますと言ったはしから声が裏返って鼻水も出そうになって、先に涙が出てきた。
「お父さんごめんね」
なぜか言葉が勝手に音に変わった。ここだと言われなければ主人が最期を迎えた場所だということはわからない。何の変哲もない散歩道の途中。なんでこんなところで。深い緑色で覆われた散歩道は筒の中にいるようで、棺桶の中にいるようにも思えた。
「かわいそうに」
私がしゃがんで弱々しい声でそう言うと、遠藤さんも一緒にしゃがんでくれた。遠藤さんが合掌をしたので、つられて私も手を合わせた。お父さん、来たよ、なかなか来れなくてごめんね、これからはちゃんと来るからね、痛かったよね、ごめんね。私の声があの人に届いているような気がした。だから、話しかけた。するとあの人の笑顔が浮かんできてその笑顔が頷いていた。私はその笑顔を思い出すと、いつもなぜか頬が緩んでしまう。あの人の笑顔はいつもあまりにも遠慮なく緩むからだ。すると涙も鼻水も胸の高鳴りも収まってきて、私は遠藤さんの方を向いた。
「遠藤さん、名人のところに行きましょうか」
遠藤さんは私の顔を見て安心したのか、はいと言っていつもの笑顔になった。
高峰さんのお宅では、息子さんのお嫁さんが玄関まで出て応対してくれた。ただ、クモ獲り名人はあいにく入院したとのことで、名人技を拝見することはできなかったが、名人の存在は、まるでオズの魔法使いの話のように、私の心を変えてくれていた。
私は、遠藤さんから詳しく聞いて、枯れていた庭のあじさいを植え替えた。満開になる前のあじさいを見つめながら、満開になる日を想像して鼻歌が出てきた。庭仕事なんて久しぶり、スコップを持つなんて久しぶり、結構楽しいじゃないと思った。いつの間にか遠藤さんみたいに首からタオルをかけていて汗を拭いていた。これ便利だわ、首からかけるっていいね。そう思っていたら、家の前に車が止まる音がした。お隣さんの娘夫婦かしらと思っていたら、自分の娘と孫たちの声がしたので、私は門扉の方を向いて立ち上がった。
おばあちゃーんという二つ重なった声と共に小学校一年と幼稚園の孫の健太と真希が滑りやすいタイルをひょいっと飛び越えて庭に入ってきた。
「あら、けんちゃん、まきちゃん遊びに来てくれたの?」
私が軍手を外そうとしていたら、健太と真希が腕を高く突き上げて声を出した。
「あ、クモの巣だ」
門扉から入ってきた娘の佳美もその方向を見て口を開いた。
「ほんと、結構大きいね。お母さん、あれあのままでいいの?」
「いいのよ、また取ってくれるシルバーさんがいるから。それよりあんた珍しいじゃない」
「まあね、お母さん、それあじさい? その花言葉ね、元気な女性って意味なんだよ」
佳美は目を少し光らせて微笑んだ。私は、元気という言葉が心の網に引っかかった。
「ちょうちょが引っかかってるよ」
健太が声を上げた。よく見ると確かにちょうちょがクモの巣に引っかかっていた。クモの巣も元気になったんだねとなんとなく思った。クモの巣が引っかけたものは獲物だけじゃなく、私の気持ちも引っかけたのだ。それは料理するように大切なことを教えてくれた。そして遠藤さんとの出会いも紡いでくれたんだと思った。だからこの巣の主を名人に獲られなくて良かったと思って、含み笑いをしてしまった。
娘と孫たちが帰る頃には雨が降り始めていた。雨に打たれているあじさいは小躍りしているように見える。濃い青と薄い青が水滴で光って瑞々しく、薄暗い中でひと際目立っていた。いい花言葉ね、と思ってあじさいを見つめていると洗濯物を干したままだったことを思い出して、階段を駆け上がった。バルコニーのある部屋に置いてある鏡の前であざのことも思い出した。肘と膝の青あざはあとかたもなく消えていて、私は元気にバルコニーに飛び出した。
何日か経った頃、遠藤さんが遊びに来てくれた。わらびもちでもいかがという声がインターホンから聞こえてきた。私が家の中でじっとしていると逆に疲れてきちゃうという話しをしていたら、遠藤さんが少し考えて、
「沢井さんもシルバーしてみない? まあ無理にとは言わないけど、じっとしているのが嫌なんでしょ?」
突然の誘いに私は戸惑って、遠回しに断ったが、遠藤さんはなぜかなかなか引かなかった。体動かすならウォーキングや庭仕事や家庭菜園でもいいかなって思っていてシルバー人材センターで働くなんて全然考えてなかったと伝えた。すると遠藤さんは口を少しとがらせて、わらびもちを一つ口に運んだ。
「いや、私もね、主人亡くしたり血圧高いって言われたりしてなんかこう気持ちがどんよりしてたのよ。でもね、知り合いからシルバー勧められて、いざ始めてみるとなんかこう、なんて言うの、人の役に立ってるっていうか、ああこの歳になって人とか社会とかに貢献するって悪くないなって思ったの。地域のお役に立てるって、必要とされてるって、自然とそう思えたの。だから、沢井さんにもそういう気持ち味わってもらいたいなってね」
主人の言葉を思い出した。地域のお役に立ちたい。いつもそう言っていた。私はそういう気持ちを抱ける主人が好きだった。そういう気持ちを持って地域の活動に出かける主人を見送るのが好きだった。意気揚々とした顔で戻ってきて真っ先にシャワーを浴びて、子供みたいな声でビール、ビールとはしゃいで、私がついであげたビールをああうまいって言いながら日焼けた顔で笑う主人が好きだった。そのときの主人の満足そうな顔を見て、この人と結婚してよかったな、この人でよかったなって思った。私は、主人に私で満足してくれることをずっと望んでいたんだと思う。私はそういう私に満足していたんだとも思う。じゃ、あの人が満足して納得することって何だろう。地域の役に立った自分を確認することがあの人の納得なのだろうと思う。その納得も満足も半ばで死んでしまった。多分あっちで落ち込んでるだろうな、あの人。わかりやすいから。私がこの世であの人の気持ちをもう一度実現させることがあの人を満足させることになるのなら、やっぱり妻の私がひと肌脱ぐしかないんだろうな。そんな私の姿を見て満足してくれるのかな、あの人は。満足してくれるのであれば、いっちょやったるか。
「わかった、遠藤さんがそこまで言ってくれるなら、私やるわ、シルバー」
わらびもちみたいな顔で驚いた遠藤さんが、ほんとにと叫んで目を丸くした。私は、ビールを飲み干したあの人の顔が浮かんできて、思わず頷いた。
シルバー人材センターの事務所で自己紹介したら拍手が起きて、こんな感覚久しぶりだなって思った。遠藤さんも他の人たちも、この道具はこういうときに使うんだよ、こういうときはこの伝票だよ、このお宅ではこれだよ、と体全体で歓迎してくれた。女性のシルバーが欲しかったってセンター長が何度も繰り返し言ってくれて、和菓子もいただいた。歓迎会の日取りもすぐに決まった。なんだか申し訳ないくらいだ。
私はそんなこんなで仕事の段取りも覚えていった。やっぱりすぐ疲れるし、肩が少し痛んだりもした。でも、利用者さんからの、ありがとう、助かった、という声は聞き心地が良かった。それにこの歳でも元気な自分に感謝もできた。主人がやりがいを感じていたことにも納得がいく。そういえば、まだ仕事としてクモの巣取りしてなかったなと思って、自分の家のクモの巣がいつの間にかなくなっていたことを思い出していたら事務所の電話が鳴った。遠藤さんはいつものように受話器を奪うように誰よりも素早く電話に出た。
「はい、シルバー人材センターワンコインお助け隊でございます」
二オクターブ上がった声が私の気持ちに明るさを灯してくれる。
「え! あら! 高峰さんですか?」
どうやら、あのクモ獲り名人の高峰さんが退院したとのこと。軽い脳梗塞の後遺症で歩くとふらついて、もう高い所に手を伸ばしたりすることはできないとのこと。遠藤さんは、センター長に、私のことをすぐに推薦し始めた。センター長も遠藤さんの提案にふたつ返事で、私に高峰宅のクモの巣取りの業務命令が下った。
散歩道の途中にある主人の最期の場所に、あじさいを供えて手を合わせた。私もあのクモの巣みたいにしぶとくならなきゃね、しぼんだってまた更に大きくはりめぐらさないとね。一回りも二回りも大きくなりたい。ありがとねお父さん、教えてくれたんだね。私は首からかけたタオルで涙も汗も一緒に拭いた。そして私は立ち上がって前を向き直して腕を大きく振って颯爽と任務に向かった。
「シルバー人材センターから来ました、沢井と申します」
高峰さんの奥さんが、女性が来て下さるなんて珍しいわねと言いながら扉を開けて、上がり框では、高峰さんが奥さんと同じことを言いながら歩行器を支えに迎えてくれた。
「すみませんな、クモの巣がそこの庇のところにできてましてな、取っても取ってもクモはしぶといんですよ。私が獲り方をお教えしますので、クモをしとめてもらえませんか?」
私は、満面の笑顔で答えた。
「クモの巣は、ああ見えて悪いことばかりじゃないんですよ」
私は、ふふふと鼻から高い声を出した。
あなたちゃんと見てる? と心で言いながら、前がよく見えるように、サンバイザーのつばを高くした。