NHK銀の雫文芸賞2014最優秀作品「春子の竹ボウキ」

著者  藪本 孝一(やぶもと こういち)

座卓の前で昼の情報番組を観ながら「さっちゃん」こと田村幸子はしきりに座椅子と腰の間に手を入れてさすっていた。
「痛むの?」
奥寺春子はコーヒーの入ったカップをさっちゃんの前に置いて聞いた。近所の仲の良い友達同士の、お茶とお喋りの時間。
「あんたも、年寄りを介護してみりゃわかるわよ」
自分の母親を年寄りというさっちゃん。でも、さっちゃんも春子も今年六十六になるのだから、若い人達からすれば自分達もお年寄り。春子は都心から離れた郊外にあるこの古い公営団地の三号棟の四階、さっちゃんは九号棟の一階に九十近いほとんど寝たきりの母親と二人で暮らしている。春子は一人息子の誠が独り立ちして以来、この部屋に一人だ。
「ひどいことするわね」
テレビを観ながら春子がつぶやく。高齢者が次々と振り込め詐欺に遭っているというニュース。
「何言ってるの。いいのよ、ドンドン騙されれば」
さっちゃんは煎餅の入った包装を勢いよく引きちぎりながら言った。
「年寄りがお金貯めこんでたって仕方ないでしょ。騙した人間がどんどん遊んで散財してくれた方が世の中お金が回るってものよ」
「……騙した方がせっせと貯蓄に励んでいたらどうするの?」
「それはあり得るわ。最近じゃ詐欺を働く方に年寄りが交ざっているらしいじゃないの」
さっちゃんがカラカラと大きな口を開けて笑う。
人生三番目の職場で出会い、同じ団地に住んでいることにお互いが驚いてから二十年。今は二人ともリタイアしているが、趣味も価値観もまるで違うさっちゃんとなぜここまで気が合い、付き合いが続いたのかは当の春子にもさっぱりわからない。
「アタシだったらこんなものに引っかかったりしないわ」
「そう思っている人が危ないっていうわよ?」
「ない。だいたい騙し取られるだけのお金がないんだから。ウチの息子が実家にそんな電話かけてくるわけない」
さっちゃんにも春子と同じく一人息子がいて、今は中規模のスーパーチェーンの営業担当だ。遠く大阪で仕事をしている。春子は空になった自分のコーヒーカップを持って立ち上がると、ガスコンロの上にポットをのせ、換気扇のスイッチを入れてタバコに火をつけた。
タバコだけはやめられない。結局三十近くまで脛をかじられた息子が独立して、仕事もやめ、今の日々の生きがいはサッちゃんとの時間とタバコくらい。以前にガンを患ったことがあるが、最近は面倒臭くて定期検査にも行っていない。再発したらその時は「おしまい」にするつもりだ。
「そういやハル。あんたさ、この間言ってた中学時代の同級生との再会、どうだったのよ?」
ああ、あれ。思い出したくもない。春子は思い切り渋面を作り、回転する換気扇の羽に向かってタバコの煙を吹きつけた。
「ねえ、どうだったのよ?」
中学時代から今でも細々とやり取りが続いている同級生から急に電話がかかってきて「中学時代の同級生だった渡部君が春子に会いたいと言っているので連絡先を教えた」というのだ。
(余計な事を)と思ったが「あんたの歴史からは消されても、むこうからしたら大事な青春の一ページだったんじゃないの?一回会うぐらい、いいじゃないの」そういうわけで、仕方なく近所の喫茶店で会ったというわけだ。
「どのくらい話したの?」
「十五分くらい」
「ええっ、そんな短かったの。何話したの?」
「当時の担任がどうとか、精密機械メーカーで働いて最終的には部長で退職したとか、つまらない話して、急に『じゃあ』ってそそくさと帰って行ったわよ」
「ハル、あんたさあ」
さっちゃんはニヤニヤして、
「その渡部くんて人からさ、一言『変わらないねえ』とか『昔のままだねえ』とかって言われた?」
「言われない」
さっちゃんは腹を抱えて笑い出した。
「そりゃ、あんた。『変わらないねえ』ってセリフがないってことは『変わっちゃったねえ』ってことよ。あはははは……男ってバカね。美しい思い出は、思い出のままにしとけばいいのに、ほじくり返したりするもんだから」
春子は吸っていたタバコを灰皿にギュウギュウ押し付け、
「大口開けて笑ってないでほら、そろそろお母さんがデイサービスから帰る時間じゃないの?」
「そうだ、いけね。戻るわ」
さっちゃんは帰る時、玄関先で春子の方を振り向いて言った。
「ハル、あんたさあ。アタシに介護が必要になったら面倒を看てくれる?」
「放り込む施設ぐらいは探してあげるわよ」
さっちゃんを見送ってから、春子は部屋に掃除機をかけた。三日ぶりだった。きれい好きだったはずの春子。昔はどんなに仕事で疲れていても一日一回は掃除機をかけないと気が済まなかったのに、今じゃ週に二日がやっと。年を取るごとに日々の生活における何もかもが億劫になっている。
翌日。春子はいきつけのスーパーへ買い物に出た。用事を済ませて団地に戻ってくると、三号棟の前の広場で数人の子供がおもちゃの水鉄砲を振り回して遊んでいた。彼らの動きを何気なく追う内に、団地周辺の木立からまき散らされた落ち葉やつぶれたペットボトル、お菓子の空の袋などがそこかしこに散乱しているのが目についた。
(関口さんが亡くなってしまったからね)
関口さんというのは春子と同じ三号棟の一階に一人で住んでいた高齢者で、誰に言われるでもなく団地周辺の掃除をしていた男性だ。春子は、なんでそんな事をわざわざやってあげるのだろうと思っていたけれど、たまに春子が感謝の気持ちで和菓子やお酒を差し入れると嬉しそうにしていたものだ。以前は自治会でも「お礼」ということで自主的に自治会費の中から毎月謝礼を出していたのだが、今は自治会自体が形骸化してしまっている。新しく入居してくる若い世代は自治会になんて顔を出さないし、自治会活動に積極的だった人間は、年を追うごとに一人、また一人と鬼籍に入っていた。
ぴゅうっ……春子は吹き付ける晩秋の冷たい風に思わず首をすくめ、そそくさと団地の階段を上がっていった。
次の木曜日、洗濯を終えた春子はコーヒーを飲みながら壁の時計に目をやった。午前十時を既に十五分過ぎている。(遅いわね)今日はさっちゃんのお母さんがデイサービスに行く日だ。週に二回、月曜日と木曜日の九時から夕方の四時、その時間がイコールさっちゃんとの時間だ。いつもならとっくに目の前の座椅子に座っていてもおかしくない時間だった。
この見るからに体全体を優しく受け止めてくれそうな素材でできた、決して安くはない淡い茶色の座椅子は、介護で疲れるさっちゃんのために、春子が買ってあげたさっちゃん専用席だ。
十一時を過ぎた。さっちゃんが来るのは「朝の九時から夕方の四時の間」というだけで別にいつも九時過ぎに来ると決まっているわけではない。今日のように年金支給日の翌日には遠くのデパートでちょっぴり高価なお菓子を買ってから来たりすることもあるし、掃除やら洗濯やら家の中の用事を片付けてから来ることもある。春子と違って大雑把な性格なので、いちいちそのことについて連絡を入れてくることは滅多にない。
(だったら、こっちも先に用事を済ますか)
春子は立ち上がって台所でゴム手袋をはめた。今日の対戦相手は、油とヤニのこびりついた換気扇だ。こいつを掃除して、気持ちをさっぱりしたい。春子は換気扇のフィルターをはずし、流しの中へ放り込んだ。
ところが……午後の三時を過ぎても、さっちゃんは姿を現さなかった。電話をかけても出ない。外出しているのだろうか。九号棟まで様子を見に行こうかどうかとずいぶん逡巡した挙句、最後は階段の上り下りを億劫に思ってしまい、やめた。風も冷たいし……。きっと何か急用でもできたのだろう。心配無用。春子は(固くなってしまうけど、仕方ないわね)と思いながら冷蔵庫の扉を開け、座卓の上に置いてあったさくら餅をしまった。
次の月曜日。
この日も十時を過ぎてもさっちゃんは来なかった。電話をかけてもやはり出ない。
(まったく心配かけて)春子は部屋着の上にジャンパーを羽織って外に出ると、三号棟の前の公園を突っ切っていく。九号棟に着くと、一階のさっちゃんの部屋の前に二十代なかばくらいかと思われる、淡い黄色のトレーナーを着た若い女が立っていた。誰だろう?と思ったが構わず玄関のチャイムを押す。二度三度と押したが反応はなかった。
「ご近所の方ですか?」
春子は振り返って若い女を見た。
「あなたは?」
「デイサービスの者なんですが……」
「ああ、ここのお母さんの。それで、いた?」
「いいえ。私達も何度も呼びかけたんですが応答がなくて」
春子は自分の部屋を出た時から感じる嫌な胸騒ぎを必死で自分の中から追い出そうとした。
「娘は? 一緒に住んでる娘。と言ってもアタシと同い年だけど」
「幸子さんですね。いえ。携帯に何度も電話をかけているんですが出ないんです。いつもなら千鶴子さんを車椅子にのせて、外で迎えの車を待ってらっしゃるのですけど……心配なので、今他の者が妹のたづ子さんのところへ向かってます。この部屋の合鍵を持ってらっしゃるので」
千鶴子というのはさっちゃんのお母さん。たづ子というのは隣市に住むお母さんの妹で、さっちゃんの叔母さんだ。叔母さんといってもさっちゃんより二つか三つ年上なだけの叔母だが。
たづ子を待つ間、じりじりと時間が過ぎた。寒さがジャンパーを通り越して部屋着までひんやりとさせ始めたころ、デイサービスのドライバーとたづ子叔母さんが慌てた様子でやって来た。たづ子が合鍵でドアを開けると、春子は真っ先に中に飛び込んだ。玄関にはさっちゃんがいつも春子の家に履いてくるあずき色のサンダルがあった。両側にトイレと洗面所兼浴室のある廊下を奥に進むとリビングがある。間取りは2LDK。買い物から帰った時のままなのか、リビングのテーブルの上には買ったばかりの介護用オムツや食料品の入ったビニール袋が無造作に置いてあった。台所の流しには汚れた食器がそのままになっている。たづ子とデイサービスの職員達は真っ先に千鶴子のベッドのある部屋に向かっていった。春子は一人、さっちゃんの寝室のドアを開けた。大雑把なさっちゃんらしく、お世辞にも整頓されているとはいえない。布団も、一応敷きっぱなしではなく丸めてはあるが見るからに適当だった。脱ぎ捨てた服があちこちそのままになっている。さっちゃんは部屋にはいなかった。隣の部屋では、たづ子とデイサービスの職員二人が千鶴子の名を呼んでいる。「救急車、救急車呼んで」というデイサービスの若い女の焦る声が聞こえた。
(……アイツ、一体何やってるのよ)
春子はトイレに向かった。(疲れて便器に座ったまま寝てるんじゃないかしら)そんな風に考えて、ほんの一瞬だけ心を軽くした。しかし、トイレの中は空だった。次に向かいの洗面所兼浴室のドアを開けた。中に入り、洗面所の奥の二枚折りの浴室ドアを開けようとした瞬間、春子は何かにつまずき、つんのめりながらプラスチック製の浴室ドアに顔面の左半分をしたたかに打ちつけた。
(痛い!)
なんとかドアの取っ手にしがみつき、かろうじて転倒を免れた春子は、痛む顔をさすりながら自分が何につまずいたのかと振り返り、思わず息を呑んだ。
春子の目と鼻の先の床に、服を着たままうつぶせに倒れているさっちゃんがいた。
その後のことは、あまりよく覚えていない。覚えているのはデイサービスの職員達に抱えられながら部屋を出たこと。外に出されてからは、九号棟の脇の自転車置き場に座り込んでしまったこと。あとは、目に飛び込んできた救急車の回転灯の真っ赤な色が、春子の脳を染めぬいてしまったかのように何も考えることができなかった。
結局、母親の千鶴子は一命を取り留めたが、さっちゃんは助からなかった。
連絡を受けて大阪から一人息子が飛んできたが、あまりに突然のことに悲しむ間もなく、葬儀の手配から祖母の千鶴子の今後のことなど、大わらわな様子だった。葬儀が終わって一週間もすると、遺品整理なのか産廃の業者なのか知らないが、トラックがやってきて部屋の中の荷物を無造作に積んで持って行った。積み込みの様子を見ていた春子はもう少し丁寧に扱って欲しいと心が痛んだが、いくら思い出が詰まっていたとしても業者からすれば処分する物に変わりなく、今は亡き人に思いをはせる作業は料金の中に含まれてはいないだろう。それでも乱暴に扱われて悲鳴を上げる家具や生活道具を見ている内にいたたまれなくなった春子は、去り際にトラックに近づくと、積んであったものの一つを有無を言わせない様子でひったくって「これ、もらっていくから」と荷台の上にいた作業員の一人に声をかけた。その作業員は通りがかりの図々しいオバさんが勝手に物を持って行こうとしていると思ったらしく、春子に声をかけようとしたが、現場監督らしき中年の男が手を振って制止した。高価な品ならともかく、小さなガラクタひとつでトラブルを起こしても仕方がないとでもと考えたのだろう。春子がひったくっていった物は、春子の部屋を訪ねてくるさっちゃんがいつも履いていた、くたびれたあずき色のサンダルだったからだ。
その日の真夜中、春子は眼を覚ました。正確には布団の中でずっと寝付けなかったのだ。さっちゃんの通夜の夜から、ある思いが心をよぎって仕方がない。(あの日、確かめに行っていれば……)あの日というのは、さっちゃんが来なかった先週の木曜日のことだ。階段の上り下りと、外の冷たい空気に億劫がらずに様子を見に行っていたらもしかして……と思う。さっちゃんは脳出血だった。
春子は布団をはねのけると台所へ向かった。流しの上の小さな電灯をつけ、換気扇を回してタバコに火をつける。リビングの暗闇に慣れ始めた春子の視線が、座卓の前のさっちゃん専用の座椅子の輪郭を捉える。(ごめんなさい、さっちゃん)煙を吸い込むたび、悩みは深くなった。
それ以来、春子は時間を持て余し始めていた。いくら年を取る度に色んな事が面倒になってきたとはいえ、食べて寝てタバコを吸うだけの生活はさすがに少し退屈だった。もちろん、あの時自分が確かめに行っていればさっちゃんは助かったのではないかという後悔は心の隅にずっとこびりついたまま。そんな春子の元へ誠がやってきた。三十過ぎになっていきなり大工になりたいと言い出した息子。すぐに音を上げてまた脛をかじりに戻ってくるだろうと思っていたら、意外にも続いて今では責任ある仕事を任されているらしい。しばらく見ない間に顔つきも体つきも雰囲気も頼もしくなっている。その夜は焼肉屋に出かけて久々にビールを飲んだ。少し良い心地で団地に帰ってくると、ふいに誠が言った。
「そういえば、関口さんて亡くなったんだっけ?」
「何よ、急に」
「いや、昼間来た時も思ったんだけど、だいぶ散らかってるなと思ってさ」
誠は三号棟の前の広場や通路にたまった落ち葉や、そこかしこに落ちているゴミのことを言っているらしい。暗い夜は昼間より目立たずにましかと言えばそんなことはなく、街灯の明かりに照らされた場所が落ち葉やゴミの吹き溜まりになっていたりするとかえって目立った。古い団地の黒ずんだコンクリートの壁は暗闇に同化したかのように溶け込み、他者との交わりを避ける昨今の風潮を象徴するかのように各部屋の明かりを分断していた。(かといってねえ……)「元」きれい好きの春子にすれば気にならないわけではないものの、自治会に顔を出して提案したり、団地の住人に自ら呼びかけたりするのは面倒だった。
翌朝、誠が帰った後、春子はぼんやりと昼の情報番組を観ていた。さっちゃんがいる頃は何とも思わなかったが、こうして一人でいると、画面に映る芸能タレントの薄っぺらなコメントを聞く度にイライラが募る。
(よし)
春子は思い切ってリモコンでテレビのスイッチを切った。ジャンパーを着て毛糸の帽子をかぶり、ゴミ袋を何枚か持って、さっちゃんの形見のあずき色のサンダルをつっかけると外に出た。団地の集会所脇の倉庫の鍵を保管している五号棟の住人の部屋に行って鍵を借り、倉庫の中から関口さんがいつも使っていた竹ぼうきを取り出して、おもむろに周辺を掃き始めた。晩秋の木枯らしにもまれて、落ち葉やゴミが広場や通路だけでなく、植え込みや自転車置き場などにも散乱していた。春子はそれを時間をかけてひとつひとつきれいにしていった。突然出現したお掃除のおばあちゃんに怪訝な目を向ける住人もいたが、春子は全く気にしなかった。
その日から、春子は最低でも一週間に一回は、定期的に「ご奉仕」を続けた。一日で終わらない時は二日、三日と続けてすることもあった。最初は三号棟の周囲だけだったが、一か所終わると「元」きれい好きの血が騒ぎ、活動範囲はお隣の二号棟や四号棟へと広がっていた。続けるうち、今までよく知らなかった団地の住人の顔がわかるようになっていった。各人の反応も様々で、挨拶をしてくる者、挨拶だけでなくお礼を言う者、春子の存在など全く目に入らないかのように振る舞う者、お礼を言いたそうなんだけれども人の目が気になるのか、結局何も言わずそそくさと去る者、などなど……。春子はいつしか、団地の住人達のそんな「住人十色」の反応を見るのが楽しくなっていった。
団地の中央を貫く道路の両脇の桜並木が満開のある日、春子が四号棟の前の道路を掃除していると、四号棟の一○一号室に住む高橋昭雄が買物袋を両手に下げて帰ってきた。春子が四号棟の前を掃除するようになってから二言三言、挨拶や軽い世間話をするようになった住人だ。薄い白髪頭の穏やかな男で、生涯独身。市民農園で畑いじりをするのが日課だった。その昭雄が春子を見つけて、
「ああ奥寺さん、これこれ」
と言って、買物袋の中から春子が愛煙するタバコのカートンを取り出して差し出した。
「銘柄、これでいいよね? いつもの掃除のお礼」
昭雄はそう言って笑いながら去っていった。団地の住人からお礼などもらったのは初めてだったので、春子がなんとなく嬉しい気分に浸っていると、春子から少し離れた場所で、小学生ぐらいの男の子三人が何かしら揉めているのが目に入った。さっきから広場で仲良く遊んでいたはずのグループだ。二対一で争っているようだが、しばらく観察してみたところ、どう考えても二人組の方が悪い。そのうち二人で相手の一人を押したり蹴ったりし始めた。三人の様子に気づいたのか、さらに離れた所にいたそれぞれの母親らしき若い女達の一人が飛んできて、押したり蹴られたりしていた一人を叱り始めた。自分の子供らしい。(ちょっと、アンタ違うよ)春子はそう思いながら見ていた。その内、手を出した二人は無罪放免になり、叱られた一人は泣きじゃくりながら反対の方角へ歩いて行った。(どうしようかな)春子は一瞬ためらったが、その若い母親を呼び止めた。得意じゃないが、なるべく柔らかな態度を心がけながら自分の感想を言ってみた。
「アタシが見ていた限り、悪いのはあの二人組の方だったけれど?」
「そうですか」
その若い母親は少しバツの悪そうな顔をして、
「よく見ていなかったもので……」
と言った。瞬間、春子の顔から柔らかな笑みが消えた。
「嘘よ」
春子の有無を言わせぬキツい一言に、その若い母親はギョッとした表情を見せた。
「わかっていたはずよ。ところで、向こうにいるアンタと同じくらいの年の女達は?」
「……ママ友ですけど」
「本当の友達の子供なら叱れたはずでしょう。あの二人の視線を気にして自分の子供を傷つけただけなんじゃないの?」
その若い母親は春子の言葉に黙ってしまった。すると、春子は急にまた態度を柔らかくして、
「やめちゃえ、ママ友なんか。疲れるでしょう、そんな関係。親同士が無理に付き合わなくたって子供達は勝手に仲良くなったり、ケンカして仲直りしたりするわけだし……」 春子はそこまで言うと、女の反応を待たずに竹ぼうきを持って三号棟の自宅へ向かって歩き始めた。本当はその後に「本当の友達っていうのはねえ」と続けようと思ったのだが、あまりに説教臭くなり過ぎそうだったのでやめたのだ。
そんな春子の上着の袖に、どこから飛んできたのか桜の花びらが一枚、フワリと着地した。
数日後……。短い命を終えて地面に散った桜の花びらを掃除する春子のそばに、あの若い母親がいた。両の手に軍手をはめ、拾ったゴミを片方の手に持ったビニール袋に入れていた。
(なんのつもりかしら?)
春子は竹ぼうきを動かしながら女の方をチラリと見て軽く首をひねった。女はいきなり「やっと、見つけました」と言ってやってきたかと思うと、掃除を手伝いながら春子が聞きもしない自分の話をずっとし続けていた。不思議なことに春子がきちんと聞いているかどうかは、あまり気にしていない様子だ。名前は磯貝三枝子だという。「サチコ」と「サエコ」の違いはあるものの(コイツも「さっちゃん」か)と春子は思った。夫は有名電機メーカーの社員で自分は専業主婦。子供は息子が一人だが、あと二人は欲しいので家賃の安いこの古い団地に住んでいるのだという。
「……それで、ついにママ友のランチ会も断ったんですよ。気も使うし、お金もかかるし……いつも結構なお店に行くんですけど、ちっとも美味しく感じなくて」
春子はそこで初めて質問した。
「なんて言って断ったのさ?」
「夫の給料が下がって、パートに出なければならなくなったって」
(へえ)と春子は妙に感心した。本音を言えないママ友同士の仲ならば、普通は見栄を張ってしまいがちに思えるが、三枝子は逆に出た。この言い方ならママ友達の優越感をくすぐる上にカドが立たない。名を捨てて実をとる、うまい方法だと春子は思った。
「だけど、ここでアタシといる所を見られたらウソがばれるじゃないの?」
「大丈夫です。あの人達、ここの団地の人じゃないし。あの時はたまたまで」
確かに、この団地には専業主婦でお高いランチを楽しむような人種はあまり住んでいない。そのうちに、三枝子の話は別の話題に飛んだ。
「主人のお母さんを一時的に引き取ることになったんですけど」
主人の姉が介護していた母親を、家のリフォームが済むまで引き取ることになったらしい。
「食事とか、それから下のお世話とか、私にできるかなって……」
「最初のうちはうまくできなくたって仕方ないわよ。人によっちゃ実の親子だって嫌がるもの」
そう言いながら、春子は一人息子の誠の顔を思い浮かべた。
(あいつには、あたしの下の世話なんて絶対無理だわ)
そう考えてから次に浮かんだのは、さっちゃんの顔だった。春子の耳にさっちゃんの最後のセリフが響く。あの日、玄関先で「ハル、あんたさあ。アタシに介護が必要になったら面倒を看てくれる?」と聞かれて「放り込む施設ぐらいは探してあげるわよ」と答えたあの日、階段まで見送った春子に向かって、三号棟の四階と三階の間の階段の踊り場で振り返ったさっちゃんは、最後に言ったのだ。
「あたし、あんたのオムツなら取り替えてあげられるわよ」
春子は竹ぼうきを杖がわりにして、青い空を見上げた。
(あんたは稀有な存在だったわよ、本当)

地球温暖化のせいなのか、六月に入ると早々と初夏の穏やかな雰囲気は雲散霧消して、むせ返るような猛暑が連日続いた。じりじりとした陽気に、じっとしていても汗が噴き出してくる。春子と三枝子は、なるべく気温の低い日や曇りの日を選んで活動を続けていた。
「ちょっと、ちょっと」
その日も春子と三枝子が三号棟の前の道路を掃除していると、道路に面した一階の一室の窓から西村紀代子が声をかけてきた。同じ棟に住んでいながら、紀代子も掃除を始めるまでは春子と一切の交流が無かった住人だ。紀代子は窓からお盆を差し出した。お盆の上には氷入りの冷たそうな緑茶の入ったコップと羊羹の皿が二つずつ載っていた。
「わ、美味しそう」
三枝子が顔をほころばせる。二人が紀代子に礼を言って緑茶と羊羹をごちそうになっていると、自転車に乗ったポロシャツ綿パンの若い男が近づいてきた。最近、この辺りを自転車でうろついているのを時々見かける男。春子が身構えていると、男は自転車を降りて笑顔で話しかけてきた。
「初めまして。よくこの団地を掃除されている方ですよね」
「あんた誰?」
春子が警戒心まんまんの声音で聞くと、男は懐の名刺入れから名刺を一枚取り出した。
「僕、市の社会福祉協議会の安西って言います」
「シャカイフクシキョウギカイ?」
「ええ、最近この辺りの担当になりまして」
「それで?」
「今、一人暮らしの高齢者の方の孤立を防ごうと、見守りや声掛け運動なんかをしています」
「ヒマなのね」
「いやあのヒマとかではなく、これが僕の仕事なんです」
ただ単に汗を拭くためか、それとも春子の素っ気ない態度にタジタジになったのか、安西は首にかけたタオルでしきりに顔や首のあたりを拭った。傍らから三枝子が春子のシャツの袖を引っ張る。目が「もう少し優しく対応してやってくれ」と訴えている。「じゃ、アンタが相手してやりなさいよ」と春子も目で返す。
「安西さん、私磯貝です。こっちは奥寺春子さん」
「どうも。お二人なら、この団地の住人の方の事をよくご存じではないかと思って声を掛けたんです。一人暮らしの高齢者の部屋はどことか、その家の家族構成だったり、日中皆さんがどんな風に過ごしてらっしゃるかなどの行動パターンだったり」
「私も少しは知ってますけど、春子さんはもっと凄いですよ」
「二、三、四号棟なら大体わかるわ。一、五号棟は少しなら。どのジジババのことが知りたい?」
春子は二人の方に顔を向けずに言った。自分の視界に入っている目の前の風景にどこかしら、いつもと違う雰囲気を感じていたからだ。
「ねえ、春子さん。安西さんがね、春子さんに」
「ちょっと、黙って」
三枝子の言葉を遮った春子がじっと何かを考えている。
「どうしたの、奥寺さん?」
団扇をパタパタやりながら窓の内から紀代子が春子の横顔に聞いた。春子の視線は三号棟と広場を挟んだ向かいの四号棟一○一号室、高橋昭雄の部屋の窓に注がれていた。
「今、何時?」
春子が三枝子に聞いた。三枝子は携帯を取り出して、
「一時半です」
「なんか、おかしい」
一方、春子は心の中で(たいしたことではないかもしれない)とも思った。自分が昭雄の部屋の窓に感じた小さな異常は、単なる杞憂に過ぎないかもしれない。だが、次の瞬間、春子の脳裡に洗面所に倒れていたさっちゃんの姿が蘇った。あの時のような後悔だけは二度とごめんだ。とにかく確認してみて、なんでもないならそれでいい。
三枝子が急かすように聞いた。
「何がおかしいんですか、春子さん」
「昭雄さんの部屋の窓が開いてない」
「窓が開いていないと何か変なんですか?」
安西が横から口を挟む。
「今日は火曜日よ」
昭雄は普段、午前中に市民農園へ弁当を持って出かけ、夕方帰宅する。ただし、火曜日だけは別だった。午後の一時から有料放送の時代劇専門チャンネルで昭雄の大好きな時代劇の再放送があるので、火曜日だけは弁当を作らず家に戻って昼食を取り、一時から家でその再放送を見てまた農園へ出かけるのだ。
そこまで言うと、三枝子もピンときたらしい。
「そうか、高橋さんは大のクーラー嫌いだから、この暑さの中に部屋に戻っているとすれば」
「窓が開いていないのはおかしいと思うのよ」
それを聞いて安西が自分の思った不安を口にした。
「最近の高齢者に多いんですけど、この暑さです。畑で熱中症になってたりは……」
春子は安西の自転車に小走りで近付き、
「ちょっと借りるよ!」
そう言って自転車に跨ると、少しふらつきながら必死にペダルをこぎ始めた。三枝子と安西も走ってその後を追う。
安西の予想は当たっていた。春子達が息を切らしながら市民農園まで来ると、昭雄が畑の中でぐったりしていた。三枝子が持っていた携帯電話で救急車を呼ぶ。
発見が早かったせいか、昭雄はその後、無事に回復した。

季節は流れ、再び落ち葉散る季節になった。
「見守り協力員?」
誠が怪訝な顔をして言った。
「市の社会福祉協議会の安西さんて人からお願いされたんですよ。団地にいる一人暮らしの高齢者を見守ってほしいって。春子さんなら団地の人の小さな変化や異変も見つけてくれるって、すごく期待してましたよ」
死んださっちゃんの専用座椅子に座る三枝子、「現」さっちゃんが誠に説明した。
「一人暮らしの高齢者って、母さんのことじゃないか」
「おっしゃるとおり。本来ならアタシが見守られてしかるべきだわ」
「春子さん担当の見守り協力員は私です、専任で。あ、明日は風が強いみたいですよ」
テレビで昼の情報番組が気象情報を流していた。
「じゃあ、今日中に落ち葉を掃いてしまうか」
春子のセリフと同時に三枝子が座椅子から立ち上がる。身支度をする春子に誠が聞いた。
「それで? 頼まれもせずに自主的に掃除をして何かメリットはあったの?」
「そうねえ……わからないわ」
「なんだよ、それ」
誠があきれた声を出す。
(でも、なんとなく)春子は思った。この年寄りが、誰かの、そして何かの役に立っているような気はする。
「行こう。二代目」
春子は先に玄関を出た。四階の階段を下り始めたところで三枝子が追いついた。
「ねえ、春子さん」
「なあに?」
「なんで私のことを『二代目』って呼ぶんですか?」
春子はそう聞かれて思わず吹き出した。
(そうか、まだ話していなかったっけ)
「それはねえ……」
目の前の階段の踊り場で、あの日のように、さっちゃんがこっちをふり返って見ている気がした。
そこにははあの日と同じように、笑顔のさっちゃんがいた。