NHK銀の雫文芸賞2012最優秀作品「ふるさとに、待つ」

著者  織江 大輔(おりえ だいすけ)

「金輪際うちの敷居をまたぐな」だったか。
それとも「勘当や」と言ったか。
エアコンの効きすぎたコミュニティバスに揺られながら、日野光太郎はおぼろな記憶をたどっていた。車窓を流れる風景はいつのまにか、町の家並みから鮮やかな深緑へと変化している。
「確か曽田のバス停でしたよねえ、おじいちゃん」
運転席から高い声がした。振り返って、後ろの座席を確認する。光太郎以外に乗客はいない。おじいちゃん。それが自分に向けられた言葉だと理解するのに、数秒かかった。
「あ、ああ。そうや」
「たまに病院前から乗ってきはるでしょう、お薬袋持って。どこかお悪いんですかあ?」
悪くなければ病院になど通わない。しかしこの若い運転手ののんびりした口調だと、不躾(ぶしつけ)に属する問いかけも世間話のそれにすりかわってしまう。
「……血圧が高うてな」
「あー、うちの婆ちゃんも同じです、毎日沢山薬飲んでますよ。高血圧って、外国やとサイレントキラーとか言うらしいですね。ある日突然症状が出るからって。怖いですよねえ」
苦笑がもれた。怖いわけがない。少なくとも実感できるわけがない。彼くらいの年齢の頃は、光太郎だって自分の健康のことなど考えたこともなかった。息が切れることも、動悸(き)を感じることもなかった。もちろん、吐血することもだ。 「運転手さん、いくつや?」
「二十三歳になります」
「そうか。若いな。これからやな」
うっそうとした森の道をバスが進んでいく。……木漏れ日がつくる光と影が早回しでうしろに消えていく。若さはすばらしい。それは強い光だ。病院を出てからついさっきまで頭の中を占めていた顔が、再びにじむように浮かんでくる。一人娘の祥子。この世で唯一、光太郎の血を分けた肉親だ。二十年近く会っていない。連絡もない。もう四十近いはずだ。出て行く際の細い背中が、いまだにありありとまぶたの裏に浮かぶ。光太郎は今年で七十二になった。一人で歳を重ねてしまった。覆水は盆に返らない。その水さえ、もうどこか遠くに流れて消えていってしまった—。
「曽田—、曽田でございます」
運転手の声に我に返った。視線をあげると、にきびの目立つ顔が首をまげてこちらを見つめていた。少しばつの悪い思いでそそくさと席を立ち、料金を支払ってバスを降りる。
「お気をつけて、おじいちゃん」
運転帽の下に、人懐こい笑顔があった。彼の祖母が少し羨(うらや)ましくなった。
「ありがとう。兄ちゃんも気をつけてな」
短いクラクション。熱気を巻き上げてバスが山道を遠ざかっていった。
静寂が訪れる。遠くで蝉が鳴いている。視界に入るのは光太郎の住むこぢんまりとした集落と、それを囲むようなお椀型の山々だけだ。深呼吸をする。湿った草の香りがする。空を仰いでみた。まっ青な夏の空だった。ほんの小一時間前に、胃がんの宣告を受けた『おじいちゃん』を、巨人のような入道雲が黙って見下ろしていた。

夕陽が山の向こうに消えていく。
開け放した窓から吹いてくる、夕暮れの涼しい風を頬に感じながら、光太郎は無意識に歌を口ずさんでいた。

遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ
きょうのわざをなし終えて 心軽く安らえば
風は涼しこの夕べ いざや楽しきまどいせん

和室の居間には不釣り合いの椅子から立ち上がった。祥子が子どものころ、勉強机とセットで使っていた椅子だった。台所に向かい、水屋から薬の袋を取り出す。
ステージ2。転移の疑い。入院。開腹手術。部分摘出。予後。経過観察。
一週間前、度の強い眼鏡をかけた医者が羅列した言葉を、頭の中で反(はん)芻(すう)してみる。
異変に気付いたのは、ひと月ほど前だった。光太郎の家は、古い和式の建築である。早くに亡くなった両親が唯一光太郎に残したものだった。トイレも無論旧型のままだから、排便の際、自分の排せつ物を確認するのは容易だった。梅雨末期の長雨がしぶとく降り続く朝のこと、いつものように何気なく便器に目をやると、重油のようなまっ黒な便がゆらゆらと水に浮かんでいた。七十年以上生きてきて、はじめてのことだった。咄嗟(とっさ)にレバーをひねり、流した。何でもない、何でもないはずや。血圧が高いくらいで、それ以外は至極健康に過ごしてきたのだ。明日になれば、また普通に戻るはずだ。自分にそう言い聞かせてトイレを出た。一日は、何もなく過ぎた。しかしその日の深夜、みぞおちの辺りに差し込むような痛みを覚え、光太郎は目を覚ますことになる。経験したことのない猛烈な痛みに脂汗が浮かんだ。這うように台所に行き、置き薬の胃腸薬を片端から呑んだ。布団をかぶり、痛みに耐えた。少し楽になるような気がして横向きに体勢を変えると、仏壇の横の遺影が目に入った。さち。困ったような顔をして笑う女房だった。祥子を出産して一年後、十二指腸がんで亡くなった。黒い便が出るんです。がんが発覚する前、さちが言った言葉を今さらながらに思い出した。恐怖を振り切るように光太郎はぎゅっと目を閉じた。痛みは一向に引かなかった。明け方、こみ上げるものを感じてトイレに飛び込み吐いた。白い便器は、鮮血で真っ赤になった。

複数の薬を水で流しこんだ。今、とりあえずの痛みは抑えられてはいる。コップを洗う。妻が亡くなって四十年、祥子が出て行って二十年。片付けを先延ばしにしないのは長い一人暮らしで身に付けた習慣だ。なのに、自分の身体に関わる大事は先送りにしている。これ以上引き延ばすのであればほんとうに命の保障は出来ないと医者は告げた。なぜ即入院、手術を選択されないのですかとも問うた。正直なところ、光太郎は自分でもその明確な理由がわからないでいる。もちろん、死ぬのは怖い。死にたくない。けれど—。
居間に戻り、窓から身を乗り出した。陽はすでに落ち、昼間の暑気の名残りが薄暗い畑や森に沈んでいる。山のふもとに神社の鳥居がぼんやり浮かんでいる。その鳥居が周囲の音をすべて吸いこんでしまった、そんな静けさだった。集落が見渡せた。十一棟のうち、あかりが灯る家はわずかに三軒。そのいずれもが独居老人の宅である。若いものは皆町や都会に出て行った。残ったのは老いた者たちだ。だが一人身内に引き取られ、一人施設に入り、一人逝き、その繰り返しでこの集落はこんなふうに枯れ果てた。そして光太郎も今、命の瀬戸際に立たされている。皆おらんようになった。集落のもんも、さちも、祥子も。わしももう、ええんとちゃうやろか—。そんなあきらめにも似た感情が、光太郎の決断を鈍らせている理由のひとつであることは確かだった。
網戸を閉めようと桟に手をのばした時、玄関のチャイムが鳴った。時計は午後七時半を指している。こんな時間に誰だろう。二軒向こうの婆様か。いや、家からは誰も出てこなかったはずだ。それに集落の人間なら、玄関先で名前を呼ぶ。上がり框(がまち)まで出ると、すりガラスの向こうに人影があった。昨今はこういう田舎を狙った押し売りも多い。戸は開けず、出来るだけぶっきらぼうに聞いた。
「どなた?」
「こんばんは。あの……、日野さんのお宅でしょうか」
よく通る、若い男の声だった。
「そうやけども。どなた?」
「あの……孫、です」
「は? わしには孫なんかおらんよ。しょうもない詐欺やったら帰ってんか」
「……いえ、違うんです。僕は、祥子、その……祥子さんの息子です」
思わず、息を呑んだ。祥子。祥子の息子……?
素足のまま三(た)和(た)土(き)に降り、玄関の引き戸を開けた。
「あっ……。あの、夜分遅くに申し訳ありません。僕、坂井悠樹といいます」
男というより、少年といった方がしっくりくる風体の若者が、気をつけの姿勢で立っていた。高校生くらいだろうか。背はさほど高くない。さらさらの髪にぱっちりとした目が印象的だった。白いTシャツにジーンズ、リュックと、いたってシンプルな服装である。
うしろにはマウンテンバイクが停めてあった。
「……。あんた、ほんまに祥子の息子なんか」
「はい」
「なんでここを知ってるんや? 祥子が教えたとは思えんが」
少年—悠樹は少し戸惑った顔を見せたあと、ポケットを探りはじめた。
「これを見つけたんです」
そう言って悠樹が差し出したのは、古びた一葉の写真だった。丁寧にビニル袋に入れてある。受け取り、門灯の光にあてた。自然に声がこぼれた。
「ああ……これは……」
かつて、この土地には小学校があった。ここの子どもや、近隣の集落の子どもが学んだ学校だった。とうの昔に廃校になり、取り壊されて今はその場所には雑草が生い茂っている。写真には、その在りし日の木造校舎が写っていた。その前で、ふたりの人物が笑っている。遠い昔の、光太郎と祥子だった。おかっぱ頭の祥子がランドセルを背負って胸を張り、にっこり笑っている。まだ髪が黒い光太郎がその横でしゃがみ、愛娘の肩を抱いて微笑んでいる。ありふれた家族の一風景。それでも幸福な日常が、その写真の中にあった。裏を返すと、『祥子 六歳 入学式 曽田小にて』と走り書きがあった。光太郎の字だった。知らなかった。祥子は、こんなものを持って家を出たのか……。
「……。曽田の小学校はとうに無うなったのに、ようここがわかったな」
「ああ、ネットで調べました」
「ネット?」
「えっと、インターネットといって……、パソコンや携帯電話を使って色んな情報を調べることが出来るんです。曽田小学校で検索をしたら、このあたりにその学校があったことがわかって」
テレビで見たことがある気がしたが、よくわからなかった。どうやら時代は光太郎を置き去りにして、恐ろしい勢いで進歩しているらしい。
「それで、祥子の旧姓の家をあたったちゅうわけか」
「はい」
「ふうん……。それはわかったが、一体わしに何の用や。残念ながら祥子とはもう縁が切れとるんや。結婚したことも、あんたが出来たことも知らんかった」
悠樹が、まっすぐ光太郎の目を見つめた。その面差しに、祥子の影を探したがうまくいかなかった。やがて、悠樹の口がゆっくりと開いた。
「母は亡くなりました。一年前、乳がんで」
今まであちこちで鳴いていた虫が、一斉にぴたりと鳴きやむ。そんな静けさが、ふたりの間に降りてきた。光太郎は、無言で立ちつくしていた。何十秒、いや何分たっただろう。
ようやく、光太郎は声を絞り出した。
「……嘘や」
「ほんとうです。それで僕は」
「帰ってくれ」
「待ってください」
「帰ってくれて言うてるやろ!」
思いきり戸を閉めた。乱暴に鍵をかけ、居間に戻る。机の前にどかっと座った。……祥子が、祥子が死んだやと? 嘘や。嘘をつけ! 光太郎は湯呑に残っていた温(ぬる)い茶を、一息に飲み干した。
嘘だと思いたかった。そう信じたかった。縁が切れても、意地を張り続けても、娘は娘だ。だが幼い日の祥子が彼の持参した写真の中にいた。あの写真はまごうことない本物だ。だとすれば……。
窓際の椅子にぼんやり目をやった。ピンクと白のストライプの布が背もたれに張られている。今ではもう、擦り切れてくすんでしまっているけれど。そう、ちょうど小学校入学のときに買ってやったのだ。お父ちゃん、大好きや。そう言って喜んでたな。足をぷらぷらさせて、いつまでも椅子から離れようとせんかったな。思えばあの頃が、光太郎と祥子にとって一番充実していた時期だったのかもしれなかった。母がいない淋しさを感じさせまいと、男手ひとつ、会社員と主夫の二足のわらじで踏ん張った。家事も一切手を抜かず、娘の幸福だけを考えた。その甲斐あって、祥子はすくすく成長していった。しかしその成長と比例するように、ふたりの間に微妙なずれが生じ始める。男親と、多感な年ごろの娘。閉鎖された村落で育った祥子は、特に都会への憧れを強く持ち始めていたようだった。
そしてその日は、唐突にやって来た。
私、高校を辞めて美容師になりたい。よく晴れた日曜の朝、高校二年の祥子がそう切り出した。祥子はここからいちばん近い町の高校に通っていた。気配は、薄々感じてはいた。日本間にも関わらず強引に自室に鍵をつけ、居間に転がる雑誌もヘアメイクや流行ものばかりになっていた。髪形や服装も派手になっていた。光太郎との接触もできるだけ避けたいようだった。まあ思春期特有の、一過性のものだろう。そんな甘い考えを抱いていた。光太郎とて、高校を卒業してからもこの産業のない僻地に縛りつけておくつもりなどなかったのだ。だが祥子の要求は、あまりに急で、どう考えても得心のいくものではなかった。
都会に出て、アルバイトをしながら専門学校に通う。アホなことを言うな、できるわけないやろう。許してくれなくてもいい、どちらにしろ私は出て行く。高校を卒業してからではあかんのか。早ければ早い方がいいに決まってるし、したくもない勉強をするのは馬鹿らしい。自分で責任も取れん年齢で何を言うとる。もう、もう嫌なんよ、曽田が。この家が。なんでわかってくれへんの。ふざけるな、絶対に許さんぞ—。
そこからはもう、怒鳴り合いだった。手をあげることは絶対にしないと決めていたが、その時はじめてその禁を破った。半狂乱の祥子は今から出て行くと二階に駆け上がり、荷物をまとめて降りてきた。もう、光太郎に祥子を引きとめるすべは残されていなかった。だから、言ってしまったのだ。出て行くのなら、金輪際うちの敷居をまたぐな。勘当や、と。留まってほしいという、祈りにも似た賭けだった。しゃくりあげる背中が一瞬動きをとめ、冷気を帯びた祥子の目が光太郎を振り返った。その目の光で、賭けに負けたことを光太郎は悟った。さちに似て、芯の強い娘。……わかった。さようなら。その言葉だけを残して、祥子は生まれ育ったこの家を、この集落を出て行ったのだった。
ドラマや映画で見たような事象が、実際にわが身に起きた。竜巻みたいに、一瞬で自分からかけがえのないものを奪い去った。妻が、さちが生きていればこんなことにはならなかったろうに。己が非力を呪いながら、それでも光太郎は待った。もしかしたら帰ってくるかもしれない。いや、きっと帰ってくるはずだ。何といってもまだ子どもなのだから……。
三か月後、一通のはがきが届いた。消印は祥子が憧れた大都市の、中央郵便局。
『この歳まで育ててくれてありがとうございました。絶対に探さないでください。もう、親子ではないのですから。どうかお元気で。 祥子』
記されていたのはそれだけだった。住所も電話番号も書かれてはいなかった。
それから、二十年の歳月が流れた。それでも待ち続けた光太郎はおじいちゃんと呼ばれる歳になり、今日、祥子は亡くなったと聞かされた。
「親不孝もん……」
その夜、光太郎は拳を握りしめ、ただ、ただぼろぼろと泣いた。

それでも朝は来る。そんなありふれた言葉を、今日ほど苦い思いで痛感した日は無い。どうやら昨夜、光太郎は泣きながら眠ってしまったようだった。午前六時。閉め忘れた窓から、朝の強い光が差し込んでいる。洗面所で鏡を見ると、頬に畳のあとがびっしりとついていた。顔を洗い、歯を磨く。胃の痛みはなかった。仏壇に線香を二本あげ、食事も取らず家を出た。
おかしなものだ。がんを患っても、娘の訃報を受けても、体はいつも通りの習慣を営々とこなそうとしている。朝の太陽を浴びながら、それでも足はふらふらと神社に歩を進めている。もう、祈ることなどないというのに。
赤い鳥居の脇に見覚えのあるマウンテンバイクを見つけたのは、境内へ続く石段を登ろうと、外に出てからはじめて顔をあげた時だった。
坂井 悠樹と名乗ったか。祥子の息子。光太郎の孫—。
いつもより少し急いで石段を上がる。思えば、彼の存在は祥子の死を聞かされた直後から消し飛んでいた。まだ集落内に留まっていたのか。この辺りの山道に電灯設備はほとんどない。光太郎が追い返した時間から山を下るのは大変だろう。かといってこんな辺鄙な土地で、泊まる場所などあろうはずもない。きっと野宿をしたのだ、この神社の境内で。
わずか二十段ほどの石段を登りきると、もうすっかり息が切れていた。呼吸を整えながら、周りを見回す。左右は山へと続く森に囲まれている。お社に続く短い石畳。二匹の狛犬。古びて苔むした御堂。そのうしろに控える、夏の青い山々。人影は見当たらない。どこに行ったのだろう? 訝(いぶか)りながらも、ひんやりとした空気の中、神社の前に立った。
一度お社を見上げ、手を打ち、目をつむった。祥子が家を出てから、途切れることなく続けている日課。今日こそ、戻ってきますように。今日こそ、連絡がありますように。そして、元気で暮らしていますように—。その願いは届かなかった。かといって恨みごとも光太郎の中にはなかった。ただ頭を垂れて手を合わせる、空っぽの老人がそこにいるだけだった。長いあいだ、そうしていた。その声が聞こえたのは、もう帰ろうと両手を下ろした時だった。
「おはようございます」
ゆっくり頭をあげ、声のした方に目をやった。悠樹が、お社の横に立っていた。
「……ゆうべは、申し訳ありませんでした」
悠樹は光太郎の顔を一度見て、硬い表情で深々と頭を下げた。
何と言ったものか迷いながら、光太郎は半身のまま言葉を返す。
「悠樹君……やったかな。わしのほうこそすまんかった。突然のことで気が、その……動転してしもてな」
そう言って、近寄った。わしの孫……。ん? 顔にぽつぽつと、昨日はなかった赤い斑点ができている。首を突きだして見つめると、
「あの……この裏で寝てたんですけど、蚊に刺されちゃって……」
と悠樹は言い、ぽりぽりと指で掻いた。自然に頬が緩むのを感じた。
「……あの写真を見つけて、わしに知らせに来てくれたんか。祥子のことを」
悠樹は一瞬ためらう様子を見せたあと、やはりまっすぐに光太郎の目を見つめて言った。
「そうです。知らせなきゃと思いました。生前、私には親戚も故郷もない、と言ってたんです。だから写真を見た時は驚きました。それと……」
「それと?」
「ママ、いえ、母のことをもっと知りたかった。僕は七年しか母と暮らしてないから」
祥子が、ママか。仲のいい親子だったのだろう。だが……。
「悠樹君はいくつや?」
「十七歳です」
「なら」
「僕は、父の連れ子なんです。僕が九つのときに父と母が再婚しました。だから、母とは直接血のつながりがないんです」
頭上で、蝉が一斉に鳴きはじめた。そうか。祥子は、継母だったということか。自分の血をわけた存在がまだいたのだと、ほんの一瞬だが錯覚をしてしまった。力が抜けるような感覚が、光太郎の老いた体を支配していく。その気配を察したのか、悠樹は力のこもった声で、でも、と続けた。
「でも、僕は母が大好きでした。そんな短い間で、嘘だと思われるかもしれません。母も、ほんとうに僕のことを可愛がってくれました。なのに僕は母に何もしてあげられませんでした。母が死んで一年経つけど、正直まだ辛いです。立ち直れないんです。だから、」
だからここに来たんですと悠樹は一息に言い、かくんと下を向いた。
十七歳。祥子が出て行った年齢だ。あの時の祥子は、ここまでしっかりしていなかった。光太郎にしたってそうだ。このくらいの歳でここまで自分の頭で考え、行動することが果たしてできただろうか。その答えはむなしいものだった。そして光太郎は、血縁だ継子だという型に囚われて少年を見ていた自分を恥じた。
「ついておいで」
「……え?」
「田舎の蚊はな、都会のやつと違うて毒が強いんや。さっきみたいに掻いたら余計に腫れて男前が台無しになる。薬塗ったるから、うちにおいで」
我ながら、不器用な言葉だと思った。歳を食えば落ち着くなんて、そんなものは嘘だとこの歳になってよくわかる。ごまかし方や取り繕い方を覚えるだけなのだ。内心はいつだって怯えたり照れたりしている。今だって、照れている。それを隠すように光太郎は背を向ける。すぐにうしろから、少年の軽やかな足音が続いてきた。境内に、心地いい風が吹き抜けていった。

「しかし……よう食うなあ……」
光太郎は、食後の茶を飲みながらつぶやいた。机を挟んだ向かいで、悠樹が食事をとっている。大根の味噌汁、目玉焼き、あとは冷蔵庫に入れてある常備菜。特別なおかずは用意しなかった。ご飯は念のため三合炊いた。光太郎一人だと、普段は一合炊いても一日で食べきれない。それが今朝はもう、炊飯器がカラになってしまっていた。
「あ……ごめんなさい。お腹が空いてて、つい……」
悠樹が頬を赤らめる。それでも口はしっかり動いている。父親—祥子の夫に、帰ったら必ず受験勉強に集中するという約束で許してもらった、夏休みの一人旅。毎日連絡を入れるということで、行き先は具体的には告げなかったそうだ。ここまでなんと三日をかけてたどり着いたという。
「なんぼでも食べたらええ。旅行中、どうせろくに食っとらんのやろう」
「その通りです。ありがとうございます。……あの、この細い炒め物何なんですか? すごく美味しいんですが」
「ああ、それは芋のつるや。ちょっと時期は早いんやけどな。葉っぱちぎって硬いスジを剥いで、灰汁とったあとに醤油で油揚げと炒めるんや。トウガラシがようきいてうまいやろ。まあ、田舎の貧乏料理やな」
「へえー……はじめて食べました。母も昔、食べてたんでしょうか」
「ああ……大好物やったな……」
仕事が休みの日の夕方、縁側に新聞紙を広げてよく二人でスジ取りをしたものだった。鍋一杯につるを炒めて、光太郎はビールのつまみに、祥子は悠樹と同じようにご飯のおかずに。芋のつるって美味しいなあ、お父ちゃん。安上がりでええな、祥子は。幼い祥子が笑った。光太郎も笑った。昨日のことのように思い出すことができた。
「なあ、悠樹君」
「何ですか?」
「祥子は……どんな暮らしをしてたんやろう。やっぱり美容師をやっとんたんかな」
「はい、自分で美容院を経営してました。専門学校を出て、開店まではかなり苦労したそうです。父はその店のお客さんでした」
そうか。祥子は夢をかなえたのか。言葉にできない感情がせりあがってくる。
「……ええお母さんやったて言うてたな」
食事を終えた悠樹は、手を合わせご馳走様でしたと言った。そして空になった食器を盆に乗せながら話しはじめた。
「よくしかられましたけど。でも、ほんとうの子ども以上に愛してもらったと思います。山登りとかハイキングとか、とにかく自然のあるところが大好きで」
「祥子が? 自然が好きやって? そんなはずはない。あいつはそういうのが嫌でここを……」
「そうなんですか? ……でも、家族でよく遊びに行きましたよ。そうそう、おにぎりとお鍋と固形燃料を持って行くんです。それでワラビとかゼンマイを山道で摘んで、ああ、タラの芽も摘みました。それを全部鍋に入れて、小川の水でお味噌汁を作るんです。すごく美味しかったなあ」
途中から、視界がぼやけてきた。同じことを昔、祥子と経験したことがある。ひとつひとつの山菜の名前を教えてやったことがある。手をつなぎ、歌いながら山を下りたことがある。遠き山に日は落ちて……。
「あの、ごめんなさい……」
「す、すまん。話を聞きに来たんは、どっちかいうとあんたやのにな。歳をとると涙もろうなってあかんわ。か、堪忍やで」
昨夜とは違う涙をティッシュでぬぐいながら、光太郎は無理矢理笑顔を作った。悠樹はその澄んだ目に強い光をたたえながら、じっと光太郎を見つめている。
「僕は」
「……ん?」
「僕は……うまく言えないですけど、自分の気持ちに踏ん切りをつけようと思ってここまでやって来ました。母が生まれた場所をまわって、僕の知らない母の話を聞いて、それでもう自分の中で終わりにしようと、忘れてしまおうと。そう考えていたんです。でないと先に進めないから。それくらい、母の存在は僕にとって大きかったんです。でも、今わかりました。そんなことは絶対に出来ないって。そして僕は、自分のことしか考えてなかったって」
「……」
「また、来てもいいですか」
「え?」
「大学受験が終わったら、またここに来させてください。お願いします」
「……来て、どうするんや。こんな何もないとこに」
「最後まで教えてくれなかったですし、口にもしませんでしたけど、母は……。母はたぶん、ここに帰ってきたかったんだと思います。やっぱりここは、母のふるさとなんです」
ふるさと……。
窓の外に目をやった。山。森。畑。昔と変わらぬ風景があった。変わってしまったのは、人間だけだった。
「母のふるさとは、僕にとってもふるさとのはずですから。次は父にもきちんと言って来ます。今回は僕が母の話をしました。今度は、僕に母の話を聞かせてくれませんか」
「今やなしに、か」
「今じゃなく、です」
好きなおかずはあとに取っておくタイプなんですと続けて、悠樹はにっこりと微笑んだ。百年経っても忘れないような、そんな素敵な笑顔だった。

昨日にまして、暑い日になった。中天にある太陽が、容赦なくぎらぎら照りつけている。
「じゃあ……ありがとうございました」
「何もしとらんよ、わしは。泊めてやりもせんかった」
「でも、たくさんご馳走になりましたよ」
さっき昼食に出した十束のそうめんは、あっという間にこの細い身体に吸い込まれていった。まったく、頼もしいものだ。マウンテンバイクにまたがる悠樹は、草原のしなやかな獣を思わせる。
「受験、頑張るんやで」
「はい。必ず合格して、またここに来ます。それまでお元気で」
午前中、ふたりでこの集落を散歩した。祥子の話はしなかった。どうでもいい話をしながら、時間をかけて歩いた。近くを流れる小川に行き、冷たい水で顔を洗った。帰り道、ひとつだけ設置されている自動販売機でジュースを買い、並んで飲んだ。たっぷり汗をかいていたから、大層うまかった。そのあいだ、自分の身体のことは完全に忘れていた。
「……そうやな。悠樹君も、元気でな」
「悠樹でいいです、孫なんですから」
「孫……なんかな」
「僕は、そのつもりです」
「それは困ったな」
少し間があって、ふたりして笑った。
「じゃあ、行きます」
「ああ、気をつけてな」
ぺこりと頭を下げ、悠樹はペダルに足をかけた。かげろうの立つ乾いた山道に、マウンテンバイクが滑り出す。うしろ姿がみるみる小さくなっていく。見送る光太郎の胸に、突然、沸き立つものがあった。大声で、豆つぶほどの背に向けて叫んだ。
「来年の春やな! 待っとるぞお!」
悠樹が止まり、振り向いた。
「来年の春です! それまでさようなら、おじいちゃん!」
悠樹はそう返し、大きく手を振りながら、はるか遠くのカーブに消えていった。
「おじいちゃん……」
声に出して、光太郎はつぶやいてみた。
ゆっくり後ろを振り返った。あいも変わらぬ緑の山々がそこにあった。春には、見事な桜色に染まる。
来年の春まで半年か。帰ってくるかどうかわからんもんを二十年待ったんや。必ず来るもんを半年待つくらい、どうっちゅうことはない—。
胃のあたりを確かめるようにぐっと押さえ、光太郎は真夏の太陽の下を歩きだした。

バスが、山道を縫って走っている。
窓の外、冬に一度枯れた木々が、再び新しい芽をつけはじめている。もう、春はそこまでやってきているのだ。
「今日、退院ですかあ?」
前のバス停で客が降車し、客が光太郎ひとりになったのを見計らって声をかけてきたのは、あのにきび面の若い運転手だ。
「そうや。ようわかったな」
「そんな大きなかばん持って病院前から乗りはったら、そりゃ一発でわかりますよ。それにしても久しぶりですねえ」
「半年近う入院してたからな。何回か死にかけたよ」
「ええっ。そんな重い病気やったんですかあ?」
「がんや、がん。胃がんや。手術してからも合併症やらなんやらで、えらいことやった。けどまあ、すっぱり退治してきたよ」
「へえー……。でも、がんって治るもんなんですねえ」
「わしの場合、運が良かったんやろな。それに……」
わし、まだ生きたいんですわ、先生。
悠樹を見送ったあの夏の日、その足で赴いた病院で光太郎が言った言葉だ。眼鏡の医者は心変わりの理由を詮索せず、無表情でこう言った。
「病気と勝負するのは飽くまであなたですからね。その気持ちがないと、私ら医者は援護射撃もできんのですよ。……一緒に頑張りましょうか、日野さん」
さちも祥子も、がんに侵されて亡くなった。絶対に負けてたまるかと思った。そして光太郎には、あの家で待つべき人間がいる。伝えなければいけないことがある。必ず祥子のことを、悠樹に、孫に語ってやるんだ—。そんな思いが、光太郎の長く厳しい入院生活を支えていたのだった。
「曽田—、曽田でございます」

バスを降りた。山にもう、ちらほらと春の色が見える。思いきり息を吸い込んだ。ふるさとの、懐かしい匂いがした。ああ、わしは帰ってきたんや……。
「お気をつけて、おじいちゃん」
運転手の声がした。ありがとう。手をあげて返し、バスを見送った。

あの山が桜で一杯になった頃、きっと悠樹は見事に合格してここに来てくれるだろう。
それまで何をして待とうか。そんなことを考えながら、光太郎は空を見上げる。
早春の淡い空に、祥子の笑顔が見えた気がした。

〈終わり〉