NHK銀の雫文芸賞2008最優秀作品「ロイヤルミルクティー」

著者 吉田 幸子(よしだ さちこ)

商店街のコンビニからの帰り、小板勇吉は、右手に杖、左手におでんの入った袋を持って、大きな背中を小さく丸めて歩いていた。
灰色に曇った目が半歩先の足元あたりをうろついている。覇気の無い表情のせいか、七十四歳の年よりも随分老けて見えた。すすけた喫茶店の看板の周りで木枯らしが巻いた。誰も気づかないほどの坂が、足の弱った勇吉にはひどくこたえて、風が身を切るように冷たくて、近いと思って薄着で出たのを、ぐずぐず悔やんだ。勇吉の、青白いロウのような頬に涙がつたった。悲しいわけじゃない。冷たい空気に目ん玉が反応しただけだ。鼻水まで垂れてきた。両手がふさがってぬぐえないから、目をしょぼしょぼさせてわし鼻をすすった。
勇吉は、一足ごとに、「馬鹿やろう。馬鹿やろう」と繰り返した。
築二十四年のマンション『たつみ』にようやく着いた。実際には十分くらいの道のりなのに、勇吉は、北の海で溺れて必死に岸にたどりついた、漁師の気持ちさえ分かる気がした。
簡単な暗証番号を打ち込むと自動ドアが開く。勇吉はほっと息をした。もちろん暖房は無いが、風が当たらないだけでも、『助かった』と思った。郵便受けを開けると、ダイレクトメールや気の早いクリスマスセールのチラシが重なっている。勇吉は、せかせかとおでんの袋に突っ込んで、そして、いつもの愚痴を繰り返した。
いい事なんか何もない。俺んとこに集まって来るのは、どうせ、ごみだけだ。
勇吉は、一年前の交通事故で、自分より五歳も若かった、妻睦子を亡くしていた。
エレベーターの「上がる」のボタンを押すが、なかなか下りて来ない。おでんはだいぶ冷めているはずだ。いつまでも動かない階表示からぼんやりと目を下ろした。白い紙がテープで留めてある。
『修理中。階段をご利用ください』
赤い字をたどって、貼り紙の意味が分かって、勇吉は冷や水どころか氷水を浴びたように、青ざめた。肩ががくんと落ちた。
「何を……言ってるんだ……俺の部屋は……九階……九階……なんだ」
腑抜けた勇吉から、あぶくみたいに声が漏れた。目玉だけが勝手に動く。頭と体がかあっと熱くなる。凶暴な何かが体中を巡っている。「あー」と言う声と同時に、勇吉は、おでんの入った袋をエレベーターに叩きつけた。
固く握ったこぶしがわなわな震えている。
壁に、茶色のおでんの汁が飛び散った。こんにゃくと卵が転がって、大根がつぶれた。最近こればかり食べているからか、エントランスに充満した、だし汁の匂いが鼻についた。
結局、十五分ほどでエレベーターは動き出した。下りてきた二人組の作業員が不審げに見る。勇吉は半ばふて腐れて、突っ立っていた。自分から何か言う気は無い。口の重そうな中年男が、若い方の男をあごでしゃくった。若い男は面白くない顔で、こんにゃくと卵と大根と飛び散った汁を、乱暴に掃除し始めた。
誰も何も言わない。勇吉は憮然としてエレベーターに乗ると、9階のボタンを押した。
903号室の玄関の大鏡に映った姿は、一見、いつもの、不機嫌でだらしないだけの勇吉に戻っていた。汁が体のあちこちにも飛び散ったらしくて、おでん臭い。さっきの出来事が頭から離れない。この匂いを嗅いでいると、自分のどこかに潜んでいた、あの獣のような衝動が、また暴れ出す気がして、部屋の暖房をつけても、震えは止まらなかった。
何だったんだ。俺は、どうしたんだ?
とにかく、『風呂を沸かそう』と思った。

高木正美は、マンション『たつみ』の901号室で、若い女にしては地味な、本人にすれば大切な荷物を、一つ一つ片付けていた。
インターホンが鳴った。ちょうど八時だ。今朝、引っ越して来たばかりだし、よれたスウェットだし、明日は出社しなきゃならないし、『あいさつは週末に改めてします』と一人ごちて、居留守を使った。
インターホンが執拗に鳴る。ドアの小さなのぞき穴から、七十歳半ばくらいの小柄な老人が、落ち着きなく立っているのが見えた。
「……何か」
「夜分、ごめんなさいよ。私、隣の902号室に住んでいる、山田たねって言う者だけど。越して来たばっかりで悪いけど、ちょっと来てちょうだい」
『ごめんなさい』とか『悪いけど』とか言いながら、有無を言わせない強引さがある。
「……何でしょうか?」
「何でもいいから、早く来てちょうだい」
隣に住んでいると言う。顔を合わせてしまっては無視する勇気も無くて、正美は灰色のスウェットの上下に学生みたいな紺色のコートを羽織って、くたびれたスニーカーを履いて、迷惑顔で外に出た。グレーの小花模様のウールのワンピースに、薄紫のセーター、その肩に派手なかぎ針編みを掛けたたねが、まどろっこしそうに902号室の鍵を開けた。隣の部屋に来るのに、きちんと鍵をかけてある。
「ま、待って下さい」
正美は、慌てて901号室に戻って、床に放ってあった鍵を掛けた。
902号室の、ベージュのペンキがはげた鉄のドアの内側には、小さな緑のごみ袋が一つ、行儀良く置いてあった。
「明日はごみの日だからね」
「……はい」
つられて返事をして、『嫌な予感』がした。
「あっ、靴持って」
「はい」
また返事してしまって、自分が嫌になった。
たねは茶色のつっかけサンダルを持って、ずんずんと部屋の中に入って行く。902号室は、正美の部屋とは風呂トイレが背中合わせの左右対称になっていた。
「あの、何なんでしょうか?……明日は仕事があるし、困るんです。……こんな事」
正美は、しどろもどろだ。ダイニングキッチンに置いてある、色とりどりのかぎ針編みの掛かったこたつが目を引く。奥の六畳にある窓際のベッドにも、鮮やかな鉤針編みのカバーが掛けてある。どれも手編みらしい。
どれだけの時間がかかったのか、正美は、想像しただけでうんざりした。
たねが、ベランダのガラス戸を開けた。十二月の、夜の冷たい空気が一気に入ってきた。
「境目を蹴破って、中に入ってちょうだい」
「はっ?」
「うちと903号室の境目。夕方、まるで人が倒れたみたいなすごい音がしたの。ばたんってね。でも、それから、物音一つしない。この安普請のマンションでだよ。ピンポン鳴らしても出てこないし、……おかしいでしょ。死んでるんじゃないかと思ってね」
「……そんな。どこかに、出かけたんじゃないですか?」
一人暮らし早々、他人の面倒になんか、巻き込まれたくない。
「奥さんの睦っちゃんが死んでから、夜に出かけるなんて、そんな事は一度も無いよ」
たねはきっぱり言う。自分の事みたいに。
正美はぼそぼそ言いながら、ベランダの境目にあるボードを蹴った。なかなかうまくいかなくて、そのうち、やけになって、他人の面倒をさっさと終わらせたくて、正美は、足元にあった植木鉢を振り上げた。
「山田さん。いいですね?」
植木鉢は隣のベランダに落ちて、派手に割れた。たねはパタンと外れたボードを身軽に潜って、植木鉢の残骸を横目で見ながら、903号室に入った。ベランダのガラス戸は鍵が開いていた。ファミリータイプの部屋らしく、十二畳ほどのリビングにダイニングテーブルと四脚の椅子とソファーがある。カップボードはガラスが曇って、中が見えない。パッチワークの布がほこりだらけの床にだらりと落ちて、枯れた観葉植物が部屋の隅を塞いでいる。
「何してるの。早く救急車呼びなさい」
裸の爺さんの横で、たねが、絞められたにわとりみたいな声で叫んだ。
正美が、電話でおろおろ状況を説明している間に、たねは爺さんを毛布でくるんだ。それから、今は一人暮らしらしい室内をぐるりと眺めて、勝手に箪笥を開けて衣類を何枚か出した。床に転がっていたウエストポーチを確認して、玄関のごみ袋の間にあった靴をビニールの袋に入れて、正美をつま先からずうっと見上げると、どこで見つけたのか、それを全部紙袋に入れて、正美の手に押し付けた。
救急車のサイレンで他の部屋の住人も気づいたようだ。遠巻きに様子を見ている。
「あんた、付いて行ってあげなさい」
たねは紙袋を無理やり、正美に持たせた。
「私? 私、この人の事、何も知らないですよ」
「私が付いて行くわけにもいかないでしょ。年寄りは寝る時間なの。ほら、名前は小板勇吉、保険証も財布も中に入れておいたから」
たねだけでなく、その場に居る全員の視線が頷(うなず)いている。『あの、あの……』正美は口をぱくぱくさせながら救急車に乗せられて、見知らぬ老人、裸の勇吉の横に座らせられた。
「ここはどこだ?……救急車……?降ろしてくれ。……余計なお世話だ。俺は大丈夫だ。……お前は誰だ?」
厄介なことに、勇吉は、狭い救急車の中で目を覚ました。起き上がろうとして、大柄な、骨の太い勇吉の足が正美を蹴った。
救急病院は昼間のように混んでいる。
正美はうろうろついて回るだけだ。勇吉は、たぶん何時間も気絶していたくせに、散々文句を言って、夜勤の若い医者の診察を渋々受けて、結局、今晩は大事を取って入院する事になった。さっさと帰ろうとする正美を見て、四十歳くらいのしたり顔の看護師が言った。
「ご家族の方、明日は九時までに来て下さい。慣れないと、お年寄りは不安がりますから」
「私、たまたま居合わせただけで、知り合いでも何でもないんですけど」
「あら、そうなの」
看護師は、まだ、納得がいかない様子だ。正美は構わずに、玄関に向かった。
タクシーに乗ってから、財布も持たずに出たと気づいた。『年寄りは寝る時間』とかいいながら、902号室はまだ明かりが点いている。自分勝手なたねが恨めしかった。
タクシーを待たせて、気忙しく部屋のドアを開けると、玄関の鏡に映った疲れた顔が、『馬鹿みたい』って、憎まれ口をたたいた。
引っ越して二日目になっていた。ベッドに倒れこんで、蹴られた足をさすりながら眠った。

仕事中に何度もあくびが出て、正美は、誰かと目が合うたびに、笑ってごまかした。
「高木さんは、いいねえ。いつも笑顔で」
上司に言われて、仕方なく、また笑った。仕事を定時で切り上げて、夕飯は、会社の近くの洋食屋に入った。誰かを誘うのが億劫で、一人で、目の前の空の椅子を見ながらハンバーグ定食を食べた。いつもと同じ電車に乗って、乗り越しそうになって、今日から、大藪の家に帰るのではないと、今さら思い知った。
正美は、表札を出していない901号室の前で、鍵を探してバッグをかき回していた。
「お帰り。昨日は、大変だったね」
902号室のドアがタイミング良く開いた。まるで正美を『待っていたように』だ。
「いえ」正美は身構えた。
「昼間、小板の爺さんの息子が挨拶に来たよ。あんたの分の菓子折も預かっているから、取りにおいで」
「息子さんいるんですか?」
「いるよ。嫁さんもかわいい孫も。転勤族だから、一緒には住んでないけどね。……とにかく、取りにおいでよ」
『山田たね』改めて表札を見る。一人暮らしのようだ。正美は、『やっぱり』と思った。
「紅茶、飲む?」
のんきな声がわざとらしく聞こえるのは、気のせいだろうか。
「いえ。結構です」
「そう、私はいただくよ。……あら、そんなとこに居ないで入っておいでよ」
やかんをガスにかけて、お湯を沸かし始める音がする。正美は罠に掛かった気がする。
「年を取ると夜が長くてね。老い先は短いのに、時間はたっぷりある。皮肉だね。眠れないと思うと辛いから、いっそ眠らなくてもいいって、起きてしまうんだよ。一晩中ラジオを聴きながら、編み物してね。睡眠不足だって、怖くも何ともない。次の日、昼寝する時間はたっぷりあるからね。ははは……」 時間だけがたっぷりある一人暮らしの老人。
放っておいたら、一人語りはまだまだ続きそうだ。しゃべるのをやめるのが怖いみたいに見える。『帰る』って言ったら、がっかりするだろうか。正美は自分の中の残酷な気持ちに気づきそうになって、目をつむった。
「まだ片付けも残ってるし、明日も会社だし、……昨日も遅かったし……」
「ほら座って。コートぐらい脱いで。……まあ、この一杯だけでも付き合いなさいよ」
たねは、全く急ぐ様子はなくて、紅茶の葉っぱを見せたり、クッキーを勧めたりする。
「角の喫茶店の奥さんが分けてくれてね」
お湯が沸くと律義にガスの元栓を締めた。紅茶の入った大きめのカップに、電子レンジで温めたたっぷりの牛乳を入れる。
こたつ以外に暖房の無い部屋は寒くて、正美は、ばらの花がらのカップを、マニキュアもしてない冷たい手で包んだ。カップを揺らして、紅茶と牛乳が混ざるのを見ていたら、何かを思い出しそうな、変な気持ちになった。

正美が十歳の時、両親は離婚した。母親が原因だったようだが、誰かに聞いた事は無い。父親が正美を引き取って、でも商売をしながら育てるのは無理で、すぐに、妹の大藪のおばちゃんに預けられた。正美は、おじちゃんとおばちゃんと二つ年上の浩輔の三人家族に、途中から、交ぜてもらったのだ。
浩輔はしょっちゅう喧嘩を吹っかけてきた。浩輔だって、三人家族に邪魔者が割り込んで、寂しかったり悔しかったりしたのだろう。
「おまえ、仕方なく置いてやってるんだぞ」
いつものたわいない口喧嘩の揚げ句だった。言った後で、浩輔は『しまった』って顔をして目をしばたたかせた。「ふうん」正美は平気な顔をして、小犬の『たろ』の頭を撫(な)でた。
その時の気分が、ふと懐かしい匂いのように体全体を包む時がある。悲しくとも何ともなかったはずなのに、思い出すたびに、丸い鼻の奥がつんとする。正美は目を瞑る。
浩輔が正美に食って掛かると、おばちゃんは笑って、浩輔を叱った。おじちゃんは、浩輔のふくれっ面をからかった。そうして、大藪の家に交じっていった。
おばちゃんは可愛いチェックのワンピースを作ってくれて、おじちゃんは運動会で一緒に走ってくれて、兄弟喧嘩してくれる従兄弟もいて、後に再婚した父親は仕送りを欠かさなかったし、母親も、毎年どこからか、クリスマスと誕生日のプレゼントを贈ってくれた。
「短大くらい行ったら」
高校を卒業する時、おじちゃんもおばちゃんも進学をすすめた。再婚してめったに顔を見せない父親だが、商売は上手くいっているらしい。正美は遠慮したわけでもなく、何となく、地元の地味な食品販売会社に入社した。
何がしたいのか、何が欲しいのか、正美は分からなかった。したくない事と、いらない物だけが、いつも、はっきりと分かっていた。
すっかり年取った『たろ』が、正美のそばに来て、『頭を撫でろ』と体を寄せる。
「正美。浩輔結婚するんだって。まっ、この家には住まないんだけどね。でも、彼女挨拶に来るから、その日はあんたも家にいてね」
「ふうん」
正美は、『たろ』の頭を撫でた。正美が残って浩輔が出て行くのは『違う』と思った。
大藪の家と会社の間に、築二十四年のマンション『たつみ』を見つけた。古い商店街にくすんだタイル貼りが馴染んだ、九階建てのマンションだ。大藪の家に来て十四年が過ぎていた。初めて父親を呼び出して、保証人の欄に名前を書かせた。六十歳近い父親が、封筒を押し出しながら、薄く笑った。
「引っ越し祝いだ。……でも、結婚するんじゃないのか」
遠慮がちな笑いが、おじちゃんやおばちゃんや浩輔より遠く感じた。
薄情なのかな。……私は。
『たろ』の手触りがよぎった。大藪の家には、引っ越しの手配が終わってから報告した。
浩輔があきれたように言った。
「お前、相変わらず馬鹿だな」
おばちゃんはうつむいてため息をついた。
「正美は強情だから……」
おじちゃんが苦く笑った。
強情? 誰が?
小さい頃から無理をとおした覚えは無い。何かを言い張ったつもりも無い。いつだってどう言ったらいいか、どうしたらいいか分からなくて、じっとしていただけだった。
引っ越しの朝、浩輔がすれ違いざまに言った。
「……たまには、帰って来てやれよ」
おばちゃんの目に涙が光った。何もかも一人で準備する正美を、所在無く見ている。
……私だけを見ている。
正美は、甘酸っぱい気持ちになった。
空っぽの涙がぽろぽろ落ちる。
引っ越しなんか止める。ずっとここに居る。
叫びそうになるのを、無理やり飲み込んだ。
正美は、おばちゃんの膝で、子供みたいにしゃくり上げた。頭を撫でられながら、とろけそうに気持ち良くて、『もっと前に泣いておけば良かった』と悔やんだ。
欲しい物はこれだったのかもしれない。
「良い人ができた時は、この家からお嫁にいくんだよ。私が、ちゃんと支度してあげるから。……ずっとそのつもりなんだから」

たねの話によれば、勇吉は家族の希望もあって、もう少し検査してから退院するそうだ。
正美は、たねの、とりとめのない長い一人語りを聞きながら、冷めたミルクティーを、なぜか、残り惜しい気持ちですすった。

正美は週末に大藪の家に行った。浩輔の彼女は小さくて可愛くて、似合いの二人だった。近くのマンションに住むらしい。長野のりんご農家の娘で、大学の後輩だそうだ。親からあつらえてもらったりんごをおずおずと出す娘に、正美は嫉妬した。似合いの二人を見るおじちゃんとおばちゃんを見て、鼻の奥がつんとした。正美は、物欲しげな赤い目をそらした。
帰りに、袋いっぱいのりんごを持たされた。甘い匂いが部屋に満ちて苦しくなる。
一人じゃ食べきれないから……。
正美は自分に言い訳して、たねを訪ねた。
903号室のドアの前に大きなごみ袋が三個出ていた。明日はごみの日じゃないのに。
「あら、珍しい。どうしたの?」
902号室のドアは直ぐに開いて、たねが弾けるように笑った。満面の笑顔が泣き顔にも見えて、正美は思わず目を瞑った。黙ってりんごを差し出した。たねは愛おしそうにりんごを撫でた。自分が撫でられたように、正美の頬が赤くなった。
「お茶にしよう。ねっ」
たねは返事も待たずにキッチンに向かった。
紅茶をいれる後ろ姿が思ったより小さい。
子供みたいに頼りない。
たねの寂しさの中で、正美の寂しさが薄まっていく。正美は、ふうっと息を吐く。
この背中を見たかったのかもしれない。
「あなたいくつ?」
「……もう二十四歳です」
「もうだなんて嫌だねえ。私なんて八十二歳。小板の爺さんだって、七十四歳。もうだなんて、本物の年寄りに失礼じゃないの。まったく」
「……ごめんなさい」
思いのほか強い口調に、正美はこわばった。
「はっ。本気にしたのかい。子供だねえ。年寄りのお遊びに引っかかって。はっはっは」
たねの小さな背中がかたかた揺れた。『我慢できない』と笑い出した。たねの大げさにおどけた笑い声が、正美のいびつな独り相撲と重なる。切なくて、目がぼおっと熱くなって、何だか悔しくなって、小さな子供をもてあそぶように、意地悪したくなった。
こんな事で、楽しそうに笑わないでよ。
……そんなに嬉しそうにはしゃがないでよ。
正美は、泣きたいのを、前を睨(にら)んで堪えた。
「おや、今度は怒ったのかい。冗談だよ。分かんないかね。こりゃ、ぜねれーしょんげっぷだね。はっはっは」
正美の目から、はらはらと涙がこぼれた。
たねの白い指が正美の頬の涙を、大事そうにすくった。自分より寂しいたねの前では、どんなに泣いても惨めにならなかった。
「若い人はいいねえ。直ぐに、怒ったり笑ったり泣いたり、生きてるって気がするよ」
たねは穏やかに笑う。正美は安心して泣いた。無邪気な笑顔が後ろめたかった。
……ごめんなさい。私は、……あなたの寂しさを利用しています。
たねは音を立てて紅茶をすすった。一息ついて、迷い猫と頭のいいからすの話を始めた。
「……小板さん戻られたんですね?」
たねは真顔になって、903号室との境の壁に目をむけた。困ったようにも悲しそうにも見える。正美は中途半端な気分になる。
「……あの人だって、最初は頑張ってたんだ。いつまで続くか分からないんだもの……。誰だって、嫌になっちゃうんだよ……」
903号室の廊下のごみ袋は徐々に増殖して、マンションの掲示板にも、903号室のドアにも、注意書きが貼られた。正美は、大きなごみ袋をよろよろと集積所まで運んでいるたねと、何度かすれ違った。手伝おうかとも思ったが、たねの方が正美を避けているようにも見えて、声を掛けそびれた。
おばちゃんから電話が来て、簡単な大掃除を済ませて、正月は大藪の家に帰った。

穏やかな三が日だった。
お隣さん、静かだね。実家にでも帰ってるのかね。……あの子、一人ぼっちみたいな顔して、何を怖がってるんだろ。……そろそろ戻ってくるかね。また、ピンポン鳴るだろか。……英さん、私、贅沢言ってるかね。
「こら。たね。調子に乗るんじゃないよ」
手紙を指で撫でながら、はしゃいで、壁に向かって声を出した。ここ何年も、一人で正月を迎えている。今年も、一杯の雑煮を食べる以外、何の正月らしい事もしなかった。
遅くに結婚して子供のない夫婦だった。同じ年の夫婦はそれも良しとして、郊外のばらが自慢の一軒家で、年とった同級生みたいに暮らしていた。退職して間もなく、夫英作が、長患いもせずに逝ったのは、六十歳の時だ。
英作が亡くなって、一周忌が終わった後だ。
たねは、久々に一人暮らしの友達と食事をした。早めに休んで、夜明け前、ベッドが二台並んだ寝室で目を覚ました。胸が潰(つぶ)れるように苦しい。心臓をわし掴(づか)みにされたようで身動きがとれない。息ができない。『英さん、私も行くよ』と覚悟した。潰れた肺の隙(すき)間(ま)に細い息を騙(だま)し騙し送っていたら、一度死んだ肺が心臓が固い体がゆっくりと生き返った。
凍りついた部屋で、隣の空っぽのベッドを見ながら、そのまま朝まで一睡もしなかった。
たねは、保証人のいない六十女の賃貸マンションを用意する事を条件に、思い出の家を売った。何もかもを処分して、わずかな身の回りの物だけを持って、当時新築だったマンション『たつみ』での暮らしを始めた。敢えて賃貸にしたのも、支払いを自動銀行振り込みじゃなくしたのも、最後の日が来ても何か月も知られずにいるのが怖かったからだ。
引っ越した日に最初の手紙を書いた。そして、幾度も書き直した。近しい誰かが亡くなるごとに。心を寄せた人が去って行く度(たび)に。
何だか寂しい子だね。
901号室に越してきた正美は、自分とどこか似ている気がした。人恋しい日、たねは、幾度か901号室の前に立った。留まって、902号室に戻って、長い夜を思い巡らせた。
正美が真っ赤なりんごを抱えて訪ねて来た日、たねは、密かな『希望』を持った。
誰にも気づかれないで、何日もして身知らぬ人に発見されるよりずっといいよ。『発見』なんて嫌じゃない。悲しいじゃないか。
ばら色の便箋(せん)で、正美あての手紙を書いた。
最初の手紙には、もし見つけたのが正美でなかったら、この二通目の手紙は誰の目にも触れさせずに捨てるように、と書き足した。
たねは、いつかやってくる日の為に、ベランダの境目のねじを緩めた。ガラス戸の鍵は、あの日から閉めていないけど、たねは今までよりずっと安心して、幸せな気持ちで眠れた。

正月三日、正美は、大藪のおばちゃんが持たせてくれたおせちを抱えていた。
この間の『ごめんなさい』……だね。
『待っていたみたいに』鍵が開くはずだ。たねの笑顔が浮かんで、正美は苦笑いした。
たねはなかなか出てこない。続けさまにインターホンを押す。不安になる。何かが起きてそうで怖いのに、上手に目をつむれない。
正美は901号室に戻って、靴を持ってベランダに出た。902号室との境目のボードはあっけなく外れた。あんなに用心深いのに、ガラス戸は鍵が開いている。息を飲んだ。『山田さん。たねさん』正美は大声で叫んだ。

心臓発作だった。医者は、『長い時間は苦しまなかっただろう』と、気休めに言った。
派手な鉤針編みを取り払うと、余分な物の何も無い部屋だった。小さなごみ袋の口が縛ってあった。少ない家具とかぎ針編みとごみ袋は、物慣れた業者たちがやって来て、たねの指示通り、淡々とあっけなく片付けられて、正美の手元には、ばら色の手紙だけが残った。

正美ちゃん。(馴なれ馴れしいかい。でも、いかにも、仲良しみたいだろ)じゃあ改めて、
正美ちゃん。見つけてくれて、ありがとう。
驚いたろうね。私は、今頃天国の入り口で、あんたと旦那の英さんに感謝しているはずだよ。あんたは迷惑だろうけど、あんたに見つけて欲しくて、英さんにお願いしたんだよ。
面倒掛けて悪いけど、二、三本電話してもらえれば、全部片付くはずだから。勘弁してちょうだい。お骨の始末まで自分でできる時代だけど、最期の時に、誰も私の事を知らない中で眠ってるなんて、寂しい気がしてね。死んでしまえば一緒だもの、無いものねだりはみっとも無いって言い聞かせたんだけど、やっぱり我慢できなかった。ごめんね。
あんたと二人で飲んだ紅茶はおいしかった。本物のロイヤルミルクティーだった。あんたとのおしゃべり、楽しかったよ。正美ちゃん、私はあんたのおかげで幸せだよ。ありがとう。
天国で、正美ちゃんの幸せを応援してる。
あんたは、ひとりじゃないよ。

たねには、夫も、一人息子も嫁も孫も、おじちゃんもおばちゃんも、浩輔もいなかった。
誰にも甘えない、誰も恨まない、『幸せだよ』が悲しかった。何も持たないたねが残した、『ひとりじゃない』に正美は号泣した。

903号室の前のごみ袋がまた増えだした。無人の902号室まではみ出している。たねの困ったような悲しそうな顔を思い出した。
仕事の帰り、正美はコンビニで勇吉を見かけた。あかじみた服を着て、風呂にも何日も入っていないのだろう。いかにも投げやりな、ふてぶてしいとも思える様子だった。コンビニの店員も目を伏せて、通り過ぎるのをじっと待っている。お湯くらいは沸かすらしく、袋の中にカップ麺とバナナが見えた。
杖を鳴らして苛々と歩く勇吉の後ろを、正美は追い越せずにいた。肌が粟立って、心臓がとくとく鳴る。自分が何をしようとしているのか分らない。ただ、勇吉の後ろを歩いていた。勇吉は、道のあちこちに憎々しげに、たんを吐いた。前から来た少年はあからさまに眉をひそめた。子供を連れた母親は、大事な子供を自分の陰に隠した。勇吉はそれを全部知っていて、わざと痰を吐いているように見える。正美は『この人は怒っている』と思った。
自分を一人にしておく息子夫婦、先に逝ってしまった亡き妻、見ない振りをして後ろ指を指す近所、そして居ることにさえ気づかない世間、何もかもに怒っているのだと思った。
マンション『たつみ』の自動ドアがゆっくり開く。人目の無いエントランスに入ると、勇吉は気が抜けたように見えた。正美は勇吉の目に入っていない。半開きにした郵便受けの扉から、郵便物が溢れる。わざとなのかどうでもいいのか、勇吉は振り返りもせずに、そのまま「上がる」のボタンを押した。旧式のエレベーターはゆっくりとしか動かない。
正美は、落ちたチラシの束を黙って拾うと、勇吉の横に立った。ぼんやりとした目をむける勇吉の手を取って、コンビニの袋に入れた。
「小板さん。隣の高木です。……ごみの日は明日です。捨てるなら、明日出して下さい。……仕事に出る前なので早いけど、七時に伺います。……一緒に片付けましょう」
言うだけ言うと、その場に居たたまれなくて、横の階段をかけ上った。汗が吹き出す。むきになって、足をもつれさせて、あえぎながら九階まで上った。上気した顔で、表札の掛かってない902号室のドアに向かって言った。
たねさん、格好つけすぎです。残念です。私たち、きっとこれからだったから。……でも、ありがとう。私もっと素直になります。