第20回銀の雫文芸賞最優秀作品「晩年の弟子」

著者 小川 栄(おがわ さかえ)

1

五月晴れという言葉が似つかわしい穏やかな日だった。少し白っぽい青空に綿状の雲がいくつか浮かんでいる。歩いていると汗ばんでくるほど暖かく、季節が着実に夏に向かっているのを感じさせる。時折ゆるやかに風が吹き、ほてり気味の皮膚を冷ます。そんな陽気のよさにもかかわらず、小暮文雄は気が重かった。
文雄は隣町にある総合病院に出かけ、先週受けた腹部CT検査の結果を聞いてきたところだ。昨年の胃検診で胆石が見つかり、自覚症状はなかったので、半年後にまた検査しましょう、ということになっていた。

「もう少し様子を見る手もありますが、石もけっこう大きいです。胆嚢摘出の手術をした方がいいかもしれません」
三十代半ばくらいに見える怜悧そうな医師は、CT検査の画像や超音波検査の写真を指差しながら説明し「どうしますか」と判断を文雄に委ねた。任されると迷う。
「どうするか決めて来週また来ます」

医師にそう告げて帰ってきた。痛みはないし、それにもう七十二歳だ。体内に抱えた石は不気味だが、放置しても死ぬまで沈黙していてくれるのではないか。長生きしたい、という気持ちが強ければすんなりと手術に踏み切るのだろう。けれども三年前に妻の康子に先立たれた喪失感はいまだに大きく、どうも生への意欲に乏しい感がある。こんなときも、康子がいればどうしたらいいか相談できたのにと、ついぐちを言いたくなる。
文雄が公園の手前まで来ると、向こうから老婦人と三歳くらいの女の子が並んで歩いてきた。婦人は小柄で眼鏡をかけ、髪はふわっとした白髪で、康子に雰囲気がちょっと似ている。孫を連れての散歩だろうか。

女の子が立ち止まり、大きく息を吸ってから横にいる婦人に話しかけた。

「いい匂いだね、おばあちゃん」
「本当。春だものね」

一緒に立ち止まった婦人は、女の子の顔を見て笑顔で答えている。文雄は歩みを止め二人の様子を眺めていた。二人は再び並んで歩き出し、婦人は文雄に柔かな笑みを浮かべながら軽く頭を下げ、傍らを通り過ぎていった。

幼い子を連れて歩くとか、孫の世話をするとか、そんな経験を康子にも味わわせたかった、という思いが湧いてくる。文雄たちは子どもを授からなかった。

―でも何の匂いだったのだろう?

何かの花の匂いが漂ってきたのだろうか。それとも風の薫りを感じたのだろうか。文雄は慢性的な鼻炎で匂いに対する感覚が鈍い。耳も目も年齢相応に弱ってきている。年をとるというのは、そういう点でも悲しい。

文雄は公園に入ってみた。さほど大きな公園でもなく、平日の昼間なので閑散としている。文雄には気になったものがある。ブランコやすべり台が並ぶ前にこぢんまりした藤棚があり、そろそろ見頃ではないかと思われたのだ。文雄はそうでもないが、康子が花好きだった。康子は俳句が趣味で、見たい花があるとこまめに出かけたものだ。ここの藤についても何度か文雄に話したことがある。花が見たいというより、花の話をしていた妻が懐かしくて引き寄せられた感じだ。

離れたところからでも、藤がちょうど盛りなのがわかる。せっかくきれいに咲いているのに、場所が地味な公園なので気にとめる人が多くなさそうなのは少し気の毒だ。
藤棚の方に歩いていく文雄は、途中から別のものが気になっていた。藤棚の向こう側のブランコに、制服姿でタバコを吸っている女子高生が座っていた。公園内には、ほかに人の姿はない。その少女だけが、なんだか面白くなさそうな様子でタバコを吸っている。

長いこと高校に勤めていた文雄は、現役教師のころは生徒の生活面に関して厳しくない方だった。寛容というより、面倒だったのだ。授業だけでも大変なのに、難しい年齢の生徒たちにわざわざ反発をかうようなことをする気になれなかった。年をとって気が短くなったのか、いまの方が、中学生や高校生の社会をなめたような態度や服装に腹が立つ。

文雄は少女が座っているブランコの手前で立ち止まり、きつい口調で注意した。

「高校生がタバコなんか吸ったら駄目じゃないか。しかも学校をさぼって」

少女は知らない老人が急に文句を言ってきたので驚いたようだ。きょとんとした様子で文雄を見返す。面と向かって注意されることは少ないのかもしれない。少し間があってから、突然怒られたことへの怒りが湧いてきたようだ。口をとがらせて言い返してきた。

「そんなの私の勝手でしょ。ここ、誰もいないじゃない。誰にも迷惑をかけてないわ」
「タバコを吸っていいはずないだろ。それにいまの高校はそんな髪を許すのか」

少女は髪を染めていた。明るい茶色、というより金色に近い。しかも背中の中ほどまである長い髪だからかなり目立つ。おしゃれのつもりなのか自己主張なのか。文雄には少しも恰好いいと思えない。少女の顔つきはさらに険しくなる。

「うざいんだよ。いまはね、髪を染めるぐらいは当たり前なの。昔とは違うのよ」

文雄はうんざりした。「うざい」とか「むかつく」とか「何気に」とか、若者たちが頻繁に使う言葉が嫌いだ。

学校側の態度も気にいらない。自主性尊重と言えば聞こえはいいが、生徒に迎合してる気がする。生徒に任せたなら、髪の毛を染めたりピアスをつけたりしたくもなるだろう。枠からはみ出たがる年代だからこそ、これは認めない、という境界線が必要なのだ。

「あのね、親切心で言うけど、いまの中高生は怖いんだよ。タバコ程度で余計なお節介をやいたら相手によっては痛い目にあうよ」

少女が文雄に忠告する。忠告をするだけの親切心はあるようだ。

「それなら、何を見ても黙って通り過ぎて、見ないふりをしろと言うのか」
「そうよ。注意して恨まれたり、何かされたりしたら損じゃない。何の得もない」
「若いうちから損得ばかり言ってほしくないな。そんな髪の毛で親は怒らないのか」

文雄だって、若者にうるさいことを言ってわざわざ嫌がられたくはない。とはいえ高校生でその髪はないだろうと思う。学校が黙認しようと、親が許さなければいいはずだ。

「文句は言うわ。でもそれは私を思ってじゃなくて、自分らの体裁や世間体のためよ」
「私には親の気持ちはよくわからんが、内心はかなり心配してるんじゃないのか? 言い方が悪くてうまく伝わらないだけで」
「髪の色くらい好きでいいじゃない。見かけだけで人を決めつけてない? 大人は大抵そう。じいさんには子どもはいないの?」
「いない。ともかくタバコはやめろよ。どうせうまいと思ってるわけでもないだろ」

康子は五十七歳で肺ガンで死んだ。康子はタバコを吸わず、文雄は、以前は相当なヘビースモーカーだった。それなのに文雄は元気で、一本も吸わない方が肺ガンになる。世の中には筋の通らないことが多い。

「まずくないよ。おいしいけど、けちをつけられてしらけたから、いまはやめとく」

少女はバッグから携帯灰皿を出し、タバコを消して吸殻をそこに入れた。

「そんなのを持ち歩いてるのか。少しだけ感心した。しかし君、素直じゃないな」
「大きなお世話。じゃあ、家族はいないの」
「ああ。老人の一人暮らしは寂しかろうなんて決めつけるなよ」
「そんなことしないよ。家族と一緒なら孤独じゃないってわけでもない。私、一人暮らしに憧れる。自由に好きなことをやれそう」

一人の生活が気ままでいいと思うのは勝手だが、それしか選びようがないとなるといいも悪いもない。康子はひと回りも年下で、先に死なれるとは思ってもいなかった。
立っているのに疲れ、文雄は少女の隣のブランコに腰をおろした。そのとき腰のベルトに付けている万歩計を見たら、歩数が二千五百ほどになっていた。文雄は一日八千歩を目安としている。目標を決めたら守らないと気がすまない性格だから、散歩のときは遠回りして歩数を稼ぐこともある。

「けっこう健康には気を配ってるんだ」

少女はブランコを軽く揺らしながら、万歩計を珍しそうに眺めている。

「目に見える数字でもないと生活がいい加減になるんだ。健康のためというよりは、元気なまま死ぬためだな。ぎりぎりまで元気でいて、ある日ぽっくりいく。それが理想だ」
「死ぬって怖くない? はっきり言って、だんだん最後の日が近づいてるわけでしょ」
「露骨な言い方だな。確かにそうだけど」

年齢を重ねるにつれ、新聞の訃報欄で同年代や年下の死が報じられる割合が増えている。自分の死を思うとき、文雄は怖いというよりは虚しさを感じる。七十年あまり生きてきて何を為したかというと、何もないように思われる。自分に繋がりのある者も残らない。

「私は嫌なことが重なると、たまに、もういいって人生を投げ出したくなる」

少女は投げやりな口調で呟く。投げ出すほどのものをまだ抱えていないだろうに。

「もったいないな。時間はたっぷりあるし、何にだって挑めるじゃないか。君にいらない時間があるなら、お金を出して買いたいくらいだ。ところで、その箱の中は何なんだ」

少女の足元には、蓋のない矩形の菓子箱があった。その中で、タオルに包まれて何かが眠っているのが文雄に見え、さっきから気になっていた。

「産まれたばかりの猫。誰かが捨てたのよ。すべり台の下にあった」
「ずいぶん小さいな。どうするつもりだ」
「それを考えてたんじゃない。私のところはマンションで、ペットは禁止なの」
「家の中で飼えば外からはわからないだろ」
「実際は飼ってる人もいる。だけど、うちは無理。兄貴は来年大学受験だし、兄貴に期待してる母親はぴりぴりしてる」
「あった場所にそのまま置いとけば、親切な誰かが持っていくかもしれない」
「そんな人がいなかった場合はどうするの」
「そのときは、そういう運命だってことだ。自分の力で何とか生きていくんじゃないか」
「人に説教するわりに薄情ね」
「交番に届けるか? でも受け取るのかな」
「じいさんの家は一戸建て? だったら飼いなよ。一人暮らしを癒してくれるかもよ」
「生き物は飼いたくない。病気になったり死なれたりしたら嫌だ」
「私が飼い主を見つける。それまででいいから預かってくれない? 食事は私があげる」

文雄は子猫を捨てた人間に腹が立った。誰かが拾って育ててくれると甘く考えてるのだろう。猫自体が嫌いではなかろうに、小さな猫を平気で捨て、見捨てておけない人間を悩ませる。無神経な人間の後始末を、やさしい心を持った人が引き受けるという構図だ。

康子も引き受ける側の人間だった。損な役回りに思えることを嫌がらずやっていた。それにしてもあっけない死だった。病気が見つかってから半年しかもたなかった。その間に康子は、文雄に炊飯器や洗濯機の使い方を教え込んだ。亭主関白だった文雄は家のことを康子に任せっきりだった。これではまずいと思ったのだろう。人生の最後にそんなことを気遣わせてしまい、いまも胸が痛む。

「ほんの少しの間だけだぞ。そして食事の面倒は君が見る。それでいいか」

文雄が承諾したのは、康子なら見捨てはしないだろうと思ったからだ。

「本当? よかった。でも何を考えてたの」
「何も。ともかく家に行くか。昼はどうする」
「スーパーで買い物をしていこう。悪いけどお金を出して。その代わり、おいしいものを作ってあげる。料理はけっこう得意なの」
「見かけによらない感じだな」
「嫌味だな。私は山室双葉。よろしくね」

双葉は子猫の入った箱を両手で抱えるようにして持った。二人が並んで歩いていると、老人と金色の髪の女子高生との組み合わせは好奇心をひくらしく、周囲の人たちがちらちらと目を向けてきた。

2

文雄の家にあがると、双葉は子猫の入った箱を居間の隅にそっと置いた。文雄が中を見たら猫はまだ眠っていた。短い間にせよ、生き物を家においとくのは気が重い。どこでどんなふうに寝かせればいいのか、排泄はどうするか、全然わからない。具合が悪くなっても困る。康子が元気だったころ犬を飼っていた時期があるが、世話はほとんど康子がやっていた。文雄は気が向いたとき散歩させたくらいだ。双葉に頼まれて承諾したものの、厄介なものを引き受けたと後悔していた。

「台所、けっこうきちんとしてるじゃない。でも一人にしちゃ食器が多いね」

食器棚を見ながら双葉が言い、買ってきた野菜や卵をスーパーの袋から出している。

「減らしてないからな。自由に使っていい」

康子は旅先などでちょっとした食器を買うことがよくあり、二人の生活だったにしてはかなり食器が多い。整理して減らそうと思ったこともあるが、まだ片付けてない。
文雄は食卓の椅子に座り、双葉の仕事ぶりを見ていた。食器を洗い、人参や椎茸や玉ねぎを切る。この台所でトントンという軽やかな包丁の音を聞くのは久し振りだ。文雄ではそういう音にならない。

パック入りのご飯も用意されてる。雑炊を作るようだ。双葉がコンロに普通の鍋と小さめの鍋をかける。人間用と猫用だろう。猫用と思われる方は野菜も細かく切ってある。

文雄が座っている場所からでも眠っている子猫の小さな顔が見える。この猫が双葉との繋がりをつくったかと思うと不思議な気がする。猫を預かる気になったのは康子のことを思い出したためだから、康子が双葉をこの家に招いたようなものかもしれない。

双葉が二つの丼と水の入ったコップを運んできて食卓の上に置いた。

「何だか猫のご飯を人間も食べるようだけどね。猫のは小皿に取って冷ましてる」
双葉は文雄の向かい側に座り、「いただきます」とよく通る声で言ってから雑炊を食べ始めた。文雄も食べてみる。誰かが自分に作ってくれたものを食べるのは久し振りだ。

「好みとかわかんないし、薄味にしといた」
「うん。あっさりしていておいしい」

文雄はお世辞でなく、味にも、手際のよさにも感心した。ただ、残ってる野菜をこのあとどうしようかと思った。文雄は出来合いの惣菜に頼りがちで、あまり自炊しない。 二人が食べ終えると、双葉は小皿に入れた雑炊と少量の牛乳を持って猫のもとへ行き、それらを与える。子猫は小さな口でせわしなく雑炊を食べ、牛乳も飲んだ。

「おなかすいてたみたい。そりゃそうね」
もう十分なのか猫が食べるのをやめ、満足げな表情を見せ静かになった。双葉が戻って来て食器の後片付けを始めようとするので、文雄がそれをとめた。

「片付けは私がやる。猫と遊んでればいい」

双葉はちょっと考えてから素直に頷いて箱のところに戻り、子猫の柔かな毛を撫でたりし始めた。文雄は食器を洗い始める。炊事や洗濯はそう嫌いではない。病気がわかってからだが、康子に上手に仕込まれた感じだ。

洗い物が終わって文雄が振り返ると、猫はまた眠ったらしい。いつの間にか双葉は居間の中央に置かれた将棋盤を眺めていた。盤には詰め将棋の問題が並べられている。文雄の視線に気づいたのか、双葉が顔をあげて訪ねた。

「これ、1三角捨てから入るんじゃない?」

文雄は濡れた手をタオルで拭きながら居間に行き、双葉の顔をまじまじと見た。

「将棋を知ってるのか? 何手詰めだ?」
「うーん、十三手だと思うんだけど」

文雄は盤の前に座って双葉の指摘した手を指し、それに応じる手も指した。あとは双葉が攻め方、文雄が玉方となって駒がばたばた動き、十三手でぴったり王様が詰んだ。
「正解だ。なかなか強いな」

文雄は驚いた。そんなに簡単な問題ではないはずだ。しかも双葉は駒を動かさず、頭の中で解いている。文雄はアマの四段で素人の中ではかなり上の方だ。最近はテレビの対局を見るくらいだが、頭の老化防止になるかと思い、毎日詰め将棋を少しずつ解いている。
今朝やった問題が盤に並べられたままだった。本の図面は小さいので問題を盤に並べることにしている。文雄は試しにきのう解いた問題を並べてみた。双葉は盤の向かい側に座り、五分くらいじっと考えてから駒を動かした。先ほどと同じように二人が交互に駒を動かしていき、きちんと王様が詰んだ。

「どこで覚えたんだ」
「兄貴が中学生のころ凝って、相手をさせるため私に教えたの。最初は兄貴の楽勝だったのに、あるとき私が勝ったら兄貴の将棋熱は冷めた。兄貴は来年国立大学を受ける」
「成績がいいんだ」
「でも国立はおそらく無理。母親の期待過剰よ。兄貴が中学のころから決めつけてる」

家族のことだと双葉は表情も言葉もきつい。

「父親はどうなんだ」
「家にいない。外には単身赴任ということにしてるけど、女の人とよそで暮らしてる。父は離婚したいのに母が応じないのよ。お金は送ってくるけど、ばらばらの家族って感じ」
「母親に期待されてる兄さんも気の毒だな」
「そんなことはない。うまく立ち回ってる。どうせ一年は浪人するつもりらしいし」
「君はどうなんだ。やはり母親に期待され、それに反抗してるのか」
「私には期待してない。小さいころから素直じゃなかったし、成績もよくなかった。母は私を見放し、父は家族を放り出してる」

投げやりな言葉だった。文雄はかつて高校で数学の教師をしてたころ、いろいろな生徒や親たちを見てきている。双葉の両親のようなケースも、似た例がいくつもあった気がする。せっかく親になれたのに、もったいないことだと思う。子どもをほしくても授からない人が世間にはたくさんいる。
康子もその一人だ。口にすることはあまりなかったが、よその子を見つめる視線で、我が子を切望しているのはよくわかった。子育てをさせてやりたかったとつくづく思う。文雄も子どもはほしかった。人は大抵のことは自分で道を切り開くべきなのだろうが、子を授かるかどうかはどうにもならない。

「まあいろいろあるさ。一局指そうか」

話題を変えたいのと、双葉の棋力がどの程度あるかに興味が湧いて文雄が誘った。

「いいわよ。どうせ暇だし」

飛車落ちと角落ちを一局ずつ、計二局指した。いずれも文雄が勝ったが、双葉には既に初段以上の力があることも、かなりの素質がありそうなこともよくわかった。指した将棋を並べ直す記憶力もあるし、敗因を指摘されて理解する力もある。負かされて大いに悔しがるのも、伸びるには大切な要素だ。

「本気で勉強してみる気はないか? その気があれば教える。今からでも真剣にやれば、プロだって夢ではない」

自分でも予想外の言葉が口から出ていた。言ってから、安直にそんなことを言っていいのだろうかと不安になった。自分の先行きがそう長くないだろうに、他人の人生に責任が持てるのか。才能がありそうなどとプロでもない自分が判断していいのか。そういう不安はあったものの、磨けば光りそうな原石を見つけた喜びや、双葉に潜んでる可能性を伸ばしたいという魅力の方が大きかった。

「将棋が職業になるの?」
「奨励会というプロ将棋の養成機関があって、全国から強いのが集まって競ってる」
「いまからでも遅くない?」
「出遅れてるのは確かだ。大抵は小学生や中学生のころ目標を定めてる。ただ女流棋士は制度も違うから、多少はなりやすい。本気で頑張れば可能性は十分にあると思う」
「将棋の世界って、力の世界?」
「それは間違いない。学歴もコネも関係がない。強い者がきちんと評価される。それだけに厳しい。弱くなればすぐに沈んでいく」
「私にもやれる可能性があるの?」
「そう私は思ってる。努力次第だが」

文雄は、やるだけやった上でその道に進む気にならなかったり、力及ばずに挫折したりしても、それは構わないと思った。少なくとも、髪を派手な色に染めたりタバコを吸ったりは、双葉の自然な姿に思えない。無理して突っ張ってる気がする。

「チャレンジしてみようかな」
「そのつもりがあれば全力で教える。ただし髪の色を元に戻すのが条件だ」
「えっ、どうして髪の色が関係するのよ」
「私の弟子になるなら、そんな髪はだめだ」
「強引すぎる。理由がわからない」
「嫌ならやめとけ。そのくらいでぶつぶつ言うようじゃ、どうせものにならない」

双葉は露骨に不満そうな顔をしている。確かに髪の色は将棋に関係ない。しかし盤を挟んで将棋を教えるとき、前で派手な色の髪がちらちらするのは嫌だし、人に迷惑をかけなきゃ自分の好きでいい、という考え方も嫌いだ。何かを本気で目指すなら、ほかの色んなことを我慢しなければならないのは当然だ。

「それとな、携帯電話を持ってるか」
「当然でしょ、いまどき」
「プロを目指すなら解約しろ。携帯に費やす時間がもったいない」
「無理よ。髪はともかく、それは絶対無理。友達と連絡が取れなくなる。孤立しちゃう」
「家の電話があるだろ。連絡が必要ならどうにでもなる」

双葉は今度は不満げな顔というより、本気で怒っていた。文雄にしてみれば普通の要求だ。数年で女流棋士になれるだけの力をつけるには寸暇を惜しんで頑張る必要がある。
「私、やっぱりいい。猫の引き取り手はなるべく早く探す。悪いけど夕方また何か食べさせてあげて。明日また来る」
双葉は猫の様子を見、まだ眠ってるのを確かめると「じゃあ」とぶっきらぼうに言って帰っていった。文雄は双葉が去ってから、何かを取り逃がしたような、もったいないことをしてしまったような気がした。

双葉には豊かな才能が感じられる。それを自分の手で育てられるなら、残された日々の大きな張り合い、楽しみになったかもしれないのに、余計なことを言って双葉のやる気をそいでしまった。

いまの若者には無理な注文だったかもしれない。自分の感覚で、携帯電話は将棋の修業に邪魔、と思っても、若者には既に必需品なのだろう。それなら節度を守って使用させればよかったのだ。文雄はどうもひと言多い。老人会の誘いも、「群れるのは嫌いなので」と言ってしまい、それ以後どうも近所の高齢者とのつきあいが気まずくなった。世間をわざわざ狭くしている気がする。年を取って残りの日々も短くなったのだから、もう少しまるくなればいいのにと時折反省する。
才能のある人間は羨ましい。才能のほとばしるに任せて生きればいい。もっとも、本人が自分の才能を知らない場合も多いかもしれない。自分にも何かあっただろうか。それほどのものでなかったにせよ、持ってるものを十分に活用しきらず、いたずらに時を過ごしてきたように思えてならない。

3

翌日の午前中、文雄は居間で『入院される患者さんへ』という小冊子を見ていた。病院で貰ってきたものだ。手術をする場合どんな手続きが必要かと尋ねたら寄越した。手術や入院は面倒なことが多いとつくづく思う。身寄りが少ないと尚更だ。家族がいれば本人と共に家族が同意し、保証人にもなればいいのだろう。しかし文雄は妻が先に逝き、子はいない。弟が一人いたが五年前に六十代で病死した。いちばん近い親戚といえば郷里に住むいとこの保吉さんくらいだ。といっても現在は賀状のやり取りをしている程度だ。こういうことを頼むのは気が重い。

逆に保吉さんが頼んでくる場合を想定しても、おそらく文雄は面倒臭いと思うだろう。もっとも保吉さんには妻も子も孫もいるからそんなことはあり得ない。弟の奥さんや妻の妹は、弟や妻がいてこその繋がりだ。

保証人は費用面の保証だけではあるまい。手術であれば不測の事態にいたる可能性は当然ある。その場合に誰があとのことを引き受けるか、ということも含まれるだろう。文雄自身は心配をしてなくても、何せ七十二歳という年齢だ。「何かあったときどうなるのか。あとの責任を持つのだろうか」と相手は思うのではないか。文雄が頼まれる側だと考えてみても、安易には引き受けられない。

手術するかどうかの選択以前にこんな厄介な事柄があるのかと、文雄はうんざりした。住宅ローンなら、保証人がいなくても一定のお金を払えばすむシステムが確かあった。そんな仕組みはないのだろうか。そうでないと家族のいない高齢者は入院すらしにくい。

文雄にはさらに大きな問題もある。嫌だからあまり考えないようにしてるものの、本当は考えておかねばならない事柄だ。文雄の葬儀はどうしたらいいか、ということだ。死ぬ少し前、康子がこう言ったことがある。

「私はあなたに看取ってもらえるけど、私はあなたを看取ってあげられない。ごめんね」

当時は康子に少しでも長く生きてほしいとそればかり思っていて、その言葉の意味も重さも理解できなかった。いまはわかりすぎるくらいわかる。年齢からいっても順番が違うじゃないかと、いまさらながら恨めしい。

文雄は居間に置かれた段ボール箱を見た。子猫が中で静かに眠っている。朝、ごはんにかつお節をかけて小皿にのせたらけっこう食べた。牛乳も飲み、少ししたらまた寝た。段ボール箱はスーパーで貰い、カッターで上半分を取り払った。深いと、猫にとっては谷底にいるような感じがするだろうからだ。
レジャーシートの上に段ボール箱を置く。片側半分に古いタオルを切って入れる。ベッドのつもりだ。二、三日の仮住まいならこの程度で大丈夫だろう。何か足りないようなら双葉が来たらやってもらおうと思ってる。

産まれてすぐ親と引き離された猫が気の毒ではある。それでも双葉のような人間が見捨てておけず世話をやいてくれる。生きていく場所や面倒を見てくれる人も何とか見つかるだろう。自分のことでないから楽観的に考えてるにしても、これから生涯が始まり、可能性に満ちている点に関しては羨ましい。
お茶でも飲もうと文雄が立ち上がったとき玄関のブザーが鳴った。双葉だろうか。猫のことが気になるから早く来てほしかったが、学校をまたさぼったならそれは困る。高校は欠席が多いと留年になってしまう。

文雄が玄関をあけると予想通り双葉が立っていたが、その姿に文雄は驚いた。背中の中ほどまであった髪が肩に届かない長さになっていて、しかもその色は艶やかな黒だった。

「髪を切ったのか」
「ええ。さっぱりしたわ」
「黒に戻したのか」
「そうしなければ弟子になれないんでしょ。携帯電話も解約した。棋士になるまでは使わない。だから弟子にしてください」

たぶん携帯電話のことは嘘だろうと文雄は思った。言いながら双葉がかすかに目をそらせたからだ。文雄は長く高校の教師をしていたから、その辺は自信がある。嘘をつくのが苦手な者は、態度のどこかに出てしまう。だからといって詮索する気はなかった。双葉は文雄の前では携帯を持ってないふりを通すつもりだろう。それでいい。将棋の勉強にさえ必死で取り組んでくれれば十分だ。

「わかった。条件を守ったのなら引き受けるしかない。だが甘くない道だぞ」
「わかってる。きのう帰ってから、私なりに相当に考えたの。頭が痛くなるくらいに」

顔には出さないようにしていたが、文雄は内心嬉しくてたまらなかった。人を育てる喜び、やりがい、大変さを再び味わえるかもしれないと思ったからだ。

「ちびちゃんの様子はどう? 引き取り手が見つかりそうなの。親の承諾を得たら連絡するって。たぶん大丈夫だと思う。お昼ごはんを持ってきた。あがらせてもらうね」

双葉は靴を脱ぐと急いで猫のいる箱のところへ行き、傍らに腰をおろした。箱の中に手を入れ、やさしく猫の毛を撫ぜている。文雄はそんな様子を眺めながら、やはり手術をしようと決意を固めていた。

一人暮らしの身で入院や手術となると厄介なことが多いだろうが、いくら面倒でもやるしかない。一人の弟子を持つことになったのだ。師弟で力を合わせて挑むためには、文雄の健康面の不安は極力取り除き、少なくともあと数年間は元気でいたい。

文雄はサイドボードの上にある写真スタンドに目をやった。元気なころの康子が穏やかに微笑んでいる。

「よかったですね、若いお弟子さんができて。こっちに来るのは、まだ先のようですね」

懐かしい笑顔が、そんなふうに文雄に語りかけてるような気がした。