第19回銀の雫文芸賞最優秀作品「髪にふれる」

著者 今村惠子(いまむらけいこ)

ブリキで出来た円柱形の大きな郵便受けは二十年前、店舗のリニューアルの時、ハリウッド映画を真似(まね)て、夫の康之が手作りしたものだ。今ではポピュラーになって、新築の一戸建てに標準仕様のように、門の横に取り付けられている代物だ。しかし、二十年前のそれは、非常に珍しく、洒落(しゃれ)た店構えに良く似合った。

今、ブリキは光を失い、底の四隅には赤茶色のサビが醜く浮き出ていた。蓋(ふた)も壊れかけて、ガタガタしている。朋子が少し力を入れて、蓋を手前に開けると、中に白い葉書が十数枚入っていた。同窓会の返信の葉書だ。欠席に丸が付いていたり、出席に線が二本引いてあったり、結局、どれも欠席ばかりだ。丁寧に近況を知らせてくれるものもあれば、名前だけを書きなぐった雑なものもあった。二百枚近く出しても、出席者は十五、六人。同じ顔が毎回揃うだけで、配偶者に言い訳の為の飲み会だ、と朋子は思っている。地元から離れない、離れられない人間が当然のように幹事に据えられ、義務のように何年も何年も、朋子に付き纏(まと)っている。

「嫌だったら、はっきり断ればよか……」
「ばってん……」
「人が良かにも、程があるけん」
「うん、分かっとる」
「パソコンば使うて、名簿やったら俺が作ってやるけん。葉書にプリントアウトしたら、簡単に綺麗(きれい)に出来ると……」
「パソコン始めて、偉そうに……。そしたら、代わりに、してくれんね」
「今度な、風呂に入るけん……」
「ご飯ば食べて、すぐにお風呂に入ったら、身体に悪かよ」

一か月程前の夜、老眼鏡を掛けて、案内状の往復葉書の宛名を書いている時、康之が言った言葉を思い出していた。康之は老後の趣味の為、パソコン教室に通い始めていた。

その翌朝、いつものように店を開けた。康之と朋子は二人で四十年近く、小さな理髪店を営業していた。子供はいない。流行(はや)っている時は従業員を交代で三人も雇っていた。客商売には好立地だった駅前の近くに、二人の『古賀理髪店』はあった。しかし、近年、郊外に宅地が開発され、大型スーパーが出来、急に客足が減少した。朋子が嫌々でも同窓会の幹事をしている理由の一つはこれだった。間違いなく、顔馴染(かおなじ)みの客は通ってくれた。

午前中はほとんど客が来ない。朋子は二階で家事をして、康之だけが店の掃除や準備を始めていた。店内の観葉植物に水を与えている時、近所の青木さんがガラスのドアを開けて、いつもの笑顔で入って来た。

「髪は薄かけん、散髪する必要はなかばってん、残っとる毛が伸びると耳に触って気持ちの悪か……少しでもかっこ良かごと、してくれんね」
「いらっしゃい!」という、いつもの威勢の良い康之の声が聞こえない。
「ここに座って良か?」

青木さんは怪訝(けげん)そうに康之を見て、自分の方から尋ねた。康之は櫛(くし)とハサミを並べていた。いつもなら、馴染みの客に合わせて、冗談を言うのが上手い康之が挨(あい)拶(さつ)もせず、黙っている。

「どうかしたと?」
「……」
「珍しく、嫁さんと喧嘩(けんか)でもしたと?」
「……」

その瞬間、ハサミが床に落ちて、鈍い金属音がした。

「奥さん!」

青木さんが叫んだ。朋子が急いで階段を下りると、倒れている康之の大きな背中が見えた。

「あんた!どげんしたと?」
「動かしたらいかん!」

朋子は瞬(まばた)きもせず、青木さんを見た。青木さんは電話を掛け、救急車を呼んでくれた。

あの朝、時間を持て余していた青木さんが、いつもより早く、開店時間すぐに店に来なかったら、と考える度、朋子は身震いする。いつも昼までは店に出ないで、昼食で康之と店番を交代する日課になっていた。救急病院の先生が「手遅れにならなくて、命拾いだった」と言った時、朋子は顔を両手で覆い、肩を震わせて泣いた。

「そげん泣かんちゃ、助かったとやけん、良かったたい」

付き添ってくれた青木さんが言った。その言葉に頷きながらも、嗚咽(おえつ)は長く続いていた。

脳血栓症だった。脳の動脈があたかも使い古した水道管のように、内腔(ないこう)が狭くなり、血管が詰まってしまうと言う中高年に多い病気だ。発見が早かったので、グリセオールとオザグレルナトリウムを点滴し、リハビリも早々に開始した。

「俺は……死なんけん、心配……するな」

康之はゆっくりと話す。右頬が少し痙攣(けいれん)した。

「しゃべれんごとなったり、見えんごとなったり、全身麻痺(まひ)にもなる恐れがあったとよ」。幼児が持つような手の形でスプーンを握り、震えながらスープを口に運ぶ康之に、朋子は言った。やっと看護師や朋子が食べさせなくても、自力で出来るようになった。

「お酒も煙草も駄目げな。先生から念ば押されとっと」
「分か……とる。早う……家に……帰りたか!飯の……まずか!」
「何ば言いよっと。これから食事制限もあっとよ」
「おー、怖か……お前の……顔が……」

康之の見舞いを済ませ帰宅して、いつもの癖で真っ先にポストを見た。同窓会の返信葉書に目を移しながら、朋子は店のドアを開けた。

『申し訳ありませんが、しばらくの間、休業します』と書かれた紙の右端のセロハンテープが剥(は)がれて、今にも落ちそうだった。気になったが、もう、そのままにした。康之の退院の日も十日後に決まり、まもなく店も再開出来るだろう。

二階に上がろうとする時、朋子の足が止まった。一枚の白い葉書が特別な色を放った。出席に丸が付いて、氏名が川添美佐子とあった。

『お久し振りです。ご無沙汰して申し訳ありません。皆様、お元気ですか?今回の同窓会、出席しますので、よろしくお願いします』

長い間、どれくらいの時間が経(た)ったのだろう、朋子はその葉書に目を奪われていた。あの美佐子が同窓会に出席するなんて初めての事だ。美佐子と会ったのは、彼女の結婚披露宴が最後だ。あの日以来、二人は会っていない。細々と年賀状を交換するだけで、電話を掛けて話す事も一度もなかった。九州の玄関、福岡市の博多駅近くにある記念病院の外科部長婦人に収まった美佐子に対して、田舎町の理髪店のかみさんでは、気後れしてしまう。夫の職業を卑下している訳ではないが、同じ白衣でも、何か気が引けていた。向こうからも連絡はなかった。

会いたいと思った。三十年以上も会っていない。懐かしさがこみ上げて来た。しかし、今回は夫の入院を理由に欠席する事に決めていた。何てタイミングが悪いのだろう。医師から退院の許可が出た日が同窓会当日なのだ。すぐに、脱いだばかりの上着を手に取った。

八人収容するには狭い病室は、すでに蛍光灯が点(つ)いて、入院患者はそれぞれ枕元のテレビを観ていた。皆、夕食を待ち侘(わ)びていた。康之は朋子を見て、一瞬驚いた表情をした。

「どげんしたと?忘れ物か?」
「違う、これば見て」

朋子は美佐子の葉書を差し出した。

「憶えとる?私の高校の親友……同窓会に出席するって、初めて」
「憶えとるよ。きれか人……やった。この辺……では……珍しか」
「あんたの退院の事があるけん、どうしようかって……」
「行けば……良か、俺のことは……どうでも、なる。退院ば……一日、延ばすけん」
「でも、あまり行きたくなかと、本心は……」
「何でや?会いたか……ろう?」
「うん、ばってん……」

朋子は口篭(くちご)もったまま、床に目を落とした。

「行けば……良か……」
「……」
「俺……お前に……言ってなか事の……あるとよ」
康之が苦笑いを浮かべ、複雑な、それでいて、優しい表情で言い始めた。
「昔な……あの人から電話が……あったと。それが出るなり……泣いとっと……お前が……留守って……言うたら、電話があったって……絶対に言わんで……くれって……頼むとさ」
「えっ?」
「事情が……あっとやろうと思って……お前に黙とった。もう、お前も……年だし、会うたら……良か。そして、旦那は……約束を守って……三十年……言わんかった。言うた方が……良かった……かも知れん……ごめんと言うて……ほしかけん」

若い頃、今では遠くに去った時間の中で、美佐子は私を忘れたのではなかったのだと思った。あの頃、自分もまた、美佐子に電話を入れた事を苦々しく思い出した。高慢で冷たい声が電話口から聞こえた時、咄嗟(とっさ)に、間違ったと言って、受話器を置いた。それから二度と美佐子に電話しなかった。交わる事がない、それぞれの三十年が過ぎて行ったのだ。

同窓会は美佐子が出席するという噂が流れるや、四十人ばかりの参加者に膨れ上がった。会場の入り口で、中年の男女の談笑する中、二人はすれ違った。こちらを見て、微笑んだ顔が高校生の美佐子の顔だった。朋子は小さく頭を下げた。
「懐かしか……」「きれか人は年取っても、きれか!」「昔、俺は……」と、それはもう、皆、盛り上がった。男達が「二次会に行こう」と誘うのを、いとも簡単に美佐子は断った。

美佐子は朋子を促して、裏の駐車場へ導いた。二人を乗せた車は暗い駐車場から表玄関へ、まだ二次会の打ち合わせをしているメンバー達を文字通り煙に巻いて、その前を疾走した。

「美佐ちゃんはお酒、飲まんとね……昔から?」
「お正月のお屠蘇(とそ)くらい……」
「美佐ちゃんが来てくれて、皆、喜んどった……ありがとうね」
「私は朋に会いたかった、どうしているかなって懐かしくて、この年になると……」

朋子はふと、—何故、美佐子は「ミサちゃん」で、私は「トモ」なのだろう?片方が「ミサちゃん」なら「トモちゃん」で、私が「トモ」なら「ミサ」の方が自然なのに—と高校生の頃、不思議に思わなかった呼び名について、運転する美佐子の横顔を見ながら、考えていた。こういう時、人は突然、妙なこだわりを感じるものだ。

「朋、何を考えているの?家の事?」
「ううん、懐かしか……美佐ちゃん、いちょん、変わっとらんけん、びっくりしとっと」
「話す時間はある?」
「うん、良かよ。私も話す事、いっぱいあるけん」
「このへんに喫茶店かファミリーレストラン、ある?」
「うちに来ん?誰もおらんけん」
「ご主人は?」
「入院しとっと」
「えっ、どうしたの?大丈夫なの?」
「うん、軽い脳梗塞で、もう四十日入院して、明日、退院なんよ。だから家に来んね」

理髪店の表から入ると、そこは独特のカプセルのような空間で、乾いた石(せっ)鹸(けん)と安いコロンの混ざったきつい匂いが鼻を突いた。美佐子は珍しそうに、辺りを見回していた。

「むさ苦しい所ばってん、遠慮せんで……二階が居間になっとっと」

美佐子が踏んで、階段が軋(きし)んだ音を出した時、朋子はちょっと恥ずかしかった。頼むから静かにしてと階段の板に念じた。奥のソファに座るよう勧めたが、美佐子は頭を振った。

「ソファに腰掛けると、お尻に根がはえちゃう。ここ、良い?」と雑然とした食卓テーブルの前に座った。ホームセンターで買った安い椅子(いす)で、美佐子が座るとこれまた、ギーと軋む音がした。

「朋も髪、カット出来るの?」
「勿(もち)論(ろん)たい。結婚してから、理容師の免許、取ったと。どうして?」
「そうなんだ……」
「どげんしとったと?元気やった?」
「朋は元気そうね。幸せそう……昔と全然、変わらないね」
「そんげん事なかよ。突然、主人が入院するし、子供はおらんし……美佐ちゃんは?」
「子供は男の子が一人、東京に行ったきり、帰って来ない……もう、頼りにはしていない。最近の子供って、皆、そうみたい。いてもいなくても、同じよ、子供なんて……」
「そんな……やっぱり羨(うらや)ましか、自分の血を分けた子供が地球上におるっていうだけで……」
「私、結婚して、すぐに主人の両親と同居だったから、あの子、小さい時から年寄りのおもちゃみたいで……本人も大きくなったら、それが嫌で、遠い大学の医学部を選んだと思うとさ」

朋子は美佐子の口から、会話の語尾にやっと出た土地の方言に気が付いた。

「じゃ、大変だったと?」
「この三十年、お手伝いさんみたいな生活で、私、体重三十七キロしかなかったとよ。今はやっと元に戻ったけど……なんか、人に気ばかり遣っとった。いつも重い雲の覆った暗い毎日で、気が付けば、三十年……月日だけが過ぎて行ったと。考えると何もなか……」
「今は?」
「義(ち)父(ち)が五年前に亡くなって、義(は)母(は)も年取って入院しとる。今は夫婦二人の生活」
「うちと一緒たい」
「そうね……ねえ、朋、年寄りの髪をカットしてほしいのだけど、来れる?」
「良かよ」
「お義母さん?」
「うん、病院で……」
「うれしか、また美佐ちゃんに会えると?行く!行くけん」

瞬時に思いがけない約束が出来た。深夜、美佐子の車を見送りながら、朋子は古いポストをぽんぽんと叩いた。ブリキの感触がひやりと冷たかった。明日、やっと自宅に帰って来る康之の笑顔を思い浮かべていた。

タクシーで、康之は窓に寄り添ったまま、憮然としていた。朋子は康之の下着やパジャマが入った紙袋の紐(ひも)をまさぐっていた。

「仕事?何を考えているのですか?お二人とも、この病気が全く分かっていない!」

医師の言葉は康之と朋子の頭上を、鋭利な刃物のように突き刺した。めでたい退院の日、医師にこんなに、叱責されるとは思ってもみなかった。

「もう、床屋は出来んって事たいね……」
「……」
「良かたい。サラリーマンだったら、とうに定年だし、あんたも、これからリハビリに専念して、ゆっくりすれば良か……楽したら良か」
「うるさか!」

眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、怒っている康之のげっそりと落ち込んだ頬がピクピクと痙攣している。四十日間の入院で、四年は年を取ったと朋子は思った。

「お前には、俺の……気持ちは……分からんと!」

咳(せき)込みながら康之の発した、まだ明瞭でない言葉によって、医者の指示の正しさを朋子は得心した。

美佐子が朋子を伴って、車で乗りつけた病院は外観からして、康之が入院した市立の救急病院とは趣が違った。整然と植樹された常緑樹は生き生きとして、花壇の設計もイギリスの庭園風だった。個室へ向かう渡り廊下からの眺めは外国の絵葉書のようだ。

「おかあちゃん!」

ドアを開けるなり、ベッドで横になっていた老婆が美佐子を「おかあちゃん」と呼んで抱きついて来た。朋子は後ずさりして、後ろを見た。病室はホテルの一室のようだった。

「サトちゃん、元気していた?」

美佐子はサトちゃんの白く長い髪を優しく撫(な)でながら、困惑している朋子に向って、消え入るような声で言った。「お義母さんなの……」。聞こえない程の小さな声だった。

「サトちゃん、おかあちゃんのお友達よ」と幼い子供に語りかけるように紹介した。
「違う!三鷹のおばちゃん!」
「こんにちは……」。朋子はサトちゃんに笑いかけた。
「やっぱり、おばちゃんだ!」

サトちゃんは東京生まれで、実母の妹が三鷹に住んでいた。すでに亡くなっている夫の大叔母だが、美佐子は会った事がなかった。サトちゃんは認知症で記憶が混乱しているのだ。

「サトちゃん、朝のお薬、飲んだ?」

美佐子の問いかけにサトちゃんは口をへの字にして、頷いた。

「今日はね、三鷹のおばちゃんがサトちゃんの髪を綺麗にしてくれるんだって」
「長い方が良い……ずーと、サトちゃん、長いもん」
「でも、シャンプーする時、看護師さんが大変なの。それに、髪を早く乾かさないと、風邪を引いて肺炎になるから。サトちゃん、肺炎になったでしょう?あの時、苦しかったでしょう?だから……」
「……」

サトちゃんは黙っている。じーと、黙っている。美佐子も根気強く、黙ったまま、サトちゃんを見ている。朋子はやっと、この異様な状況を理解出来た。

美佐子はサトちゃんの髪を優しく撫でた。

「綺麗な髪……昔から綺麗で、サトちゃんの自慢の髪でしょう?もっと綺麗にしてもらおう、三鷹のおばちゃんに、ね!」

サトちゃんが朋子を上目使いに見た。

「おばちゃんが、綺麗にしてやるけん、ねっ!」
「違う!三鷹のおばちゃんじゃない!」

サトちゃんは朋子の方言に、敏感に反応した。余計な事を口走った。朋子は唇を舌で湿らし、言い直した。

「えっえん……私が、サトちゃんを、綺麗にして、さし上げるわ」。奇妙な標準語だった。
「三鷹のおばちゃん……?」

朋子は昨晩、康之が周到に用意してくれた理容器材一式、瓶(びん)に小分けされたシャンプー、毛染め液、パーマ液、整髪剤、それにハサミや櫛を机の上に広げ始めた。業務用の大きなドライヤーもある。サトちゃんは目を輝かして、それらを見ていた。利発なサトちゃんはそれら専門的な道具を、三鷹のおばちゃん以上に信用した様子で、急に腕を組んで、背筋を伸ばした。サトちゃんの髪は専門家から見て、確かに年齢を考えると、白髪だが、量も多く美しかった。若い頃はさぞ、自慢の黒髪だっただろう。

サトちゃんの同意を得て、病室は即興の理容室になった。洗面台の下は新聞紙が敷かれ、サトちゃんは椅子に行儀良く座った。背中まである髪を耳の下くらいまで、大胆にカットしよう。染めると毛が伸びてきたら、生え際の白髪が目立つのでやめて、パーマを柔らかく掛けて、明るい印象にしようと決めた。朋子のハサミがカチカチと音をたて、まるでハサミ自体が生きているように動き始めた。

「どうして髪は伸びるの?」とサトちゃんが聞いた。窓際にいた美佐子の声がした。
「サトちゃんが生きているから、その証拠に、少しずつ伸びていくのよ」

サトちゃんは新しい髪型を気に入った様子で、看護師さんに見せる為、部屋を出て行った。朋子は白い長い束になったサトちゃんの髪を丁寧に紐で結んだ。美佐子はフロアを箒(ほうき)で掃いていた。

「ありがとう、朋。前もって何も言わずにごめん」
「その方が良かったと。美佐ちゃんも大変かとね」
「ううん、お義母さんを自宅で私一人で、介護していた時が言葉にならないくらい大変だった。認知症の初期の頃、どうすれば良いか分からなくて……。ちゃんとしているのに、どこか変なの。物忘れがひどくなって、目が離せなくてね。そのうち、徘(はい)徊(かい)。私の自由な時間なんか二十四時間なかったもの」
「でも、元気だし、可愛い人じゃなかね……」
「違うの、今だけよ」
「どうして?」
「ほとんどボーとしているか、看護師さんを怒鳴ったり、物を壊したり……何より大事なはずの一人息子が分からないの。主人の事が分からないから、マザコンの主人の方がショックで、医者のくせにうつ病みたい。見舞いにも来ない……」

ドアが開いて、看護師に連れられてサトちゃんが戻って来た。

「川添さん、綺麗になって……患者さん、皆、びっくりしていましたよ」

看護師は明るく美佐子に話しかけたが、サトちゃんは様子が変わっていた。朋子を見るなり言った。

「この人、どなた?」

朋子は思い出した。「あなた、どなた?」と詰問された三十年以上も前の、あの受話器から聞こえた冷たい言葉と全く同じ響きだったのだ。美佐子は慌てて、サトちゃんの肩を抱いて、髪に触れた。

「サトちゃん、少しお休みする?」

サトちゃんは黙って、ベッドに潜り込んで、毛布を頭から被った。看護師さんは美佐子に目で合図して、小さな声で言った。

「お世話様でした。これでシャンプーやドライヤーが楽になります。まあ、気にしないで、いつもの事だから……」

サトちゃんは何事もなかったように、鼾(いびき)をかいて眠っている。余程(よほど)、疲れたのだろう。

「二年くらい、自宅で介護していたのよ。まだ、神経脱落症状って、脳の機能の低下って言われていたのだけど、そのうち、朝と夜が逆転して……夜、騒ぎ出した時、主人が叱ったの」
「男の人、自分勝手だから……」と朋子はため息をつきながら、呟(つぶや)いた。
「初めての事だった、あの人が母親を怒鳴ったの。それからがもう、普通でなくなって……一人息子に反発するように、私の事をおかあちゃんって言うようになったの。はじめ、慣れるまで何が何か分からなくて……幼児返りみたいになって」
「美佐ちゃんをおかあちゃんって呼んだ時、何が起こったかって、びっくりしたと、正直」
「親子、とても仲が良かったのよ。私が入る隙(す)き間もないくらい。それが突然よ。でも、それはかなり精神障害が進んでしまった状態で、もう治らないって。それで入院」

美佐子は一気に喋(しゃべ)り尽くしたようだった。

「毎日、見舞いに来ているの。可愛いのよ、あんなふうでしょう……。髪を撫でて上げるだけで、良いのだから……」

その時、サトちゃんが寝返りを打った。美佐子は毛布を丁寧に掛け直した。また癖のように、その髪に触れた。美佐子の横顔は窓からの光の中で見ると、目元と口元に濃い皺が隠しようもなく、年老いていた。同窓会の葉書に初めて、『出席』に丸をつけた美佐子の心境が痛いほど分かる。

「また来るけん」
「ありがとう。今度は朋の話を聞かせてね」
「話す時は九州弁ばい……」と朋子は美佐子の顔を覗き込んだ。
「分かとっと」

美佐子は笑いながら、静かに頷いた。

夕闇迫る博多駅の構内の売店で、朋子は辛子明太子を二箱、買った。

「待って!大きい箱と一番小さな箱にしてくれんね」と注文を変更した。大きい箱は青木さんへ、小さいのは康之へのお土産だ。重い荷物にビニールの土産袋を両手に持ち、プラットホームへ向って、ゆっくり階段を上がって行った。