夫が身体障害者になった。それは、夫にとっても、私にとっても、人生設計の中で、想定外の出来事だった。
明るく元気で、強くて、ビールと阪神タイガースと競馬が大好きで、私に対しては、やたらと頑固で威張っていた夫が、糖尿病から来る足の壊疽により、左足の膝から下を切断し、身体障害者としての生活を送ることになったのは、今から約二年前の二〇一三年、十一月の事だ。夫の悟は六十五歳、私が四十五歳のときだった。私達は共に再婚で、悟は前妻とは死別。私は二人の娘を連れて悟の後妻となり、今年で十一年目になる。
ある日、悟は左足の踵に違和感を覚えたのだろう。彼は風呂あがりに私を呼んで
「軟膏を塗って、絆創膏を貼ってくれ」
と言って、ベッドにうつ伏せになり足の裏を差し出した。見てみると、踵に赤いひび割れができている。ひび割れは、一センチほどの小さい物だったので、この時は私も、薬を付ければすぐに治ると思い、言われた通りに軟膏を塗った。その作業が、数週間続いた時、私は彼の傷口の異変に気付いた。傷が広がっている。
「悟、これ、おかしいよ、あれから二週間は経つのに傷が広がってる。病院に行かなきゃダメだよ」
「大丈夫」
悟がきつい口調で答える。彼はいつも『病院』という言葉に異常に拒否反応を示す。過去、何十年も病院で診察を受けたことがない。自営業なので自主的に健康診断を受けることも一度もなかった。市が実施する、無料の特定健康診断を受けようと、随分説得を試みたが、何故かいつも必ず逆ギレされ、大声で喚かれたものだ。そういえば数年前に、悟の腹回りに帯状疱疹が出来た時にも、彼は胃痛だと自己診断し、二週間、胃腸薬を飲み続けた結果、やはり痛みをこらえきれず、一度だけ、近所の診療所に行ったのを思い出した。その時の血液検査で、糖尿病と高血圧をばっちり指摘され、インスリン治療を勧められたのだが「インスリン治療なんかやれば死んでしまう」と、わけの分からない事を平気で正当化する。彼は二度と診療所に行くことはなかった。話が『病院』の事となると、無意味に抵抗する夫。いったい、そこに何の得があるというのか。しかし、今回は私も夫の言いなりになるわけにはいかない。私は毎日、夫の傷口を見てきたからこそ、これは普通ではないと分かるのだ。傷は最初、あかぎれみたいに亀裂だったのが、今では円を描き広がっている。それだけではなく、汁が滲み出していた。
「いや、大丈夫じゃない。普通は傷っていうのは治っていくものでしょう。これ、だんだん大きくなってる、絶対に変だよ、病院へ行かないとダメよ」
「大丈夫だっ」
私が言い終わらないうちに悟は大声で私の言葉をかき消した。喚けば私が黙ると思っている。これもいつもの事。そんな脅しで引き下がる私ではない。今日だけの説得で、彼がイエスと言わないことは分かっている。私はとりあえず、今日の説得は終わることにした。翌日から、毎日病院行きを勧めた私は、キレられ、憎しみの眼で睨まれ、引っ張ってでも連れて行こうとする手を振りほどかれ、罵られ続けたわけだ。夫の体を本気で心配する人間は世界に私一人だけ。その私に対してことごとく逆らう夫がここに居る。諦めずに再度、病院行きを促した時、
「何様のつもりだ」
と喚かれた時には、愛想が尽き果てた思いがした。こんな頑固者、もう何があっても知るものか、勝手にすればいいと。でも実際には放って置くことなど出来やしない。同じベッドに寝て、同じ物を食べ、たとえ、腸が煮えくり返る思いをしても、一緒に生きている夫婦なのだから。しかし、今回はさすがの私も夫の強情さには参ってしまった。結局そのまま、病院へ行け、行かない、の言い争いで大喧嘩を繰り返すこと数か月。傷はとうとう膿と化し、強烈な悪臭を放つまでに成長していた。悟の踵には、まるで不気味な新種の花が咲いたようだ。危険な方へと突き進む彼に「そっちは崖なんだ。いっちゃダメ、それ以上進んだら死んでしまう」と、いくら声が枯れるほど叫んでも、私の手を振りほどいて切り立つ崖の方へと歩いて行ってしまう。実にもどかしい。それでも私は言い続ける。
「ねえ。膿がいっぱい出てるよ。なんか死臭みたいなのがするし」
「膿が出るのは良いことだ。悪いものが体の外に出ているって証拠だから、膿が出てしまえば治るさ、もう大丈夫」
必死の説得にもこのような屁理屈で返してくる夫に私は為す術もなく、疲れ果ててしまった。馬鹿に付ける薬はないのと同じで、聞く耳を持たない頑固者に付ける薬もない。脅しても無駄、怒ってもダメ。懇願しても、優しく言い聞かせても、娘とチームを組んでの説得にも首を縦に振らない。徐々に、歩くのがつらくなり、微熱が続いて苦しそうに肩で息をするようになっても、彼はしぶとく病院行きを拒んだ。私は今でもこの時の事を思い出すと、夫に対する怒りが込み上げる。当の本人は、何一つ間違った事はやっていない、と思っているだろうが。
というわけで、私が主婦仲間の力をお借りして、やっと、夫の口から「病院へ行く」と言わせた時には、お医者さんも目を丸くしてびっくりするほど、壊疽は進行していて、すでに骨まで達していた。二〇一二年、四月の事である。
「今までよく我慢出来ましたねえ」
と先生は言った。これがまた皮肉なもので、糖尿による血流障害は体の先端部分は特に鈍感になっていて、痛み等をほとんど感じなくなっているようだ。そういえば、昨年の冬、仕事の作業場で休憩中に冷えきった足先を温めようと、靴を脱いでストーブで温めていたつもりが、一分間ほど、親指を焼いてしまった事があった。あの時もきっと熱さを感じなかったのだろう。皮膚科の先生もお手上げの壊死状態。状況は良くない事はわかっていたが、私は、やっと、ここから悟の治療が始められる位置に来られたことに安堵した。その後、日赤病院で、治療を受けることになり、悟は即、入院を余儀なくされた。私は先生に、悟が病院行きを拒否してきた経緯をこれでもか、と愚痴った。すると先生が
「ご主人、どうせ最後には怖くなって、こうして病院に来るのですよね。病院に行かずにそのまま命を終える覚悟が無いのだったらもっと早く来ればいいのです」
と言ってくれた時には、私は同志を得た気分になった。診察後、私もついでに今までの鬱憤を晴らそうと悟にこう言った。
「もしこれで死ぬような事になったら、あなたの死因は糖尿病でも壊疽でもないからね。あなたの死因は"頑固"だよ」
踵から始まった壊疽は、数か月に渡り、医師の手作業によって、死んだ組織を取り出す処置を施してもらい、一時は改善したので、無理をしない、という条件で先生に退院の許可をもらった。とはいっても彼の足の裏には、大きくメスを入れた後がぱっくりと口を開けてはいたが。その傷跡に風呂場で指を突っ込んでは中を綺麗に洗い、薬を塗り、包帯を巻く。それが私の毎日の仕事となっていた。注射針が皮膚に刺さる瞬間を見るのも怖い、と思う私が、そんな作業をするなんて、我ながらよくやったと思う。夫婦の力とは底知れないパワーを秘めているものだ。泣き言を言っている暇はない。もう無我夢中でやるしかない。清潔に保つ事と、安静にしている事、それが絶対必要だったのだが、現役で働いている以上、それを守るのは無理な話というものだ。悟の営む精肉店の仕事は過酷だ。従業員を雇わず、夫婦二人だけで切り盛りしている店は、かなり古い造りで動線も悪い。作業場と、品物を保管する冷蔵庫の境には、階段が二段ある。悟は何十キロもの品物を抱えて、日に何度もここを上り下りする。爆弾を隠し持っている悟の足にとっては、この二段が大きな負担となる。仕事で無理をする度に、感染症を引き起こし、発熱しては、病院へと走った。極めつけは、自宅の、トイレの配管が詰まった時のことだ。業者に来てもらえばいい、と私が何度も止めるが彼は聞く耳を持たず、下水の清掃作業を真冬の寒空の下、何時間も行った。これは自殺行為にも等しい。思った通り、これが後に身体障害者になる決め手の行動となった。結果、ふと気付くと、悟の足からは大量の血が流れ出て止まらない。ドクドクと、後から後から流れる赤黒い液体を、タオルで押さえても止まらない。悟という人間の不幸は「いつも必ず」と言って良いほど、私の忠告を聞かなかった時に起こる。私には分かっているのに、何故、悟にはわからないのだろう。またも彼を止めることができない。私はすぐに、悟を病院へ連れて行った。検査の結果、彼は踵の骨を骨折していた。壊疽の場所である。骨折というより、骨が割れている、と言ったほうが正しいだろう。再び踵を傷めた結果、そこから膿は七〜八か月かけて徐々に広がり、足の甲やふくらはぎにまで達していた。その事実が判明したのが二〇一三年、十一月の初めだ。膿は待ってはくれない。一日一日、上部に向かって体内を侵して行くだろう。悟は、二つのうち、一つを選ばなければならなくなった。つまり、足を残すか、残さないかだ。
担当医の言う、選択肢の一つである「足を残す方法」とは賭けのような部分もあった。足元からふくらはぎまでの広範囲に有る膿を手作業で根気よく掻き出す。それにより靭帯やアキレス腱にも損傷を与える可能性もあり、もしそうなった場合には、足はとりあえず「有る」というだけで、到底、普通に歩けるようにはならない、ということも十分にあるということ。解りやすく言えば「鶏の足が、体にぶら下がって、ただ、ぺたんと地面に着いている」と想像してください、と。どちらにしろ、蓋を開けてみないことには結果は断定できない、あくまでも可能性の話です、と。
私は、先生が悟の足の図を紙に書きながら言葉を発する度に、涙が溢れて止まらなくなった。私の側で、恐怖に慄き、血の気の失せた顔で、喉の奥から掠れた声を出した悟が、可哀想で仕方がなかったのだ。そして、先生の次の言葉で、私達は、泣く泣く足を切断する決心を固めたのだった。
「かなりの歩行困難の後遺症が残り、こんなに歩けないのに、何故? と思ったとしても足はあるので、行政的には、健常者としての扱いになります。こちらを選択した場合は、手術の回数は最低でも二回、なので入院は長引きます。いつまでかは、手術をやってみないと私にもわかりません。何回も手術を重ねた結果、膿が取り切れなければ、最後には結局、切断する場合もあります」
数時間後、私達は恐怖に飲み込まれそうになりながらも、先生に言った。
「切ります。先生、切ってください。お願いします」
これから私達の人生はどう変わってしまうのだろう。ふたりとも全く想像がつかなかった。ただ、不安で、怖くて、悲しくて、何一つとして、プラスに考えられる材料はなかった。足が一本だけになってしまったら、お風呂はどうやって入るの? トイレは? 悟は松葉杖もまともに使えないのに。私達の生活はいったいどう変わってしまうのだろう。
私の人生はこれまで、身体に障害がある人とは全くの無縁で来た。障害者と生活を共にしたことがない。そもそも身体障害者になるということは、不幸な事だ、と漠然とではあるがそう思っていた。頭を支配していたのは絶望だった。
先生に切断の意思を告げたものの、翌日には
「やっぱり切断は止めようか」
と、夫婦で相談したり、また次の日には
「いや、やっぱり悪い所は切ってしまった方がいい」
と考え直す、という事を繰り返した。なかなか気持ちが一つに固まらない。そうさせるのはやはり、足を切断する事への恐怖心の為せる業だった。
手術前日、それまでの優柔不断な私達はもうどこにも居ない。霧が晴れたように恐れは完全に消え去っていた。覚悟は決まった。悟からは
「こうなったら早く手術を済ませて、すっきりしたい」
と力強い言葉が出るほどだ。夫婦の考えは、不思議なほどに、何から何まで一致していた。やっと現実を受け入れ、迷いと困難を乗り越えられた瞬間だった。そして私は悟に言った。
「この先、何があっても絶対に、私があなたを守るから。あなたは何一つ心配しなくていい」
本気だった。私の、心から出た言葉だ。
私は悟の、両足の揃った最後の姿を写真に撮った。彼は穏やかな笑顔だった。
やがて、その時が訪れ、悟はベッドに横たわったまま看護師さんに連れられ、手術室へと向かった。私の方を何度も振り向きながら遠ざかって行った。その瞳は、怯えた小鳥のようだった。足を切断する決心をしたあの日。私達はもう一つ、重大な決断を下していた。悟の人生そのもの。誇りであり、命とも言える精肉店を廃業しよう、ということだ。商売人にとって、この決断もまた、身を切られるようにつらく、寂しいことなのである。
日赤病院にて左足を切断後、悟は、国内で一番と評判の高いリハビリ施設へ移り、入院した。そこは、自宅からは市を二つまたいだ場所にあり、車だと、高速をとばして早くても片道四十分かかる。そのリハビリ病院には、悟のように片足がない人が当たり前のように居たし、両足共失っている人も居た。膝下から無い人も居れば、足の付け根から無い人も居る。事故で足を失った人。病気が原因の人。さまざまな人が社会生活を送れるようになるために、ここへ来ているのだ。入院初日から私達は希望に満ちていた。リハビリのための運動場を見学した時、"先住者達"は、ゆっくりとではあるが、松葉杖や義足を使いこなして歩いている。悟も必ず歩けるようになる。私はそう確信した。悟の表情からも、彼が私と同じことを考えていることが分かった。
思えば壊疽の治療が始まってから切断手術の日まで、辛酸を嘗める日々だった。足の膿と共にもがき苦しみ、悩み抜いてきた。それが、皮肉なことに片足を失ったと同時に体から全ての膿が消え、またそれと共に苦しみも悩みも消え去ったのだ。当然、新たな試練はやって来るのだろう。だが、今は
「一日も早く義足で、地を踏みしめ、歩けるようになりたい」
その希望でいっぱいなのだ。
大部屋には、悟を含め、四人の入院患者がいた。一人は年齢も悟と同じくらいか少し上だろう、その人も糖尿病が原因で片足を切断し、このリハビリ施設に居る。他の二人はまだ若い。三十代か四十代くらいに見える。原因は分からないが、一人はどうやら足の付け根から足を失くしているようだ。悟が言うには、カーテンの向こうから時折、痛みに耐えかねて唸るような声が聞こえてくるそうだ。有難いことに悟には、幻肢痛というものが全くなかった。幻肢痛というのは、切断された手や足が、まだあるように思われ、痛みを感じる状態の事だ。悟のようにこの幻肢痛がない、というのは珍しいそうだ。私は、悟は足を切断したら、自暴自棄にならないかと、心配したが、幻肢痛がないことも手伝ってなのか、彼には精神面に全く問題はなく、とても明るかった。根明な性格は闘病前と何ら変わりはなく、笑顔も多い。冗談もよく言っていた。週末にはベッドの上で、ラジオを聞きながら、スマホから趣味の馬券を買い、きつかった肉屋の仕事からも解放され、いかにも人生を楽しんでいた。彼の天性の明るさ、私はそれに救われた。あれだけ憂慮した私達夫婦の人生に、一筋の光が差していた。そして、四か月間のリハビリ入院の末、悟は、義足を使ってしっかりと大地を踏みしめ、歩けるようになり、階段の上り下りも出来るようになって退院した。この日までに私は、役所で身体障害者の申請手続きを済ませ、悟には身体障害者四級の手帳が交付された。身体障害者としての新しい人生がこれから始まるのだ。
「おかえり、悟」
桜は散り、初夏の風を予感させる、爽やかな季節。悟が家に戻ってからまず始めたのは、闘病の二年間、放置していて荒れ放題になってしまった趣味の畑を開墾することだ。趣味の畑といっても、六十〜七十坪ぐらいの広さはあるだろう。悟は毎日少しづつ、地道に土を掘り起こし、埋まっている、大量の石や雑草の根を取り除き、草を手で引き抜く作業を行った。長い間、入院していた体は、痩せて体力が落ちていたので、健常者のように作業はスムーズに運ばなかったが"ローマは一日にしてならず"、荒れ地の開墾も同じことである。一日にしてはならないが、続ければ必ず達成するものだ。広い畑には、悟が十年近く前に植えた、柿の木や柚子、八朔に蜜柑の木がある。彼はこれらに肥料を与えるために、四十リットル入りの袋を担いでは、運んだ。
義足での作業に慣れるまでは転倒もした。
義足では、大きく膝を曲げる事はできない。だから、中腰を保つ事と、自転車をこぐ事はしない。畑の土いじりをする時は、地面にお尻をどっかりと下ろして作業する。作業ズボンのお尻には土の壁が出来、靴の中まで泥んこだがそれは仕方がない。足を切断したのに、こうして畑仕事が出来るようになっただけでも私達夫婦には喜ばしく、有難いことである。荒れ果てた土地を半年以上かけて、身体障害者の悟は、見事に復活させた。その冬には、干し柿をたくさん吊るし、富有柿、柑橘類の果実も実り、私の両親も喜んで収穫し食べた。なかでも悟の作った八朔は評判が良い。皮は硬くて剥きにくいが、味は濃く、程良い酸っぱさと苦味と甘い汁が口の中で弾け飛ぶ。私の母はこれをジャムにして楽しんでいる。父は、柿が大好物で、甘柿の木によじ登り、「そこは無理でしょう」と、私が取るのを諦めた、てっぺんにある最後の一つの実を根性でゲットした。悟が苦労して実らせた作物が皆を喜ばせている。
二〇一五年一月。私達は娘からのプレゼントで、グアム島へ家族旅行をした。店を経営していた頃は、ゆったりとした気持ちで旅行出来る事など無かったが、この南国への旅は最高の思い出となった。春には大相撲大阪場所、東京ディズニーランドと、悟は義足を完璧に自分の足にして、たくさんの道のりを歩いて回った。畑には今も悟の実らせた野菜たちが、太陽の下輝いている。
過去に、身体障害者は不幸だ、と思っていた事がある私は、今はそれが誤ちである事を知っている。希望を持って明るく生きられる。
だって命があるのだから。確かに障害は不便ではある。だが、人は足りない所を補い合う生き物なのだ、という事も学んだ。私たち夫婦には、笑いもあるが、いまだに喧嘩も多い。でもこれだけは言える。互いに、いつも精一杯、本気で向き合ってきた。私の人生には悟は必要不可欠な存在であり、私は悟に支えられて生きている。それは夫婦だけではない。悟を病院へ行かせるために協力して下さった先輩主婦の方々や、病院と、リハビリ施設、また、義肢製作所の皆様に心から感謝致します。悟は元気な身体障害者となって第二の人生を歩んでいます。
「まさか、この足で海外に来れるとは、夢にも思わなかった。ありがとう」
悟、グアム島にて。
兼田 佳子プロフィール
昭和四十二年生まれ 主婦 兵庫県姫路市在住
受賞のことば
私は夫が身体障害者になる過程を間近で見てきました。だからこそこのテーマは私が本当に書きたかったものでした。生まれてきたからには、その存在は自分一人だけのものではない。私は強くそう感じます。私達夫婦の体験を通して、私の文章を誰かが読んで下さり、病院なんて行くつもりは無かったけど、やっぱり行こう、と思っていただける方が一人でもおられましたら幸いです。ありがとうございました。
選評(玉井 邦夫)
夫婦とは、これほど強い繋がりをもつことができるのか。そう感じさせてくれる作品だった。何という頑固な旦那様と、「あなたの死因は頑固だ」と言い放てる奥様。お互いの思いをぶつけ合いながら、足の切断という過酷で困難な決断にたどり着き、その後の人生を立て直していくお二人の姿に、読みながら泣き笑いする。最後に綴られる「ありがとう」の文字に、「とうとう言わせた」という佳子さんの思いと「やっと言えた」という悟さんの思いが共鳴しているようだ。
以上