第50回NHK障害福祉賞優秀作品
「明日がまたある」〜第1部門〜

著者:牧野 知恵子 (まきの ちえこ) 石川県

私は十年前に筋委縮性側索硬化症、通称АLSと呼ばれる難病を発症した。原因不明であり、治療法は確立されていない。АLSは体を動かす指令を出すための神経が徐々に消滅していき、その結果筋肉が衰えて、体が動かなくなっていく病である。最終的には呼吸筋の衰えによる呼吸不全で死亡する。私は今では手先と首と肩をわずかに動かせるだけであり、パソコンと携帯の操作、会話と飲食以外、自分では何もできない全介助で、要介護五、障害者一級という、この上ない状態となった。
この病で一番の致命傷は、呼吸筋の衰えである。自発呼吸が難しくなると、気管切開して人工呼吸器を装着するか否かを選択しなければならない。
装着しなければ、呼吸出来ない苦しみを経て終わることになる。息が出来ない苦しみは、苦痛などという通り一遍の言葉などでは言い表わせない。大海のど真ん中に放り出され、溺れ苦しんでいるような恐怖と絶望感でパニックになるだろう。
病の進行により、呼吸筋が衰えの一途を辿っている私にとって、息の出来ない恐怖と絶望感は、いつも隣にある。現在、私は気管切開する一歩手前で、鼻から強制的に空気を送り込むタイプの人工呼吸器に助けられて、生活している。
この機械は、必要に応じて着脱出来るという大きな利点を持っている。息が苦しくなった時、装着した機械から空気が送り込まれた瞬間、私は地獄の一丁目からこの世に生還するのである。この機械さえ装着すれば、車椅子を九十度近くまで起こしてパソコンを操作したり本を読んだり、或いは人との会話を楽しんだりというような、今の私なりのポジティブな時間を過ごすことが出来るのだ。機械を装着しなければ、九十度近くに起こした姿勢を保つことは、もはや不可能になった。
しかし、この機械での対処にはやがて限界が来る。病の進行はとどまることを知らない。この機械による助けだけでは耐えられなくなる時が、いずれやってくる。
その時、気管切開して人工呼吸器を装着するか否かという大きな岐路に立たされることになる。気管切開すれば、息苦しさからは解放される。気管切開して介護の事業所を立ち上げ、同病者や社会に向かって啓発的なブログを発信している人がいる。その人にとって、気管切開はごく当然のことのようだ。生き続けられる方法があるなら、それを決断するのは当たり前だと言われれば、思わず頷いてしまう。
だが、気管切開はひとつの大きな問題を孕んでいる。現在の日本の法律では、装着したら、どのような状態になろうとも呼吸器を外すことは絶対に許されないのだ。外せば、殺人罪に問われることになる。気管切開して呼吸器を装着した後も病は進行し、全身の筋肉は更に動かなくなっていく。気管切開後のコミュニケーションは、残存する筋肉を使ってのパソコン操作か、眼球の動きで文字盤を使うことで成立する。だが、筋肉の衰えが眼球にまで及ぶことがある。眼球がまったく動かず、目を開けることも出来なくなって、コミュニケーションがまったく取れなくなった状態を「完全なとじこめ状態、TLS」と言う。
一説によると、日本では呼吸器装着者の三十パーセントが、閉じ込めの状態になると言う。意思表示がまったく出来ない……痒いとか痛いとかの、言わば原始的欲求さえ伝えることが出来ず、目を開けてものを見ることも出来ない状態を想像して欲しい。これほど厳しい、残酷な状況があるだろうか。このような状況になっても、呼吸器を外すことが出来ないのだ。
この深刻なリスクを十分に理解した上で、気管切開をするか否かの選択をしなければならない。АLSを発症した人は、次第に不自由になっていく体で、この究極の岐路に立たされる。患者本人と家族は、考えても結論を出しかねるような問題にさらされ、苦悩する。気管切開を決断してもしなくても、迷いと後悔はつきまとうのではないかと思えるほど、重く、せつない岐路である。
ある人は言う。
「呼吸器を外すことを合法化すると、呼吸器を付けて、命が尽きるまで生き抜こうとしている患者が生きづらくなる」
と。
何故、一律に考えるのだろうか。とことん生き抜こうとする患者がいる一方で、絶望的な状態になったら終わりにしたいと思う患者がいるのは自然のことではないだろうか。患者を一括りで捉えることには無理がある。患者と一口に言っても、個々様々だ。人生経験も生活環境も違えば、死生感も違う。従って、呼吸器装着に対しての思いも様々なはずだ。それに、装着後に気持ちが変化することもあるだろう。装着したら決して外せないという一方向しか与えられないのは、患者の人権を無視した乱暴な話ではないか。患者の意思より大切な法律とはなんだろうか。付け続けるか否かの判断の自由が、なぜ患者に与えられないのだろうか。気管切開して呼吸器を装着するか否か、状態が進んだ時、呼吸器を装着し続けるか否か、患者にはこのふたつの決定権が認められるべきである。
ドイツでは呼吸器装着の自由と共に、外す自由も合法化されているそうだ。患者本人の意思が最優先されるのだそうだ。ドイツのようにあくまでも患者主体ですべてが決定出来るなら、私も呼吸器装着について、もう少し自分に引き付けて考えることが出来るかもしれない。
さて、健常だった頃に想像すらしたことのなかった難病患者として、また障害者として、私はこの十年を生きてきた。徐々に動きにくくなり深刻化していく障害に、私はどれだけ泣き、失望しただろうか。歩けなくなって車椅子になった時、歩けなくてもいいから手はちゃんと動いて欲しいと願ったが、今では辛うじてパソコン操作をするだけの状態になった。パッチワークや編み物をしたり、家族のためにケーキやハンバーグを作ることも、もうない。呼吸筋が弱った今では、好きな歌を口ずさむことも出来ない。
私にとっての一番のハードルは排泄と入浴という、最もプライベートな部分を人にお願いしなければならないということだった。全身を人目にさらさなければ、私は生きることが出来ない。排泄する音を聞かれ、排泄物を処理してもらわなければならない毎日、恥部を含めた全身を洗ってもらわなければならない入浴……羞恥心もプライドも、もう捨てましたという顔を装わなければ、屈辱感と申し訳なさに耐えられない。
この状況の中で、私はいったいどこで自分を保てば良いのか、難病者、障害者の尊厳とは何か……。やり場のない苛立ちや孤独感を、どれだけ自分の中に鎮めてきただろうか。
まだなんとか動けた頃、死ぬ方法を考えたことがあった。自分の存在が家族の負担になっているのではないかという後ろめたさに、常に囚われていた。ドアノブかベッドの柵で縊死するのがいいかと思った。だが、実行に移すことが出来ないまま、病は進行した。今や全介助の身となり、縊死することは叶わなくなった。今の私が自分で死ねる唯一の方法は、舌を噛み切ることだと思うが、そんな思い切りはない。
悩み苦しみながら、それでも腹は空き、喉は渇く……私の体は間違いなく生きようとしている。救われようのない病に侵されても、体は生きるための営みを続けようとしているのだ。私は、寿命が尽きるまでこの命を生きなければならないと思った。いつやって来るかも知れない最期を密かに覚悟しながら、しかし生きるからには、ひたすら生きたい、前を向いて生きたいと思うのだ。今日出会う人や出来事を一期一会の思いで心に刻みつけながら、大切に生きたい。私は今、そう思っている。聖書は語る。
「私たちは知っています。艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを……」
それは、深い苦しみを通して到達した、透明でカラリと明るい希望である。
今も健在の母より早く、この世を去ることがあってはならない。年老いて、一人暮らしで頑張っている母に、逆縁の悲哀を味わせてはならないと、強く思っている。母より一日でも永く生きること、それが今の私の目標のひとつである。
最近、私は自作の俳句やエッセイを一冊の本にした。その本を、母は涙ながらに読んだと言う。私はそれを聞いて涙が止まらなかった。母に何ひとつ親孝行も出来ず、心配ばかりかけている不肖の娘が、ようやくささやかな恩返しが出来たようで、心から嬉しかった。書くことは、今や私の人生そのものになった。近々、文章指導の通信教育を始める予定だ。終了までに一年はかかりそうで、もしかしたら途中で終わることになるかもしれない。でも、そんなことはどうでも良いように思う。今の自分が望むことを大切にすればいいのだ。よもや途中で終わることになっても、目標を持って頑張ろうとした私の姿は、家族に最後のメッセージを残すことになるに違いない。
さて、現在の私は障害者のための福祉制度に支えられて生活している。その中で、私なりに感じていることについて書きたい。
障害者福祉の対象になって、まず驚いたのは、障害者に対する公的支援はすべて自己申告制だということだ。障害者手帳の申請に始まり障害者年金、重度訪問の利用、外出援助、タクシー券、理美容利用券、寝具のクリーニング、鍼灸マッサージの利用、加えて指定難病患者の医療支援の申請……それらをケアマネージャーや病院のソーシャルワーカーの手助けを頼りに、漏れのないように行ってきた。
ほとんどの手続きは毎年更新しなければならないのだが、更新の度にすべての項目を一から記入するというのは、煩雑の限りだ。市の障害福祉課には、私についての介護関連のデータがすべて揃っているはずなのに、前年と同じ書類を再度書かなければならない。変更項目の記入だけで、問題はないのではないだろうか。
役所の手続きは、旧態依然として無駄が多い。無駄を省くことは事務仕事の簡素化になり、ひいては必要人員の削減に繋がる。つまり、市の経費削減に繋がっていくはずだ。現在、私はヘルパーの利用時間の見直しを求められている。障害者への支援が市の財政を圧迫している現実は想像に難くないが、障害者に緊縮を求めるならば、否、求める前に、事務手続きの簡素化に努め、人員の縮小化を目指すという自助努力を図るべきではないだろうか。
自己申告制は徹底していて、情報を知っている人だけがサービスの恩恵に与れるという、いびつな現状がある。情報の収集にはケアマネージャーの存在が欠かせない。どんなケアマネージャーに出会うかで、在宅生活は左右される。ケアマネージャーへの全幅の信頼と共に、支援制度の情報を自ら収集する必要があると実感している。受け身ではなく、自分で考えて決定していくような積極性がなければ、在宅生活をスムーズに送ることは難しいと思う。
障害者福祉については、もうひとつ納得のいかない事がある。改定の度に障害者支援の名称がコロコロと変わり、言葉の言い回しも微妙に変化する紛らわしさに辟易する。平成十七年に施行された「障害者自立支援法」は、平成二十五年に「障害者総合支援法」になった。インターネットで解説を読んでも、このふたつの法の違いが、正直のところ、よくわからない。自立支援法の最終期に障害者認定を受けた私は、自分の実感として、両者の違いを認識することが出来ないのだ。唯一わかったことは、難病者が障害者の括りに入れられ、障害者福祉の対象になったということだ。福祉サービスを受けられるようになったお陰で、私もさまざまな恩恵を頂いているということになるのだろう。総合支援法が謳う「障害者の基本的人権の尊重」や、「手続きの透明化と明確化」が美辞麗句を並べただけの絵空事に終わって欲しくないと、強く願っている。
また、私が居住する市の支援関連の名称は更に複雑だ。紛らわしい名称と、いろいろな条件が設けられた複雑な支援内容。多くの障害者は翻弄される。わかりにくい支援のあり方に、障害者がサービスを利用しにくいように故意にしているような一種の巧妙さを感じるのは、天の邪鬼な私だけの、うがった見方だろうか。中には自分が望む生活の実現を諦めてしまった人もいるのではないだろうか。
市の窓口で、ヘルパーに調理してもらう時間が欲しいと訴えた障害者に、弁当を取ればいいでしょうという一言が即座に返ってきたそうだ。味気ない宅配弁当を毎日食べなさいと言うのか……季節の野菜や魚を楽しむ自由を、障害者が望むのは贅沢なことなのだろうか。
市の職員にとって、障害者の存在はまさに対岸の火事であり、他人事なのだろう。だが、いつ誰が障害者になるかわからないのだ。交通事故で、脳血管系の病で、あるいは難病で。自分は絶対にそうならないと、誰が断言出来るだろうか。健常だった頃の私が想像したこともなかった事態に突然置かれたように、自分が、家族が、友人が突然障害者になる可能性は誰にでもあるのだ。
全介助となり、病気がちな夫と二人暮らしの私が在宅で暮らすためには、公的な支援が頼りだ。介護保険で、週二回の訪問入浴、毎日一時間の起床介助、車椅子や電動ベッドなどの福祉用具のレンタルのサービスを受けている。要介護度五の認定を受けても、利用できるサービスはこの程度である。これだけでは、私の在宅生活はまったく成り立たない。このような事態を想定して、二年ほど前に障害者の重度訪問介護の申請を行った。現在、月に百四十六時間の重度訪問の時間を市から頂いて、家事援助や排泄介助、就寝介助などのヘルパーサービスを受けている。それに一日に二回から三回の訪問看護、週三回の鍼灸マッサージ、週二回の理学療法士によるリハビリ、月二回の外出支援サービスを受けて、私の日常が成り立っている。
こうして列挙してみると、どんなに多くのサービスの恩恵を頂いているか、再認識する。社会的保護を十分に受けられなかった過去の障害者のことを思うと、いろいろな疑問や不満があるとは言え、感謝を忘れてはならないと思うのである。それらの支援サービスを障害者の権利だから当然だと言い切ってしまいたくはない。日本の福祉の現状は、福祉社会として成熟している北欧の国々とは比べようもないが、現在頂いている恩恵は、障害者とその家族の長年にわたる訴えと闘いの賜物であることを思うと、一つひとつが有難い。そしてそれらの賜物は、私が生活する上で、不可欠なものなのだ。感謝である。
五歳で筋ジストロフィーを発症し、以来四十年以上を病院で生きた患者がいた。彼は詩を書くことを生きる励みとして自費出版で詩集を出し、著名な文学賞を受賞した。全く動くことが出来ず、呼吸器を装着した寝たきりの状態で、しかし彼は前向きに貪欲に生きた。読書と詩作と執筆が、彼にとっての生きる証しだった。死の数年前からは心臓の状態が悪くなり、何度も死の淵にさらされながら、彼は生きることを諦めなかった。そして目標にしていた四十七歳の誕生日が過ぎた今春、旅立った。「この命を生き切ってみせる」というブログの言葉が、私の心にズンと響いた。彼ほど自分の命を燃焼させた人を、私は知らない。
また、ある日観たテレビ番組も脳裏に焼き付いている。出産直後の脳出血のために意識障害になった妻を、自宅で介護している夫。IT関係の小さな会社を経営する夫は仕事を在宅で行い、四歳の長女の育児と、全介助で意思疎通も難しい妻の介護を、一人で担っている。脳出血の直前に生まれた双子の次女と三女は、乳児院に預けざるを得なかったそうだ。ある日、一家は電車を乗り継ぎ、一時間半かけて双子に会いに行った。意思表示が難しい妻がヨチヨチ歩きの二人を見つめて優しく微笑んだ。慈愛に満ちた、紛れもない母の眼差しだった。私は胸が詰まった。なんと過酷な運命だろうか。だが、夫の言葉に弾かれた。
「いろいろなことがあるので、いろいろ工夫しています。それが生きるということではないでしょうか。大変だとは思いません。いろいろあって、面白いです。いつか家族そろって暮らすのが夢です」
穏やかな表情で語る夫には、なんの気負いも卑下もない。現実のすべてを受け止めている。その強さとしなやかさに頭が下がった。
「受容」という言葉が示す意味を、ようやく知ったような気さえした。
病気や障害があっても、意欲的に自分の人生を生きている、或いは生きた人々がいる。病や障害のあるなしと人生の充実感は、必ずしもイコールではないと教えられる。どんな状況に置かれても、自分次第で、心豊かに幸せな思いで暮らすことは出来るのだと教えられる。
そして、遠くない日に訪れるであろう死を予感しつつも、生きることの意味を考える時間を与えられている、わが身の幸いを思う。
肉体は魂を入れる器に過ぎないと言う。心こそ、「自分のありか」なのだ。病を得ることで、私の魂は磨かれる必要があったのだと思いたい。
生き様は死に様である。自分の人生を完成させるために、心のアンテナを思い切り広げて、助けて下さる人々に「ありがとう、すみません、お願いします」という、最も美しい日本語を毎日繰り返しながら、与えられた時間を私なりに楽しんでいきたいと思っている。

牧野 知恵子プロフィール

昭和三十一年生まれ 無職 石川県金沢市在住

受賞のことば

この度は身に余る賞を頂き、ありがとうございます。思いがけない吉報に、周りの空気が少しざわついています。
病の進行によって、生活のほとんどを自宅の中に限定されてから、さまざまな公募に挑戦してきました。入賞したこともありますが、大半は没になりました。その度に意気消沈し、入賞された方々の作品を読んでは自分の未熟さを痛感させられてきました。深い見識を持った達人の文章、困難な人生をひるむことなく雄々しく生きる人の文章……無知で矮小な自分に気づかされ、そしてまた書くのです。今回の受賞は、そのための大きな原動力になりました。書くことが外界との接点であり、生きて在ることの紛れもない証しなのです。

選評(鈴木 ひとみ)

ALSについて知っているつもりでしたが、それは表面だけのことでした。障害が進むにつれ変化していく心の動きは壮絶です。人間の尊厳に関わる試練の連続の中で、諦念、さらには自死の覚悟、あるいは、生きるために自分を鼓舞することを繰り返して障害を受容された。呼吸器を付けるかどうかの決断は障害を受容する以上に難しい事など、牧野さんを、ALSを本当に理解することは、当事者以外には出来ないでしょう。しかし理解しようと努力することは可能です。是非、一人でも多くの方に読んで頂きたい作品です。

以上