第49回NHK障害福祉賞 優秀作品
「声を出してくれて、ありがとう!」 〜第2部門〜

著者:蒔田 明嗣(まきた あきつぐ) 北海道

  はじめに
 十五歳で耳の聞こえない人たちと、彼らの言葉である手話に出会い、もうすぐ四十年になります。さまざまな思い出深い出来事や出会いがありましたが、私が働いている重症児(者)施設でのろうの職員と重度の障害を持つ人とのかかわりについて書いてみたいと思います。

「目が見えないことは人と物とを切り離す。耳が聞こえないことは人と人とを切り離す」

 この言葉は、有名な哲学者カントの言葉ですが、視覚と聴覚の障害の特性をそれぞれ短い言葉で表していると思います。目も耳も、どちらも情報を獲得するために非常に大切な器官ですが、見る障害とは出来事、物事を把握することに、聴く障害とは言葉やコミュニケーションについて困難を伴う障害だと思います。このカントの言葉は、実はヘレン・ケラーのあるエピソードから有名になり、広まったと言われています。
 多くの方々がご存知かと思いますが、「三重苦の聖女」と言われたヘレン・ケラーは十九世紀に生まれて二十世紀に活躍しました。目が見えず、耳が聞こえず、話ができませんでしたが、サリバンという目の不自由な家庭教師と出会い、盲人用の触手話や指文字を学び、モノには名前があることを知り、その後も驚異的な努力と才能を発揮し、成人してからは社会活動家として活躍しました。
 ある時、ヘレン・ケラーは、あなたの三つの苦しみの中から一つだけ神様が解放してくれるとしたらどれを選びますか、と聞かれて、彼女は迷うことなく、即座に、「耳が聞こえるようになりたい」と述べたそうです。おそらく多くの人は目が見えるようになりたいと考えるのではないでしょうか。私もそう考えると思います。でも、ヘレン・ケラーは即座に「聞こえるようになりたい」と答えたのです。それだけ耳が聞こえないという障害は、わたしたちにはなかなか想像のできない、計り知れない苦しみ、つらさ、孤独があるように思います。
 実は先のカントの言葉は、その時にヘレン・ケラーが「なぜならば……」と言って、引用した言葉なのです。

「目が見えないことは人と物とを切り離す。耳が聞こえないことは人と人とを切り離す」

 人はひとりぼっちでは生きてはいけません。人は誰かと関わって生きていきたいと願うものではないでしょうか。他者と切り離されて生きていくこと、耳が聞こえないと言うことは、人間にとって、とてもつらい状態であることがこのヘレン・ケラーのエピソードとカントの言葉からわかるのではないでしょうか。

  ■重症心身障害児(者)施設のろう者職員
 さて、私が働いているところは、重症心身障害児(者)の施設です。重症心身障害児(者)というのは、肢体不自由が重度で、かつ、知的障害も重度という障害を併せ持つ人のことを言います。おそらく、この世で一番障害が重く、過酷な状態にいる人たちではないかと思いますが、その人たちのための施設です(なお、歴史的な経過の中で、この定義の周辺に属する障害児者の方々も入所利用しています)。
 医療ニードが高いために福祉施設ですが病院機能を持っており、おおまかに言えば、職員の半分がドクターや看護師など医療のスタッフで、もう半分が介護士や保育士、ソーシャルワーカーなど福祉関係のスタッフで、それらの人たちが連携しながら一緒に働いている施設です。この施設に現在四名のろうの職員が働いています。そうした、ろうの職員がスムーズに働けるように手話通訳をしたり、相談にのったりするのが、私の仕事の一つです。

  ■最初の採用は昭和五十二年
 私の職場に初めてろうの職員が採用になったのは、昭和五十二年(一九七七年)で、現在、職場には、ろうの職員のほかに視覚障害、上肢障害、下肢障害、脳性まひ後遺症、内部障害の方々など、たくさんの障害を持つ方々が職員として働いていますが、昭和五十二年のろう者の採用は、施設として初めての障害を持つ人の採用でした。
 施設には市民に開放している公園のように広い園庭があるのですが、その人は芝生や花の管理作業員として素晴らしい働きをしました。彼の採用によって障害者雇用の取り組みが本格的に始まりました。
 当時、施設には利用者(施設を入所利用されている障害児者)の方々のオムツやタオルやパジャマを洗濯するために、大きなクリーニング工場があったのですが、ちょうど小樽の銭函に北海道高等聾(ろう)学校があり、そこにクリーニング科がありました。そこの卒業生を中心に雇用していったのです。
 こうして耳に障害を持つ職員が増えていったのですが、初めは聴こえる職員から戸惑いの声があがりました。例えば「仕事の指示ができない」「機械の音が聞こえないので危ない」「呼びかけても振り向かない」「相手の言っていることがわからないので困る」など、不安もあったと思いますが、そうした声がありました。
 これに対して施設の経営者は「話が通じないとか、音が聞こえないとか、呼び掛けても振り向かないとか、おかしいと思わないか? 音が聞こえないから、ろう者じゃないのか? 話が通じて、音が聞こえて、呼び掛けたら振り向いたというのなら、それはろう者じゃないだろう? いろいろな工夫や配慮で一緒に働けるようにするのが福祉施設の職場じゃないのか」そう説得しました。

  ■結局は聴こえるようになれと……
 これは少し、きつい言い方かもしれませんが、私の経験から言えば差別には二通りあるように思います。一つは解りやすい差別、積極的な差別、確信犯的な差別です。例えば「私たちの会社は耳の聞こえない者は採用しない、受け入れない、仕事の邪魔になるだけだ」というのはいささか過激ですが、しかし、主張としては解りやすいものだと思います。
 でも、差別にはもうひとつあると思うのです。消極的な差別というか、善意の差別というか、隠れた差別というか、例えば「私の会社では障害のあるなしでの差別は一切しません。すべて平等です。平等なので障害のある人も、ない人と同じように働いてもらいます。平等ですから特別な配慮も一切しません。それで働けるなら採用します」というのはどうでしょうか。
 私の職場でも、「話が通じない」とか、「音が聞こえない」とか、「呼び掛けても振り向かない」とか、そういう不満がありましたが、それは結局のところ、聴こえるようになれと、自分たちと同じようになれと、言っているような気がするのです。

  ■「差別なき平等は悪平等であり、平等なき差別は悪差別である」
 日本の天台宗の宗祖である最澄の言葉に「差別なき平等は悪平等であり、平等なき差別は悪差別である」というのがあります。最近この言葉を知って非常に感銘を受けたのですが、「差別なき平等は悪平等である」というのは、これは個々人が持っている違いを無視した平等論は悪平等であると言っていると思うのです。
 つまり、障害を持つ人を雇用するということは、そういう健常者と違う点に対する必要な対応ができて初めて言えることで、自分自身を基準においた平等論を主張し、自分たちと同じようになれたら受け入れるというのでは結局、障害を持つ人は受け入れない、つまり、「来るな!」ということと同じではないでしょうか。そのことに、なかなか私たちは気付けません。
 考えてみると、その人に一番必要なものを見つけていくこと、その人に一番益になるものを見つけ出すこと、それぞれに違うものを、それぞれにもたらしていくこと、これは福祉や医療を考える上でも、また重症児(者)の療育を考える上でも、一番大切なことではないかと思います。私たちは集団生活を理由に、カテゴリカルな考えを理由に、おかしな平等論を理由に、その人へのベストインタレスト(最善の利益)を考えることを怠ってしまうことが、しばしばあるように思うのです。
 私の施設では、幸いにこうした説得が効いて、最初は互いに戸惑っていた聴こえる職員も、ろうの職員も、しだいに打ち解けるようになり、なかには手話を覚える職員も現れ、職場の互助会に「手話クラブ」ができたりして、関係はふたつの氷がゆっくりと溶け合うように良好になっていきました。

  ■ろうの職員が病棟に異動
 そんな状況のなか、平成六年(一九九四年)に、ろうの職員四名がクリーニング工場から病棟の介護職に異動となりました。今ではホームヘルパーや介護福祉士など資格を持つ聴覚障害者も全国的に増え、介護職として働く人はそれほど珍しくはなくなりましたが、当時は全国初の試みではないかと言われ、新聞でも大きく採り上げられました。ろう者の職域の拡大を考えると確かに画期的なことであったと思いますし、先駆的な試みであったとも思いますが、それだけ病棟の職員の反応は、クリーニング工場の時と同じように良いものではありませんでした。私はろう者の相談員として、そんな状況に悩んでいました。
 そこに救世主が現れたのです。誰だと思いますか? 実は利用者の方でした。ある方が職員にリクライニングの車いすを押してもらって私のところに来たのです。そして、いきなり
「蒔田さん、オレに手話を教えてくれ!」
 と言うのです。びっくりしました。なぜならその方は両手両足がマヒして動かず、全介助の方なのです。そして利用者の中では数少ない言葉を話すことができる方でもありました。
 どぎまぎしながら
「どうして手話を覚えたいのですか?」
 と聞くと、
「だって今度、ろうの人が病棟に来るんでしょう?」
 と言うのです。そして、その人がその次に言った言葉に私は強い衝撃を受けました。どう言ったかというと
「しっかし、おかしいよなあ。どうして文句ばっかり言うのかなあ。職員は手が使えるのにどうして手話覚えないのかなあ。もし、オレが手を使えたら、真っ先に手話覚えるけどなあ……でも、蒔田さん、オレはしゃべれるから、手話を覚えてろうの職員が言っていることを他の職員に教えてやるから、ナンモ心配ないから、大丈夫だ……」
 と言ったのです。

  ■手が使えるのにどうして手話を覚えないんだ?
 手の使えない人から、「どうして手が使えるのに手話を覚えないんだ?」と言われたら、みなさんならどう答えるでしょうか。とにかく私には、その言葉が非常に新鮮で、衝撃的で、心を揺さぶられるものでした。
 何より、福祉施設の職員が利用者の方の感性に負けるようでは、そこで働いている意味を問われてしまいます。そんな出来事が大きなきっかけのひとつとなって、職場の手話クラブの主催で職員向けの手話講習会を開催することになり、私は講師を務めました。
 講習会には病棟の職員だけでなく、ドクターや栄養士や事務員など、想像以上に多くの職員が参加してくれました。こんなにたくさんの人たちがろう者の職員に関心を持っていてくれたことに、感動と感謝の想いがあふれました。
 たった四人のろうの職員のために、二百人を超える職員が自分の時間をさいて手話を学ぶということの意味は、ろうの職員だけでなく、施設にとっても、とても重く、深く、大きなことだったと思います。

  ■ろうの職員との交流会で……
 こうしてひとりの利用者の方の言葉に救われるように、ろうの職員は病棟に異動になりました。私は「良かったなあ」と、ほっとしていたのですが、何か月か経って、またあの利用者の方が私のところにやってきました。
 今度は何かなと聞いてみると、
「蒔田さん、ろうの職員とオレたちで交流会を開きたいんだけど、手話通訳してくれるか?」
 と言うのです。そのころ彼が中心となって、コミュニケーションのとれる利用者の方々が月に一度、十名ほどで自主的な集まりを持っていました。その集まりに、普段ゆっくりと話せないろうの職員を呼んで交流会をしたいということでした。私は通訳を引き受けたのですが、そこでも考えさせられることがありました。
 その交流会ではまず、自己紹介をしようということになって、利用者の方から順番にあいさつが始まりました。重度の障害がありますから自分の意志とは関係なく普段から緊張が強い方々です。このときは改まって、さあ自己紹介ということで、利用者の方々はさらに緊張して、自分の名前を言うのにも声を絞りだすように、汗を流しながら、必死で話をされました。

  ■声を出してくれて、ありがとう!
 それを聞きながら手話に通訳していたら、ひとりのろう職員が
「今、この人たちは声を出しているのか?」
 と、手話でしきりに聞いてきました。それで私は
「そう、声を出しているよ。でも、みんな今日は緊張が強くて大変みたい……」
 と手話で応えました。利用者の方々の自己紹介が終わって、ろうの職員の番になったときに、さっき「声を出しているのか」と聞いたろうの職員が手話と声とでこんなあいさつをしました。
 
「僕は耳が聞こえません。だから上手に話せません。僕は小さいときから話をすることがとっても嫌いで、恥ずかしいことでした。今でも話をするのに勇気がいります。それはみなさんも同じでしょう? だけど今日は僕のために、僕たち、ろう者のために、声を出してくれて、ありがとう!」
 
 小さい頃から僕にとっては声を出すことが恥ずかしく、とても嫌で、勇気のいることでした。今でも、変わることはありません。それはきっと重症児のみなさんも同じですよね。なのに今日は僕のために、僕たちろう者の職員のために、一生懸命に声を出してくれて、ありがとうございます! 彼は共感と感謝を込めてそう言ったのです。
 利用者の方々が声を出すということ、そのことがどんなに大変なのかは施設の職員なら誰でも知っています。その理由も知っています。でも、そうした大変な思いをして声を出してくれたことに「ありがとう」と感謝できた職員は、四十五年という長い施設のあゆみの中で、利用者にかかわったすべての職員の中で、ただひとり、彼だけです。誰ひとり大変な思いをして声を出してくれたことに感謝できなかったのです。そのことに思い及ばなかったのです。
 それから彼は集いの最後に唄を歌いました。手話を交えて小さいときに覚えた「チューリップ」とか「お馬の親子」とか、そんな唄を歌いました。私は胸が熱くなるのを覚えました。彼にとって声を出すことは、一番恥ずかしくて勇気のいることなのです。自分の一番嫌なこと、苦手なこと、恥ずかしいことなのです。それを乗り越えて、そうした自分の思いを抑えて、利用者の方々に楽しんでもらおうと行動できる職員が、では、いま、この施設に何人いるのだろうかと、そう思いました。
 考えてみればこの人たちは、聞こえないとか、話が通じないとか、一人前ではないとか、呼びかけても振り向かないとか、いろいろ言われてきた人たちです。でも、いったいそれがどうしたというのか、一番大切なところで、一番深いところで、私たちはろうの職員に敵わないではないかと。

  ■多様性を学ぶということ
 先ほどの最澄の言葉の後半は、「平等でない差別は悪差別である」というものです。「平等でない差別」とは、人間は本来「差別のある平等」(個々人の違いを認めた上での平等)を受けるべき存在なのだから、家柄や貧富や学歴などでそれを妨げられることはあってはならない、もしあるならばそれは悪差別である、と最澄は言いたいのだと思うのです。この考えを突き詰めていけば、障害の有無はもちろん、障害自体の軽重においても人は差別を受ける存在ではないと言えるはずです。もちろん、ろう者であっても、重症児であっても、です。
 ろう者と聴こえる人たちには確かに違いがあります。しかし、だからこそ良いのだと思うのです。ろう者にはできないことがある、しかし、今紹介したように、聴こえる私たちが気付かないことに気付いていける、結果として、より良い職員が育ち、質の高い療育が提供できる、多様性が大切、共生が大切と良く言われますが、それは、こういうことを言うのだと思うのです。

  ■障害を感じさせない社会……
 昔、「ジョーズ」という巨大ザメの映画があったのを覚えている方も多いと思いますが、あの映画のロケ地はアメリカのマーサズ・ヴィンヤード島と言います。あの島は一六〇〇年代から約三百年間も、遺伝的な要因と思われるのですが、ろう者の生まれる比率が非常に高かったのです。
 マーサズ・ヴィンヤード島はイギリスからの移民で成り立っていた社会だったのですが、その人たちの中にろう児を産む遺伝的な要因があったこと、島民のほとんどが漁業を営み島を離れなかったこと、したがって島民同士の結婚が多かったことなど、いろいろな要因があったと思いますが、島のある地区では十八人に一人という非常に高率でろう児が生まれました。
 その後、産業が発達し、人の交流が行われ、ろう者もアメリカ本土の学校に通うようになって、そうした環境は消えてしまったのですが、文化人類学者がその島の昔を知る老人に当時の人々のことを尋ねると、老人は困ったような顔をし、「そういえば、あいつは、ろうだったかなあ……」とつぶやいたそうです。
 ろう者が多かったので、島の聴者は自然に英語と手話を併用して会話していたのです。つまり、英語と手話の「バイリンガル」で育ったわけです。コミュニケーション上のハンディをまったくお互いに感じることがなく育ったために、老人が昔の頃のことを思い出しても、一緒に遊んだり、働いたりした仲間が、ろう者であったのか、聴者であったのかは、まったく意識されなかったのです。
 本当に夢のような話ですが、こうした社会を少なくとも、マーサズ・ヴィンヤード島の人たちは、三百年間も続けることができたのです。このことは、人は環境さえ整えば、そういう社会を築くことができるということの証明だと思います。
 このように障害を持つ人が、ことさら自分の障害を感じることのないような社会が、いつか、この日本にも訪れることを願っています。その実現に、微力ながら自分も努力していこうと思っています。

蒔田 明嗣 プロフィール

昭和三十六年生まれ 社会福祉施設職員 北海道旭川市在住

受賞の言葉

優秀賞をありがとうございます。長年かかわってきた障害者雇用を通し、さまざまな経験、特性をもった人がともに助け合って、学び合って、働くことの素晴らしさを多くの人に伝えたいと思いました。私が見て、感じて、体験記に記したエピソードや、私の職場の障害者雇用に対する姿勢は、この素晴らしい賞に劣ることはないと今も思いますが、それを第三者に伝える力量が自分にあるのかは良く分かりませんでした。受賞を素直に喜びたいと思います。

選評(鈴木 ひとみ)

ユニバーサルデザインの精神は共生です。みんなが少しずつ我慢をして成り立つもの、というイメージを持たれがちですが、むしろ逆です。お互いの違いを知り、それを認め合うことにより、さらに皆が豊かで幸せになれる、というものです。その精神を肢体不自由な利用者が気づかせてくれた。また、ろう者の職員が相手の気持ちに寄り添おうとするエピソードは感動的でした。私も交流会に参加してみたいな、そんな気になりました。