ピンポーン 「お早うございます」 朝のヘルパーさんの声。 「お早うございます、よろしくお願いします」 それに答える私。毎朝六時三十分、我が家で交わされる会話です。 夜更かしした朝は、もう少し寝ていたいと思う時もあります。でも、ヘルパーさんはそれよりも早く起き、来てくれているのです。そんな事は言えません。 「えいっ!」 と気合いを入れながらヘルパーさんに起こしてもらい、さあ、蛭田家の一日の始まりです。 私達夫婦は重度の障がい者。二人それぞれにヘルパーさんがついています。朝は私が三十分早く起きて、身仕度を整えます。夫の男性ヘルパーさんが来る前に寝室での着替えを済ませて部屋を出ます。そうしないと、夫の裸を私のヘルパーさんが見てしまうか、夫のヘルパーさんに私が見られてしまいます。それはまずいです。同性介護を原則としている私達です。異性としての恥じらいは無くしたくありません。 毎朝の何気ない始まりも十年目を迎え、同じリズムで時が流れています。重度の障がい者夫婦がそれぞれのヘルパーさん達に支援を受けて生活をする。十年前は珍しい事でした。 私達夫婦でさえ、どうなるか見当が付かなかったし、周囲の人々、特に両親には理解し難い事だったと思います。当然のように結婚は反対されました。父は私が住みやすいようにと、定年間近にバリアフリーの自宅を新築しました。娘の結婚も、健常者との結婚を期待していたはずです。ところが、娘が結婚したいと言い出した男性は、娘より重度の障がい者。首から下の自由が利かないのですから、反対は仕方のないものでした。 これまで私に対して全面協力だった母も、この時ばかりは猛反対。 「あんたがどうしてもと言うのなら、私はお父さんと二人だけでは暮らせない、ハッピー(ペットの犬)を連れて山に行って死ぬ!」 と言い出しました。母にとって、それ程までに大きなショックだったようです。 私が身体に障がいのある子供だと診断された後、母は私のために人生の大半を費やして来ました。手元に私がいない日々など、きっと考えられない事だったのでしょう。 父も同様で、私の結婚話に 「心配だ!お父さんは反対だ!」 と、繰り返すばかり。怒りと寂しさに満ちた眼で、何度もにらまれました。父は四十歳過ぎ、私のためにと、それまでとは百八十度違う職種に転職までしたほどだったのです。 私は両親にとって初めての子。愛情たっぷりに育ちました。歩き始めが遅い我が子を不思議にも思わず、いつか歩き出すだろうと、のんきに構えていた両親でした。 私が医師から脳性小児麻痺だと診断されたのは、私が二歳近くのころだったそうです。言語障がいも無く、ペラペラとお喋りだった私は、文字の理解も出来ないうちから絵本を見て、ページ毎に読んでいるかのように口にしていたそうです。 「障がい児です」 と言われても信じられず、いつかは歩くだろうと思っていた、と言うより、思い込みたかったのかもしれません。さすがに五十過ぎの娘が今更歩き出すとは思っていないでしょうが……。 そのころ、両親は障がいのある子は手がかかる、この娘だけを育てようと決意したようです。しかし今、両親は八十歳を超えても子育て気分から抜けきれないようです。娘より障がいの重い娘婿が現れ、二人分の面倒を見なければならなくなり、張り切らざるを得なくなってしまったからです。 母は私達の結婚を許すと決めた時、父にこう言ったそうです。 「一人も二人も同じ、神様にお前たち夫婦になら面倒を見られるからと選ばれたんだ、そういう運命なのよ」 と。 私達は両親と同居してはいません。生活全般が、ヘルパーさん達の介助を受けてのものです。そんな我が家へ、両親からの間接的で貴重な援助が入ります。週に一度ほど、母がお惣菜を作り、それを父が車を飛ばして届けてくれるのです。食事の際、母の手料理が一品食卓に加わります。両親はまだまだ現役と、日々元気に暮らしています。両親の老いを緩やかにしているのは私達夫婦が障がい者であることも一因なのかもしれません。都合の良い話にすり替えれば、私達は親孝行をしている事にもなるのでしょうか? さて、私が子供だった時代は、障がいのある子は人目にさらされずに育てられていました。ご近所のおばさんから、 「○○さんの家にも体の弱い子がいて、納戸に入れられたままなんだって。まるで座敷牢だね」 と言う話を聞き、子供心に大きなショックを受けたのを覚えています。当時の私といえば、毎日外で近所の子供達とゴザを敷きままごと遊び、三輪車を乗り回しあぜ道で転倒し、友達が 「おばちゃん、まゆみちゃんが転んだよ」 と母を呼びに戻ったりしたこともありました。 友達が私と遊ぶのに飽きて遠くに行ってしまい、いつの間にかみんな居なくなり、私一人とり残されると、母は、決まってこう言います。 「あんたには一人でも半分でも生きなければならない時が必ず来る。その度に泣いていてはだめ! 去る者追うべからず」 だと。 その言葉で私は強くなり、庭で一人になっても平気で遊んでいました。そればかりか、私は達者な口で自分の出来ないことをみんなに命令したり、悪態をついたりもしました。するとまた母が、 「世の中は自分の思うようにばかりはいかない。意地悪ばかりしているとあんたの周りには誰も居なくなるよ。よく考えなさい!」 と。幼い私には母の言葉の深い意味は理解出来ませんでしたが、何故か怖かった。でも同じ事を何度も繰り返し、同じように叱られていました。私は随分小さい時から親に口答えをしていたようです。母の堪忍袋の緒が切れると、 「この口が悪い」 と思い切り口をつねられました。押し入れにも入れられましたが、全く動ぜず 「おかあちゃん、押し入れって暗いんだね」 とすましていたとか。これには母もあきれて、押し入れでのお仕置きはやめにしたそうです。 のびのびと育った私は、自分が障がい者だなんて、少しも思っていませんでした。就学時期を迎え、私にも地元の小学校からお知らせが届きました。しかし、両親はまだ役所に私が障がい児だと届けていませんでした。母に背負われ学校に行ったのですが、学校側はビックリです。歩けない子供が来てしまったのですから。それからが大変で、周囲から養護学校を勧められました。私が、 「訓練は嫌だ、勉強がしたい」 と言い張ると、母は 「分かった。おかあちゃんが学校に付き添うよ。でも、みんなと違い背負われての通学だし、あんたの手足は曲がっている。みんなにジロジロ見られるよ。それでもいいの?」 と聞かれました。私は 「見るのは一時だけ、慣れたら誰も見なくなる。だから平気だよ」 と答えたそうです。それだけの覚悟があるならと、母も腹を決め 「授業中は私が付き添います。何があっても学校側に責任は負わせません。授業の間、教室の隅に置いて下さい」 と何度も学校に頼みました。 「検討しますからお時間を下さい」 と言われて一年間待ち、結局私は一年浪人の後、小学校に入学出来ました。 これが、私達家族のその後に、大きな影響を及ぼしていく結果になったのです。 近所の子供達と、ランドセルを背負った私を母が背負っての、通学の始まりです。 母は、常に私のそばで授業をサポートしていました。でも、私が出来る事には一切手は出しません。例えば字を書く事です。どんなに遅くなっても手助けしません。みんなについていけなくて、間に合わず書き写せずにいると、母は 「先生が言ったことは全部頭に入れて」 と言うのです。私はみんなについていきたくて、一言一句覚えました。お陰で暗記する力が付きました。しかし字や絵を書くことは苦手でした。小一の夏休み、暑さと疲れで吐き気を感じながら、来る日も来る日も必死で字を書く練習をしました。 夏休みが終わるころには何とか書けるようになり、二学期にはみんなと同じスピードで書けるようになっていました。担任の先生も私の上達ぶりに驚き、硬筆のコンテストに選ばれるほどになりました。やれやれと思ったのも束の間、今度は書道が始まりました。筆が持てません。下校後、連日顔や手を真っ黒にして、筆の持ち方や筆運びを懸命に練習しました。これも頑張り過ぎ、気持ちが悪くなって泣きながらの事もありました。 半紙の準備、文鎮の押えなど、要所に母の手助けが無ければ事が進みません。負けず嫌いな私が気の済むまで、母が付き添っていました。夜練習していると、母は隣で居眠り。それを見て 「こんなに私が苦労しているのにどうして眠っちゃうの」 と、八つ当たり。すると 「おかあちゃんは頼んでないよ。あんたが練習するというから協力している。うまくいかないのを人のせいにするなら、止めちゃいなさい!」 と一喝されます。これがまた悔しくて、涙をボロボロこぼし頑張りました。 自分に出来ないことがあるといつもそんな状態でした。明らかに出来ない事は、さっさと諦めるのですが、興味があり、出来そうだと思う事はチャレンジしました。その度に母が寄り添い、私の出来る事が増えていったのです。 私が小二の時、私の通う学校で用務員さんの募集があり、父に声がかかりました。 当時は用務員室が校内にあって、自宅が学校になり、私の通学が無くなるという有り難いお話でした。車の免許が無い母が、雨の日も風の日も私を背負い、徒歩で通学していたのです。母の負担軽減は明らかでしたし、私の普通校に行き続けたいという思いにも願ったり叶(かな)ったりでした。その時父は長距離トラックの運転手をしていました。運転手という荒っぽい職業から、学校という教育の現場へ用務員としての転職です。いくら娘のためとは言え、父にとって戸惑いは大きかったに違いありません。そのころになると、先生方や同級生も私の障がいを特別とは思わないようになっていました。クラスメイトは 「おばちゃんがいなくたって、まゆみちゃんの面倒は見られるよ」 と言ってくれました。私自身も、いすに座っていればそんなに手が掛からず、母は用事のある時だけ教室に来るようになっていました。順調に進級し、中高学年を迎えたころ、何故かクラスの中心的な存在になっていて、優等生のレッテルを張られ、ちょっと窮屈に感じたり、母の監視もうっとうしく思えた時期でもありました。 中学進学時にも学校側から入学の反対がありました。しかし、小学校卒業当時に担任だった先生が何度も中学校に通い、授業を受けるのに問題がない事、教室移動は友達が助けてくれる事、トイレは母親が時間を決めて学校に来て介助する事などを説明して、中学校側を説得してくれました。友達も 「先生、眞由美ちゃんも私達と一緒に学校に行けるよう頼んで!」 と言ってくれました。 中学校の先生方は、本当に私が普通に授業を受けられるか不安だったようです。 授業はさほど問題もなく、みんなのさりげないサポートと、母が徒歩で学校に通うトイレ介助もスムーズに運び、私の中学校生活は一応順調でした。父が用務員をしていた事で一部の同級生の父兄から、私が特別扱いされていると言うような陰口もあったようですが、両親は気にも留めず私を支え続けました。 手足は不自由な私ですが、頭を使うことは出来ます。それほど頭が良くない私ですが、毎日コツコツと勉強しました。そんな私に、父は何故か 「勉強なんてしなくていい」 と言うのです。変わった父親でした。中学になり教室移動が増えることで、車いすを使い始めました。その車いすを同級生が、私を座らせたまま長い廊下を超スピードで押したり、クルクル回したりと無茶な遊びもしました。みんなと一緒に部活動こそ出来ませんでしたが、楽しい思い出がいっぱいです。でも、残念だった事もあります。放課後の告白タイムや交換日記タイムといった甘酸っぱい青春には、仲間に入れませんでした。両親が授業の終わる時間に合わせ、車で迎えに来てしまうのです。それほど両親の応援を受けていながら、思春期の私は両親に反抗ばかりしていました。自分の思い通りにいかないと 「お母さんのせいだ」 とか言い、勉強が理解出来ないと 「お母さん達が馬鹿だからだ」 と言いたい放題でした。 母に怒られ、 「勝手にしろ!」 と何時間か介助されず、放置されたり、目にあまると、父のゲンコツが飛んで来た事もありました。 いつも口答えをしては叱られていました。反抗期はかなり長く続き、親は、 「いつまでも反抗期なんだから」 と嘆いていました。 当時はまだ珍しかった塾通いにも行きたいとだだをこねたり、手も満足に動かないのにピアノを習いたいと言い出したりとわがままばかり。その度に父は晩酌の時間をずらし送り迎えをしてくれました。ピアノの先生は戸惑っていましたが、どうにかピアノ教室にも通うことが出来ました。 なんでも手を出したくなる私でした。 これまでの私には友達の支えも大きく、事ある毎に温かい友情がありました。何と言っても一番の思い出は、高校進学の時でした。多くの高校から何かあったら責任が持てないと、強固な拒否にあったのです。この時ばかりはさすがの私もいささか参りました。中学進学の時と同じように担任の先生が受け入れてくれそうな高校に足を運んでいました。もう駄目かなとあきらめかけた時、地元の高校から受験許可の連絡が入ったのです。なぜ急に話が進展したのか不思議でした。実は、仲良しの友人二人が 「私達も眞由美ちゃんと同じ高校を受験します。合格したら、同じクラスにして下さい。おばちゃんがトイレ介助だけでいいように、校内では私達が助けます。だから、先生、高校側にしっかりお願いして」 と私には内緒で直訴(じきそ)してくれていたのです。担任の先生は無論、他の先生方も心を動かされ、地元高校に再三受け入れを頼み込んだようです。受験許可が出て、私達三人は無事合格。他の同級生で同じ高校を受験した人たちからも、 「先生、私達も一緒だから大丈夫だよ」 と言っていたと、先生から聞かされました。 本当に有り難い友情でした。 私の高校進学はさらなる両親への負担増でもありました。父は車での送迎を始め、母は昼間、私のところへ介助に来ました。母の交通手段は、バスか三十分近く歩くより方法はありませんでした。それを母は三年間やり通したのです。 教室は三階でした。朝晩は父が、日中は友達が背負っての教室移動でした。 母は私が学校にいる間、空いた時間に家事仕事をこなしました。すごいパワーでした。 周囲から 「よくやるわね」 と声を掛けられると、 「我が子だから出来るのよ。他人の子はお金を積まれても出来ないね」 と答えていました。私と両親との、十二年間の通学生活は何とか終了しました。 高校を卒業後は、家で近所の子供達に勉強を教えるようになりました。これも自然な成り行きでした。しかし、その間も、私のわがままと好奇心は変わりが無く 「あれがしたい、これがしたい」 と両親を困らせていました。 私が三十歳近くになると、私達親子の将来を心配した親戚その他の人たちから、口々に 「親はいつまでも生きていない。そうなったらどうするの?」 と、親子共々尋ねられました。母は、 「それは眞由美が自分で決める事だから」 と常に私次第だという考えでした。父はと言えば 「いざとなったらおっかぁと娘を連れて死ぬ」 と父の友人達に話していたようで、それを後になって聞かされました。 私自身はあまり深刻に考えていなかったのですが、ある日両親と買い物に行った時、ショーウインドウに映る私の車いすを押す母の姿を見て、がく然としたのです。年老いた母の姿を目の当たりにして、このままでは近い将来惨めな親子連れになってしまうのではと、恐ろしくなり、今のうちに何とかしなければと考えるようになりました。そして、親元から少しでも離れ、社会に出たいと色々な人に対し、機会ある毎に訴え始めました。そんな時、車いすの業者さんから、障がい者の自立と社会参加を支援する団体を紹介され、私はその団体が主催するイベントに参加しだしました。母親の代わりに介助者と外出する時、当日は朝から水分を控え、トイレに行かずに済むようにしていました。排泄介助は、母か、身内の一部からしか受けた事が無かったのです。約一年後、その団体からスタッフとして一緒に働いては、という誘いがありました。社会参加の絶好のチャンスです。他人からの排泄介助を受け入れられるかどうかが鍵でした。出来なければ、前には進めません。親からの自立なんてほど遠くなってしまいます。働く事を決意するまで、初めて眠れない夜を体験しました。 父はちょっと心配顔でしたが、母は私が自分で決めた事と、私の就職に賛成してくれました。 私が働き始めた団体は、障がいを持つ人が主体となって運営している団体でした。当時、県は障がい当事者の支援事業として、十日間のアメリカ研修旅行を企画していました。私はそれに応募して団員として選考されました。 長年の夢だった海外旅行。研修旅行だというのに私はうきうき気分。高校進学の際、一緒に通ってくれると言ってくれた親友のうちの一人が、たまたま故郷に戻って来ており、介助者として同行してくれたのです。これほど心強い事はありませんでした。母は家を空けたことなど無い娘が心配なあまり、私が日本を離れた日から睡眠不足になってしまったそうです。当の私は、初の旅行。それも海外旅行に大満足でした。その時、一緒にアメリカへ行ってくれた親友に 「こんな私とこれまでどうして付き合ってくれているの」 と聞くと、彼女は、 「眞由美ちゃんより、おじちゃんとおばちゃんが好きなの。あとは、おばちゃんのごちそうが食べたいからかな」 と冗談交じりに答えたのです。両親の愛が、こんな形で私に返って来た事もありました。 幼いころ私は母に、 「おかあちゃんのおなかにもう一度戻して。そしたら、今度は手足が動くようになるかも」 と言ったのを覚えています。これは母にとっては辛い言葉だったと思います。子供の言葉は時によって残酷です。逆に母から、私をこんな体に産んでしまって、とかいった謝罪らしき言葉は、一度も聞いた事がありませんでした。そんなことを聞いたら、私は、この世に生まれて来なければ良かったと悲しい思いをした事でしょう。 一人では何も出来ない私を一人の人間として認めてくれた事。優しさと厳しさをバランス良く使い分けての子育て。感謝の気持ちの大切さ。両親から受けた大きな愛で、私は自信を持って五十年余りを生きてきました。 私と両親、「三人四脚」で過ごしていた時代が、懐かしく思われる今日このごろです。 現在は、私が初めて働きだした団体で知り合った夫と共に、周りの方々に支えられながら訪問介護事業所を営んでいます。 事業経営は山あり谷ありです。その度に両親はハラハラ、ドキドキ。心配なのではないでしょうか。でも、私達二人が判断して決めているのだと、距離を置き見守っています。 父と母は 「あと十年は頑張っぺ」 と話しているそうです。 私は、両親に対し心を込め、あらためて伝えたい言葉があります。 「あなた達の子供に生まれて良かった」 と。これからもいっぱい心配をかけるかもしれません。十年とは言わず、いつまでも、いつまでも長生きして私たちの心の支えでいて下さい。