第47回NHK障害福祉賞矢野賞作品「心の杖となって」〜第2部門〜

著者:檜垣 サダ子(ひがき さだこ)千葉県

これは私が、三十五年間視覚障害者に手あみの指導をしてきたすべてです。

昭和五十三年七月末の事でした。
夕ぐれの忙しい時間にリリーンリリーンと電話が鳴り受話器をとると、とても美しい声で語りかけてきた相手は、千葉市婦人教育係長の尾形 ゆみ先生でした。
当時私は、市の青年教育手あみ講座の担当講師を務めており、婦人教育とのかかわりはなかったので、何の用かとびっくりしました。尾形先生のお話は、
「千葉視覚障害者婦人部の方々が、手あみをしたいので先生を紹介して下さいと懇願され、あなたにお願いしたい」
との事でした。三十九才の私は、目の見えない人に会った事も話した事もなく、出来ればお断りしたいと思い、後日伺いますと申し上げ受話器を置きました。
数日後、約束していた時間に婦人教育係に出向きました。そこにいらっしゃったのは、視覚障害者婦人部代表の方三名で、年齢は皆、五十代位でした。早速尾形先生が、
「あなた方に手あみを教えて下さるかも知れない檜垣先生が来たわよ」
と声をかけると、私の方をみて、
「今日はお忙しい所、私達のためにご足労願い申し訳ありません」
と丁寧に婦人部会長さんが挨拶され、私もご挨拶し、お互いに話しだしました。その時代表の方が話された言葉は、三十五年経った今でも忘れる事は出来ません。
「先生、私達視覚障害者はゴミと同じで、目が見えないから一日中同じ所にじっとしてて誰かが他に連れて行ってくれないと、同じ所にいるんです。ゴミもそうですよね、かたさなければいつまでもそこにありますから」
と悲しそうでした。窓からのやわらかい日差しに、緊張ぎみの三人の顔が、青ざめているように見えました。
「私達婦人部はアンケートをとり、手あみをしたいと言う人が多く、教えてくれる先生を紹介して下さいとお願いしました」
「先生に断られると、やっぱり私達はゴミなんだ……と思うよりありません。一生懸命習います、みんなの気持、どうか私達に手あみを教えて下さい、お願いします」
ソファーに腰を下ろしていた三人が立ち上がり、私を見て不安そうに頭を下げました。
その表情は、みんなの希望を話す事が出来た、安堵(あんど)感にもみえました。知識不足の私は一瞬、手あみは目が見える人がするのに、目が見えない人が編みものをする? どうしたら良いかしら、見て編むのに。でも同じ人間として、何と悲しい事か、そのせつなさに涙が出る思いで聞き、
「分かりました。少し時間を下さい、私に出来るかどうか良く考えます」
そのように返事をし、雑談するころには雰囲気も次第になごみ、三人の顔もにこやかに変わっていました。帰り道、
「お断りしに行ったのに……」
これからどうしようと思いながら、代表の方が自分達はゴミと言っていた、そんな人がいてはいけないと、何度も思い返しながら、足どり重く家につきました。
次の日早朝、母に電話し、昨日の様子をこと細かく話しました。
「私は目の見えない人に手あみを教える自信もないし……」
母はまだ若い娘に重責な事は分かっていたと思いますが、母が申しますには、
「視覚障害者の方々とて、この世は何も見ないで過ごそうと思う人はいない。せっかくのお話、誠心誠意教え方を考え、また研究しながら教えて、もし駄目だったらあちらから断ってくるから、断られるまで一生懸命頑張ってみては」
との事でした。
「もし手あみが一筋の光となるならば、障害に苦しむ人々に、より明るい光にしてやれてこそが、私達の役目ではないか」
母の言葉は、私にとって厳しく、よく考えれば、障害者へのやさしい言葉でした。
母が言う、「断るより断られた方が自分のため」、私はその言葉に、出来るだけやってみようと心に決め、新たな目標に向かう決意をしました。
返事は早い方が良いと思い、婦人教育係長の尾形先生に、「頑張ってみます」と電話し、その方向で話も進み、月二回の講座で九月からと決まりました。
九月に入り、第一回目の講座の日、私が担当している青年教育手あみ講座の受講生六名が応援に来てくれました。会場は市の施設の五階にあるため、応援に来た受講生は手分けし、二機あるエレベーターの前で待機していました。そのうち、下から上がってきたエレベーターが止まり、年齢も幅広く、きれいにお化粧した方々が満員のエレベーターから降りてくると、受講生は全員きたか確認しておりました。
こちらから声を掛けると、一斉に私達の方を向き、
「今日から檜垣サダ子先生に手あみを習いに来ました、よろしくお願い致します」
と三十名位の受講生が、想像以上に明るい声で挨拶しました。それぞれ希望に満ちた顔が、自信のない私の背中を押してくれたように思えました。視覚障害者の方々が、私の名前をフルネームで覚えてきて下さり、期待し、千葉県中から参加されてこられたことに胸がつまる思いでした。
いよいよ一回目の講座が始まり、まず自己紹介からという事になりました。受講生の話を聞きながら、「遠くから来たんだ……私は旅行でしか行かないのに……」と思い、次々自己紹介する方々の地名すら知らず、私は心の中で、この方達に断られないように頑張ろうと、使命感すら覚えました。
この時受講された方々は、盲学校出身の方々で、希望にそって、棒針あみのベストから入りました。
こんな言い方は失礼だと思いますが、目の見える人は、言葉で教える事が出来ますが、何も見えない人には言葉だけでは通用しません。今までの癖で言葉が先に出てしまい、本当に、教えて下さる方がいたら、教え方を是非教えていただきたい、と何度も思いましたが、視覚障害者に手あみを教えるのは私が初めてという事で、自分で考えるよりありません。まず私が考えたのは、これから覚えていただくために、私自身が見えない人と同じ立場になり、毎日毎日目をつむり、アイマスクをして、視覚障害者と同じ条件に身を置くことでした。何を感じ、何が出来るか、指先でしっかり編んでいただけるよう、相手の手に触れながら、今まで言葉で教えていた事全て身をもって教えるよう、日夜努力しました。私自身が部屋を暗くして編み、出来た事は必ず覚えていただける、教え方も少しですが分かるようになり、視覚障害者の皆様方に近づけたように思いました。
講座も回を重ね、どうにか私の教え方で皆様の希望にそえるようになり、受講生の顔も明るく、たのしそうに編んでもらえるようになりました。皆さん盲学校出身との事で、礼儀正しく団結力もすばらしく、連絡をとりあい仲良く生きてきた様子をうかがい知る事が出来ました。ときどき
「先生目貸して」
と言われ、どうすればよいか戸惑い、
「先生今日何着てる? 見せて……」
と言われ、やはり戸惑いましたが、物を落とした時に目を貸し、「見せてェ……」と言う事は触ってみる事なんだと、私は一緒にいるだけでいろいろ学びました。
次第に受講生ともいろいろ話し、また私にも少し余裕も出来、わずか三か月ですがお互い心通う仲になりました。しかし、講座中は、全員目の見えない人達ですので、私がどこにいるのか分からず、聞きたい所があっても黙っていますから、私の方から声を出し、私はここにいるからね……と言う意味で、一人一人に声をかけ、安心して編んでもらう事に気を遣いました。
家で編めるようになった生徒さんからは、
「先生もう編んじゃった、先に進みたいんだけど」
このような電話が毎日くるようになり、私がバイクで行ける範囲に住んでいる人達の所を回ると、手編みを教わりながら苦情や相談事まで話してくれ、完全に視覚障害者の皆様の仲間入りをする事が出来ました。でも、千葉県中から来ている受講生の中には、私がバイクで行けない人達も多く、その生徒さんのことを考えると、私が手あみスクールを開校し、いつでも教えられる場所が欲しいと思うようになりました。
そんなある日、私は母に、
「手あみスクールを作りたいの」
と相談しました。
「バイクで行って教えられる人は良いのですが、その他の人を教えるには、決められた日数だけでは足りず、多くの受講生が困っているのです。出来れば、静まり返っている障害者だけの講座より、健常者もまじえた中で話しながら勉強していただいた方が、視覚障害者の方々に良い影響を与え、幅広い話題に知識も豊富になるのではと思うし、また健常者にしても、きっと障害者を理解して下さると思うから」
と母に夢中で説明しました。母はずっとうなずいておりましたが、
「そうね、限られた人達と話すだけでは視野も狭くなるから、健常者と一緒の方が、障害を忘れられるかも知れないわね」
考え深げな母は、前のようではなく、
「手がけもしないで、断る事ばかり考えていた人が、よく相手の気持を分かるようになったわね」
十一月の澄み切った空を眺めながら、
「それでどうするの……」
と言ったので、私は前から良い所を探しておりましたので、
「場所は駅から三分の所で、日当たりの良い十坪位のマンションの一室、駅前だから私が送迎も出来るから、その部屋にしたいの。でも、お金がないんです。ねぇどう思う?」
母はだまっていたので、
「今のままでは、視覚障害の人をたくさんみていけない、習いたい人がまだ他にもいると思うし、技術もそうだけど気持があれば分かってくれる。相手に正面から体当たりして、心と心で話せるようになれた、障害者の人に断られなくて良かった……でもこれからだけど」
私は母に今の現状を話し、理解して欲しいと頼んだ。母が、
「話は分かった、教える方がその気なら、何とかなるでしょう。人のためになる教室なら、考えは違っていない。だけどあなたは長男の嫁よ、あちら様の了解なく勝手な事は出来ません。たとえ同居でないにしろ、すぐ近くにいらっしゃるから、お父様のお立場もおありでしょうから、一度お父様とお話して納得していただいてからにしましょう。ただし費用は私が出します。長男の嫁が勝手な事をするのに、嫁ぎ先に迷惑かける訳にはいきませんからね」
母には分かってもらいましたが、たしかに私は農家の長男の嫁、本来なら農業を手伝うのが当たり前ですが、私の家は社会福祉事業を行っておりましたので、農業の事は何も知りません。主人はサラリーマンで、お父様は教育現場の要職にあり、私の家の事も全て知り、育ち方も十分把握され、環境の違う所に嫁いで来た私を、いつも温かい眼差しで見守って下さり、深く感謝しておりました。私はお忙しいお父様に会いに行き、母に話した事全てをお話ししました。
お父様はすぐ返事を下さり、
「今までも随分苦労して視覚障害者に手あみを教えてきた事は、他から聞いている。障害者のために尽くせば良い、農業の事は心配しないでよいよ」
と言って下さいました。
ああもう十一月、今年もあとわずか。いろいろあったけど、どうにか視覚障害者の方々にもっとたくさんの時間教えてあげる事が出来る。明日から忙しくなるという満足感は、私にしか知り得ぬものでした。賛成してくれたのは、義父と私の母だけ。たった二人だけど私が頑張れば、障害者の皆様が来られるから、やって行こうと強く心に決めました。
前からここでと思っていたマンションの一室を借り、費用は全て母が用意してくれ、主人のお世話になる事なく開校の運びとなりましたが、嫁に来た者が、何かしようとすると、随分労力を使うんだ……幸い母がスポンサーで良かった。世間知らずの私は心からそう思いました。
準備期間中、毎日運ばれてくる机やいす、必要な物が次々揃い、最後に私の妹から本箱が届き、何もなかった部屋に早速受講生を呼べるようになり、ただただ母に感謝の念で一杯でした。外の様子もいつしか紅葉から冬に様変わりし、忙しく季節を感じる暇もなく、開校に向け日々追われるごとく過ぎて行きました。私は教室らしくなった部屋を見渡しました。これからは毎日多くの視覚障害者に、たのしく手あみをしていただける、その喜びは私だけではなく、母も同じだったと思います。
年が明け、いよいよ手あみスクール開校の運びとなり、視覚障害者も健常者も来て下さいました。障害者の方が、
「先生、月謝は」
と言われ、
「この教室は母がスポンサーで、母からは障害者の方から月謝をいただかないで下さい、って言われているので月謝はなし。たのしくやりましょうね」
私は母から、障害者から月謝はいただかない約束をしておりましたので、
「スポンサーは母、私は教えるだけ、文句があるなら母に言ってよ」
と答えました。
笑顔の多い明るい教室がはじまりました。次第に「目の見えない人にも手あみを教えてくれる教室がある」という評判ががあちこちで聞かれるようになりました。昭和から平成に入り、受講生は中途失明の人が多くなりました。失明の原因はさまざまでしたが、四十代後半での失明に生きる事さえ放棄したいと言う方を、ある日歩行訓練の先生が、
「視覚障害者にも手あみを教えて下さると聞き、お願いに来ました」
と、連れて来ました。
今までは盲学校出身の方々でしたので、みなさん自分の症状を良く知り、明るくされておりましたが、中途失明の方は、見えていたのに急に見えなくなり、人生を諦めかけている? ということが、その表情からうかがえました。
歩行訓練の先生が我が事のように深々頭を下げ、
「お願いします」
と何回もおっしゃっておりました。中途失明のAさんも、不安そうに
「お願いします」
と細い声で、つぶやくように挨拶されました。私を訪ねて来た二人に、
「大丈夫よ、きっとAさんに似合うセーター編んでもらいますから、頑張りましょうね」
と勇気づけました。私の言葉に二人は安心したのか笑顔で雑談し、Aさんが来る日を決めて帰って行きました。いよいよAさんが来る朝、いつものように駅まで迎えに行くと、もうAさんが立っていました。少しはなれた所から、足音に気付いたのか、下を向いていた顔が私の方を向き、何やらそわそわしている様子です。私が、
「おはようございます、今日から頑張りましょうね」
と声をかけ、Aさんの左手と私の右手をくみ、交通量が多い教室まで三分の道のりを、会話に花をさかせながら誘導し、教室につきました。視覚障害者の方は、右手で白杖を使うため、左手で私につかまります。この日からまた新たな難題に、心痛める日が続きました。
教室には健常の受講生が数名来ており、おはようございますと挨拶を交わし
「今日から一緒に勉強する事になりました視覚障害者のAさんです、よろしくお願い致します」
とみんなに紹介しました。Aさんも五名ほど来ていた健常の方々に挨拶しましたが、挨拶というより、自分の苦しい心境を話し始めました。
「目が見えなくなってから、もう何も出来ない、生きていてもしょうがないから、死んだ方が子供にも迷惑かけずにすむと考え、家の近くにある踏み切りへ毎日のように行き、電車に飛び込んで死のうと思いました。が、目が見えないから、電車の音だけが通りすぎ、踏み切りでは駄目だとわかり、それなら薬で死のう、目が見えていたころ毎日のように新聞やテレビで薬を飲んで自殺したと報じていたから、玄関を出てさあ薬局に行こうと思ったら、目が見えないから方向さえ分かりません。もう現状維持でも仕方ないと諦め、歩行訓練の先生にお願いして外を歩くようにしました。今でも、これから先、子供に迷惑をかけたくないので死にたいです」
両手を顔にあて、とても悲しそうでした。Aさんが、
「先生、自殺出来るのは、健常者の特権ですね」
五名ほどいた受講生が、一言一言にうなずきながら涙をふいていた。私も気の毒だと思うし、本当なら泣きたい気持でしたが、私まで情に溺れている訳にもいかず、そこでAさんに、
「そんなに死にたいのなら、ベスト一枚編んでからにして下さい。私はあなたを歩行訓練の先生から預かったんですからね。あなたが辛いのと同じように、家族の方はもっと辛いでしょうし、私達もどうしてよいか分からない。でも、ここに来たのは前を向いて生きていこうと思われたからではないかしら。とにかく今日から死ぬのは一時やめて、ベストを編みましょうね」
人それぞれに強そうな事を言いながら、他人の前では涙を見せずとも、どれだけ一人で泣いて来た事か。私も長い間視覚障害者の方々と接し、その人の悲しさ辛さが分かるだけに、人としての気持は人一倍強く、是非Aさんにもベスト一枚編んで、生きる希望にしていただきたいと思いました。
もう、視覚障害者の方に教え十年余り、障害者の方々に教えるのも、私なりに出来るようになり、精神的にも強くなりました。障害やその他の話を聞き、ただ可哀想と一緒に泣くのではなく、相手の身になり、出来る事を探してやる、どこに障害があろうと、きっと出来る事や、やれる事があるはず、私はそう思いながらAさんに手あみを覚えていただきました。送迎の駅までの三分間、腕を組み雑談しながら歩き、信頼関係も出来、三か月かけてベストが仕上がりました。あんなに死にたいと言っていたAさんでしたが、編んでいる時の顔はたのしそうでまた真剣でした。Aさんがベストを大事そうに持ち、自分で着て、みんなに嬉しそうな顔で披露し、
「みなさんのお陰で仕上がりました。ありがとうございました」
と頭を下げました。その場にいた生徒が、
「Aさん良くよく似合う。素敵よ!」
教えた私がみても、良く出来てました。
「先生、私死ぬのやめました。ベストが編めたから、子供達のセーターも編めると思って。教えて下さい、お願いします。ご心配おかけしました」
丁寧におじぎをしました。
「Aさん、出来る事があって良かったね」
と言い、ほっとしました。Aさんが言っていた、「自殺出来るのは健常者の特権」、この言葉は深く私の胸に刺さりました。次々来る中途失明の方々の中には、電車やバスを乗り継いで来る方も多く、駅まで迎えに行き、帰りは入場券を買いホームに入り、決まった車両の座席に座らせます。視覚障害者の方は、電車を降りて何歩歩いたら改札口に行ける、と計算しているからです。たった駅から三分、送迎する障害者全員と、腕を組み雑談しながら歩く時が、お互いたのしい時間でした。
私をここまでにしてくれた母も数年前、「障害者の方々に仲良くしていただくのよ」この言葉を最後に他界致しました。私は自分の年を考える暇なく、振り返ったらこの道三十年でした。記念に、私についてきて下さった視覚障害者の皆様に、自分で編んだ作品を着てモデルになっていただき、ファッションショーをやる事にしました。
ショーの事を話すとみんな喜んで、
「エー、私モデルになれるの?」
「歩き方勉強しなくちゃ」
と、本当に喜んで下さり、早速会場は市の体育館、その他はイベント会社にお願いし、モデルさんが歩く道に赤いジュウタンを敷き、音楽や照明も華やかに、司会もプロの方に頼み準備を整えました。モデルさんをエスコートしていただく方は家族の方が良いと思い頼みましたが、恥ずかしいと断られ、結局知り合いの小学生や中学生にお願いしました。そんな中、障害者のお孫さんに、
「先生、僕でもよいですか?」
と言われ、ときどきお婆ちゃんを送ってくる高校生だと気付き、
「あなたがエスコートしてくれるの?」
と半信半疑で聞きますと、
「目が見えなくても、どこが悪くても僕のお婆ちゃん、喜んでくれるなら僕がエスコートします。ちょうど編んでもらったセーターがありますから」
その素晴らしい高校生は、県でも強豪で有名な野球部のエースピッチャーでした。私は、「共に生きよう、笑顔で明日も」とのタイトルで、盛大なショーを平成十九年九月九日に行い、大盛況でした。
今は、十三年前から始まった障害者対象の市の講座の主任講師も務め、頑張っております。

檜垣 サダ子 プロフィール

昭和十三年生まれ 手あみ講師 千葉県千葉市在住

受賞のことば

はじめに、選考委員の先生方に心より感謝いたします。ありがとうございました。
今まで自分なりに差別のない指導方法を考え指導して参りましたが、これで良かったのか疑問でした。今回栄えある賞をいただき、これで良かったというメッセージをいただいたように思えました。今もたくさんの障害者が私の講座に参ります。その方の障害に合った指導をし、いただいた賞に恥じぬよう、そして障害者の方々に喜んで覚えていただけるよう、努力していきたいと思います。

選評(浅谷 友一郎)

「視覚障害者に手編みを教え続けて三十五年」これだけでも十分すぎる活動です。ですがこの作品はそのこと以上に障害者の立場にたって物事を考える筆者の檜垣さんの「やさしさ」が印象に残りました。また編み物作りが生きる力をよみがえらせる力を持っているとも感じました。そしてお母様も大変魅力的な方です。すでに亡くなられたそうですが、最後に「障害者の方々に仲良くしていただくのよ」と言い残されたそうです。じんときました。