昼ごろになってやおらベッドから起き出してきた妻は、 「あー、腹がへった。あたし朝御飯たべたじゃろか」 という。 「たべたじゃないね。何もしないでよう腹がへること」 「あなたより若かけん」 確かに六つは若いとはいえ、「老鶯(おう)や健啖にして健忘症(林 十九楼)」というところか。 妻の認知症が顕著になったのは、五年前の平成十九年ごろ。簡単な料理さえしなくなり、水道の蛇口を締め忘れたり、鍋を焦がすかと思えばコンロの火を消し忘れるなど、冷やりとさせられることが増えてきた。 そこで、夕食は宅配弁当をとることにし、週二回ヘルパーさんが料理・洗たくをしてくれることになった。それまで月一度里帰りしてくれていた娘は、週二度泊まりで面倒をみてくれるようになった。 そのころ近くに介護施設ができ、週三回(のち四回)のデイサービスを受けることになったのは、庭の手入れや畑仕事に多忙な私にとっては有り難いことであった。 同居の息子にも認知症についての対応を説明してはいるものの、何度も同じ質問をされるわずらわしさに口を荒げたりして、妻を激怒させることがあった。 そもそも「認知」という言葉は、法律上の婚姻の関係のない男女の間に生まれた子を、その父または母が自分の子として認めるか否かということでしかなかったから、それが近年病名となったことに私はいささか抵抗を覚えた。 井上 靖の自伝的小説で映画化もされた「我が母の記」や、有吉佐和子の「恍惚(こうこつ)の人」は流行語にもなって人の口に膾炙(かいしゃ)したが、いずれも今ふうの認知症がテーマで、悲しいことでも人間はユーモアで乗り切れる部分があることを学んだ。認知症患者は今や全国で二百五十万人にも及ぶという。 朝飯は息子が仕込んだ電気釜にまかせ、私は専ら味噌汁をつくる。ダシの素と昆布でだしをとり具を入れる。自家産の玉葱・人参・馬鈴薯(ばれいしょ)と、豆腐に季節の葉物などを入れるといつも具だくさん。しかし、妻は味噌汁を滅多にたべない。 朝食をすませ新聞を読み終わるのが八時ごろ。そろそろ妻を起こさねばならない。 「おーい」 と呼んで足先などを軽く突っつく。寝起きは機嫌がよいが、デイサービスの当日かどうかが妻にとっては問題である。 手を取って上半身を起こすと 「今日は何曜日?」 とくる。カレンダーは目の前にあるのだが、今日が何日の何曜に当たるかを納得させるのがひと苦労だ。 「月曜日」 「デイサービスに行かにゃんね」 「行かにゃんよ。九時半には呼びにみえる」 「そんならまだ一時間半ある」 判断に間違いはないが、すぐ 「オシッコ」 と杖をついて歩き出すまでが大変。廊下に出ると 「一二三、一二三、四の二の五」 と歩き出し、急に立ち止まって指を折り 「四の二の五で十」 十一だと何度教えても十にしかならぬ。後に従ってトイレの電灯をつけてやるとすぐ追い返される。 以前、台所から廊下へ出たところで転んで右手の親指を骨折し、顔面を打って義歯を欠損したことがあった。介護施設からの迎えで気のあせりもあったようだ。無用の手出しは避けるとしても油断はできない。 デイサービスの朝は、大きな名札を付けた手提げが欠かせない。中には着替えとバスタオルのほか、小銭入れと連絡帳が入っている。午後四時半ごろ帰宅したあとは先ず連絡帳を見る。 体温・脈拍・血圧・入浴の有無・薬の有無・食事摂取量・趣味活動への参加・創作活動の内容、そして「お知らせ欄」には係員の所感が二、三行記される。 「積極的にリハビリに取り組まれていました。他の利用者様とも会話され、交流を持たれています」 という日もあれば、 「リハビリ時声掛けしても、ヒザ痛もありなかなか気持ちが向かない様子でしたが、何かしたいとパズル等に取り組まれています」 また某日は、 「新聞を読んだり運動したりしています。入浴もスムーズになされました。食後、畳スペースで横になり休まれていました」 入浴は、二年前までは家で入浴したり、まれに洗髪させることもあったが、近ごろでは入浴はおろか洗髪もさせてくれない。 肥満気味で膝が悪い妻は高血圧で難聴ときている。最近、両眼の白内障の手術のお陰で、私の白いシャツに付いた飯粒や、床に落とした爪をとがめたり、庭のミミズにたかる蟻を発見するほどである。 デイサービスのない三日間は「お父ちゃんと一緒」とご機嫌だが、食事のほかはたいてい横になってラジオを聴くか仮眠する。声を掛ければすぐ目覚めるていどの浅い眠りである。 脳の活性化のためになるべく外を歩かせたいのだが、なかなか外に出たがらない。何とか連れ出して手押し車を押しながらの久しぶりの散歩の日、まれに人と出会うときは、商家育ちのためか愛想よく挨拶などするが、疲れると車に乗りたいとすねる。 私自身交通事故の後遺症で重い腰を引きずりながら、四十六キログラムの妻のお尻を押して行くのは楽ではないが、すれ違う人からねぎらわれると悪い気はしない。 昼はパン食の私に対して妻は三食米飯でなくてはいけないし、食後はすぐ甘い物をねだる。ためらいながら戸棚のなかをまさぐる私の手元への視線は 「それそれ、その袋のなか」 と、好物の羊かんを見逃さない。 あるときは、私の不在中に台所を探しまわり、隠していた砂糖壺を見つけ出してなめるほどであったが、近ごろは薬のお陰で甘い物もそれほど望まなくなった。 介護施設の「お薬情報」によれば、
- コレステロールを下げる薬
- 認知症症状の進行を抑える薬
- 血圧を下げる薬
- 緊張を和らげる薬
- 消化性潰瘍治療薬
- 痛みや炎症を抑える薬
- アルツハイマー進行抑制剤
- 高脂血症治療薬
六時半のラジオ体操をききながら、自己流のゆっくりしたテンポで体操をすまして台所へ行くと、珍しく息子が味噌汁をつくっている。それではと私は食卓で新聞を読む。
八時の妻の寝起きは上々である。 「今日は何曜日?」 「木曜日。デイサービスはお休みたい」 「誰かくるね?」 「誰もこん」 何度もこれをくり返したあと 「そんならお父ちゃんと一緒」 と喜ぶ。 小用後の妻の陰部を触ってみると、紙オムツがずしりと重い。体をふいてやり何気ないふりでオムツをはき替えさせる。いつかはヘルパーさんから尿漏れのシーツを洗ってもらった。今までになかったことで、症状はじわじわと進行しているようだ。 不思議なのは朝食の途中で何度もトイレに立つことだ。四の二の五と杖で拍子をとりながら、行って帰ったかと思うとまた 「オシッコ」 と立つ。 その度に私も腕を取り持ち上げる。 「いま行ったじゃろうが」 「またいきたいもん」 これを三度か四度くり返す。 一度泌尿器科を訪ねて薬をもらったが、何の効果もなかった。漏らしてはいけないという自制心がそうさせるのか。 ちかごろは、散歩へ連れ出すのもむずかしくなった。体力が落ちたということか。娘の手配で車いすを借りているが、それでは運動にならないのでこのひと月余りまだ使ったことがない。 重症になったときのために、別の介護施設を物色してはとの娘の提案で、里帰りしたおり一緒に心当たりの施設を訪ねてみた。 そこは、通い・泊まり・訪問を組み合わせた多機能型ホームで、介護保険利用限度額以上の負担はないが、妻が入所した場合、孤独に耐えられるかどうか。最近は個人の家を借り上げたグループホームが好評らしい。 説明を聞いた帰りに部屋をのぞいてみると症状の進んだ人が多いとみえ、宙をさ迷うような眼をした老人がたむろしていた。 「お父さんには大変だけど、お母さんは今のままが幸せかもしれないね」 と、娘は帰りの車のなかでいった。 六月も近いある日、何とか散歩に連れ出したい一心の私は、妻に誓約書なるものを書かせた。
明日二十八日午後五時から散歩に行きます。 お約束いたしますので、よろしく。 ○×子
何のことはない。翌日が雨模様だったこともあって誓約書は反故(ほご)になった。 明け方、小用に起きてみると、息子がトイレの掃除を終えたところだった。妻が寝ているうちにと私は作業服に着替え、昨日やり残した落花生の種まきをした。雨に叩かれないようにと網をかぶせて帰宅すると、妻が起き出すところだった。 「今日は何曜日?」 「土曜日。デイサービスに行かにゃならんよ」 「はい」 そっと触ってみるとパジャマの尻のあたりが濡れていて、くずかごには紙オムツを捨てている。 オムツの蒸れで太股の内側が赤くなっている。日中は普通のパンツに替えさせたいが、嫌だときかない。陰部を清浄して患部に塗布薬を塗り、新しいオムツにはき替えさせた途端に 「オシッコ」 テレビのタイトルを読み、人名などを反すうしながら妻の朝食がすむと薬を飲む。薬袋の日付けとカレンダーを自分で確認することは忘れない。薬のあとは 「何かないね」 と甘い物ねだり。予め用意していたコンペイトウの五、六粒を与えると、赤いのが足りないという。 施設の係が迎えにくるのは午前九時半前後、すでに九時近いのにまだ化粧をしていない。 「ほらほら。お化粧はまだじゃろが」 「化けたがよかね」 鏡台のある寝室の電灯をつけると、引き出しを開けながら行きたくないとすね出す。 「お父ちゃんと一緒がよか」 「みんなが待っているよ」 「あたしのごたる婆しゃんを誰が待つね」 「みんなと一緒にチーチーパッパ……」 と、私が歌い出すのにつられて妻も唱和する。 「あたしがいないと徒然なかろ?」 徒然なか(寂しい)といえば、そんなら行かないとすねるし、寂しくないといえば追い出すのかと逆襲する。 「今朝はどうも頭がぼーっとしとる。初手からばってん」 デイサービスを欠席したい予兆だ。 突然 「あたしが先に死ぬよ」 いつもは嫌う言葉を口にした。年順では私が先なのに、残される者の孤独を感じとってのことか。自分の年をようやく言い当て、 「八十一歳までも生きてあたしゃ幸せ」 といつになくしんみりといった。 仏壇の燈明がついていないとか、玄関の外灯を消せとか、主婦感覚だけは忘れない妻が、鏡のなかで美しくなっていく。 間もなく迎えの車がくるのではとイライラしながら見ていると、 「あっちに行って」 と嫌われた。 化粧が終わってまたベッドに横になろうとするのをなだめて、いただき物のぼた餅を与えるとペロリと平らげた。 この妻とともに五十七年、私は決して良い夫ではなかった。その報いでもあるまいが、ここはなんとしてもこの妻を支えてやらねばならない。八十七歳、体力の衰えは否めないが気力だけは持ち続けたい。