二〇一一年一月十一日、ひとり息子の凜太朗は二十歳になった。
その前日が「成人の日」で、母親の私とふたりで式に出て、市長さんたちのお話を聞いたり、母校の先生方からのビデオレターを見たりした。みなさん、保護者への感謝を強調されていた。
夜、何と息子が
「お母さん、ありがとう」
と言ってくれた。
多分「今日までありがとう」でなく、「今日は成人式に連れていってくれて、ありがとう」という意味だった。
それにしても、こんな晴れやかな気持ちで彼の二十歳を迎えられるとは、かつては想像もしていなかった。
*
凜太朗はダウン症と先天性右手欠損という障害がある。今アルバムを繰ってみると、五歳頃までの写真に右手の写っているものがない。家の中で撮ったものでも、洋服で隠したり、撮影の角度を変えて写らないようにしてある。
まだデジタル・カメラが一般的でなかった当時、それは現像してもらう写真屋さんの目を意識してのことだった。
とにかく彼の障害を人目にさらしたくなかった。
外出時は大きめの服を着せ、右袖をダランとのばしていた。夏場は半袖なので、筒状の膝ガードに赤ちゃん用のミトンを縫いつけた手製の「手袋」を、右袖の先にスナップボタンで留めていた。歩けるようになるとそんな姿は不自然で、かえってジロジロと見られたが、手のひらのない腕をむき出しにしているよりはよほどましだと思っていた。
ご近所のひとなどにも挨拶だけして、足早に離れていた。ひとの多い公園などへは決して行かず、友人には自分から子どもが生まれたことを伝えなかった。奇形を伴う重複障害という事実が受け止められず、どんな理由であれ、他人の中で息子のことが話題になるのを怖れていた。
異常なほど神経質に「手袋」を着ける自分は情けなかったし、暑くても自ら外したりせず、疑問や不満を示すこともない当人には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それでもどうすることもできなかった。「この子は何のために生まれてきたのか」「どうやって生きて行くのか」と、毎日答えのない問いを繰り返していた。
一方で生活は多忙だった。大学病院やリハビリ専門病院への通院が月に七〜八回、身体機能・社会生活の訓練の場としての施設には〇歳時から通っていた。私を支えていたのは、子どものためというよりも、ちゃんと産んでやれなかった自分の責務や使命感などという感情だった。
当然だが、いくら真面目に訓練に通っても、健常の子どもたちのようには成長しない。首が据わったのは一歳目前、歩いたのは三歳目前、オムツが外せたのは五歳だった。知的障害の判定も「重度」だった。
「手袋」は家庭内や施設、病院の診察室など、周囲のひとが私たちのことをよく知っている場所でしか外さなかった。施設通いには割り切れなさがつきまとったが、遅れやつまずきのある子どもを持つ保護者同士の交流は気持ちが紛れたし、先生方が息子を案じてくださり、わずかな成長を一緒に喜んでもらえることは、私自身の心の安定に大きく寄与していた。
三歳の秋、心臓の手術のため大学病院へ入院することになった。担当の医師は「動脈管開存症という病気の治療で、難しい手術ではありません」と言った。そして「今回は個室でなく、大部屋に入ってほしい」と続けた。
凜太朗にとって、四度目の手術だった。
市民病院で生まれた凜太朗は、その日のうちに大学病院へ転院した。私は出生直後の顔を一瞬見せてもらえただけで、「身体が小さいから検査が必要なのだ」と説明された。実際には翌日、二二七〇グラムの身体で腹部に人工肛門を造設する手術を受けていた。鎖肛、つまり肛門がなかったため、そうしなければ生きていけなかったのである。
「もし数日で生命を落としていれば、障害があったことは伏せておくつもりだった」と、ずっと後に夫から聞かされた。私が息子とゆっくり対面できたのは一週間も経ってからで、母体を案じた周囲はそれまで事実を告げず、何ごともないかのように振る舞っていた。
そんなはずがないのは察せられたが、私の方は夫が口を開くのを待って黙っていた。問い詰めて、追い詰めたくなかった。
だが、ようやく知らされた現実は、想像をはるかに超えていた。
その後三歳までに、正規の肛門造設、人工肛門閉鎖という根治術のため、二度の手術を受けた。
人工肛門の毎日のケアは大変だった。それまで障害や介護、看護や医学などと無縁だった私には、生活全部が大きな負担だった。
逃げ出せるものなら、逃げ出していただろう。
夫や両親たちは私にほとんど意見を言わなかった。あまり励まされることもなかったように覚えているが、否定や責めに類する言葉は一切なかった。夫の性格からすると、「言いたいことはまず自分に」とみんなに釘をさしていたのかも知れない。
その間の入院は、病院の配慮もあってずっと個室に入っていて、ほかの患者さんたちとは接触がなかった。
考えてみれば、それは「手袋」と並ぶひとつの象徴だった。
私たちは限られたひととしか交流しない生活を続けていた。それが自分たちのためにならないとわかっていても、脱け出す決心ができなかった。だけど……。
十月だったが、入院当日はまだ暑くて半袖を着ていた。他人の前で外した事のなかった「手袋」は、もうヨレヨレだった。
ナース・ステーションの前で、決心を実行した。
病室へ案内される途中、入院している子どもたちやその家族の視線が、ずっと息子の右手に向けられているような気がしていた。
だがそうだったとしても、当人は全くわかっていなかったし、私も意外に平気だった。
小児病棟の四人部屋で、自分から周りのひとたちへ話しかけるようにした。みんなの集まるテーブルへ出向き、食事も一緒にとった。
たちまち翌日、子どもたちから質問が来た。
「何で手がないの?」
「痛くないの?」
「ご飯、食べれるん?」
ドキドキしながら、用意していた答えを返した。
「赤ちゃんの時、おなかの中でケガしたらしいねん。元気で暴れすぎたんかも知れんけど、本当のことは病院の先生にもわからんねんて。痛くないし、一人でごはんも食べれるで」
「どうやって〜?」
という反応に、
「左手で食べるねん」
「そっか〜」
そして、これで解決してしまった。
その後の子どもたちとの話題は、彼ら自身の病気や、家族や学校のこと、その他の世間話(?)になった。
誰にも私たちを傷つける気などなかった。ただ、自分たちとの違いに疑問をもち、息子の日常を心配してくれただけだった。健康なら必要なかった入院生活を経験している彼らが、私にそう教えてくれた。
親しく話せるようになった頃、同室の保護者の方から、不自由な手をそのまま見せているのに感心していたと打ち明けられた。それで入院初日のタネ明かしをして、笑った。
このひと月足らずの入院生活が、私に心を社会へ開いていく勇気を与えてくれた。
だが実際の生活で本当に「手袋」を外せたのは、さらに二年六か月後、願い出て小学校入学を一年猶予してもらい、受け入れてくれる幼稚園が見つかってからだった。
凜太朗が地域の子どもたちと接して暮らす日常になってからは、病院できっかけを得た姿勢を貫いた。障害を隠さないようにし、周囲のひとたちとのコミュニケーションを心がけた。もともと息子自身は人なつっこく、誰にでも近づいていきたい性格だった。ニコニコ顔でふざけかけ、ひとの話に割り込んだり邪魔をする息子に、子どもたちはわがままな弟ができたぐらいの感覚なのか、よく面倒を見てくれた。先生方はいつも最善の配慮をしてくださり、保護者の方々は、自分たちの子どもが私たちを傷つける言動をしていないかと気にしていた。どういうわけか、私の方が子どもたちの素直な気持ちがわかる場合が多く、それを代弁することで距離が縮まった。同級生より二回りも三回りも小さい息子は、いじめられたりからかわれることもなく幼稚園から地域の普通学校に進み、普通学級と特別支援学級を行き来して、機嫌よく小・中学校生活を過ごした。
私たち夫婦が望んだのは、必要以上にひとの迷惑にならず、理解が足りなくても周囲に合わせるよう息子当人に努力させることだった。それで親や先生が厳しく接する分、子どもたちがいつも協力してフォローしてくれた。
小学校高学年から、成長ホルモン治療のために毎日自宅での筋肉注射を始めた。
少し身体がしっかりして一人で通学できるようになると、悪さもひとの真似をして一人前にしでかした。例えばピンポンダッシュ。よそのお宅のインターホンを鳴らしておいてダッシュで逃げるいたずらである。もっとも彼の場合は、ダッシュせず悠然と歩いて去っていくものだから、簡単に犯人と認定され、すぐに学校へ通報されていた。
乗り物が好きで、同じ頃からコマ(補助輪)つきの子供用自転車に乗り、週末など夫と河原へ出かけるようになった。ブレーキは左手と足、ハンドル操作は不思議に巧かった。
ところが、中学三年になると子供用では小さ過ぎるという限界が来た。
訊いてみると、大人用の自転車にコマは付けられない。ホルモン治療の効果で身体は大きくなったのに、それで一方の楽しみが失われるのでは複雑な気分だった。
三輪自転車に乗り換えるか、それとも特注で身体に合ったコマ付きを作るかと思案していたのだが、ある日試しにコマを外してみた。
家の前の道路でその自転車に乗せてみて、「ええ!」と驚いた。多少フラつきながら、そのまま曲がり角まで乗っていったのである。知らないうちに、息子はコマに頼らず自転車に乗れるようになっていた。我が家の騒ぎにご近所の方も出てきて、同じように喜んでくださった。
これは自信になった。当人の希望で購入した「赤色」の、周囲の子どもたちと同じタイプの自転車に、明らかに得意げに乗るようになった。
ほかには音楽が好きだった。小学校一年の時、授業で習った『キラキラ星』を家にあったおもちゃのキーボードで意外なほど上手に弾いているのを見て、これはとエレクトーンを習わせていた。出来ないことだらけの毎日の中で、それは一条の光だった。将来余暇を過ごす手段の一つになればいいと思った。息子が奏でる童謡には心を和ませるものがあった。
五年生の時にそれまでの先生が転居されてしまい、別の先生にピアノのレッスンをお願いすることにした。初めて伺った日、何か弾いてみてと言われ、左手だけで弾く息子に先生が言った。
「右手は何をしているの?」
右手はないんですけど……。キョトンとする私たち親子に、先生がご自分の右手をグーに握り、左手と合わせた都合六本の「指」で『猫ふんじゃった』を弾いてみせてくれた。
弾けるんだ……。
"目からウロコ"を実感してレッスンが始まった。それが大発展の始まりだとは、もちろんその時には考えなかった。
両手でピアノを弾くとなると、短い練習曲でも一年がかりでないと覚えられない。それでも、歌や踊りを取り入れた先生のレッスンは息子の大きな楽しみになった。
中学校の卒業が間近になり、体育館で開く学友同士のお別れ会のため、それぞれが出し物を考えようという話になった。別れなければならない学友たちというのは、ずっと凜太朗の貴重な仲間でいてくれた子どもたちである。いつも支えてくれ、時には叱ってさえくれた。最も長い子とは幼稚園からのつきあいだった。
私は、そんな彼らにぜひ凜太朗なりの表現で「ありがとう」を伝えてほしいと思った。
だが稚拙な作文ではどうしても大人の補足が必要になるし、発音が不明瞭なため朗読してもうまく伝わるかどうかわからない。
それならピアノだ……。
その頃流行った森山 直太朗の『さくら』を、友だちには内緒で猛練習した。
当日、彼が両手で演奏した『さくら』は、少々危なっかしくても確かに『さくら』だった。左手の指一本で弾くのだろうと誰もが考えていたらしい体育館には、どよめきが起きた。共に過ごしてきた子どもたちには、それが凜太朗にどれほどの努力が必要な作業だったかが容易にわかったようだった。
演奏後、大きな拍手に包まれて、凜太朗は達成感と満足感のある誇らしげな笑顔を見せた。
そんな顔を見たのは初めてだと思った。
これで一つステップを上がった。努力すればできること、達成感が得られること、認められれば嬉しいことなどがわかったようだった。ピアノのレッスンに一層チカラが入った。私と夫も、この子の場合は演奏していること自体にメッセージ性があるのではないかと思い始めた。それに何より、あの誇らしげな表情がまた見たかった。
そんな折、「日本障害者ピアノ指導者研究会」という団体の主催で「国際障害者ピアノフェスティバル」なる企画が二年後にカナダで開催される、という情報がピアノの先生からもたらされた。
出演できればすばらしいのではないか。現状では雲の上の話だが、やれるところまでやってみよう。
そう決めたのはいいが、ピアノどころかもっと簡単な楽器すらマトモには触ったこともない私たち夫婦は、ほとんどすべてを先生にお願いするしかなかった。自分たちは家での練習時間の確保や、精神的なバックアップに努める……などと言っても、実際にはひたすらほめ続けることぐらいしかない。しかもそれとてたいした努力ではなかった。いつも息子には小言、叱責の嵐だった私が、ピアノについては本心からほめていたのだから。
先生と息子のやりとりに、やがて私たちはついて行けなくなった。師弟が選んだ曲は何と、ベートーヴェン作曲『ピアノソナタ・悲愴 第二楽章』。
ウソやろ、と私はつぶやいた。そんな難しい曲、凜太朗に弾けるの? 悲愴になるだけじゃないの?……。
気の遠くなるようなレッスンだった。週に二〜三回も通い、手取り足取りのご指導を受けながら、たった一小節の同じ箇所の習得にまるまる一か月かかることもあった。楽譜が読めないので、必然的に暗譜である。長い日は一人で二時間ぐらい家のピアノに向かっていた。脳の血流が集まってくるのか、額が熱くなっていることがあった。当人はそれらを苦にしている様子はほとんどなかったが、親の方は時折不安になって「ピアノ好き?」などと愚問を発し、言下に「好き」と答えてもらって安堵していた。
そして二年。六本指仕様の独自バージョンながら『悲愴 第二楽章』ができあがった。演奏時間五分三十秒、息子にとっては掛値なしの大曲だった。
これで審査を受けて、国際フェスティバルへの出場が決まった。「雲の上の話」は現実になった。キャンペーンを兼ねた国内コンサートがあって、何度か事前演奏の機会もいただいた。
たくさんのお客さんが入った大きなホールで、弾くのは世界ブランドのグランド・ピアノ。一番驚いていたのは音楽の世界を知る先生だったようだ。過分なステージで、目立ちたがり屋のお調子者はいかんなく本領を発揮した。
カナダへの演奏の旅は、とても楽しかった。もっともっと努力しているすばらしい大勢のピアノ仲間が、世界中から集まっていた。その中で、何度も凜太朗のあの笑顔を見た。
十八歳の秋だった。それまでの道のりを思うと、息子から大きな大きなご褒美をもらえたようで、本当に嬉しかった。
高校は特別支援学校の高等部へ通っていた。初めはスクールバスに乗ったが、覚えやすいルートだったため、一年の秋から一人で公共交通機関を使うようにした。どこにいても笑顔を振りまき、周囲に守ってもらえるお得(?)なキャラクターは年ごとにますます発展的で、高校生活も存分にエンジョイしていた。
だが、卒業後の進路については難航した。理解力、体力、手仕事における器用さ、いずれにおいても十分な能力はなかった。そんな中、たまたまお手伝いした作業所の野菜販売での「いらっしゃいませ」がおもしろかった、と言った当人の訴えが取り上げられ、進路指導の先生が先例のない事業所を提案してくださった。
その事業所は、市立の障害者センターの中で、間もなく喫茶店をオープンさせる予定だった。接客業という新しい分野を開発しているところで、そこで働きたいという障害者を探していた。凜太朗の場合、オープン・イベントなどでピアノが弾けるというのも有利な点だった。
卒業式直前、学校中で最も遅い組で就労先が決まった。
ちょうど同じ頃、七年続けていた毎日のホルモン注射を打ち切れることになった。
それから一年、就労先では注意されてばかりの毎日だが、笑顔と元気な声での「いらっしゃいませ」に加え、片手で運べるように工夫してもらったワゴンで、お給仕や下げ膳などもしている。公開演奏の予定を店頭で広報してもらい、実際にそれで会場まで聴きに来られた方もあった。
仕事とピアノを両立させながら、息子は自分の道を拓いている。
*
二十年前、何故私はあんなに辛い思いで毎日を過ごしていたのだろう。あれほど悲しむ必要がどこにあったのだろう。
私は優等生の妊婦だった。出生時の事故は別として、食生活・生活習慣などをきちんとしていれば、障害のある子は生まれないと思っていた。それが……。
ほかの誰でもなく、自分自身の中にある無理解や偏見のせいで苦しんでいた。大学病院の医師が私に最初に話してくれたのは、「私たちにも障害のある子どもが生まれる可能性があります。確率の問題なんです」だった。それでも拭いきれなかった。
障害のあるひとや障害そのものの知識がなかったから、息子の未来や可能性に希望を持てなかった。彼は生涯不幸を背負い、私はその世話をして暗い人生を送るのだと思っていた。
実際には、障害のあるひとの周りには、私が考えもしなかったような環境やチャンスがいくつもあった。教え導き、支え、応援してくださる方々が、いつでもどこにでもいらっしゃった。
そんな多くの方々からいただいたご支援のおかげで、現在の息子がいる。
人間の未来や可能性は誰にもわからない。みんなにそれを伝えることが凜太朗の役目であり、応援することが私たちにできるささやかなご恩返しなのかも知れない。いつしかそう考えるようになっている。
彼の演奏にはそれなりのインパクトがあるらしく、カナダでの演奏以後も人前で弾く機会は月に一度以上ある。日本障害者ピアノ指導者研究会主催のコンサートだけでなく、いろんなボランティアグループや地区社協などからもお話をいただける。
そんな活動の中で、ある日、まだ幼いダウン症のお子さんを持つ方からかけていただいた言葉に、涙があふれた。
「凜太朗君の演奏を聴いて、明日が信じられるようになりました……」
息子より十四〜五年あとに生まれた子どものお母さんと、かつての私がオーバーラップした。
この子どもたちが力強く歩んでいける社会であってほしい。
これからも、できることを精一杯やってみんなの役に立っていこう。
二十年後、中年になっている息子や後輩達がどんなに活躍してくれるのかを楽しみにしよう。
この頃はそう思って過ごしている。