第46回NHK障害福祉賞優秀作品「足でしてきた日々に感謝」村上 美帆子 〜第1部門〜

著者:村上 美帆子 (むらかみ みほこ)埼玉県

今、私は五十二歳です。
未熟児で生まれて、重度の脳性麻痺と診断されました。
きっと両親は悩んだと思います。
あの頃は、まだ医学が発達していなかったので、あまり長生きしないといわれていたそうです。
それでも両親は、愛情込めて育ててくれました。
私が少しでも、生まれてきてよかったと思えるようにと、私をいろんなことに挑戦させてくれました。
私が小学校に入学した時も、母は私を背負って電車で通ってくれました。
私は学校が大好きで、おてんばな子でした。
埼玉県の浦和に生まれたのですが、私が学校に行く頃は養護学校が少なく、熊谷に一校あるだけでした。
浦和からは、遠く通いきれませんでした。
でも両親は、障害者だからこそ大人になった時、少しでも人との繋がり、社会経験を身につけるためにと、東京都北区にある養護学校を探してくれました。
学校が楽しくて楽しくて大好きで、両親の都合でどうしても学校までの送り迎えが出来なく休むことになったときなどは、だだをこねて困らせたりもしました。
小学校四年の時、あるきっかけで、足で鉛筆を持つ楽しさを知りました。
私はそれまで、出来るだけ手を使うようにと教わってきましたが、友達が足で絵を描いているのを見て、私も足でやってみたいと泣きながら担任の先生にお願いしました。
先生もそんな私をみて、
「やってごらん」
と私の足の指に鉛筆を持たせてくれました。
一本の線がかけました。
それが嬉しくて嬉しくて。
何度も何度も練習して、おおきい字が書けるようになりました。
一本の線がきっかけで、私の人生が変わったのです。
中学に入った頃には、授業でのノートをとれるまでになりました。それがまた嬉しくて、私はどんどん足でやることが、生きがいになっていきました。
足でやることの喜び、足でなんでも出来る。
いつの頃からか、足を使うことは当たり前になっていました。もちろん車椅子も足を使って漕ぎます。
高校に入って、家庭科の調理実習の時などは、足でお米を研いだり、包丁を持って野菜を切ったり、みんなで作ったカレーをワイワイ騒ぎながら、楽しく食べたものです。
体育の授業で、年に一回行われる球技大会では、動けない子も参加出来るようにと考えられた、サッカーもどきという種目を、クラス対抗で競うため、毎日練習したものです。
試合当日は、クラス一丸となり一生懸命戦いました。私は足でボールを蹴って、ゴールに突っ込んで相手とぶつかり、ひっくり返ったこともありました。だけど、みんなで戦って勝ったときは、みんなで喜んで、負けた時は悔しくてみんなで泣いたりしました。
そういう経験を出来たことが嬉しく、それも全て足を使うことが出来たからだと思います。学校での生活は、足で何でも出来るという自信を私につけてくれました。
そんな学校生活が終わり、昭和五十三年、高等部を卒業しました。
長くて短い学校生活を終えて在宅になり、これからどう生きていこうか先が見えませんでした。
学校を離れた私にとって、何が出来るか悩むばかり。三か月くらい何も出来ず、ただボーとしている日々が続き、まるで抜け殻のようでした。
時々大声で泣いたりもしました。そんなとき母はいつも黙って見守ってくれていました。一緒に泣いてくれたこともありました。
これじゃいけない、何とかしなければと思うのですが、何をしたらいいのか分かりません。そんなとき、高校時代に手芸クラブでいろいろな物を作ったことを思い出し、出来ることをやってみようと、足で籠を作ってみました。だけど上手くいかず、途中で投げ出してしまいました。みんなでやったから楽しかったんだ、などとばかり考えてしまうのです。
何をやっても思うように長続きしませんでした。
楽しかった学校生活のことばかり考えてしまうのです。
落ち込む日々が続きます。
そんなある日、母がかわいい男の子と女の子の刺繍セットを買ってきてくれたのです。
でも、私はまだ反抗的な態度で、やろうとはしませんでした。
一週間ぐらい置きっぱなしにしてしまいました。
(嫌々ながら開けてみました)
でもちょっとやってみようと思い、母に刺繍糸を針に通してもらい、始めてみました。
足の親指と人差し指で針を持ったのですが、針が細くてなかなか縫うことができませんでした。なんとか一針縫うことが出来、そこで嬉しくなり続けてみようと思ったのです。
最初はどうやっていいのか分からず、布を動かないように重しをのせて、右足で押さえて左足で縫い、何とか出来るようになりました。
刺繍はクロスステッチで、高校のとき少しやったことがありました。でも少し忘れかけていたのですが、母が
「これなら、美帆子にもできるよ」
と言ってくれたのです。
初めて出来た刺繍を額に入れてもらうと、結構上手く出来ていたので、それがとても嬉しくて、またやってみようと思いました。
母が作品を、浦和で行われた障害者作品展に出展してくれ、そこで市長から特別努力賞を頂きました。まさか初めて作った作品が、賞を頂くなんて思ってもみませんでした。
それを機に、私の心はやる気いっぱいで、次の作品は欲張ってミレーの「晩鐘」を買ってきてもらいました。
開けてみると、とても細かく私に出来るか心配になったけど、とにかくやってみることにしました。色が複雑で、どこをやっているのか分からなくなることもありました。
図案を虫眼鏡で見ながらの作業です。車椅子に座った状態で床の上に布を置き、動かないようにファイルに挟み、裏から針を通して表に出すという難しく気が遠くなるような作業を、一日五時間以上続けました。
大変だけど、一個ずつ布の目が埋まっていくのが嬉しかったのです。
一年ぐらいかけて完成させることができました。額に入れると作品が一段と映えてみえました。
私にとって刺繍をすることは、喜びであり、生きがいを見つけました。
三作目は「落穂拾い」。
コツが分かってきて、早く縫うことが出来るようになりました。
次の挑戦は針に糸を通すこと。いままでは、母が何本か針に糸を通して置いてくれました。今度は、全て自分の力で作ってみたくなったのです。
刺繍糸は、細い糸が六本重なって一本の糸になっているので、先がバラバラになってしまうのです。そこで右足で針を持って、左足で糸を持って通そうとするのですが、なかなかうまく通せません。一週間糸通しだけやりました。どうすれば通せるか考えて、コップに水を入れて糸の先を濡らして通そうとしたのですが、なかなかうまくいきません。
それでも絶対諦めませんでした。一週間経った頃、三時間かかってようやく通ったのです。思わず大きい声で
「お母さーん 通ったよー」。
その声に母は
「よく頑張ったね」
と、泣いて喜んでくれました。
時々投げ出したくなる時もありました。糸がこんがらがってなかなかほどけなくなったり、ハサミで足を切ったり、そんなときはやめてしまおうと思うこともありました。でも針に糸が通ったときは、本当に涙が出るほど嬉しかったのです。
だんだんと、糸通しも慣れてきて五分かからず通せるようになりました。
作品は、両親が障害者関係の展覧会や、公民館の文化祭や、私の母校の文化祭などいろんなところに出品してくれました。その都度、作品を見た人達から驚かれるのです。
足でやることは大変なことなのに、素晴らしいと言われたり、凄いことですねといわれるのです。わたしは好きだから出来ると思っているのですが、みなさんの言葉が嬉しくて、続けることが出来たのだと思います。
一日の半分の時間は刺繍に没頭、朝の九時からお昼頃まで自分の部屋に入って、レコードを足で操作し音楽を聴きながらやりました。
お昼になると、足を休ませながら母と一緒に昼食をとります。午後一時半頃からまた始めます。午後三時頃まで続けていると、だんだん足が疲れてきて、親指がつることもありました。最悪だったのは、針を持っている時に親指がつってしまい、針が足にくい込んで痛い思いをすることもありました。
もう少し続けたいと思っても、午後三時を過ぎたら片付けるようにし、母とおやつを食べたり、話をしたり、自分の部屋で手紙を書いたりしました。 私は花が好きで、部屋には植木鉢がいくつもあったので、足で枯れた花を採ったり、水をあげたりして過ごしていました。
夕方になると、夕食の手伝いを時々しました。玉ねぎの皮や、筍の皮を足の指で剥くことが大好きで、楽しいひと時でした。
足で出来ることが楽しかった。
夕食の後はテレビを見たり、日記をつけたりして過ごしていました。
刺繍を始めて四年位過ぎたころ、テレビをみていたらワープロのコマーシャルが流れていました。これなら出来そうと両親に相談したら、難しい顔をしながら考えてみようかと言ってくれました。あまり期待していませんでしたが、一か月ほど経った頃、父が大きな箱を抱えて帰ってきました。
「ワープロ買ってきたよ」
もー嬉しくって、嬉しくって。
両親は
「やってごらん」
と言い、基礎的なことは父が教えてくれました。あとは本を読みながら勉強し、最初はひらがなで打っていたのですが、濁点があったりすると、キーを二つおさなければなりません。ひらがなを探すだけで時間が掛かってしまうので、ローマ字打ちしてみるとスムーズに出来るようになりました。
文字を打つことは、結構簡単に出来るようになったのですが、あの頃のワープロは印刷する時、用紙を押さえながらキーを押すというものでした。左足で用紙を持ちながら、右足でキーを押すのですが、なかなかうまくできません。用紙が曲がって入ったり、引っかかって破けたり、入ったと思ったら字が曲がって印刷されたり。
一か月程経つと何とか用紙が入るようになり、手紙や日記、詩など打つことがスムーズに出来るようになりました。
また一つ出来ることが増えたのです。
年賀状も全て自分でつくりました。
クラス会の案内状や、母の「父母の会」の案内状や、簡単な資料を頼まれて作ったこともありました。勿論刺繍をやりながらです。
ワープロを始めて三年位経った頃には、仕事を頼まれるところまで上達しました。
そして在宅生活九年目を迎えました。
私にとって在宅生活は好きなことをさせてもらいました。
ただ自分でやってきたつもりでしたが、どこか両親に頼っているところもありました。
両親は出来るだけ色々なところに連れて行ってくれたので、サークルに入って沢山の友達を作って、色々なところに遊びに行ったりという経験をしてきました。だけど両親に頼ってばかりいる訳にはいきません。
ある日、知り合いの方から県立の療護施設が出来ることを聞きました。
家族と話し合って、でも結局は自分のことなので、自分で考えて入ることを決心しました。
昭和六十三年十月、草加市にできた、身体障害者の施設に入所しました。
家にいるときは、身の回りのことは母にやってもらっていたのですが、施設では全て自分の足でやりました。洗濯物をたたんだり、お風呂に行くときは父が作ってくれたキャスター付き籠に、紐をつけて引っ張って行き、また、靴下を洗ったり、手でやることを足でやっていました。ただ、食事とトイレと着替えは、職員の方にお手伝いしていただきました。私は欲張りなので、足で色んなことをやってきました。エレクトーン、ミシンかけ、生け花、最後にやったことは油絵を描くことでした。
本当は刺繍だけは続けたく、施設に入って一年ぐらい続けていたのですが、体力的に限界がありました。
私にとって刺繍は、大好きで生きがいでした。ですから、諦めることの悔しさ、情けなさを痛感させられました。
だからと言って、何もしない私ではありません。
足で何が出来るか考えました。
とにかく全て一人でやりたかったので、油絵なら自分で出来ると思ったのです。
絵の具を足で出し、筆を持って、絵の具をといて色を作り、花の絵を描きました。
自分では、結構上手く出来たと思いました。
全てが順調でした。
ところが、油絵を始めて三年ぐらい経った頃、足に異変を感じたのです。
検査をすると、首の骨が長年の生活によって変形し、神経を圧迫していることが分かったのです。病院の先生が言うには、
「手術しても、期待はできません。悪くなることもあります。ただし、してみなければ分かりません。するか、しないかは、本人次第です」
と、言われました。
家族と話し合ったのですが、
「自分で決めなさい」
と言われ、私は悩みました。でも、一%でも治る可能性が有るのならば、それに賭けてみようと思いました。
足がしびれて感覚が無く、全く動かない状態だったので、手術をして、すこしでもまた何か出来ればと思い、もし手術をして悪くなったとしても、自分で決めたことなので、後悔はしないと決心しました。
平成五年、首の手術を受けました。
少しですが、自分の意志で足を動かせるようになりました。
また絵が描ける嬉しさが込み上げて、夢中で描きました。
ただ一人で描くことは難しく、ボランティアの方にお手伝いしてもらいながら描きました。
約五年くらい、絵を描き続けたのですが、やはり限界でした、
そして今は、首から下は全く動きません。
体が動かなくなったことは、悔しくてもどかしいことですが、私にとって足で何でも出来たことは、奇跡だったのかもしれません。
体は動かなくなったけど、何かを見つけて、私にしかできないことをしていきたいと思います。
私は、生まれてきて本当に良かった。
まだまだ、これからやれることがあるはずです。
少しだけですが、詩を書いたり、童話をつくったり、何とか、出来ることが見つかったような気がします。
一人では難しいけれど、周りの方々にお手伝いをして頂きながら、もう少し頑張ってみようと思います。
この原稿を書くにあたって、職員の方々、実習生のみなさん、ボランティアの方々に手伝って頂き、本当にありがとうございました。
そして、両親に一言。
私を生んでくれて、本当に感謝しています。
これからも私は、私らしく生きていきたいと思います。

「足」
久しぶりに自分の足を見た
感覚がない足を見てた
もう少し動いていてほしかったのに
けれどよく動いてくれたね
ならば、がんばったねと褒めてあげよう
動かなくてもいい
感じなくてもいい
大切な足
私の誇り
わたしの足だから


村上 美帆子 プロフィール

昭和三十四年生まれ 無職 埼玉県草加市在住



受賞のことば(村上 美帆子)

正直言って、まさか優秀賞を頂けるなんて夢にも思っていませんでした。驚きと嬉しさでいっぱいです。今の私は、首から下は全く動かず、言葉も出辛くなってしまいましたが、そんな私の人生の一ページを多くの方に見て頂けたら光栄です。素敵な機会を本当にありがとうございました。今回の受賞をきっかけに、これからも良い作品を作っていきたいと思います。



選評(掛川 治男)

通うのが楽しくてしょうがなかった小学校で、足を使うことを覚えて、村上さんの積極的な人生は新しいスタートを切りました。そして卒業してからの抜け殻のような毎日から抜け出したのは足で縫う刺繍でした。針に糸を通す作業など、想像するだけでそれこそ気の遠くなるような苦労があったと思いますが、そんなことを感じさせない前向きに生きる強さを感じました。