第46回NHK障害福祉賞優秀作品「『ただいま』」松永 香奈恵 〜第1部門〜

著者:松永 香奈恵 (まつなが かなえ)滋賀県

「障害」と言えばまるで枕詞ででもあるかのように「乗り越えて」とか「があっても明るく前向き」と続く気がします。けれど、私にはいまだに「障害を乗り越える」ということの意味がわかりません。「障害物を乗り越える」と言うならわかります。けれど、障害を乗り越えるとはどういうことなのでしょうか? はたして本当に乗り越えることなどできるのでしょうか? 「障害があっても明るく前向き」とは、言い換えれば「障害があれば暗くて後ろ向き」であるのが普通ということなのでしょうか? けれど、多くの人は障害者は「障害を乗り越え、明るく前向き」だと思っているように見えます。これはマスコミに取り上げられる障害者の多くがそう見えるからかもしれません。しかし、障害の有無に関わらず、よほど悲しい話をするとか、つらい経験を語る場合でなければ、見ず知らずの人に対しては失礼にならないように、たいてい誰でも明るく対するのではないかと思います。それが障害者だと、なぜか「障害を乗り越えて」とのフレーズになってしまうのですから不思議です。明るく振る舞うことと、その人の心が同じだとは誰にも言えません。たとえ暗く見えてもそれが障害のせいとも限らないのです。
あるとき電車の中で次の予定を考えていた私は、突如知らない人から声をかけられました。
「目が見えなくても明るく生きないと」
私はあっけにとられました。最近よく使われる顔文字で言うなら「目が点」と言ったところでしょうか。おそらくその人から見た私は「暗くて後ろ向き」に見えたのだと思います。そして白杖を持っていたから「目が見えないから落ち込んでいる」との連想になってしまったのだろうと思います。「目が見えなくても明るく生きないと」、その言葉をかけてきた人に悪意があったとは思いません。むしろ励ましたつもりだったのではないでしょうか。けれど、言われた私はただあっけにとられたのです。頭の中に?マークがたくさん浮かんでダンスでも踊るようにぐるぐる回ります。こんなとき、「障害を乗り越えた人々」はどうするのでしょうか。私にはわかりません。もちろん私も障害に悩んだことはたくさんあります。
私は幼い頃に視力を失い、見えていた頃の記憶はまったくありません。小学校から高校までは盲学校に行き、その後訓練所に行きましたが途中退所しました。電話交換の訓練を受けていたため、幸い就職先を得て、短い期間でしたが働く経験もしました。その会社で夫と出会い、結婚しました。こんな経歴ですから、就職し、結婚するまでは健常者の友人はいましたが、大半は障害をもった人か、指導者で、言ってみれば福祉関係の人たちだったのです。ところが結婚してからは、周囲のほとんどが健常者という状況になりました。障害者に慣れていない近所の人、夫の親戚や友人知人、私自身も健常者の友人知人との関わりが増えました。不安や戸惑いは多く、うまく伝えるすべもわからないまま悩んだこともあります。けれど、幸い周囲の人々に恵まれていましたので、試行錯誤を繰り返しながらも生活は軌道に乗って行きました。
こうした変化の中で私が感じたのは、知っているつもりで知らないことがどれほど多いかということでした。ある年、私は夫にオカリナがほしいと言いました。夫はプレゼントにと買って渡すのを楽しみにしていたようです。ところが、受け取った私は困った顔をして、しばらくたって口にした言葉は、
「これ、鉄砲?」
だったのです。
オカリナの音を聞いたことはあります。けれど、視力のない私は自分で触れてみたことのないものは何なのかわかりません。初めてオカリナに触れたとき、私はおもちゃの鉄砲に似ていると思いました。それにしては弾が出るところが多すぎますし、普通、弾が出るはずの先端は穴があいていません。けれど、ほかには思いつくものもなく、何秒かの間にどう反応しようかと迷い、考えたあげく口にした言葉が
「これ、鉄砲?」
だったわけです。夫にしてみれば欲しいと言っていたオカリナを渡しているのですから、私の喜ぶ顔を期待していたのでしょう。ところが返ってきたのはなんともとんちんかんな反応です。夫は大爆笑して、これがオカリナというものだと教えてくれました。それ以来、オカリナは私の小さなパートナーとなりました。二〇〇〇年夏、きっかけを得て広島を訪問してからは、毎年平和活動の一環として広島訪問を続け、千羽鶴を届けていますが、いつの頃からか怖いもの知らずで平和公園で下手なオカリナ演奏をするようになりました。おもちゃの鉄砲と間違えられたオカリナは今では平和のメロディーをたどたどしくつむぎだすものとなっています。
結婚生活も軌道に乗り、環境にも幸せにも慣れた私は、いつしか自らの力で障害を乗り越えたつもりになっていきました。けれどそれは大きな間違いでした。私は障害を乗り越えるどころか、むしろしばられようとしていたのです。障害を乗り越えたつもりの私は、色眼鏡で見られること、決められた枠にはめられることをいやがるあまり、福祉関係にかかわることを避けるようになっていきました。私にとって「福祉」や「障害」という言葉は、私をしばろうとするロープのように思えました。そこから抜け出したつもりの私は、二度とロープに絡めとられることはしたくなかったのです。
それが逃げているだけだということにも気づいていませんでした。やがて私は障害という言葉や、それを連想させるものに対して好戦的態度をとるようになって行きました。このため友人知人に対してもまるで障害が禁句ででもあるかのように振る舞うことが増えて行ったように思います。ある仲間たちと話したとき、一人の人が福祉について私にたずねたことがあります。私は一言「障害関係には関わりません」とつっぱねました。その人はそれ以来私に福祉関係の話をすることはありませんでした。
また、年齢を重ねて視力が落ちてきたという知人が、「最近見えなくて」ということにさえ怒りを感じていました。
「私より見えるだろう。それなのに私の前で見えないなんて言葉を使うのは無神経だ」
と思うのです。
「目が見えなくなってきて、針に糸が通せない」
と聞けば、
「私は自分で糸を通している。それなのによくそんなことが言えるものだ」
と思います。けれど、私は直接言おうとはせず、ただ冷ややかに知人たちを見下していました。これが「障害を乗り越えたつもりの私」だったのです。周りの人々のささやかな言葉や態度にぴりびりし、常にそこに差別や無神経さを見付けようとしていたように思います。そしてあら探しの数だけ私は障害を意識するようになって行ったのです。
ある年、広島に届けるための折り鶴を用意している時、まだ繋いでいない折り鶴を見た知人が
「色別にしないと綺麗じゃない」
と言ったことがあります。私はただ否定されたと感じ、視力がない私へのいやがらせだと思いました。しだいに萎縮するようになった私は、その人と関わること自体を拒むようになったのです。その人は多少言葉遣いは大雑把でしたが、反面小さなことにはこだわらないおおらかな性格でした。もし私がいやがらせだと決め付けるのではなく、
「色別のほうが綺麗だと思うなら分けてよ」
と応えるか、
「色は違っても織り込んだ心は同じ色なんだよ」
と応えていれば、その人との関係は大きく変わっていたかもしれません。少し何かを言えばうつむく、そうでなければはねつける、そんな私に周囲の人々がなにも聞けなくなって行ったのは当然の成り行きだったと思います。けれど拒絶されていると思い込んだ私は、「どうせわかってもらえない」との口実を作り、思いを伝えようともしませんでした。やがて自分とも人とも向き合わなくなり、差し伸べられる手にさえおびえ、不自然な明るさだけを覚えて行きました。このため私は多くの友人知人を失いました。
そして、人を信じる心を無くし、闇と氷に閉ざされていったのです。
今振り返れば私がなにも言おうとしなかったのは、そのほうが楽だったからだと思います。できないと認めること、傷ついたと知らせることは、はねつけるよりよほどエネルギーを使うことです。黙っていればそれ以上傷つかなくてすむ。うつむいていれば誰かが同情してくれるかもしれない。自分の心にバリアを張り巡らせておけば冷たさも跳ね返すことができる。意識していたつもりはありませんが、おそらく私はそう思い、すべてをガードするためのバリアを張り巡らせたのだと思います。心にバリアを張れば、冷たさだけでなく、温かささえも跳ね返してしまうことにも気づかずに。
数年の間、私は心を閉ざし、闇の中をさまよい続けました。けれど、人と関わるときは、なにも気にしていないふりで明るく振る舞います。それこそ「障害を乗り越えて明るく前向き」に見える態度だったかもしれません。けれど、私の心は凍りつき、本当の思いを見せることは少なくなって行きました。
そんなある年、私はひとつの音楽祭に参加する機会に恵まれました。障害のある人が詩を作り、曲をつけて歌うという音楽祭でした。私は参加者との気軽な交流は望んでいましたが、励ましあおうとか、痛みを分かち合おうなどという気持ちはありませんでした。むしろ障害をもった人には、ほかの人に対するより一層冷ややかな思いを抱いていました。がんばっているとアピールする障害者を見ると、「なにもそんなに背伸びしなくても」と思います。自分が苦労してきたと言う人には「そんなに哀れんでほしいの?」と思います。そしていずれも私には受け入れられない姿でした。愚かなことにはこの感情が「障害を乗り越えたつもりで捕われている自分」に対するものであることに私は気付いていませんでした。障害があるから大変なわけではない、なにも障害者だけががんばっているわけではない、みんな変わらない、自然体でいいはずだ、そう思いながらもっとも不自然に明るく振る舞おうとするのは私であり、もっとも自己憐憫にひたっていたのも私自身だったのです。だからこそ明るく振る舞う人を見ても、悩む人を見ても、認めたくない自分を映されているようで反発を感じたのだと思います。私は人とは違う障害者でいたいと思っていました。例えるなら、みんなが白い服を着るなら私は黒い服を着たいと思っていたようなものです。
私はこの音楽祭に二度参加させていただきましたが、その中でAさんと出会いました。Aさんは一度目の参加の際、他の方の詩に曲を付けていらっしゃいました。優しい歌声と美しい曲もさることながら、それ以上に謙虚なコメントが印象的でした。けれど、この年は直接言葉を交わす機会はありませんでした。次の年、Aさんはお友達の応援にきていたそうで、偶然再会することになりました。私のことも覚えていてくれて、声をかけてくれたのです。当時の私にとってはAさんはスターのようなものでした。私は、胸をときめかせ、前年聞いた曲が好きだと告げました。AさんはCDを送ると約束してくれ、これがきっかけとなって連絡をとりあうようになりました。個人的に関わるようになって知ったのは、Aさんの謙虚さと律儀さが見せかけではなかったということでした。けれど、「福祉関係のところで出会った人だから、どうせ私を障害者としてしか扱わない。枠にはめこもうとするに決まっている」、逆差別とも言えるほどの先入観を抱いていた私は、礼儀はそれなりに重んじるものの、心を開いて関わることにはきわめて臆病でした。それでもAさんの人柄のおかげでメールのやりとりが途絶えることはなく、やがて「遠いスター」は知人となり、友人となっていきました。数年の闇の時期にも贈り物とも思えるできごとがありましたが、Aさんとの出会いもそのひとつだったと思っています。
闇と氷に心を閉じ込めた私は、しだいに力を失っていく自分を感じていました。無気力と投げやりな思いが交錯し、生きる意味や自分にとって大切なものがなになのかもあいまいになり、夢や理想は遠ざかっていきました。時には死に魅入られたかのようにひたすら死という言葉が頭の中で乱舞することさえありました。幼い頃から死を考えることは少なくありませんでしたが、この時期の死に対する感情は、死にたいというより、ただ呪文のように死という言葉が頭の中で延々と巡るのでした。外では明るく振る舞う私も家では沈み込むことが多く、家事もできなくなって行きました。ほとんど寝たり起きたりを繰り返すだけになり、人と関わることも避けるようになって行きました。そんな私に夫は苦情を言うわけでもなく、仕事から帰って家事をこなし、私がいつでも食べられるようにと食事の用意もしてくれていました。
私にわずかながら元気がもどるのは、夏のひと時でした。もしも私に広島訪問と、文を書く楽しみがなかったなら、私の心はもっと深い闇にとらわれていたかもしれません。心を閉ざしてからの私は小さなことにもおびえるようになっていましたが、広島では奇妙なほど元気になれるのでした。白杖を持ってひとりオカリナを吹いている私の姿は当然目立つのでしょう。知らない人から声をかけられることもよくあります。
いつもなら萎縮するかはねつけるかのどちらかになってしまう私が、なぜかこの日だけは自由な心でいられました。まるで鳥かごを出た鳥のように。そこでの私は障害者ではなく、目が見えないただの平和を願う一人の人間に帰っていたのです。訪問を繰り返すうち、毎年会う知人もでき、広島は平和を願うだけでなく知人との再会をはたす場所ともなりました。けれど、残っていたエネルギーを使い果たしてしまうかのように、しだいに力が薄れていくのを私はたしかに感じていました。一昨年夏には訪問の前日さえどこか実感がなく、「決めていることだから」との感覚が強くなっていました。このままでは広島訪問をする力も失うのではないか、文を書く気力も失っていくのではないか、私は危機感を持つようになりました。
昨年も夏が近づき、前年以上に力を失っていると感じた私は恐怖にも似た感覚に捕らえられました。
「私は壊れてしまう。広島に行く力もないかもしれない。なんとかしなければ」
そう思うものの、どうしていいかもわからず、気力もわいてきません。時は容赦なく夏をつれてこようとしていました。そんな時、私はかつての友人Bさんと再会しました。Bさんは平和を願う人であり、行動力と優しさを持った人でした。時々相談にも乗ってもらっていて、「みんなは飛べるのに私だけが飛べない鳥なんだ」と落ち込んでいた時、翼のブローチをくれた人でした。あまり障害を話題にすることもなく、自分から深く踏み込んでくることはありませんでしたが、相談すればいつも誠実に答えようとしてくれました。私が心を閉ざしてからも、何度か心配して手を差し伸べてくれたこともありました。けれど、人を信じなくなった私はBさんをも避けるようになり、関わらなくなっていたのです。
数年ぶりの再会は、私になつかしさとともに遠い日の穏やかなほほえみをつれてきてくれました。Bさんはまるで空白の時などなかったかのように、昔そのままに私と対してくれたのです。
「もう一度自分と向き合ってみよう。もう一度人と向き合い、ふれあってみよう」
そう思ったものの、私の心の氷は厚く、闇は深く、すぐに抜け出すことはできませんでした。ある時、
「Bさんなら聞けたはずなのに、なぜ心を閉ざした理由を聞いてくれなかったのか。私は聞いてくれなかったことが寂しかった」
と責めたことがあります。もしも私がBさんなら間髪を入れず
「聞いてくれなかったって、あなたが話さなかったんでしょ」
と切り返していたに違いありません。ところがBさんは静かに答えました。
「寂しい思いをさせて悪かった」
その時は優しい人だなと思っただけでしたが、時が流れるにつれ、言葉は暖かい光となって胸に染み入ってきました。光は闇を照らし、忘れていたいくつもの優しい記憶をよみがえらせました。そして気づいたのです。夫もAさんもBさんもそのままの私を受け止めてくれていたということに。こうあるべき、こうでなければならないと枠を作っていたのは私自身だったのです。心を閉ざそうとした時も、かじかんで感じなくなっていただけで、しっかりと握ってくれる手はあったのです。おびえて震えるだけではなく、ほんの少し手を差し出せば包み込んでくれるぬくもりがあったのです。私の心の氷はゆっくりと溶け、氷の下に眠っていた夢見る思いや、自然なほほえみや、信じたいと願う心が、眠そうな目をこすりながら起き出してきました。溶けた氷は遠い日のように素直な涙の泉に帰って行きました。
私は障害を乗り越えることをやめました。障害と言うと特別に感じる人も多く、戸惑ったり身構えたりする人もいます。けれどそれが差別や拒絶とは限りません。ただどうしていいかわからないだけかもしれないのです。幼い子どもならわからなければ質問するでしょうが、大人にはなかなか聞くこともできません。優しければ優しいほど、気遣いができればできるほど、安易に聞いて傷つけることを心配するのかもしれません。けれど、障害はそんなに特別なものではないのです。例えば小柄な人が高いところの物を取るのが苦手だからと言って、それを障害だと思うでしょうか? 乗り越えなければと思うでしょうか? 当然思わないでしょうし、背の高い人がいれば取ってくれるように頼むかもしれません。頼まれた人も、頼んだ人も、日常の出来事と受け止めるのではないでしょうか? その程度のことなのです。私には乗り越えなければならない障害など初めからなかったのです。乗り越えようとした時、不得手は障害と変わり、越えたつもりになったとき、私は本当の光を見る力を失ったのです。
今も落ち込むことはよくあります。視力があれば思い出の写真ももらった手紙も自分で見られるのにと、寂しい気持ちになり、涙を流すこともあります。私はそんな自分を情けないと思ってきました。けれど、悲しむ自分も背伸びしたがる自分も、自然な自分の一部として見つめたいと思うようになりました。
今、私は新たな夢に向かって歩いています。心を閉ざして離れた友人知人の何人かとも再会し、今は素直な気持ちでふれあっています。夢に続く道は一本道とは限りません。遠回りしたり、寄り道したりしながら進んで行きたいと思っています。迷った時、進む力をなくした時は、勝手に一人ぼっちにならずに、助けを求める勇気を持ちたいと思います。そして大切な友人が困った時は私が手を差し伸べたいのです。たしかに世の中には心無い人もいることでしょう。差別する人もいるでしょう。だからと言って初めから身構え、心を開かなければ幸せのチャンスもまた手にできないのです。素直な心でつながろうとすれば出会える温かさがあります。「こうでなければならない」より、「こうしたい。こうなりたい」との気持ちを大切にして行きたいと思います。そうすれば障害はただの不得手になり、大変ではあっても楽しみを増やす力にさえなるのです。
またいつか乗り越えなければと思うかもしれません。乗り越えたつもりになるかもしれません。けれど、素直な心を失いさえしなければ、きっと大切な人々が力をくれると思います。いつも励まし、支え、見守ってくれる私の大切な人々、その手に触れながら、ともに歩んでいきたいと思っています。
数年の迷い道の果てに、ようやく私は自分の居場所に帰ってきた気がしています。
「遅くなりましたが、私ただいま帰りました」



松永 香奈恵 プロフィール

昭和四十七年生まれ 主婦 滋賀県長浜市在住



受賞のことば(松永 香奈恵)

入選の知らせをいただきましたときは、涙が浮かんでまいりました。けれど、今回このような賞をいただけましたのは私の力ではなく、友人や私を支えてくださっている方々のおかげだと思います。特に作品に書かせていただきました友人たちには感謝してもしきれません。入選の喜びとともに、温かい方々との出会いとつながりに改めて幸せを感じています。感謝をお伝えしたい気持ちでいっぱいです。



選評(鈴木 ひとみ)

「障害を乗り越えて、明るく前向き」- 健常者が何気なく使うこの言葉に、追い詰められた人はきっと松永さんだけではないでしょう。障害を受容することに長く苦しんだ貴方には、実は、乗り越える障害などなかった。それは自分自身が作ったハードルだと気づかれました。ようやくこころの平安を取り戻した貴方の「ただいま」に、「お帰りなさい! 苦しんだ年月は無駄ではありません。きっとこれから分かるはず。楽しんで生きていってください!」と応えたいです。