第45回NHK障害福祉賞優秀作品「地域で暮らす」 〜第1部門〜

著者:阿賀 玲子 (あが れいこ)福岡県

私は先天性の「脳性麻痺による四肢体幹機能障がい」という障がいと、二十七歳の時に特定疾患である「特発性大腿骨頭壊死症」に罹った四十四歳の女性です。
脳性麻痺による四肢体幹機能障がいは、出産時に子宮から頭が出たところで子宮が締まり、その時に脳に酸素がいかず、仮死状態で生まれてきました。その後遺症が、手と足と体幹と言葉に出ました。
手の障がいは、大きな画用紙の一枚に二文字程しか書けなかったのが、訓練(現在はリハビリという)をして小学校高学年になる頃、手首に一キロの重さのバンドを巻いて四百字詰めの原稿用紙のマスに書けるようになりました。手を使う食事や洋服の着替えなどもいろんな用具を使って、ほぼ一人で出来るようになりました。
足の障がいは、小学一年でやっと一歩、歩きました。訓練で小学二年の時に、膝下からの補装具を履いて転倒予防に頭部保護帽をかぶって、身体を左右に揺らしてバランスをとって歩き始めました。
体幹の障がいは、首の据わりも遅くて、お座りも遅かったそうです。
言葉の障がいは、家族も聞き取れない程でよだれも多かったです。小学四、五年の時に受けた訓練で、初対面の人とも話せるようになり、両親からは「訓練をしすぎて、うるさいな」と言われる程に喋れるようになりました。現在では、生きていく上で一番の武器になっています。
幼い時から訓練の毎日でした。現在のリハビリ環境と違って、大学病院まで片道一時間以上かかって行き、十分程の訓練を受けるのがやっとの時代でした。
幼稚園は障がいをもった子供たちが通う、大阪の幼稚園に入園し、お遊戯や訓練をしていました。
小学校も養護学校に入学し、勉強・訓練・遊びにと楽しい毎日を過ごしていました。
小学二年が終わる頃、父の転勤で福岡に引っ越す事になりました。両親と私の三人で福岡の養護学校を見学に行きましたが、あまりにも大阪の養護学校がいろんな面で進んでいたので、福岡の養護学校に通う気になれませんでした。そこで、恩師に相談して北九州にある肢体不自由児施設「足立学園」を紹介してもらいました。
小学三年から足立学園に入園できました。ここでの生活は、今までと全く違って親元を離れて、仲間たちと衣食住を共にする生活でした。施設内に学校があって、学校では一人ひとりに日替わりの時間割りがありました。時間割りの中に訓練や治療の時間が入っていて、私は、一日の三時間は手・足・言語の訓練でした。学校が終わると、自分たちの部屋に戻って入浴日は入浴をし、友達と勉強や庭で遊んだりしていました。仲間たちは五歳から十八歳の人たちで五十人程いて、面倒を見てもらったり、見たりとお互いに助け合って生活をしていました。二週間に一回、一泊二日で家に帰るのがとても楽しみでした。ここで三年間過ごして、足の手術を二回受け、訓練を頑張って、ある程度の事が自分で出来るようになり、足立学園を退園しました。
小学六年から、はじめて校区の普通小学校に通うようになりました。私にとって一番驚いたのは、一クラスに四十人程の生徒がいた事でした。養護学校では一クラスに六人程でした。何をするにも初めての事ばかりでした。次に驚いたのは、夏休みが四十日間もあった事で、施設では、お盆の前後の十日間程だったからです。一学期は、みんな優しくて楽しく過ごせました。しかし、二学期が始まってからみんなから無視をされたり、いじめられたりし始めました。たぶん、一学期は障がいをもった私がめずらしくて、優しくしてくれたり、近づいてきたのではないかと思います。一年間はあっという間に過ぎて、小学校を卒業し、校区の普通中学校に入学が決まりました。姉と兄が卒業した中学校に行けることがとてもうれしかったです。
入学して間もなく、障がいをもっている事に対してのいじめが始まりました。授業中に消しゴムを投げられたり、給食がなかったり、頭から牛乳をかけられたり、階段から突き落とされたりといろいろないじめに遭いました。そして幾度も「死にたい」と思い、自殺をしかけた事も何度もありました。その度にここまで育ててくれた親の顔や、訓練をしてくれた先生の顔や、勉強や生きる力を教えてくれた先生の顔などが脳裏によぎって「死んではいけない」と思いとどまって、「いじめられても学校は休まない」と決めました。だから私の中学時代の思い出は、いじめの事が強いです。「障がいがあるだけで、みんな同じ人間」と大声で言いたかったです。中学校を卒業して、普通高校に行きたかったのですが、願書を出した高校の校長先生が障がいに対しての理解がなかったので行けず、養護学校の高等部に入学しました。
高等部では、勉強が好きになりました。なぜかと言うと、一人ひとりのレベルに合わせて授業を進めてくれるからでした。私は社会福祉士になりたいために短大を目指して頑張っていましたが、高校三年になる前に痙攣発作が出て一年以上入院し、一年留年して卒業しました。入退院を繰り返して、やっと自分が置かれている現実を受け入れる事が出来、社会福祉士の夢を諦めて、手に技術をつける為に障がい者の職業訓練校に行きました。そこで印刷の技術を身につけました。
そして晴れて、二十一歳の時に通所授産施設に入れて印刷の仕事をやっていました。家から片道一時間半かけてバスを乗り換えて行っていました。仕事にやりがいもあり、友達が出来て、また仕事以外に水泳・車いすツインバスケットボール・車いすマラソンなどを楽しんでいました。しかし、二十七歳頃に特発性大腿骨頭壊死症が両肩と両股関節にでて、左股関節の壊死の状態が酷くて、手術をして痛みはなくなりました。しかし、前のようには動けず車いす生活になり、仕事にも行けなくなり、家に閉じこもるようになりました。何も出来ない自分を責めていた時、今の水泳コーチとめぐり合い、水泳を再開するようになりました。それから何に関しても以前の積極性が出てきて、デイ・サービスや作業所に通うようになりました。
そして、いろんな人のお話を聞きに行ったり、ピア・カウンセリングの講習会に行きだしてから「夢で終わるだろう」と思っていた一人暮らしに向けて準備を始めました。でも、両親と兄弟は反対でした。
そして、遂に三十六歳の春から一人暮らしをスタートしました。自分で探したアパートに引っ越しするのも学生ボランティアさん達に手伝ってもらい、引っ越しは無事に済みました。一番苦労したのが、同じ市内で隣の区に引っ越しただけでヘルパーさんに来てもらう時間が少なく出された事です。何度も区役所に交渉に行き、やっと計画どおりの時間数が認められました。でも当時は、一日四時間がやっとで、足りない時間はボランティアさん達がなるべく私が困らないようにヘルパーさんの時間外の穴を埋めてくれました。時には発熱などで一晩中付いてくれたこともあり、とてもうれしかったです。ヘルパーさんの時間数が足りないうえに、自分の障がい程度が月日と共に重くなっていくので、その度に障がい福祉課の人に相談して、四時間から六時間というふうに徐々に増えていき、現在では二十四時間体制でヘルパーさんに来ていただいています。夜中の急な病気の変動で声も出なくなるし、しばしば脳性麻痺特有の緊張や不随意運動が出て、何も出来ない私にとってはとても助かっています。
実家で料理もしたことのなかった私は、食材を買う事からが初めての経験で、ヘルパーさんやボランティアさんからの色々なアドバイスをもらって一つ一つ揃えていき、自分の生活環境を作っていきました。食事のメニューを考えたり、安くて美味しい食材を選ぶ事も楽しい日課になっています。一人暮らしの楽しさや苦労が分かりだした頃、父から「一人暮らしをやって良かったね」と言われ、とてもうれしかったです。今では家族みんなが認めてくれて応援してくれるようになりました。
実家にいた時は、両親が私の介護をしていたために自由に出掛けられず、また私も両親の予定に合わせる為、自由に行動できませんでした。母の口から「普通の老後を過ごしたいな」と言う言葉が良く出ていました。一人暮らしを始めてからは、私は自分なりの生活が出来るようになり、そして父と母は、楽しく二人で旅行に行ったりしています。その姿を見て「お互いのためにも、また親が完全に介護が出来なくなった時の事も考えたら一人暮らしを始めて良かった」と思いました。
でも、そんな私も一人暮らしの四年目に、何もかもが嫌になりうつ状態になって実家に戻りました。しかし、実家に戻ったことで初心に戻る事が出来、一人暮らしを始めたきっかけや楽しみややりがいを思い出して、実家に戻っておよそ七か月後に二度目の一人暮らしを始めました。
一人暮らしをする前からやっていた水泳は、リハビリ水泳から競技水泳に変わり、水泳記録会に参加するのが精一杯だった私が、九州大会、日本大会にほぼ毎年のように出場して優勝しています。毎回優勝出来るのは、自分の努力と周りの協力があるからです。そしてもう一つは、私のような重度の障がいを持っている選手が出場しない事もあります。ライバルが早く現れてほしいです。
遠征で試合に行くには、身の回りのお世話をしてくれるボランティアさんを探すのが一苦労です。そして、自分ですべて計画を立てて、切符を買いに行ったり、安いホテルを探したり、最初は大変でした。回数を重ねるにつれて前もって調べて仮押さえしたり、旅行会社の人とのやりとりもスムーズに出来るようになり、旅行計画などを立てるのが楽しくなっています。
そして遂に、夢のようなジャパンパラリンピック水泳競技大会に出場して優勝しました。この競技会は、国内で開催される国際レベルの競技会です。その競技会に出場できて、優勝できた時は、言葉に表せない程のうれしさで涙が出ました。
三年前から水泳以外にやっているのがゲストティーチャーです。以前より学生・社会人に向けて、一時間程度で一回限りの講演をしていました。内容は、障がいをもっている当事者として困っている事や理解してほしい事などを話していました。
ゲストティーチャーをやって欲しいと声をかけてくれた人は、以前に学生ボランティアとしてめぐり合って、実家に居る時からお世話になっていました。そして、一人暮らしをする時にもいろいろと手伝ってくれました。一人暮らしを始めてからも学生ボランティアとして生活を支えてくれました。その人がA小学校の教師になって「自分の学校でやってほしい」と相談を受けたのがきっかけです。
その人からゲストティーチャーについての考えを聞いている中で、「一回限りではなく、一年単位で生徒と関わって欲しい」という話を聞いて、私も一回限りではなく、いつでも気軽に話が出来たら子供たちも障がいをもっている人達との接する方法も分かるし、私が関わる事で興味を持ってくれて、障がいをもっている人が少しでも地域で過ごしやすくなるように考えて引き受ける事にしました。
最初はA小学校の四年生対象で、私が泳いでいる姿を見てもらってから私が今までの生き様を話します。それから子供たちの質問を聞きます。

という風に子供らしい質問や私のほうが答えを考えてしまう質問などいろいろと出ます。そして、逆に私から子供たちに「障がいはうつると思いますか」と問いかけます。
この問いかけにみんな静かになり、私が「思っている人は手をあげて」というと、ちらほら手が挙がりました。この事で、私はもっともっと子供たちと関わって、障がいをもっている人の事をわかってもらいたいと思いました。だから、積極的に学校の行事である体育祭や学習発表会などに参加させて頂いて、子供たちとの交流の場を私なりに作りました。何度もかかわるうちに子供の方から話しかけてくれたり、疑問に思っていることを聞いてきたりします。質問されるのは、障がいをもっている私に興味を持ってくれていると思い、うれしくなります。
六年生の授業では、「基本的人権」について、一緒に学習しました。まず、先生が今までに学習してきたことを再度話して、子供たちに「基本的人権と憲法では言われていますが、障がいをもった人達は全部守られているのかな」と問いかけられて、子供たちは自分の考えを言います。
と、色々と子供たちが調べた事を言います。そして、「だから、障がいをもっている人も基本的人権は守られていると思います」というまとめになってから、先生が「そしたら、障がいをもたれている阿賀さんに聞いてみましょう」となり、私の出番がきます。
私は自分の生まれてから現在までの生活の中で感じた不便さや矛盾さを話しながら、
という感じで六年生との授業をしました。そして、後日、子供たちから来た感想文を読むと、みんなまじめに聞いてくれているのを一番に感じ、六年生でも障がいがうつると思っていました。「阿賀さんの話を聞いて、障がいをもっている人に声をかけて、お手伝いできる事はやろうと思います」や「私もいじめにあっていて死のうと思っていましたが、負けないで生きようと思います」や「僕はいじめをしていたけれどやめます」という感想などがありました。私もゲストティーチャーとして大事な事をしっかりと考えて、子供たちに伝えていかないといけないと思いました。
次の年から、もう一校増えて自分の住んでいる校区のB小学校にゲストティーチャーとして、小学四年の「ハッピープロジェクト」という授業にかかわる事になりました。 初日は、A小学校と同じように自分の生き様を話しました。私の水泳練習をビデオで見てもらいました。ここでも子供たちとかかわりを持ちたいと思い、食料品や日常生活品を買いに行く時にB小学校の横を通るようにして、また私の提案で、登校下校時に保護者の方がやっている「見守り隊」をやらせてもらうようになりました。
また、B小学校の取り組みで一年目の四年生は代表の八人の子供と一緒にスーパーへ買い物に行きました。子供たちは私とヘルパーさんでやっていることを見ていました。私は、いつものように自分で決めてヘルパーさんにかごに物を入れてもらっていた時に、ある子供から「阿賀さんは字も読めて、計算も出来るのですね」と言われて驚きました。子供たちからしたら、電動車いすに乗っている私が字が読めたり、計算が出来たりするとは思っていなかったのでしょう。この後に子供たちに「障がいをもっていても、勉強が得意な人、絵が得意な人と色々な人がいます。みんなも得意な事やそうではない事があると思います。それと同じだよ」と話しました。
二年目の四年生の取り組みも初体験で代表の八人が二班に分かれて、私の家に来てお風呂やトイレや特別の食器や介護ベッドを見たり、触ったりしていました。そして、みんなが「阿賀さんて普通の生活をしているのですね」と言われて、私は子供たちがどんな生活を想像してきたのかが知りたかったです。
三学期の終わりには、まとめに入ります。子供たちが班に分かれて、車いすの種類や点字の仕組みや校区のバリアフリーマップを作ったりと色々調べていました。中には「阿賀さん新聞」という新聞を作っている班もあってうれしかったです。もう一つは、支援する時の心がけの中に「さ・し・す・せ・そ」があり、その意味は、さは「さりげなく」・しは「慎重に」・すは「スムーズに」・せは「積極的に」・そは「その人に応じたニーズに合わせたサポートを」という事で、私もヘルパーさんも知らなかったので驚きました。子供たちはいろんな事に興味を持って、自分なりに調べてくれた事に感動しました。
今、私は地域で暮らす事で子供から大人までのいろんな人達と出会って、理解をしてもらっています。良い事ばかりではありません。嫌な事も沢山あります。しかし、私が地域で暮らしながら困っている事や理解して欲しい事を発信していく事により、少しずつ変わっていっています。そして、障がいを持つ人達が過ごしやすい地域にほんの少し近づいていると感じます。
歳を重ねるにつれて、障がいをもって生まれてきた私をここまで育ててくれて、未だに見守ってくれている、両親・兄弟・おい・めい、恩師・ボランティアさん・ヘルパーさん・地域の人、いろんな人に感謝しています。
これからも、ゲストティーチャーなどをとおしてたくさんの人と関わって、一人でも多くの人に理解をしてもらい、障がいのあるなしに関係なく、あたり前の生活が住み慣れた地域で送れるようにもっともっと変えていきたいです。
未来を生きる子供たちに期待しています。

阿賀 玲子プロフィール

昭和四十一年生まれ 無職 福岡県福岡市在住

受賞のことば(阿賀 玲子)

優秀賞を頂き、とてもうれしいです。ここ十年近く障がいの重度化に伴って、パソコンが打てない状況でした。そして、最近パソコン周辺の環境が整って、思い切って応募した作品でした。また、自分がやっている事を書いて、賞が頂けた事を有難く思います。
これからも水泳やゲストティーチャーをやっていこうと思います。
私を生んで育ててくれた、父と母に感謝の気持ちでいっぱいです。

選評(松原 亘子)

手、脚、体幹、言葉にかかる重い障害のある著者が経験した苦しかった訓練としばしば受けたいじめを乗り越えて水泳に挑戦されたことは多くの人に感動と勇気を与えてくれます。また、子供たちが「障がい者」についての理解ができるようにと始めたゲストティーチャーとしての活動は、「障がいを持つ人達が過ごしやすい地域」作りに大きく貢献するすばらしい取り組みです。私たちが行動するためにはまず知ることが必要ですから。ご家族、先生、ヘルパーや多くのボランティアの方々に対する感謝の言葉にすがすがしい心意気を感じました。