第44回NHK障害福祉賞優秀作品「私である証」〜第1部門〜

著者:嶋﨑 とし子(しまさき としこ) 静岡県

いつの間にやら

「せーの、せーの、せーの、ハッ! あ、ダメだぁ。惜しい」
「せーの、せーの、せーの、ホッ! よっしゃ。届いたぁ」
特別なことをしているわけではない。ただ、私は、水道の水を出そうとして手を伸ばす動作をしているだけなのだ。
十九年前に結婚した時に、夫が、不自由な私でも手が届くようにと、蛇口の先端に節水コックをつけてくれた。後に引っ越した後もそうしてくれてある。しかし、最近では、そのレバーをひねることもままならない。
子どもの頃、少し高いところから、思い切って飛び降りた時のように……、あるいは、できない逆上がりを必死に練習した時のように……、たかが水道の水を出すのにも、ちょっとしたチャレンジ気分なのである。
コックをひねるのは、専ら左手の仕事だ。右手の不自由さに比べれば、若干、左手の方がマシだからだ。五十歩百歩の域は出ないが、私は、何かにつけ左手を頼りにしている。
上がらない左手を上げるために、体を右に傾ける。その時、傾け過ぎると、そこから体を起こすことができなくなって、もがく羽目になるので注意が必要だ。
私の生活は、万事がこんな具合だ。食器洗浄機に食器を入れる時も、炊飯器に内釜をセットする時も、電子レンジに皿を置く時も、リフト付き電動車椅子に、いざりながら乗り込む時も……。何をする時にも、私の心の中には、いつもこんな掛け声が飛び交っていて、とても賑やかだ。
右手は、十六年ほど前から、一日中、リフト付き電動車椅子のコントローラーの操作に専念している。片手ではできないことも、相方が支えてできる場合もある。それぞれに残っている僅かな機能も使い方次第と言ったところか。
それにしても、いつの間にか、私の日常は、体の各部分が総力を結集しても、できないことばかりになってしまった。自分が一人前であるというのは意識ばかりで、実際には、夫と母(三年前から二世帯住宅風の同居をしている)の協力なしには、生活は成り立たない。
「筋ジスのFSH型は、進行が遅く、呼吸器や心臓も問題ないから、大丈夫ですよ」 専門医は、口を揃えてこう言う。それは、専門医であるほど、重篤になりやすい深刻な型の人々と、いつも向き合っているからだと思う。
先日、私と同じ筋ジスの十六歳になる息子(以下D)を病院に連れて行った時も、医師は同様の言葉をDにかけた。
「キミは大丈夫だよ。大変には違いないでしょうけど、あと十年は今の状態のまま変わらないでしょう」
体を後ろに反らして足元を見ることもできず、天を仰ぐように歩くDに「大丈夫だ」と……。医師の大丈夫は、生命のレベルの話で、「日常生活を普通に過ごす」というささやかな望みの実現という次元の話ではないのだ。
私が、十一歳で進行性筋ジストロフィーの診断を受けてから、三十九年たった(発症はもっと前で、診断後も私への告知はなかった)。確かに、階段を落ちた時と、出産を除けば、突然状態が悪化したということはない。しかし、長い時間をかけてジワリジワリと悪くなっているのは、確かだ。
一般的には、病気や怪我などで、自分の身に、突然、不可逆的な不都合が生じた時、㈰まず人は、強いショックを受けてそれを否定し、㈪次第にそれが現実だと認めざるを得なくなって落ち込み、㈫そのうち、このままではいけないと葛藤し始め、㈬やがてその出来事を受容(あるいは克服)していくという四つのステップを踏むらしい。
確かに私は、受け入れても、受け入れても、次々に新しく発生する小さな不可逆的不都合に対して、その度にこの四つのステップを踏んで受容しながら今日まできた。しかし、いざ、子どもにもそれが求められるのかと思うと、心配は尽きない。
私は、Dに逞しく生きてもらうためには、闘うべき相手、あるいは受け入れるべき相手を知ることが大事だと思い、三年半前のある日、Dに病気の告知をした。わが子と話すのに、こんなに緊張したことはなかった。

告知

私は、兄弟でただ一人、父の病気を受け継いだのだが、両親は、私に告知することをせず、他の兄弟と同じように私を育てた。そのため、私は、人知れず悩み、苦しんだ。私は、理由もわからない障害のために、自分を否定していたのである。
私は、高校二年生の時に、別な方面から病気のことを知るに至った。両親とはその後も、面と向かって相談することも話し合うこともなかった。
自分で知ってしまった深刻で重大な問題は、一人で抱え込むには重すぎた。私は、将来に絶望し、生きる意味も見失っていた。
しかし、とても長い時間が掛かりはしたが、出会ってきた多くの人たちと、多くの経験によって、自分を受け止めることができるように変わっていくことができた。
人が「変わる」、ということは一つの奇跡だと思う。出会いや経験が、私の中に小さな奇跡を起こし続けてきた。それを実感できた時期を持つことができて、私は幸運だった。奇跡が奇跡を生むように、私は夫と出会い、そして息子Dと出会ったのだ。
私は、大切な出会いや経験を通して、一つの信念を持つに至っていた。
「病気であることが不幸なのではなく、病気である自分を否定することが不幸なのだ」と。
だから、この信念は、同じ病気による障害を背負って生きる息子Dに、どうしても伝えたかった。
とはいえ、私が自分の病気を知ったときの絶望感をその後もハッキリと覚えているので、Dへの告知のタイミングには本当に悩んだ。
Dが中学一年生を間もなく終える三月のある日、私は少し緊張しながら、改まって切り出した。
「ちょっと話したいことがあるんだけど……?」
いつにない妙なムードを感じ取って、Dは少しの間、冗談を言ったりふざけたりして空気を変えようとするかのように振る舞っていた。私は意を決して、Dに、彼自身が持つハンディキャップの正体について明かした。
Dの反応は、意外なものだった。どうやら、小学校の頃から、親が学校に提出する健康調査票などに、自分でもこっそり目を通していたらしく、ある程度のことは、承知していた。深刻なはずの告知に対して、拍子抜けするほど軽い反応だった。話をする前の緊張感に比べると、話し終えた後は、互いにリラックスして、以前と何も変わらない空気を感じた。
心からホッとした。
私の友人が、
「Dちゃんの精神的な逞しさは環境から来ている」
と言ってくれたことがある。友人は、こうも言ってくれた。
「Dちゃんは、お母さんの『障害があっても普通に暮らしたい』という強い気持ちと、両親の問題解決のための知恵や工夫と、お父さんの行動力を見て育っているから、多少のことがあっても、何とかなるという希望を常に持って育つことができるんだよ」
もしそうならホントに嬉しい……。
本当に緊張したが、思い切って告知をして良かった。今後も何かあっても、みんなで相談して考えよう、そんな風に絆を深めたひと時となった。

Dの中学校生活

中学二年生になり、Dのクラスと担任が変わると、本人よりも私の方が不安になった。みんなとうまくやって行けるか、階段等の危険を避けられるよう周囲の協力は得られるかなど……。見えない分、想像力ばかりが鍛えられる。Dは体格が大きくなった分、動きも鈍くなり、腰の変型により、足元が見えず転びやすくなった。毎日元気で通学してくれることだけが、私の一番の望みだった。
「案ずるより産むが易し」とはこのことだろうか。担任の先生は、厳しさの中にも子どもたちへの愛情に溢れる学級運営をしていた。クラスに向かって「共に生きる」ための多くの「投げかけ」をし、多くの「気づき」を与えてくださっていた。先生ご自身も一学期が終わる頃に、学級通信にDの頑張りを紹介し、
「(前略)みんなはこんなDのことをどんなふうに見ているのだろう。私は、Dがこの教室にいてくれることがとてもうれしい。Dがいろんなことを私に教えてくれる」
という言葉を書いてくださった。
クラスのみんなも中学生らしい純粋さで、それに応えているように感じた。動作が遅いことをみんなが理解してくれるだけでもありがたいのに、その遅さの中に、「一生懸命」や「全力」を感じてくれるクラスになっていた。
Dのことをさりげなく助けてくれる友人も多く、それからのDの二年間は、学業やあらゆる活動を通して、とても充実したものとなった。
中二の体育大会では、Dが
「少しでもいいからみんなと走りたい」
と言った言葉を、先生とクラスの皆が正面から受け止めてくれ、そのことで、話し合いも持たれた。そして、
「たとえビリでも良いから、皆で走って、皆で同じものを感じよう」
という結論を導き出してくれた。先生やクラスメイトに対するDの信頼がより確かなものになっていくのが、傍らで見ていても良くわかった。
体育大会当日は、黙々と無心で自分の担当の三十メートルを走るDを見て、涙が溢れた。みんなに支えられて、とても素直に「挑戦」するDが誇らしく思えた。
Dの残りの七十メートルを引き受けて余分に走ることになってしまった次の走者の走りは「後は任せろ。追いつくぞ」と言うかのような、気迫溢れる「猛ダッシュ」だった。一つのバトンを通して、皆にその気迫が伝わった。最終ランナーが、五チーム中四位でゴールした時、全員が優勝したかのように歓声をあげた。私は、勝ち負けよりも、諦めない皆の姿に大切なことを教えられた気持ちがした。
三年生に進級する時は、教室の変更について、学年で話し合いが持たれた。学校がDの負担を考えてくださってのことだ。結果的に、生徒たちも「三年生の教室を四階から、一、二階に変更する」という意見でまとまった。
Dのクラスの皆は、事前に話し合っていて、「他のクラスの人たちも、そう思ってくれたらいいな」とか、「変更されたら自分のことのように嬉しい」と、まるで身内のような立場になっていた。
私は、本当に申し訳なく思いつつも、とてもありがたかった。
卒業間際のある日、担任の先生から、Dに対して厳しい指導があり、Dは少なからずダメージを受けた。Dが、友だちに対して思いやりに欠ける態度を取ったためらしい。私は、ここへ来て何が起こったのかと驚き、先生の真意を伺った。そのやり取りの中で、それが、Dのかねてよりの課題(気持ちの表現の不器用さ)に対する指導であることを知った。先生のDの個性に対する理解は、私の想像以上に深いものだった。先生は、人の気持ちを感じて、共に生きようとする能動的な気持ちをDにも求めていた。受け身になりがちなDに、
「人の思いを汲み取り、人に自分の思いを伝える意欲が必要だ」
と教えてくれた。それは、今後のDの人生を思う親の祈りにも似ていると感じた。
こうして、全力で守り、育て、指導してくださった中学校には、Dがこの時期を礎として成長してくれることが、唯一の恩返しになると思った。

辛い出来事

高校への入学も果たし、二か月たった五月末日のことである。土曜日だというのに、突然、高校の先生方が自宅にお見えになり、
「学校でとんでもないことが起きている」
と私たちに伝えた。要約はこうである。
「大型連休明けから、いじめが常習的に起きていて、ターゲットはDである。首謀者は四名。そして、そのいじめの様子が携帯電話のカメラで撮影され、ホームページに掲載されている」
先生方が持っていらした紙に、その写真が十一枚印刷されていた。
私は、先生方の話に愕然として、わが耳を疑い、その屈辱的な光景に、わが目を疑った。
私は、写真を見るや否や、胸に強い痛みを感じ、苦しくて、声を上げて泣いた。
(なぜ……、なぜ……、なぜ……)
首謀者たちに対しても、何も言わなかったDに対しても、その日まで何も気づかなかった学校に対しても、頭に浮かぶのは「?」だけである。私の心を支配しているのは、強い悲しみと苦しさだけだった。その夜は、床についても眠れなかった。
後から思えば、Dの様子に、僅かながらその兆候はあったのに、私は、元々Dに体力が無いことからくる疲れだと思い込んでいた。私は、親として失格だと思い、自分を責めた。発覚していなかったら、どんなことになっていたのか考えただけでも恐ろしかった。
Dと二人でいた時、私が耐え切れずに声を上げて泣いていると、Dが私の肩をそっと抱いて、まるで子どもをあやすように、しばらくの間、背中をトントン叩いてくれた。私は、ハッとして我に返った。
「私ったら、いったい何をしているんだろう。Dが泣かないのに、何をしているんだろう」
Dは、この事件の真っただ中でも、毎日登校し続けていた。大騒ぎもしなければ、深刻な様子も見せなかった。事件発覚後は、ホッとしたのか、Dは以前のような明るさを取り戻した。私は、Dが「いつもと変わらない」ことで、私たち家族や、高校や少年たちを救っていると感じた。
高校は、中学校での進路選択の際に、親の意見を抑えて、D自身が選んだ高校である。中学二年から愛用している電動カートを使って、自力で通えるようにと選んだ、家から一番近い高校なのだ。バリアフリー化も進んでいる。Dは入学した時から愛校心を持っていた。自分が選んだ高校を信じることが、Dのささやかなプライドなのだろうと、私は、その時感じた。
Dは、この騒ぎの中で、一度もいじめた生徒たちのことを悪く言わなかった。それどころか、
「ボクは大丈夫だよ。高校では、中学と違って授業以外の時の先生の目はないから、何をしても誰も見ていないと思って、ちょっと悪くなっただけなんだよ」
と彼らをかばうように言った。
高校は、その生徒たちを、一か月間集中して丁寧に指導してくださった。彼らは、過ちに気付き、反省してくれた。一人の生徒は、食欲もなくなり、一時やせてしまったとも聞いた。
私は、Dが彼らの立ち直りを信じるなら、私も信じてみようと思った。彼らにもこれからの人生がある。もっと自分を大事にしてほしいと心から思った。皆が、この愚かな間違いから学んで、新しい道を歩めるよう、祈らずにはいられなかった。
その後のDは、彼らとの関係も改善され、新たに、仲の良い友達も何人かできて、毎日、楽しそうに通学している。

私が私である証し

私は、今年の一月に五十歳になった。
「えっ、うそっ、いつの間に……?」
といった心境である。子どもが生まれると子どもの歳ばかり数えて、全ての出来事や思い出をその年表で記憶する。そして、気が付いたらこんな歳になっていたというわけだ。
一昨年、小さな手術のために入院生活をした。その頃から、殆んど自力での寝返りができず、夜中に何度も夫の手を借りる(申し訳ない)。身体が痛くて、五時間以上床にいるのは苦痛でさえあり、朝から疲労感を感じるという慢性睡眠不足状態である。息苦しさを一番感じるのも朝だ。五、六年前から少しずつ感じ始めた息苦しさは、先月、「拘束性肺機能障害」という診断名が付けられた(好きな合唱の許可は下りたので安堵した)。十六年間座りっぱなしのため、お尻の床ずれ様の小さな傷による痛みにも、慢性的に悩まされている。ついでに言うなら、視力は衰え、肌はくすみ、シワシワになっていく(あ、これはただの老化だ)。
昔、段々不自由になっていく自分の身体について、人より早く老化していると思えばいいと考えた時期があった。今思えば冗談じゃない。障害は障害。障害があっても、昔は十分若かった。今、ここへ来て、人生の第三ステージに差し掛かってきた気がしている。
振り返ると、何もかもが中途半端だった私。
才能の開拓も、興味の追及も、仕事も、車の運転も、努力はしたものの継続しきれなかった。家事も、子育ても、全てが不完全燃焼で、世の中や家族の役に立つまでには至らなかった。
夫と母の全面協力でやっと成り立っているのが現状の今の生活の中で、「私が私である証し」はどこにあるのか……。
かすかに、Dの「トマト嫌い」と「煮物好き」と「中学一年の時の作文」が、私が主婦であり、母であることを証してくれる。
「ボクがトマト嫌いなのは、お母さんが、幼稚園のお弁当にしょっちゅうプチトマトを入れていたからだよ」
こんな息子の文句も、かつて頑張れていた私を覚えていてくれるみたいで何だか嬉しい。
息子は、私の煮物が好きである。私にはもはや根菜類を切る力も無くなってきているが、まだここは譲れない。揚げ物と炒め物はとっくに諦めた。
Dが中一の時に書いた作文は、私にとっての宝物だ。幼く、素朴な文章ではあったが、その作文は、私が朝七時のチャイムとともにDを玄関で見送るところから始まっていた。
何をするにも(母のケアがあっても)人一倍時間がかかる私。よく自分の動作や、作業や、移動にかかった時間を、乗物の移動時間や、学校の授業時間に換算しては、「うゎーっ」とビックリする。朝、床を離れて車椅子に乗り込むまでの間に、静岡で新幹線に乗った人は、東京に着いてしまうのだ。私の周りでは、世間と別の時間が流れているみたいだ。
私は、Dが保育園の時から、朝、Dを気持ちよく送り出すのが、私の一番の仕事だと思ってきた。だからこそ、そのことをDが作文の一部に書いてくれたことは、とても嬉しかった。夏休みの宿題の人権作文だったが、全国の審査で法務事務次官賞をいただいた。キツネにつままれたような出来事だったが、本当に嬉しかった。
Dは、間もなく十七歳になる。私が自分の障害の正体を知り、希望を失った歳だ。あれから三十三年が過ぎた。そして、今、私は幸福を感じている。私が私である証し、それはDがいること、私がDの母であること。そして、これからもずっと母であること。自立していく彼の人生を応援し、見守っていきたい。
もう一つ、最近気づいたことがある。私は、自分は社会との接点を殆ど失っていると思っていたが、まだ方法があった。私は、信念と誇りを持って仕事をしている友人に出会い、共感し、信頼した。そういう友人を応援することで社会と繋がれる気がした。まだまだこれからも社会にも関心を持っていきたいと思っている。そして、人生の第三ステージでしたいことを見つけ、夢を持って歩みたい。
これからも、私が私であるために……。

嶋﨑 とし子プロフィール

昭和三十四年生まれ 主婦 静岡県牧之原市在住

受賞のことば(嶋﨑 とし子)

十八年前に、初めて手記を書いてからこれまで、数年毎に、その間の出来事や思いを記録してきました。今回の四度目の優秀賞受賞は、本当に思ってもみないことでした。
何かを成し遂げた訳でもなく、人の役に立つことをした訳でもない。そんな取るに足らない小さな日常の機微に、こうして何度も、光を当ててくださったことに、心から感謝しています。
今後も、書くことを通して、大切な家族や出会った素敵な人たちに、愛する思いと、感謝の気持ちを伝えていけたらと思っています。ありがとうございました。

選評(新山 賢治)

「父の残したもの」(一九九一年)「筋ジス母さんのドキ・メロ日記」(一九九五年)「時が来たらちゃんと話すね」(二〇〇四年)、人生の節目で届けられる作品、今回は五年ぶりの入選です。そしてテーマは息子への病名告知が核になっています。幾多の試練を経てこの局面に立つ親子は、驚くべきしなやかさで乗り越えていきます。連作のおかげで、私たちは、嶋さん親子の人生を大きな感動と共に歩むことができます。これからも節目節目で作品が送られてくることを強く望みます。