第44回NHK障害福祉賞優秀作品「生きる」〜第1部門〜

著者:中村 和子(なかむら かずこ) 千葉県

朝、大きく窓を開けると小鳥たちのさえずる声が耳に飛び込んできます。ベランダに出て、声のする方へ身を伸ばし、
「おはよう」
と挨拶します。
すると光が、存在を知らせるかのように朝の爽やかな空気に溶け、あたたかいぬくもりとなって私の体をつつみます。生きていることを実感する瞬間です。新しい今日という日の始まりです。
私の目の病気は徐々に進行し、微かに残っていた光まで失ってしまいました。見る力を失うということは、すべてが失われたかのようでした。目の難病を宣告されてから失明にいたるまで「生きる」ためにただひたすらに走っていたように思います。それが今では、光のあたたかいぬくもりを感じられるようになりました。新しい日を迎えることができる私……。実は、命をかけて学んできたことによって支えられてきたのです。 網膜色素変性症という病気が進行してきてもなかなか白い杖をつくことができませんでした。
白い杖は皆さんに、
「私は、視覚障害者です。よろしくお願いします」
というメッセージを伝えますが、自分自身にも、
「お前は、視覚障害者だ」
と障害者であることのレッテルをはるような受け入れがたいものがありました。目は、体の中でこんなに小さな部分ですが、その機能が失われていくことをなかなか認められませんでした。

その日は、電車に乗って出かけなければなりませんでした。私は初めて白い杖をつきました。
十二月ということもあり、六か月になったばかりの娘にピンクの熊さんの帽子をかぶせておんぶし、ママコートを着ました。手には、真新しい白い杖を握っています。まだ見えているつもりで歩きました。踏切を渡って駅の改札まで行かなければなりません。
「カーン、カーン、カーン」
警告音がしました。それなのに踏切はもっと先だなと思って、ゆっくりと歩き出しました。
ところがです。
「ガーーー」
と、地面が深い所でうなり声を上げているようなものすごい音が近づいてくるではありませんか、身体全体が揺れるような振動です。気がついた時には線路の上に立っていたのです。
もうだめだと思いました。身動きもできません。白い杖を握りしめながら全身が震えて一歩も動けないのです。そして目から、涙というか、身体中の水分がボトボトと地面に流れたのです。死ぬのだと思いました。振動音は大きくなり近づいています。体が地面と一緒に揺れていました。この娘とともに死ぬのだと思いました。
その時です。遮断機のいちばん近くにいた四十代くらいの主婦の方が私に気がついて走って来て、危険もかえりみず、私のママコートの袖を引っ張って、思い切り遮断機のところまで連れ戻しました。恐ろしさに気も動転し震えていた私は、
「ありがとうございます」
の一言が言えませんでした。
無我夢中でした。考えてみれば、白い杖が私のみならず背中の娘の命を救ってくれたのかもしれません。遮断機のところに戻ったか戻らないかのうちに、電車がものすごい地響きを立てて駅に入って行きました。そして我に返ると遮断機が上がる音がしました。
見も知らぬ方に助けていただいたのです。命をいただいたのでした。それからというもの、心からの感謝の気持ちを
「ありがとう」
に込めて生きてきました。
このことがあってから外出する時は、いつも白い杖がしっかりと握られていました。

それから私がどんな時も笑顔で生きていきたいと思ったのには、理由がありました。
玄関の引戸が強く開けられました。無造作に、
「ガラガラ」
と、音がしてまだ五歳になったばかりの娘が飛び込んできました。私は、洗濯物をていねいに四つ角を合わせ、たたんでいました。
「おかあさーん……」
声が喉の奥でつまっています。
私の両手が娘の頬に触れた時、指が大粒の涙で濡れました。
「どうしたの?」
思わず、今ほどたたんだタオルを娘の頬にあてながら言う私に、
「おかあさん。おかあさんの目は、私が産まれたから見えなくなったの? だからぶつかって怪我をしたり火傷をしたり包丁で手を切ってしまうの?……」
私は、はっとしました。
近所の方に、
「中村さんは、どうして目が見えなくなったのですか?」
と、聞かれるとただ正直に、
「子どもを出産して目の病気が動き出してしまって見えなくなったのですよ……」
と、言っていました。
娘がどうしたわけかそのことを聞いてしまったのでした。泣きじゃくる娘に私は、ニッコリ笑って言いました。
「美香が産まれたからおかあさんになれたのよ。おかあさんは、目が見えなくてもとっても幸せなんだから……だって神様がおかあさんに色の白いそれはそれは可愛い赤ちゃんを見せてくださいましたよ。それが美香よ」
「だっておかあさんは、いつも怪我ばかりしているもの。この間は片付け忘れたおもちゃにぶつかって転んでしまったりして……おかあさん、痛かったでしょう。ごめんね」 私は、娘をしっかり抱きしめて言いました。
「おかあさんね。美香が産まれてくれてどんなにうれしいか、おかあさんを見てて! これからのおかあさんは、今までよりもニッコリ笑顔のおかあさんになりまーす。約束よ。だからもうそんなことを言わないでね」
私の小指はもう一度、
「約束よ」
と、娘の右の細い小指を探してからませ、
「指きりげんまん嘘ついたら針千本のーます。指切った」
それからというもの、母になれたことの感謝を娘に知ってもらうために笑顔でいるように努力しました。そうしないと娘は、母の見えなくなっていく様子を見、涙を見る時、自分が産まれてきたことを悲しんでしまいます。それは、光を失うことよりも母として耐え難いことでした。
笑顔で家族に接することは、簡単なことではありませんでした。娘が言うように、目の病気が悪くなっていくために体の動きがついていけなくて、怪我ばかりしていました。見えないことを体が受け入れられないのです。何度も心の中で、
(見えていたらこんなこと、すぐにでもできるのに)
と涙をポロポロ流しました。
(いけない、娘と指切りしたんだわ。泣いてはいけない。そうだ。見えていた頃を思い嘆くより、見えない今を見つめよう。ゆっくりゆっくり、自分のペースでいいんだわ) そんなことを何度も心に言い聞かせました。
そして少しでもできるとニコッと笑顔。
失敗してしまったら今度は、
「何か工夫はないかしら?」
と考え、他の人と比べるのではなく、自分で少しでもできたことを喜びました。するとどうでしょう。笑顔が自然に浮かんできました。

娘が小学校の一年生の時から、夫が慢性的な病気になりました。一年に三か月から六か月の入退院が毎年続きました。娘と二人、母子家庭のように夫の留守を守りました。その時は、自分自身の目の病気のことよりも夫の病気のこと、娘のこと……母親として一生懸命でした。
娘が小学校の六年生の時でした。夫はまた入院しています。学校の帰りにいつも待ち合わせて買い物に行くのです。私は、しっかり白い杖を握っています。娘がいつものように走ってきて、
「おかあさーん」
と、呼ぶ声がします。
でもその時、声のする方を探してもどこにも娘の姿がありませんでした。
来るべきものがきたのです。その日の朝までは、まだぼんやりと明暗が影のようにわかりました。でもその時は、もう娘の姿が見えなかったのです。
涙の中で決意しました。私は娘の一生を台無しにしてはならない……娘に手を引かれて、甘えすぎてはいけない。娘にも娘の将来がある。仕事もあるだろう、結婚もあるだろう。……多くのことはしてあげられないけれど、私にできるのは、一生懸命生きる姿を見せることではないだろうか……。
目の難病のために私は光を失いました。徐々に視覚という感覚が失われていったのです。そしてとうとう微かに残っていた光まで……。ですから私は、目が見えているときの私・徐々に失明にいたる経緯・見ることすべてを失った今日の私を経験してきました。そんな私を支えたのは、どんな時でも、生きねばならないという強い思いでした。
失明を覚悟で産んだ娘を背に線路の上に立ちすくんでしまった時、見も知らぬ方に命を助けていただきました。その時の白い杖が、自分が視覚障害者であることを知らせたのでした。それからというもの白い杖は、
「たとえ目が見えずとも生きよ……」
と私に言い続けました。
自分がどんな状況におかれても、人は生きねばならないのです。
障害を持ってしまうことは、生きる喜びまでなくしてしまうことでしょうか。
はっきりと首を横に振り、
「いいえ、そうではありません」
と、言うことができます。
先ず、自分の障害をしっかり受け止めなければなりませんでした。それから今度は障害を持たない人々と理解しあえるようにこちらからの働きかけが必要でした。そうです。一人では生きられないのです。たくさんの人に支えられていることに気づいた時、そこに初めて生きる喜びがあることを知りました。

私は、これまで点字を学び文字としてきました。しかしながらそれは、あくまでも視覚障害者の間で情報交換に用いることはできます。が、自分が障害を持つようになった経緯を思い返し、同じ障害を持つ皆さんのため、福祉向上のために自分を役立たせたいと願うようになりました。そこですべての人との共有である活字の使用を求めました。
野田市から船橋市の下総中山まで二年間、パソコンを学ぶために通いました。平成十二年度からは野田市で、視覚障害者の方にパソコンの指導をさせていただいています。
視覚障害者がパソコンで文字を入力したりメールやインターネットをするというと、とても不思議に思われるかもしれません。音声の読み上げソフトをインストールすることにより操作が可能になります。マウスではなくキーを打ちながらの操作です。画面を見ることができませんので、操作を記憶しなければなりませんし、もちろん、ブラインドタッチです。
ある受講生は、講習会場まで一人で歩行するのが難しく思え、家族に送られてきましたが、いつしか気づくと、白い杖をつき、お一人で来られるようになりました。目の見えないことを受け入れられなくて白い杖をつけなかった、とのことでした。それが今では、
「白い杖は、やさしい心に出会えます」
と、言うようになりました。
傘を杖がわりについていた時は、クラクションが耳元で鳴っていたのに、白い杖を持つようになってからは、気づかいのやさしい声が聞こえる、のだそうです。そのようにパソコンの習得だけでなくあらゆる面で積極的になっていきました。
視覚障害をもつ受講生がパソコンの操作だけでなく、障害を受け入れて生きていこうとする前向きな様子に、接する私も一緒にうれしさをかみしめています。
同じ障害をもつたくさんの友人達がご自分の悩みを話す時、私自身失明にいたったあの苦悩は、無駄ではなかったと感じています。失われていくゆえの葛藤は、無駄ではなかったのです。視覚障害という共通の土台の上で真剣に耳を傾け、私がそうであったように一歩一歩と前進できるお手伝いをさせていただいています。
一方、小・中学校の『総合学習』では、命の尊さや障害を持って生きることの意味を、子どもさんお一人お一人の心に語りかけています。障害のある人もない人も互いに理解しようと努力する時、思いやる気持ちに繋がると確信しています。

月日の流れは、早いものです。電車に轢かれそうになったあの時、背中にいた娘は看護師になりました。物心ついてからずーっと病気だった父親、そして徐々に見えなくなって失明してしまった母親の元でめげることなく心やさしい娘に成長しました。
勤務先の病院でのこと、糖尿病の合併症で失明した患者さんが、
「もう、死にたいよう。こんなになっても生きていかなければならないのか……」
と、涙ながらに訴える時、娘は患者さんの手をやさしく握り、
「どんなことがあっても生きるのよ。私のおかあさんはね。私を産んで何も見えなくなったの。それでも『生きていて良かった』って言っているわよ。病気に負けないで……」
と、励ましながらも患者さんのこれからを思うと一緒に泣いてしまうのだそうです。
五年前に夫が亡くなりましたが、母と娘は、それぞれの仕事の関係で別々に暮らしています。
ある時、娘の勤務先の埼玉県の大宮駅で待ち合わせをしていました。私の左手には、今や白い杖ではなく、盲導犬のハーネスが握られています。いつものように改札を出てから、点字誘導ブロックに沿って十五歩ほど歩きます。そこは、切符売り場の手前です。待ち合わせ場所です。電車がホームに入ってくると大勢の人が、波が押し寄せるように様々な音を連れて入ってきます。構内には、急ぎ足で行き過ぎる靴音、女子学生でしょうか、楽しそうなかんだかい声、構内放送に混じって改札の場所を知らせる誘導音、携帯電話の着信音……。その雑踏の中でも母は、遠くから近づいてくる娘の靴音を聞き分けることができます。靴音は、笑顔の母のもとにコツコツとリズミカルに近づいてきます。娘も笑顔で母のもとへ近づいてきていることでしょう。
雑踏の中ですべての音が一瞬、止んだかと思うと、
「おかあさあーん」
という娘の声だけが聞こえました。
母の目には、娘の笑顔が見えました……。

中村 和子プロフィール

昭和二十七年生まれ 自営業(マッサージ) 千葉県野田市在住

受賞のことば(中村 和子)

優秀賞とのご連絡をいただき心からうれしく思いました。この受賞はこれからの私の人生においてどれほどの励ましとなることでしょう。徐々に視力が失われていく中で、自分らしく生きること、そして感動することを忘れたくないと願いながら人生という走路を懸命に走ってまいりました。この作品はそんな私自身を見つめ、素直に書いてみました。
いつも支えて下さっている皆様と、この喜びを分かち合いたいと思います。
ありがとうございました。

選評(柳田 邦男)

難病による視力喪失を受容できずに過ごす中で、電車が来るのに踏切内に入って、あわや助けられるという衝撃を契機に、堂々と白杖を持つようになる。白杖は「生きよ」と語りかけるのだ。娘さんが幼い頃、母にかけるいたわりの言葉に、どんなことがあってもこの子に笑顔で接しようと決意。娘さんが成長すると、自分の道を歩むように、家に引きとめずに自立させ、自らは小中学校に出かけて、障害を持って生きる意味を語るなど、社会貢献活動をする。その人生の歩みは、人間が生きることの意味を語っていると感じました。