第44回NHK障害福祉賞優秀作品「半分+1点」〜第2部門〜

著者:河野 寿美子(こうの すみこ) 東京都

「ママ、ウチは生まれてきて悪かった?」
パニックを起こした長女を激しく怒り、「あなたのせいでママは仕事を辞めなければならない」と言った時に返ってきた言葉だった。
親だって人間だもの、そう自分に言い訳した。でも知らずに子どもを傷つけてしまっている。それは親の特権でも何でもなく、ただ感情をむき出しにした結果、もたらされた長女からの戒めの言葉だと思う。
長女は、現在中学一年生(十三歳)。
オシャレが大好きで、親に一丁前な口をきく思春期真っ只中。クラスに好きな男の子がいて、そこら辺にいる女子中学生と何も変わらない。
でも、彼女は「広汎性発達障害」を抱え、現在は地域の特別支援学級に通っている。 多くの言葉を知っていても、言葉の適切な意味や使い方を自然に習得するのが困難で、ひとつひとつ丁寧に噛み砕いて教えないと理解出来ない。
羞恥心だけは人並み以上に持ち合わせ、分からないことを容易に人に聞く事をキライ、そういう自分をめちゃくちゃに責める。自信がなくて不安だらけなのは、自分にしか起こっていない現実だと思い込み、ひとつ何かにつまずくと、この世の終わりのように全てがダメだと声を荒げて怒る。被害妄想にかけては、短編小説が書けてしまうくらい天下一品だ。
人一倍目立ちたがり屋なのに、自分の見て欲しい時と、見られたくないタイミングが世間とは微妙にズレていて、しょっちゅう「誰も見てくれない」や、逆に「見ないでよ!」と怒っている。また、褒められたいタイミングも同様である。
こんな長女と向き合って、もう十三年も経った。
正直、子育てを投げ出したくなる時もある。えらいぞ自分! と褒めないと身が持たないのだ。

長女の下に小学四年生の弟がいる。彼もまた発達障害を抱え、市内の特別支援学級に通っている。
姉と類似している症状もあるが、知的な遅れが無い分、コミュニケーション能力が高く我が家には無くてはならない立派なサポーターである。
生まれた時から、いつも長女と一緒だった彼は、私より〈母〉と〈お姉ちゃん〉の気持ちを分かっていて、大キライで大スキなお姉ちゃんを、いつもたくましく支えてくれている。

母子家庭の私は、この二人を抱え生きてきた中で、いつも子ども達に「どんな大人になって欲しいか」、そして自分に「どんな人生を送りたいか」を自問自答してきた。
自立はもちろんだが、子ども達の将来がどんなものであっても、生まれてきて良かったと思って欲しい。そう感じたのは、長女の「生まれてきて悪かった?」という言葉があったからだ。

長女が診断を受けたのは、まもなく四歳の誕生日を迎える頃だった。言葉の遅れはあったものの、会話は成立するし、表情も豊かな人懐っこい幼児だった。しかし、確実に周りの子ども達との《違い》を感じ、それが何なのか全く検討もつかずに不安な毎日を送っていた。
その違いとは、非言語的なコミュニケーションの取り方。例えば「おはよう」の代わりに、保育園の先生の鼻を指先でスリスリ。辛いことや、悲しいことがあると、グズる前に動物の鳴きまね「わんわん!」「にゃんにゃん!」を連呼する。気に入った洋服を毎日着て、それがないと出かけられないほどパニックになる。まだまだたくさんあり書ききれない。

診断を受けるまで、義父に「お前の育て方が悪い」と散々叱られていただけに、病名を知った時は、落ち込むよりも先に「自分のせいじゃなかったんだ」と安堵したのを覚えている。その時を振り返ると、何て自己中心的な親だったのだろうと落ち込む。

診断の後、訳があり母子家庭になった私は、養育費は一銭ももらえない状況で働かないと生活できなかったが、障害児と乳幼児を抱えていた為、雇ってくれる会社はそう簡単には見つからなかった。そして生活資金は生活保護に頼るしか方法が見つからなかった。
五十社以上の面接を続け、やっと就職が決まった時、それまでの就職活動の経緯を話したからか、社長が「ここでこの人を雇わなかったら、いったい誰が働かせてあげられるんだ?」と思ったそうだ。

その後、現在の住まいとなる都営住宅に引っ越すまでの三年間必死で働いた。
長女は、就学前まで地域の訓練施設に通い、言語やコミュニケーション、感覚統合などの訓練を受け、保育園ですくすくと成長し、就学判定で通常学級への入学が許可され、同級生と共に地域の小学校へ入学することができた。
私も時を同じくし、それまでの就労経験をいかし、フルタイム勤務が可能なところへ再就職。生活保護を打ち切り、これから親子三人、自立の生活を送れると期待していた。
だが、友人関係が確立してくる小学三年生の頃から、毎晩パニックを起こすようになった。
ひとたびパニックを起こすと「誰か助けてー」と外に向かって叫ぶ、自分の首をヒモで絞める、壁に頭を打ち付けるなどの自傷行為が増え、それを止めようとするとパニックが増大し、裸で外に飛び出すこともあった。時には、弟を力任せに殴る、上にまたがって首を絞めたこともあった。そして過食が始まり、体重はみるみる増えていった。

パニックの原因は、彼女の生活環境が耐え難いものであったからなのだ。

しかし、やっと自立できた私は、何としても仕事をして生活を守っていかなければならなかった。
当時、どんなに長女が辛くても、学校へ送り出すしかなかった自分を責め続けていた。 長女が心身のバランスを崩しても尚、仕事を辞め、彼女の為に時間を割こうという選択が出来ないでいたのだ。

長女がまだ保育園児だった頃は、同学年の子ども達も「彼女の個性」と受け止められていたことも、段々年齢を重ねるごとに「何か変だよね……」に変わっていった。

イジメの始まりは同年代の子ども達がストレートにぶつけている「変だよね」の言葉、目線、態度だった。「みんな違ってみんないい」という言葉をよく聞くが、そう思っているのは大人だけだ。子ども達の反応は、本当にシビアである。

ある朝の出来事を例にあげると、いつものように登校時迎えに来てくれた友人に玄関先で「昨日ママに新しい靴を買ってもらったの、ほら?」と嬉しそうに報告。するとその友人は「ほんとだ?、かわいい靴だね?、いいな?」と言って一緒に喜んでくれた。
そして、その翌朝もまた同じ会話で始まる、おはようの挨拶よりも先に出てくる言葉が「ママに新しい靴、買ってもらったんだ、ほら?」だった。
すると友人は「それ、昨日聞いたし?」と、前回とは全く違った返し方をしてくる。当然の事だと言えばそれまでだが、長女はただ友人の共感と笑顔が見たかっただけなのか、もしくは一度うまくいった会話で、同じような楽しい会話が出来ると思ったのだろう。

一事が万事、クラスでも同様のことがたくさんあった。
カサを買った時も、新しい上着を買った時も。だが、クラスの子ども達の反応は冷ややかだった。
「見せびらかしたいの?」「自慢ばっかり」という言葉に、傷ついていた彼女がいた。
学校内での遊びではどうか。
鬼ごっこを例にあげると、いつも申し合わせたように鬼になってしまう彼女は、タッチする標的を決めると、他の友達がどんなに側にいても、決めた標的だけを追ってしまい、その滑稽な彼女の姿を見て、クスクスと笑っているクラスメイト達がいた。
また、言葉通り受け取ってしまう特性があるため、「水たまりに入れ」と言われたら入り、学童クラブまでの道のりに「ランドセルを持って」と頼まれれば素直に持っていた。「イヤだ」という選択は出来なかったのか? それともなかったのか? 今でも苦しく思う。
そして「親に言ったらもっとイジメるぞ」と言われていたのだ。
何故自分に対し友達が冷ややかなのか、何故自分は笑われているのか、その原因が分からないまま、辛い気持ちだけが積み重なっていったのだ。

もし私がそんな理不尽な目にあったらとっくに不登校だ。でも彼女の中には〈学校に行かない〉という選択肢すら存在していなかったのだ。
お母さんは仕事、弟は保育園、そして私は学校、それは彼女の中で定義づけされていることだった。

そんな辛い日々の中で、学校の授業も徐々に難しくなり、ついていけない状態だった。クタクタで帰宅、その上宿題まで……パニックを起こすのは当然の結果だった。
もうその時点で彼女の心の風船は割れてしまっていたのだ。
私はただ彼女をなだめたり、感情的に怒ったり、そうすることしか出来ないでいた情けない母親だった。

新しい就職先は病院関係の仕事で、患者さんと接することも多く、とてもやり甲斐があり、唯一自分が人様のお役に立てていると感じられた。だが私生活では、母親として何をしているのだろう? と、いつも自分を責めていた。

誰かに助けてもらいたくても、誰に相談したらよいか検討もつかず、隣近所に頼れる人もいなく、ただただ孤独を感じるばかり。市の子育て事業に相談しても、話を聞いてくれるだけで、何の手立ても見出せなかった。どうせ何処に話しても、家の中が穏やかに変わることはない、助けて欲しい時に助けに来てくれるわけでもない、と心を閉ざし、段々ウツ状態に転がり落ちてしまったのだ。
そういう時に限って、彼女が外で問題を起こすことが重なり、暴力沙汰になったある時、相手側の保護者にお詫びの連絡を入れ、障害のことを話した際、
「障害を抱えているからって、許される事じゃない。もし手にハサミでも持っていたら、すみませんでは済まない」
と言われたことがあった。本当にその通りである。受話器を持ちながら、壁に向かって何度も頭を下げ謝った。
そんな時でも彼女のパニックが起きない日は無く、泣き疲れ眠った彼女の傍らで、いっそこのまま子ども達を道連れに死んでしまえたら、どんなに楽だろう、彼女もその方が幸せなのではないかと、寝息を立てている彼女の首に手をかけ、泣き崩れた日は一度や二度ではなかった。

そんな毎日の中で転機となる出来事があった。感情的に子どもを叱り、泣いて落ち込んでいる私に、長男の送迎ボランティアさんがかけてくれた一言だった。

「落ち込む時は、とことん落ち込んでいいのよ。それこそカラスが黒いのも、郵便ポストが赤いのも、ぜーんぶ自分が悪いのね!って。それでもうこれ以上ないってくらい落ち込んだら、また這い上がっておいで」
なだめ励ましてくれる人はいても、「落ち込んでいいよ」と言ってくれた人は初めてだった。そして、またそこから始めればいいんだと。ストンと胸に落ちてきた。落ち込んでいる自分が嫌いで、母親としてなっていない自分が許せなくて、消してしまいたかった。でもそれも自分なんだ、ありのままでいいんだ。それは彼女もそうなのだ、と初めて心から思えたきっかけとなった。

今では、郵便ポストは私の元気の源である。それが四年前のことである。それから私は、何とか彼女の障害の特性を周りに理解して欲しく「ちょこっとさ通信」という、子ども達の実生活での出来事を綴った通信を書き始めた。

一見障害があるかどうか全く分からないだけに、長女のパニック時には、虐待じゃないか? と間違われたこともあった。何より好奇な眼差しや心無い言葉には耐え難いものがあった。まだ、今は理解出来なくても、その好奇な眼差しや言葉にいつかは気づき、傷つくこともあるだろう。その時の為に、母はどうやって乗り越えたのかを記録として子ども達に残してあげたかった。
初めは居住している団地内だけの配布だったが、現在は学校・医療・療育関係・支援団体、友人知人らに至り、配布数三百部を超えた。
発行当時は、同じ発達障害児を抱えている保護者から、親の自己満足では? という非難中傷もあった。しかし、私は長女に「障害があること」を隠し恥ずかしいと感じて欲しくなかった。
人間誰しも何かしら抱えているものだ。私も下肢に軽度の障害がある。彼女の父親も左耳が聞こえない聴覚障害を持っていた。それに眼鏡をかけている人はみんな視覚障害ではないか。ただ、その特性に「障害」という呼び名がついただけなのだ。
だから自分の障害を自分で知り、困った時には助けてもらう術を教えたかった。いつかは彼女より先に死んでしまう私が出来る最大のことだと思っている。それが正しいかどうかは分からないが、「ちょこっとさ通信」をどうして発行しているのか、地域の人に知ってもらい理解してもらうことがどれだけ大切なことなのか、彼女なりに理解しているようで、今では一緒に配り歩いてくれるようになった。
また、書き進めていくうちに、自分の子ども達だけでなく、同じ障害に苦しむ家族や当事者の力になりたいと、私自身も感じられるようになった。

勤務していた病院を退職し、生活保護世帯に逆戻りしてから四年、私は今年四月から地域で障害児の放課後をサポートする地域デイサービスを始めた。成人の知的障害者施設を引き継ぎ、児童デイとして再スタートをさせて頂いたのである。障害者自立支援法の改正案がどうなるか分からない中で異例のことである。
温かいスタッフや運営メンバーに囲まれ我が家の子ども達も安心して過ごせる第三の居場所がみつかった。

現在、私生活は全て安泰という訳ではなく、相変わらず長女が落ち着かない日もあり、失踪して警察のお世話になる時もある。だが、ひとつの大きな出来事があったら、それを糧に親子で成長しているように感じる。

小学校高学年で巡り会った担任の先生は、彼女に「不安は安心に変わる」ことを教えてくれた。それが彼女の大きな支えになっているようだ。
そして、そんな母と長女を見て育った長男は、心優しい男の子に育ってくれた。彼は長女が育ててくれたようなものだと思っている。

今だから言える、私たち親子が生きてこられたのは、たくさんの方達の声があったからだ。
その一つ一つが、私たち親子を支え、生きる力を持たせてくれた。

人の優しさというのは、自分に余裕が無い時は気づかないものである。少しだけ周りに目を向け、耳を澄ませると、たくさんの声が聞こえてくる。
よく同情をきらう人がいるが、同情とは「同じ物に感じて動く心の働き」という意味なのだ。人間の優しさは、同情から始まると私は思っている。子ども達には、その優しさを拾える、また与えられる人に育って欲しいと強く願っている。
私は決して強い母親ではない。でもそれで良いとやっと思えるようになった。
百点じゃなくていい、半分+1点で良い。あとの残りは子ども達と一緒に辛さを感じ、出来事に右往左往し、手探りで答えを見つけられる親でありたいと思う。

最後に、障害児を抱えたひとり親世帯が、安心して就労できるシステムを、そして子ども達が生涯に渡り、同じ機関でサポートが受けられるシステムを、日本でも確立して欲しいと強く願って止まない。
ひとり親という境遇に置かれた自分だからこそ出来ることがあるはず。それを子ども達と一緒に声に出して生きていこうと思う。

河野 寿美子プロフィール

昭和四十二年生まれ 障害児デイサービス代表 東京都調布市在住

受賞のことば(河野 寿美子)

優秀賞が決まった日に、初めて子ども達に報告をしました。「ママ頑張ったね!」と声をかけてくれた子ども達に「これはあなた達が居なかったら頂けない賞でした、ありがとう」と返事をすると「じゃ、ウチ達がすごいってこと?」と喜んでくれました。我が家に関わって下さっている全ての方々に、そして子ども達に、心から感謝いたします。 これからも自分の経験を生かし、沢山の支援に携わっていけるよう頑張ってまいります。

選評(江草 安彦)

広汎性発達障害の中学一年生の姉と発達障害の小学四年生の弟をもつ母子家庭の健気なお母さんの暮らし。落ち込んだ後に立ち上がり、周りの人にお子さんの障害の特性を理解してもらうため「ちょこっとさ通信」を書き始めた。この通信の配布先は、団地だけでなく学校、医療、療育関係、支援団体、友人、知人へと広がっている。この積極性は地域で障害児の放課後をサポートする地域デイサービスにまで発展してきている。周りに目を向け、耳を澄ませるとたくさんの声が聞こえてくるという心境になれたことに深い感動をうけた。本文が障害をもつお母さん方の励ましになるに違いない。御一家の御多幸をお祈りしたい。