第44回NHK障害福祉賞優秀作品「プラスマイナス0、そしてプラス」〜第2部門〜

著者:河野 貴代美(こうの きよみ) 千葉県

一、長男の聴覚障害発覚

長男翔の聴覚障害が分かったのは、翔が一歳九か月の時です。
次男が生まれる一か月前に里帰り出産の為帰省した際に祖母に指摘され、反発を感じながらも診察を受けた結果「先天性高度難聴」と診断されました。
一歳半を過ぎても喋らない、「は?い」や「チョウダイ」などの芸をしない、など不審に思う点は幾つかあったものの、ものわかりが良く意思疎通が図られていたので、まさか耳が聞こえないとは思ってもいませんでした。
「全く聞こえていないようです」
と医師に言われた時、医師の背景が真っ白になり、その顔がズームアウトされて小さくなっていくのを感じました。
臨月の大きなお腹を抱え泣く事しか出来なかった私は、前向きな気持ちには到底なれず「これからこの子はどうなってしまうのだろう……」と絶望的な気持ちだけ胸に抱いていました。

二、聾学校通い

次男陸の出産を終え都内の社宅に戻り、小児難聴の権威の病院での検査・補聴器調整などやるべき課程を済ませた後に待っていたのは聾学校(現:特別支援学校)通いでした。
陸を背負い二歳数か月の翔の手を引き、都内の聾学校へ通い始めました。
聾学校の乳幼児クラスでは「聴覚障害児には教育がある。教育をきちんと受ければ普通の学校へも行く事ができる」と希望を与えられました。
翔は三歳の春に聾学校の幼稚部に入学し、陸は保育園に入り、私は毎日翔に付き添わないといけないので育児休暇中の会社を辞めなければなりませんでした。

耳の聞こえない子供に言葉を教え込み、発声させる「聴覚口話法」が当時の聾教育の主流でした。物の名前を言えるようになれば「凄い」と褒められ、「か」の発音ができるようになると「やった、やった」と喜ぶ。まさに千里の道を牛歩で進む状態でした。
一歳十か月違いの陸は気が付けばたくさん喋るようになっていて「聞こえる子供はなんて楽なんだ!」と感動したのを覚えています。
聞こえない子供は聞こえる子供の十倍努力してもその半分も言語力が育たず、本当に気の遠くなる作業を毎日繰り返さなければなりませんでした。「この子に言葉を!」と、あの当時の私は必死でしたが、本当は「もっと子供らしい生活を送らせてやりたかった」、「もっと陸とゆっくり過ごしてやりたかった」と、無念でいっぱいでした。

忘れられないエピソードがあります。
翔を近所のスイミングプールに通わせていたのですが、翔が五歳の時、近所の同じく五歳の男の子がスクールの公衆電話から自宅に電話をし、「お母さん、これから○○君ちに遊びに行ってもいい?」と話していたのを目撃したのです。
当時の翔はまだ自分の言いたい事がうまく言えず、私が状況に合わせて言葉を教え込み彼はそれを模倣する状態でしたので、同じ年の子供が一人の人格を持った人間として母親と対等に会話をし、しかも交渉をしている姿が衝撃的で、その生活レベルの違いをまざまざと見せつけられたのです。
翔の静かな横顔を見て「この子は一体何を考えているのだろう。本当は何を言いたいのだろう」と胸が潰れる想いでした。

三、長女も聴覚障害

翔が聾学校の小学部に上がった春に、長女夢が生まれました。
待望の女の子! 私は本当に嬉しくて「これで人生取り戻した」とさえ思った程です。
産後一か月が経ち、夢を連れて聾学校の付き添いを再開しました。
陸を保育園に送り、赤ん坊の夢を抱き、翔と手をつなぎ、バスと電車を乗り継ぎ通学する多忙な生活を送っていました。
そんな中、こともあろうか夢も耳が聞こえない事がわかりました。
「こんなに可愛い子が……、やっと授かった女の子なのに……」その時の私の悲しみは翔の時の絶望感とは違って、深い深い悲しみでした。
聴覚障害の子供が言葉を獲得するのにどれほど大変な訓練を受け、親も子もどれほど苦労するかを嫌というほど知っていたが故の悲しみでした。
二日程泣きました。そしてこう思いました。「大丈夫。私が言葉を教える」。それから自分に言い聞かせました。
「欲しかった女の子が生まれたからプラス。でもまた耳が聞こえない子だったからマイナス。ここでプラスマイナス0だ、じゃあどうすればプラスになるか、プラスにしていかなくては!」と。
当時主人は仕事が一番忙しい年代で、子供の事を気には掛けてくれたものの殆ど協力は期待できない状態でしたので、私は一人で抱え込み一人で決心しました。

四、聾学校転校、そして海外の生活。

三人の子供のうち二人も聾学校へ通うとなると、社宅から都立の聾学校への往復二時間はあまりに負担が大きく、また子供により良い教育を受けさせたいという希望から、千葉県市川市の筑波大学付属聾学校へ転校する事となりました。
この聾学校は定員制で受験があり、翔の対応学年は満員の為、熟考の末、学年を一つ落としての受験・合格でした。
聾学校へ歩いて通える範囲に家を購入し、陸の保育園の送迎も楽になりました。
新しい環境と信頼できる先生方に満足していたものの、一年経つと聾学校に通い続ける事に不安を抱くようになって来ました。
一学年十人、一クラス五人という少人数で六年間過ごす事の弊害、同じ障害の仲間とだけ過ごす毎日、障害に対する自覚はどう芽生えるのだろうか、大人になって健常者と混ざる環境に適応できるようになるのだろうか、等。
だからと言って、聾学校を出て普通の小学校に入って、もしうまくいかなかったら、もし人間不信になってしまったら心の傷は癒えないのでは、とこちらも心配で決断できない状況でした。

そんな中、主人の英国赴任の話が上がりました。
ロンドンには日本人学校があり選抜されたやる気のある先生が集まる、数年前聴覚障害の子供も通っていた、ロンドン郊外に日本人の言語聴覚士もいる、私たち家族にとって有益な情報が集まりました。私自身以前は英語を使った仕事に就いていたので言葉の不安はありませんでした。なかなか自分から踏み出せなかった私をポンっと押してくれた海外赴任だったのです。

五、英国での試練

一九九八年四月、家族五人で英国ロンドン(イーリング地区)に引っ越しました。
翔と陸はロンドン日本人学校、夢は日本人幼稚園に入りました。
初めての普通学校での授業、全員聞こえる子供の中でのたった一人の聴覚障害児。
翔の不安はさぞかし大きかったと思います。
幸い運動がよくできる子でしたので友達に一目おかれる面もあり、出だしは好調でした。
私も「授業についていけるだろうか、友達と会話ができるだろうか」と心配しながらも兄弟が同じ学校に通えるようになった事に喜びを感じていました。

その頃の私は、夢の教育が気がかりで自分に大きな責任を課していました。
翔は二歳の時から七年間聾学校でみっちりと基礎を築いて来たので勉強する姿勢や努力する習慣が身についていましたが、三歳になってすぐ渡英した夢は言葉もよく分からないまま幼稚園でただ遊んで過ごしていた訳です。夢に聾学校での基礎教育を受けさせなかった責任をひしひしと感じ始めました。
子供三人、そのうち障害児二人だと誰を優先すればよいか? 英国行きは翔を優先して決めた訳だけれど、実際住み始めると夢の教育が私の中でどんどん大きいものとなってきました。
他の駐在の奥様達が昼間の時間帯に習い事をしたり、街に出掛けたりするのを見ても「私は楽しんではいけない、私は子供に捧げなければいけない」と自分を追い込んでいた時期もありました。
幼稚園は歌に始まり歌に終わる。耳の聞こえない夢はいつも一人取り残されていました。一番辛かったのは参観日にそんな夢の姿を見てどんなに悲しくても笑顔でいないといけなかった事です。お母さんはいつも笑顔でいなくてはいけない、夢が私を見た時に私は笑い返さなければいけない、顔で笑って心で泣いての状況でした。
そうやって私なりに精一杯頑張っていた頃に、その事件は起きました。
英国ではJSTV(日本人向け衛星放送)の番組をよく観ていたのですが、翔の聴力では補聴器では音は聞き取れず、また字幕放送も無い為に私がテレビの内容を簡単に口で説明して翔はそれを頼りに理解していたのです。
つまり私がつきっきりでいないと翔はテレビを楽しめなかったのです。
そんなある日、番組の最中に友人から電話が入り、頂いた電話なのでなかなか切れずにいました。翔は何度も私のところに来て「早く、早く」とせかしましたが、相手に失礼だからと私も困りつつ長電話となりました。とうとう番組が終わってしまい翔は内容を理解出来ないままで機嫌が悪くなり私に文句を言って来たのです。私は友人に訳を話して切り上げるべきだったと後悔しつつも、翔に何でも思い通りになると思って欲しくなくて
「お母さんにだって事情はあるのよ。少しは我慢しなさい」
と叱りました。
そうすると翔はわ?っと泣き出し、
「お母さんは僕が学校でどんなに我慢しているか知らない」
と言い出したのです。
「友達がなんて言っているのか分からない。会話に入れない。皆が僕を仲間はずれにする。授業だって分からない!」
と泣きながら訴え始めたのです。
それまで私は、翔は楽しく学校に通いみんなからも親切にされていると思い込んでいたので、全く想像もしなかった翔の訴えに打ちのめされました。
更に翔はこう言いました。
「日本に帰りたい。日本はお天気がいいから昼休みに外でドッジボールができる。ドッジをやっている時は言葉がいらないから僕は友達と遊べる。でもロンドンはお天気が悪いからいつも教室でみんながお喋りするから僕は一人ぼっちになってしまう」
と。
一体どう慰めればよいのか。子供の障害を私は持っていないから理解してやれないのか。英国に来たのは間違いだったのか。聾学校に残るべきだったのか。グルグルと後悔が頭の中を渦巻いて駆け巡りました。
それでも私が産んで私が育てた私の子供だから、私が思いを伝えるしかない。翔の目の前に座り、じっくりと話しました。
「お母さんはね、耳は聞こえるけれど、生きていて色んな辛い出来事がいっぱいあったよ。でもね、どうして乗り越えたかというと、お母さんは自分と向き合っていたの。いつも自分を持っていたの。翔は耳が聞こえなくて辛い事が多いけれど、足が速い、ドッジボールも上手い、手先も器用、いいところがいっぱいあるよ。そこに感謝しよう。自分を好きになって。自分を持って。とにかく自分」
それが精一杯の言葉でした。
素直な翔は納得して落ち着きましたが、私はどうしても割り切れず、翌日担任の先生のところへ行き号泣しながらこの一件を伝えました。担任の先生は
「すみません。僕が行き届かなかったから……」
としか言えず、ご自身でも対処しきれなかったようで校長先生に相談され、校長先生から面談の申し出がありました。
校長先生は成人されたご長男がダウン症で、ご長男を連れて英国に赴任されていました。ロンドン日本人学校に欧州初の障害児学級「テムズ教室」を開設されたのもこの先生でした。障害児の親の気持ちが誰よりも分かる先生と期待しての面談でした。
校長先生の開口一番はこうでした。
「あのね、もっといじめられなさい」
私は面くらいました。校長先生は続けて仰いました。
「お母さん、世の中甘くないですよ。障害があるから優しくして貰える、親切にして貰えるなんて期待しちゃ駄目ですよ。もっともっと泣かないといけない現実が待っているんです。ここで強くならないといけないんです。お母さんも翔君も甘えていてはいけません」
この意外な発言は正に目からウロコでした。同時にこれから翔と夢が迎える将来の現実に身が締まる思いでした。
校長先生は最後に
「真ん中のお子さんに気をつけてあげて下さい。彼は危険信号いっぱい発していますよ。彼の言動を見ていると心配でしょうがない。障害を持ったお子さんより、健常のきょうだいの方が大変なんです」
と忠告して下さいました。

あの子もこの子も心配で、でも母としてしっかりしなくてはいけなくて、私も誰かに認めてもらいたい、褒められたい、そんな不安定な気持ちが溢れそうでした。
それでも常に常に子供に向き合い、問題に向き合い、プラスに換える努力を積み重ねました。

そんな必死な状況の中、勿論素晴らしい出来事もありました。

六、寛大で公平な英国の福祉

五年間の英国生活で「ゆりかごから墓場まで」のNHS(National Health Service)の恩恵に浴し、また素晴らしい福祉システムも体験しました。

まず驚いたのが、英国では教育・医療・行政の三本の柱が全て横で繋がっているのです。例えば病院で聴力検査を受けると、その結果と医師の報告が日本人学校とイーリング区役所に郵送され、学校も区役所の障害児教育担当もその状態を把握しなければならないのです。日本では親が報告しない限り、学校の先生が病院の診断結果を知る由もありません。

また、イーリング地区の障害児教育担当者が学校に見学に来ると、その報告が病院と学校に送られ、医師は子供の学校での様子を把握し、学校はその評価から子供への対応の再検討・改善を要求されるのです。
日本では障害児を普通学級に通わせるとなると、親が全て抱えこまないといけないのが実情です。

そして私は英国の障害児認定の申請を試み、一年半かかってやっと認定されました。
英国ではこの認定を受けた子供にはコーディネーターという付き添いが充てられます。
学校交流として現地の小学校の子供達が日本人学校へ来る行事がありましたが、ダウン症の子供がこのコーディネーターの付き添いの下に普通学級に在籍しているのも目の当たりにしました。
そして日本人の翔には英国人のコーディネーターは付けられないので、その代替として区役所から日本人学校に補助金が支払われました。その補助金で日本人の助手を雇い、授業中に先生の喋った内容を要約筆記するノートテイクをお願いしました。
後に夢にも認定が下り、夢も小学校ではノートテイクのお世話になりました。

そして最大の恩恵は人工内耳手術でした。
日本では年齢的に遅いという理由で対象にならないこの手術を、英国で受ける事が出来たのです。今まで補聴器では音を増幅して聞かせる為音を聞き取る事が出来ず、この子達は耳に頼れずに口元を見て会話する「読話」をしていました。
しかし、人工内耳を埋め込み音を電気信号に変換して聴神経を直接刺激する事によって、音をかなり聞き取る事ができるようになったのです。
一番印象的だったのが、手術後のある日、翔がお菓子(チートス)を久し振りに食べた時に
「お?!」
と叫んで何度も何度も食べては確認しているのです。
「音がする! 食べると音が聞こえる」
と感動していました。それまで食べ物を食べてもその音が聞こえなかったのです。それ以来、炒め物の音、虫の音、水の音など新しい音の世界を知る事ができました。複数の人の声を聞き取るのは不可能なままですが、一対一の会話がどうにか聞き取れ、そして何より生活音の幅が広がったこの人工内耳はこの子達の人生をも豊かにしてくれる画期的な手術だったのです。
この手術を受けるに当たって、駐在という立場の私達家族を対等に扱ってくれた病院関係者の寛大さに感謝しました。
人工内耳手術プログラムは手術前一年、手術後一年と計二年間のプログラムで慎重に検査・調整を続けます。何より親の献身が必要とされ大変で途中でギブアップする例もあるそうですが、それを二人の子供に施せた実績は病院関係者から称えられ、私自身も報われました。

このように英国に行ったからこそ実現できた数々の体験は、私達家族を励まし支えてくれました。

七、帰国、日本でのインテグレーション

五年間の英国滞在で一般的な駐在員家族には無縁であろう壮絶な経験をし、家族五人無事に帰国しました。
翔と陸は地元の公立中学校へ、夢は公立小学校へ転入しました。
日本人学校は駐在員の子供が日本全国から集まり、短い子は一年、平均三年で帰国してしまうので、サイクルが短い為に友人関係が希薄になりがちでした。
それに比べると、公立の学校は幼少期からずっと一緒であったり、近所同士であったりして非常に仲が良く、男女を問わず友人関係が築けるようでした。
翔は「みんなが話し掛けてくれる。すぐに助けてくれる」と感動していました。

英国で授業中にノートテイクをつけていた事が非常に効果的だったので、私は日本でもこれを実現したいと思い、市の教育委員会に出向き相談しました。
しかし答えはこうでした。
「お子さんが椅子に腰掛けて、書いてある字を理解できる状況にあるだけでもう十分で、それ以上はプライベートな問題になってしまうんですよ。今は椅子に落ち着いて腰掛けられないお子さんがたくさんいてそっちの方が大変なんです」
聴覚障害を理解しようともしない姿勢に日本の現実を見た気がしました。英国の例を挙げると
「お母さん、ここは日本ですよ」
とたしなめられました。
ちょうどその頃、障害児支援教育に関して都内で文部科学省の方の講演があると知り足を運びました。そこでその担当者が目指すモデルとして説明していたのが、正に翔と夢が恩恵に浴していた英国の障害児教育支援システム(Special Educational Needs for School)だったのです。その担当者は十年前に視察に行ったと話していました。
「十年前に視察した事にこれから取り組むのか……!」私は椅子から崩れ落ちそうになりました。私の子供達が英国で体験できたシステムを、日本の障害を持った子供達に実現できるのは一体何十年先なのだろう、と気が遠くなりました。

こうなると自分で動くしかないと行動に移り、市の社会福祉協議会、ボランティアセンター、手話サークル、大学の手話クラブなどの皆さんの協力の下、夢のノートテイクボランティアが実現しました。
そして、その様子を見て過ごした級友達は、学校集会などの場でボランティアさんがいない時は自発的にノートテイクをしてくれるようになりました。
子供達が自然に聴覚障害の夢を助けてくれるようになっていたのです。
バリアフリーの精神はこうやって現場で育むのが大切だと実感しました。
障害のある子供が普通学級にインテグレートするのはその子の為だけではなく、健常の子供の為にもなっているはずです。

八、そして今。

翔は高校も地元公立高校へ進学し、ロンドンで始めたサッカーを続けました。
ロンドンで辛い思いをして来た分、すっかり逞しくなりました。
大学は聴覚障害者のための唯一の国立大学である筑波技術大学に進みました。
大学でもサッカーを続け、これを機に聴覚障害者のデフサッカーチームに所属しました。
そして、今年の九月に台湾で開催される聴覚障害者のオリンピック、デフリンピックのサッカー日本代表に選ばれました。
第一試合の相手国はなんと、英国!
英国での様々な経験を経て今の翔があります。感慨深い相手です。

夢は中学三年生の体育祭で応援団に入りました。
幼稚園の時、お遊戯を全くしようともせず一人取り残されていたあの夢が、例え音程は取れなくともしっかりと応援歌を歌って踊っていたのです。その姿は私にしみじみと年月の流れを感じさせました。
今ここで、やっと笑顔で笑って心でうれし泣きができたのです!

聴覚障害児を育てるにあたって言葉を教えるのは何より苦労しましたし、精神的にも本当に大変でしたが、その分深い愛情を注ぎ、自分の活躍する場がありました。
英国の病院や役所にて体当たりで交渉して来た成果もあり、帰国後私は英語通訳案内士の国家試験を取る事ができました。
泣く泣く辞表を出したあの日、自分がこういう資格を取得できる日が来るとは夢にも思っていませんでした。
「プラスマイナス0、そしてプラスに持っていこう」と前向きになれたあの瞬間に感謝します。
子供達が社会に出るまで、そして社会に出てから、家庭を持ってから、先は長いですが常にそして共にプラス思考で前向きに生きていきたいです。

河野 貴代美プロフィール

昭和三十七年生まれ 英語通訳案内士 千葉県市川市在住

受賞のことば(河野 貴代美)

「何事も無駄ではなかった」と感無量です。
その時その時、出来る事するべき事を一生懸命やっていけば必ず道は開けると思えるようになりました。そしてこれを子供達にも伝えていきたいです。
マイナスをプラスに換えるエネルギーは自分一人の努力では生まれません。
聾学校の先生方始めこれまで関わって下さった全ての皆様のお陰と感謝しています。
そして同じような立場の方々の励みに少しでもなれるように還元していきたいと思っています。

選評(山口 薫)

二人の高度難聴のお子さんを育てた経験を綴ったこの作品から、多くのことを教えられました。
早期の聾教育の大切さ、英国の進んだ障害医療-例えば人工内耳手術-、そして医療・福祉・教育システムの見事な一体化。帰国後、日本の現状に半ば呆れながら自らが運動して、地域の小学校でのノートテイクのボランティアの実現-これからの日本での課題と取り組み方が具体的に示唆されています。