第44回NHK障害福祉賞矢野賞作品「社会と自分のために」〜第1部門〜

著者:田中 五郎(たなか ごろう) 北海道

失明

まさか失明するなど考えたことなかった。本を読むとなんとなくちらちらする。平成元年に宿命の波に襲われた。
車を運転し毎日建設現場で働いていた。夕方帰る途中、道路の左の歩道が見えにくくなっていた。その時七十歳であったので歳のせいにしていたが、本を読むとちらちらして読みにくくなり普通ではないと思い、仕事を休んで眼科に診察して頂いたら緑内障といわれ、悪くなっても良くはならないといわれた。
眼科の先生の説明では、眼圧が上がっていて視神経を圧迫して視神経が死んでしまい、死んだ視神経は戻らないと言われた。この先生はりっぱな先生で良かったと思った。
手術しても、レーザー光線で焼いても、いずれは見えなくなると言われた。言われたときは崖の淵を歩いているような恐怖のどん底であった。夜布団に入って寝ているとき、死ねるものならこのまま死んだ方がよいとさえ思い、朝目がさめると何も見えない毎日で不安の日々であった。
ある時、人間一人の命は地球より重いと言われ、前に進むことに発心したのであったが、七十年やってきたとはいえそう簡単にはいかなかった。
そこで盲導犬協会にお願いして、歩行訓練や生活指導を始めた。歩行訓練といっても全く一人で歩くための訓練であるので大変である。ここに電柱があるとか自動販売機があるとか店の前だとか。交差点の渡り方も普通は縁石を杖であたりながら歩くのであるが、夏は良いが北海道の冬は雪のため縁石はたよりにならない。

ガイドヘルパー

石狩市の場合、社会通念上許される範囲でガイドヘルパーを出してくれるので、買い物や図書館など予約しガイドされ行くことができる。講習をうけガイドヘルパーとなっているので安心である。ただし、バスなどの費用はこちらの負担である。

補装具、生活用品

盲人用のテープレコーダーや音声の出る時計や体重計などを手に入れると点字の説明書が付いてくるので、この先点字を学ばなければと思い図書館に電話で相談したら、点字の講習会はやっていないと言われ、社会福祉協議会に電話をすると行政だと言われる。そこで市役所に電話で相談したら、どこかの新聞社での広告にあったと、素っ気ない話であった。
これが福祉かと思いながら自分のことは自分でと考え、盲導犬協会ならと思い、電話すると教えてくれるとのこと、バスと地下鉄を利用して訪問して頂けないかと相談をしたら札幌市内ならば良いが、石狩なら対応できないと言われた。どこか点字を教えてくれるところはないかと聞いたら北海道難病連を教えてくれたので早速電話したら交通費のみで来てくれることになった。
点字盤、点筆など持ってきてくれた。一年間で覚えようと始めた。五十の手習いではないが七十歳まで肉体労働で働いてきたため、手の皮膚が硬くなっていて、裏からの読みが文字判断ができなかった。
眼科の先生は、高齢だから何もしないでよいと言われたが、手の内側が点筆で痛くなるほど毎日打っていた。拗音や濁音、半濁音、数字などを、じっとしていられない性格と仕事をしていないので暇さえあれば手が痛くなるほど打ちまくった。

パソコン

ある時、ラジオを聞いていたら、高性能の音声パソコンが開発され、盲人であっても晴眼者と同じように視野を広めることが出来ると言っていた。早速難病連に視覚障害者用のパソコンの注文の電話をした。
今までなら盲人用のテープレコーダーなどは三日か四日位で納品されたのであったが、一月たっても連絡がないので電話で催促すると「はい」と言ったきりだった。
半年くらいたった頃、田中さんは八十歳になるし、全盲なのでパソコンを使うのは無理だとのこと。個人差もあるのではと思った。パソコンはまだ北海道には盲導犬協会か盲学校にしかないので指導員の人材不足と、開発されたばかりなので値段も高く、六十万円もしたのであった。難病連との協議の結果購入することにし、納品は業者から直接で代金引き換えとしたのである。そうすると支払いに行かずにすみ、玄関で用がすむのである。それから間もなくパソコンが届いた。
失明する以前にも知らないのであるから、手探りで全体を確認する。キーボード、モニター、スピーカー、スキャナなど何が何だか解らないまま難病連から指導に来て頂きました。それでも先に点字を学習したので点字うち音声ワープロのソフトが使えて助かった(※六つのキーで文字入力ができる)。苦労しただけのことはあった。苦は楽の種。楽は苦の種、昔のことわざに学ぶことは多し。
ここでまた壁にあたり、点字は双六の六と同じ並びであったが、パソコンで入力するときは使用する六つのキーは横に並ぶのである。難病連の指導員は一日おきに来て、俺の打ったプリントを見てよくこんなに出来たといって驚いていた。全く見えないでやるのだから一日でも休んだら遅れるような気がしてならない。少し文章が書けるようになると楽しくてならない。

俺おれ詐欺について

朝九時頃電話のベルがなる。はい田中ですと出ると、電話の向こうで泣きじゃくりながら事故をおこしたという。場所を聞いたら石狩街道北二四条と言う、怪我はと聞いたら何ともないとの返事、相手の怪我はと聞いたら相手も何ともないという。脇見をしていたので一方的にこちらが悪い、話し合いのできるような相手ではない、相手の車は外車なので修理するのに一週間くらいかかると。警察に届けたかと言ってやったら人身事故ではないのですぐ帰ったという。人身事故でなくても証明がなければ修理ができないのである。そのような知識がないようであった。
そのあいだ仕事ができないと言う。初めから判っていたがお金がほしいなら取りに来るかと言ってやったら事故処理があるので行けないと。一言大きな声ではやりの俺おれ詐欺でないのかと言ったら、しばらく間をおいてそんなのでないと電話をきった。このことは市役所の広報や身体障害者協会の会報に掲載してもらった。

読書

読書については、石狩市の図書館から録音図書を借りて読む。あとは東京の日本点字図書館に電話するだけで送ってくれる。読み終わったらポストに投函する。石狩市の市民図書館には朗読ボランティアさんがたくさんいて図書館で対面朗読をしてくれるので感謝しています。

学校で講演

朗読ボランティアさんやガイドヘルパーさんにお世話になっていても地域のため社会のためになることがないかと思っていたが、文字を読むことも書くこともできない。そんななか社会福祉協議会から電話があり、中学校で講演をやってくれないかと言われる。少しでも社会の役に立つのならと、小学校も四年間しか行っていないのにと思いながらであるが、やるからには喜ばれるようにしなくてはと思い、学校に直接電話をして内容をきいた。
この学校では数年前からボランティア活動や体験などについて成果を上げている。昨年は耳の聞こえない人に来てもらったので、今年は視覚障害者の田中さんに来てもらうことにしたということである。そうであれば目の見えなくなってからの失敗談などをと思いやることにした。やるからには成功させなくてはならない、毎日学校に電話をして打ち合わせをした。
初めての学校なのでバリアがないか、ステージの階段の数や広さなどきめ細かく聞いて、いよいよ本番、七月二十七日の暑いさかりなのに足はがたがた震えた。ステージ中央まで手引きしてもらい講演をした。
講演後の生徒からの質問は次のような質問があった。どうして盲導犬を飼わないのですか。光を感じますか。階段の上り下りはどうしていますか。読書はどうしていますかなどがあった。質問する人は全校の代表であるから真剣であった。それからは石狩市内の小中学校、高校で講演をした。一回訪問するごとに子供達が喜んで満足するか確かめながら、回数にしたら二十四回くらいした。残念なのは子供達の顔がみえないことである。ガイドさんが耳元で、田中さんの顔を目を丸くして見ていると言う。そうかと思ったら聞いているのか聞いていないのかわからない子もいる。小学四年生であれば総合学習でまなぶことは楽しいようであった。終わった後作文の時間で書いたのであろうか、クラス全員から感想文を頂いた。読んでみると俺の話をちゃんと聞いてくれたことが作文の内容からよくわかった。
学校とは文部科学省の学習指導要領があるのでどの学校も同じかと思っていたが、学校ごとに個性があることがわかった。総合学習のなかで盲人用の音声の出る用具を見せると、歓声をあげて私もやりたいと興味津々、目が見えないがマジックもできることを見せたりもした。どこの学校へ行っても同じようなことを話すのであるが、眼が見えなくなってもパソコンや俳句などいろいろなことに挑戦をしてきたことを話し、皆さんもいろいろなことに挑戦して頂きたいと伝えてきた。
子供達には横断歩道に、白い杖を持っている人がいたら助けてほしい、声をかけるときは自分の名前を言って声をかけてほしいと総合学習で言った。ある日図書館からの帰り道、子供達ががやがやと「花川小学校の五年生の誰々です」といって挨拶をしてくれた。子供達と接していると、十年、二十年、三十年先、戦争のない世の中になることを願うものである。

パソコン

前にパソコンの話をしたが、まだパソコンを使っていない人がいると思うが、俺がパソコンに振り回されていながら厚かましいが、視覚障害者としては自分で文章も書けるし、情報も取れると言うことで一人でも多くの人にパソコンを使ってほしいと思い、五十歳くらいの知り合いに声をかけ、パソコンの指導員に家庭訪問をしてもらった。大変喜んで学習してくれ使えるようになった。
また、自分もパソコンを使い幼い頃の話から眼が見えなくなったことなどと、失明してからはじめた俳句を載せ、自分史と句集を合わせた「河口橋白い杖とともに」を自主出版した。いろいろな人に渡し読んでもらったが、市の教育委員長からは次のようなお礼のメッセージを頂いた。
日頃より教育行政に理解と協力を頂いていること、特に市内の学校で視覚障害者として経験を生かして総合学習で講演をいただき、地域に根付いた教育に尽力いただき感謝しているということ。八十八歳になった記念の自分史は貴重な体験に基づいた一冊の本として生きた教材として総合学習に使わせて頂きたいと思っていると記されていた。
また、自費出版したことは北海道新聞の地方版にも掲載された。
「全盲の田中さんは八十八歳の米寿の記念に何か残したいと、七十一歳からの失明であるがパソコンを駆使し、市内の学校での講演の話や毎月一回開催されている石の花の俳句会での俳句『酔客の声かさなりし花衣』『春の月塵はらいけり車いす』など一二六句を選び、自分史と歌集をあわせたものを自らパソコンでつくり二〇〇部印刷し、友人知人に配布した。」

介護保険について

介護保険ができたときには、介護なんか受ける身になんかなりたくないと思ったが、家にばかり引きこもりになるので、ケアマネージャーに相談をし、一回ではあるがデイサービスを受けることにした。行き始めて二週間たった頃お風呂の脱衣室で「お座敷小唄」の鼻歌を歌っていたら、
「田中さん、今の歌替え歌にできないかい」
と言われたのが次の歌である。デイサービスでは毎日帰りの支度が終わると、一番目は「お座敷小唄」の一番を歌い、二番三番はこの替え歌を歌い、それぞれのコースバスに乗り帰宅をするのである。

一 今日も元気で迎えられ
  車内はいつものなじみ顔
  車椅子やら杖ついて
  受けるサービスみな同じ

二 どうかしたかとたずねたら
  どうもしないと笑顔見せ
  リハビリ体操で汗流し
  今日も元気で帰るバス    作詞 五郎

文化活動に参加

晴眼者に代筆をしてもらい川柳をだしたら、北海道身体障害者新聞で入選した。昨年は「灯油高湯たんぽこたつよみがえる」、今年は「宅配は荷主を聞いてから開ける」と二年も続いて北海道一になりとても感激している。代筆してくれた方や喜んでくれた友に喜びと感謝の心を、これからもお世話になりながら続けていきたい。

最後に

「限りある人生陰徳あれば必ず陽報ある」と確信し、すがすがしく一歩でも前進したい。

田中 五郎プロフィール

大正七年生まれ(平成二十一年八月三十日逝去) 無職 北海道石狩市

受賞のことば

この度、父が矢野賞という素晴らしい賞をいただけた事を、故父田中五郎に代わって、心より感謝申しあげます。生前父が応募した原文を家族で読み、一つ一つ思い出しては笑ったり涙したり、本人しか分からない苦労や、家族には迷惑をかけないように努力している姿を思い出しました。地元では少しばかり有名な元気のいい父でしたので、天国でもこの賞を胸に抱きながら歌っている事と思います。改めて家族一同感謝申し上げます。(故田中五郎代理 田中誠)

選評(中村 季惠)

七十歳からの失明。恐怖のどん底から、未知の世界に敢然と立ち向かい、旺盛な好奇心と驚異的な活力で、新しい一歩、確かな一歩を踏み出し続けた二十年の記録です。盲導犬歩行、点字習得、さらに八十歳ではじめてパソコンに挑戦。いくつになっても「始めること」を厭わない精神力と行動力にただただ圧倒されました。中途失明者の多い今日、その足跡は社会的にも大きな意味があると思います。選考委員の全員一致で矢野賞に決定しましたが、残念ながら受賞の報を待たずに、九十一歳で永眠されました。
田中さんは、原稿の最後の一行に「限りある人生陰徳あれば必ず陽報あると確信し、すがすがしく一歩でも前進したい」と記されています。お志を貫かれた尊い生涯に、合掌。