第43回NHK障害福祉賞最優秀作品
「聴覚障害があっても、音楽は楽しめる! 体すべてが楽器です。〜言葉の壁を越えたボディパーカッション教育を世界へ発信〜」〜第2部門〜

著者:山田 俊之(やまだ としゆき) 福岡県

一、はじめに

「ボディパーカッション教育」というジャンルがある。手拍子、足踏み、ひざやおなか、お尻等を叩きリズムを奏で、友達同士でアンサンブルを作り出し仲間意識を高め、自己表現能力やコミュニケーション能力を育てる教育方法である。
一九八六年(昭和六十一年)小学校四年生を担任していた当時、あるキレる男の子の存在をきっかけにクラス運営の一環としてクラス全体で体を叩いてリズムアンサンブルを行ったのが始まりだった。「ボディパーカッション」という名称は、体全体(ボディ)の様々な所を打楽器(パーカッション)のように叩いて音を出し、リズムアンサンブルを作り上げる事から私が名付けた造語である。

二、ボディパーカッション教育の始まり

「A男が暴れています! 先生早くきて下さい」
女の子が金切り声を上げ叫んで職員室に入ってきた。この子たちを受け持ち、始業式からこれで十日間続いたことになる。小学校四年生の担任になって職員朝礼の時、毎日のようにクラスの子ども達が呼びにきていた。慌てて階段を駆け上がって二階の教室まで全速力でいく。だれか怪我をしていないだろうか、教室の扉を開けるまでは不安でいっぱいになる。ドアを開けて教室を見渡すと、A男が教室のほぼ中央に立っており、その周りは誰もいない、A男を中心に同心円を描くように遠巻きにみんなが見ている。一人の女の子が教室の隅で泣いており、A男は肩で息をしてまだ興奮状態が続いている。
「どうした!」
と私が聞くと、A男は一点を見つめたまま目に涙を溜めて何も答えない。周りの子ども達にどうしたのか聞いてみると、A男がいつものように急に怒りだして、自分の机や椅子を蹴って倒したりし始めたようだった。少し興奮状態から落ち着くのをみて、A男の肩を抱くようにして
「A男、どうしたんだ」
と聞いた。A男が
「B子ちゃんが消しゴムを貸してくれなかった」
とぽつりと言った。教室の隅で泣いているB子に聞いてみると
「A男の言ったことがよく聞こえなかった」
と答えた。一九八六年当時勤務していた福岡県久留米市立大橋小学校の時である。周囲に高い建物がなく、のどかな農村地帯で一学年一クラスという、一年生の時からほとんど同じ顔触れの子ども達の小規模な小学校である。A男のことは、周りの子ども達はある程度慣れており、人間関係も定着していた。しかし、「キレる」状態になるのは小学校三年生頃から激しくなったようだった。そして、先述のような事が毎日のように起こっていた。
A男はきつく叱ると教室から出て行き運動場を逃げ回ってしまう。数日前は私と一時間ほど学校中を走り回り、午前中はずっとA男の右手を持って授業を行っていた。しかし、興奮が静まると何事もなかったようにしているのが常であった。ある時は、生徒が私を慌てて呼びにきたので急いで教室に行ってみるとA男がいない。どこにいるのだろうと教室を見回すと、なんと木製のテレビの上にいるではないか。当時は、画面十八インチで木製の頑丈なテレビが教室前方の左側にあり、A男がその上に乗って、押しピンをみんなの方に向かって投げていた。それから、A男のことを何とかしたいと思うようになってきた。
当時は、勉強が苦手で運動も苦手な子どもはどこで自分の存在価値を見つけるのだろうと教師として悩んでおり、A男がまさにこれに当てはまる生徒だった。
ある日、給食準備中の放送でリズミカルにアレンジした「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(モーツアルト作曲)の演奏が聞こえてきた。今まで音楽の時間でもなかなか集中できず、歌や合奏にも興味を示さなかったA男が、なんとその曲に合わせて手でリズムを取っているではないか。その時、手拍子などを使ってA男も参加できる楽しい授業が出来るのではないかと考えた。A男は授業中注意散漫でなかなか集中して物事を持続できない。そこが一番の課題だった。早速、その年の夏休みに教材作りを始めた。
子どもにとって一番辛いことはクラスの仲間から認めてもらえず、疎外感を味わうことだ。当時、私はA男がクラスの一員として所属感や仲間意識が持てる良い方法はないかと考えていた。そして出来上がった自主教材が、ボディパーカッションを取り入れた『山ちゃんの楽しいリズムスクール』である。朝の会、帰りの会、学級活動や「ゆとりの時間」(昭和六十一年当時の呼称)などで一日五分から十分程度行っていった。他の子ども達への働きかけとしては、体で表現することの楽しさを伝えた。A男が集中できれば他のみんなもできるはず。A男が楽しければみんなも楽しい。A男のクラスで「ボディパーカッション教育」を始めて約半年が経った。この間にA男は落ち着きを取り戻し、他の教科の授業に対しても参加する姿勢を見せてくれる様になった。それは、「ボディパーカッション教育」によって自分が参加できる場が生まれ、周りの子ども達がA男を認めてくれる雰囲気ができたからだと感じている。それから十五年後、(二〇〇一年)、NHK交響楽団が演奏する「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に合わせてボディパーカッションの子ども達の共演が実現するとは誰も想像できなかった。

三、「ボディパーカッション教育」を聴覚障害の子ども達へ

平成九年(一九九七年)一月、「ボディパーカッション教育」に取り組み始めて十年が過ぎ、私が勤務した経験のある小学校や、発達障害のある子が在籍する養護学校(現:特別支援学校)の教育現場では、ボディパーカッション教育は大変有効であり、子ども達は大変楽しんでくれた。しかし、私は「音が聞こえない聴覚障害の子ども達は、音楽が楽しめるだろうか?」という疑問が浮かんだ。
早速、同じ地域にある福岡県立久留米聾学校へ連絡をとって
「音楽の授業は行われているのでしょうか?」
と聞いてみた。今から考えると大変失礼な質問である。担当の先生は
「はい、もちろんあります」
と答えて頂いた。(*尚、昭和四十八年以前は聾教育の学習指導要領では音楽の授業は『律唱』と呼ばれていた。)私は、早速、中学部の音楽の授業を参観させて頂くことになった。授業では、七人の生徒達が松任谷由美さんの「卒業写真」を合奏していた。キーボード・エレキギター・エレキベース・ドラムセットそしてパーカッションで一生懸命、先生の指揮を見ながら演奏を行っていた。
生徒達は、先生の指揮を見ながら一生懸命演奏をしている。決してうまい演奏とはいえない。しかし、生徒達は真剣そのものだった。指揮者である先生の手の動きを真剣に見ながら、楽譜に合わせて一生懸命に演奏している。授業後、先生にいくつか質問した。
問「子どもたちは、自分たちが演奏している音は聞こえていますか?」
答「ほとんど聞こえていないと思います」
問「子どもたちは自分が演奏した音は全く聞こえないのですか、それともかすかに聞こえる子もいるのですか?」
答「多分、私たちが楽器の音として聞こえるような感じではなく、ザーとかビーとかいわゆる雑音のような音として聞こえるかもしれません。補聴器を付けている生徒は多分そのような感じで聞こえているのではないでしょうか」
このような会話の中で、聴覚障害の子ども達にとって「ボディパーカッション教育」であれば自分の体を叩く振動や刺激が『音楽』として感じ取れるのではないか。つまり、耳が不自由でもボディパーカッションは自分の体を叩くのだから、強弱もリズムも簡単にわかる。まわりの人の動きも見える、友達同士音が聞こえなくても合わせることに問題はないはず。ボディパーカッション教育を是非取り組んでみたいと考えた。
早速、当時の久留米聾学校校長先生へ
「聾学校でボディパーカッションの授業を取り組ませて下さい」
とお願いしたところ、後日
「生徒の自己実現の場となれば」
と受け入れて頂き、さらには次の年(一九九八年)十月に福岡県で開催される全日本聾教育研究大会の研究演奏として披露することが決定した。
いざ指導するとなると様々な不安が錯綜した。自分の叩く感覚はわかるが他の人は見ていなければテンポがずれてしまうのではないかとか、さらには私自身手話がうまくできなくて思いを伝えることができるだろうかという不安だった。しかし、いざ指導に入ると身振り手振りで大袈裟に説明しながら(手話のつもりでも手話になっていない)繰り返し手や体を打つしぐさを行って伝えようとしていた。しかし、私自身本当に伝わっているのか、生徒達が楽しいと感じてくれているのか、また私が指導している内容が理解できているのかが不安でいっぱいだった。聾学校の先生が手話通訳を入れる。私は生徒達に分かりやすい大きな動作をゆっくり話しながら説明する。生徒達は私の顔の表情や身振り手振り、さらには口の動き(口唇)などを読み取りながら感覚的に理解する。
聾学校では繰り返し練習を行った結果、難度の高いリズムアンサンブルができるようになった。また、曲の後半には、生徒自身が考えた即興的な発表を取り入れて曲を構成するというような発展的な取り組みまででき、予想以上の結果であった。演奏会にはほとんど足を運ばない聴覚障害者が、リズム身体表現で演奏することにより、演奏会で主役の立場になる。音が聞こえなくても、身振りから感じる"音楽"があると実感できた。
不安いっぱいのスタートだったが授業を進めるうちに悩みは解消され、生徒達の屈託のない明るさに励まされた。こちらが、指導に行き詰まり困った顔をしていると「そんなに悩んでどうするの?」といった表情で、私の肩を叩いてニコニコと身振り手振りや手話で話しかけてくる。生徒達の明るさに圧倒されながらも指導は続き、曲のクライマックスでは生徒達が考えた即興演奏(アドリブ)を加えることにした。結果的には聾学校の生徒達にとって、自分の思いを相手に伝える自己表現能力を高められる内容だった。具体的には、二人で相撲を取っている様子やストリートダンスを取り入れたパフォーマンスなど元気いっぱいの個性と工夫が感じられた。
約一年後、研究大会本番当日になり研究演奏が始まった。
「タッ ドドドン タッ ドドドン タッドタッドタンドドン」
一列に並んだ福岡県立久留米聾学校幼稚部、小学部、中学部合計約六十名全員が、一斉に手拍子と足踏みを始める。
「タタタン、タタタン、ドンドンドン」
次はグループごとに違ったリズムで追いかけ、輪唱のように重なっていく。
「パタパタパタ」
と体を折り曲げておなかを叩く音が加わる。さらに、体のあちこちを手で打ち鳴らす音が響き、複雑なリズムになる。生徒達は楽しそうに体を揺すり、歩いたり飛び跳ねたりしながら自分の身体を使って音を出し自己表現を行う。見ている方も自然に体が動く。そして、発表曲『ダンシング・フォールズ(踊る滝)』のエンディングに入り全員の
「ヤ!」
という声が会場全体に広がり演奏が終わった。聴衆は、生徒達が聴覚障害をものともせず、自分自身の体の音を感じ取って生き生きと演奏する姿に圧倒され、一瞬時間と空間と音が止まってしまった。しかし、その後すぐに、約一二〇〇名の怒濤のような拍手がホール一杯に響きわたり、いつまでも鳴り止まなかった。
その後、前述したように二〇〇一年には、健常児と聾学校の生徒のボディパーカッションとNHK交響楽団の共演が実現した。きっかけは、NHK交響楽団第一コンサートマスター篠崎史紀氏とお会いする機会があり、先のような「ボディパーカッション教育」の話をしたところ
「是非、一緒に演奏会を開きましょう」
と言ってくれ実現したものだった。その後も篠崎氏との交流が続き、二〇〇四年、二〇〇六年と合計三回「NHK交響楽団とボディーパーカッション演奏会」が実現している。

四、言葉の壁を越え、ボディパーカッション教育を世界へ発信

昭和六十一年(一九八六年)にボディパーカッション教育を始めて二十二年、平成九年(一九九七年)から聾学校を指導し始めて十年が経過した。現在も、福岡県立久留米聾学校で「ボディパーカッション教育」を継続的に行っている。聴覚障害の子ども達が自分の身体を楽器として自己表現することは、心身が解き放たれるというのか、人間の心の奥深い部分を揺さぶる不思議な力があると感じている。
「音の世界」から一番遠い位置にいる聴覚障害を持った聾学校の生徒に対して、「ボディパーカッション教育」を取り入れて音楽の指導をする。それを全日本聾学校教育研究会で発表演奏することにより、自己実現の場を設定し社会性や積極性を増す効果を期待でき、そのことによって聴覚障害の生徒のコミュニケーション能力が高まると考えた。
聾学校の生徒も、自分の体から音を出し強弱もリズムもわかり、まわりの人もその動きが見えるので、健常者と同じように他の生徒と非言語のコミュニケーション活動ができると考えた。つまり、「教師や友人を見る」「他の人の動きを読み取る」「人に合わせる」「人の意図を読み取る」などの視覚等の情報も利用することにより、これらの音を聴覚以外の体性感覚(触圧痛覚等)や深部感覚(振動覚等)により認識し聴覚を補完することができることになる。音を通した自己表現からいちばん遠い位置にあると思われる聴覚障害の生徒達が生き生きと取り組んでくれる様子が多く見られた。
ここで、ボディパーカッションを経験した聾学校生徒の作文を通して、ボディパーカッション教育の可能性を探りたい。尚、作文は抜粋しているが表現は原文のままである。

ボディパーカッションと出会う前の私と出会った後の私
筑波大学附属聴覚特別支援学校二年 井上彩香

私が、ボディパーカッションと出会い、私の人生を大きく変えるキッカケとなったのは小学校六年生の冬頃でした。当時、私は地域の学校に通っていて、友達は多数いて私と友達二、三人となら話せるのだが、何人かの友だちが輪になって楽しく話しているけれど、私は耳が聞こえないから友達の輪に入り込めないなどのコミュニケーションの問題、ほとんどの男子や女子の一部からはからかわれたりいじめに遭う、授業は分からないなどで孤立し、学校に行きづらくなり不登校状態になったり、あるいは自分の居場所がなくて昼休みになると優しい先生のいる保健室や図書館で過ごしたりとつらい思いや悲しい、寂しい、嫌な思いをしている中で、音楽が私の支えとなってくれていたからです。
そんな私がボディパーカッションと出会う事になったきっかけは、小六の冬になり、私と同じ障害を持っていて、同じ地域に住んでいる幼なじみの男の子が通っている福岡県立久留米聾学校のデフボディパーカッションクラブに連れて行ってくれた時です。もし、彼が私を連れて行ってくれなければ聾の世界に入ることが遅く、自分と同じ仲間に出会うこともなく、ずっと健聴の世界で生きていて、絶対に叶えたいという夢もできずに終わっていたかもしれないし、そして、このボディパーカッションと出会うことがなかっただろうなと思う。本当に彼には感謝しても感謝しきれないほどです。
初めて私が彼に連れて行ってもらった時は、聾学校のみんなが先生の指揮に合わせて楽しく手をたたいたり、足を踏み鳴らしたり息もピッタリで楽しそうに、生き生きと笑顔でやっていました、聞こえない者同士の言語である手話を使って思いっきり自分の言いたいことを言い合ってお喋りを楽しんでいる様子を見て、「聞こえない人たちだけでも音楽を思いっきり、体を使って楽しめるんだ! 私もボディパーカッションをやってみたい。私もみんなの中に入って、楽しく話したい!! もっと手話を覚えたい!」と感じるようになりました。
二〇〇四年十二月のNHK交響楽団との共演を控え、それに向けて練習していたある日、ある先輩が
「おいで。楽しいよ! ○○と一緒なら大丈夫でしょ。一緒にやろうよ」
と遠慮がちな私を誘って、一緒のパートに入れてもらい、一緒にボディパーカッションをやって、リズムが合うと嬉しくなり、聞こえない者同士で音楽を思いっきり楽しめて、嫌なこともたたいたり踏み鳴らしたり、仲間たちとコミュニケーションもとれることで元気になる。そういう音楽を今までしたことなかった。
ボディパーカッションと出会う前の私は、控え目でおとなしかった、音楽の授業では小学校ではなかなかリコーダーがリズムに合わせて吹くことができず、中学校では合唱で音程がずれているとかリズムが違う、声が大きくて小さくしてと言われたり、心が傷ついて音楽が嫌になることが多く、心を閉ざした時もあった。ボディパーカッションに出会ってからの私は、聞こえなくても、音程を気にしなくても、体の振動で感じて、目で先生の指揮を見てみんなでぴったり合わせられるし、聞こえない者同士で思いっきり楽しめる、そんな音楽がとっても楽しくてたまりません。できない音楽なんてない!! 誰でもできる!!
福岡県立久留米聾学校中二の時の私は小六の時のNHK交響楽団とのコンサートでみんなと一緒に舞台に立って演奏したいという思いをかなえることができました。その時の研修会やTVの取材で言った山田先生の言葉
「世界中の百か国にボディパーカッションを伝えたい!」
という熱心さに魅かれ、ボディパーカッションを通して私の人生を大きく変えてくれた事に対しての恩返し、そして、ボディパーカッションは合唱やリコーダーと違って小さい子からお年寄りまで、障害者や貧しい人でも、楽器は体だけ。しかも手をたたいたり足を踏み鳴らしたりするだけだから誰もができない音楽ではないのだから、このボディパーカッションを通して、音楽の楽しさ、「音楽は耳が聞こえないからできないってことはないんだよ。耳が聞こえなくてもできる」普通とは違った音楽を世界に広めたいという思いがますます強まり、将来は山田先生や聾学校の中島先生と共にボディパーカッションを世界中の百か国に広めたい、サインボーカルになって世界中を笑顔にしたいという夢に向かって、一歩一歩歩んでいこうと、自分自身が大きく変わっていきました。

この作文にあるように、現在高校二年生の井上さんのような経験を多くの聴覚障害の子ども達へ伝えたいと思っている。
今年(二〇〇九年)の夏、「ボディパーカッション教育」の楽しさを聾学校の生徒達へ伝えるために九州大学芸術工学部(記録映像研究会)の協力を得て、久留米聾学校の生徒自らが出演する教則DVDを制作することになった。完成したら、全国の聾学校へ無償配布する活動を計画している。また、聴覚障害の児童・生徒が行う「ボディパーカッション教育」は世界にも例がない。今後は、世界中の子ども達をはじめ、様々な支援が必要な子ども達と言葉の壁を越えた「ボディパーカッション教育」を行い、子ども達同士の心が通い合い、世界が平和になれる一歩に繋がればと願っている。

山田 俊之プロフィール

昭和二十九年生まれ 小学校教頭 福岡県久留米市在住

受賞のことば(山田 俊之)

今回、素晴らしい賞を頂き本当にありがとうございました。ボディパーカッション教育に取り組んで二十二年、決して私一人では継続することはできませんでした。共に歩んできた子ども達がいてこその実践だったと心から感謝しています。中でも、聴覚障害の生徒が「演奏会で主役」になり楽しめたことが、私に大きな喜びと誇りを与えてくれました。
今後、この受賞を機に聾学校をはじめとする多くの子ども達、そして支えて下さった方々の思いを胸に、ボディパーカッション教育の素晴らしさを世界中に発信したいと願っています。

選評(柳田 邦男)

手拍子、お腹や脚を叩く、足踏みをするといった全身で自分を表現することが、聴覚障害を超えて、心を高揚させ、生きるエネルギーを溢れるほど引き出すのだと知って、心を揺さぶられました。しかも集団の心を一つにし、聴く者を感動の渦の中に巻き込んでいくのだから凄い。人間のコミュニケーション能力の未開拓だったこの表現領域を開花させた教師山田俊之さんの着想と努力を称賛したい。自己肯定感を持てない子どもたちを、この輪の中に巻き込む活動が広がることを期待したい。