僕の生れは、北海道幌加内で有ります。
生れ乍ら、僕は脳性小児マヒと言う重い病気で、体が不自由で有りました。又、三、四才頃までは、歩く事も話す事も出来ませんでした。又、家は農業でしたので、父さんも、母さん達は、とっても忙しくって、不自由な僕の相手は、あまり、するヒマはなかったのです。僕は毎日、泣いてばかり居りました。友達も居りません。
その内、月日が経って、六、七才に成り、僕も、学校に行くように成りました。けれども、体の不自由な僕には、学校も遠く、毎日の学校に通う事は、とっても無理で有りました。それに始めの内は、僕は、学校に行かん事を、何故か、うれしく思って居ったのです。
又、父さんも母さんも、僕は行く事を諦めて居るので、安心して居るようでした。それは、やっぱり、「この不自由な信八を、毎日、学校に通わせたら、元気な子供たちに、いじめられたら、色々と可哀想だ」と思ったのでしょう。僕も、同じ考えで、行く事を諦めて居ったのです。
ところが、近所の子供達は、毎日、元気良く、学校に通って居るのを見て、日が経つ内に、「僕も、皆と仲良く学校に行けたら、どんなに楽しいだろうな」と思って泣いて居りました。
ある時、近所の子供から、
「信八は、バカだから、学校に行く事は出来ないのだろう」
と、悪口を言われました。だんだん大きく成って行っても、字一つ知らないです。又、ある子供から、
「信八のバカヤロウ。お前みたいもの生きて居ても、何も役に立つ事はないから、早く、死んでしまえ」
と冷たく、言われた事も有りました。僕の心はどんなに、悲しかったでしょう。
ある日。母さんに、
「こんな不自由なバカに、何故に産んだ」
と、泣き乍ら言って、困らせた事も、たびたびありました。けれど、どうする事も、出来ませんでした。
僕は、家の中から、元気で学校に通う子供を見送る内に、早くも十五才を迎えましたが、それまで、僕は、一つの字も知りませんから、もちろん、それまで、鉛筆一本、持った事も有りませんでした。
そんな僕は、母さんに学校に行けない事を、悲しく反抗するので、僕に何とかして、字を教えてやろうと、思ったのでしょう。ある時、僕を呼んで、
「信八。字を習う気があるか」
と言いましたから、僕は
「習ってみるから教えて」
と言うと、母さんは「いろは」と言う簡単な平仮名を書いて渡してくれました。
それから、暫くの間、母さんは、仕事のヒマを見て、毎日くり返して、いろはの平仮名を教えてくれました。僕も、始めの内は、面白半分で有りましたが、だんだん母さんから習って居る内に、色々覚え、二、三か月経った頃には、平仮名だけだけれど、書く事も読む事も出来て、僕は、心から嬉しく成り、だんだんと一生懸命に、母さんから習いました。
そうして、字を習ってから、何か月が過ぎてから、僕も大分、平仮名であるが、書くように成った時、父さん母さんから
「信八は、大分、平仮名だけでも、書くように成ったから、遠くの町に居る、兄さんに手紙を出して見なさい。返事をくれるかも知らんよ」
言われて僕は、平仮名だけで、「僕も、母さんから字を教えてもらって、おかげでこれだけ書けるように成りました」と、又其の他の事を、色々と、書いて出すと、二、三日したら、兄さんから、平仮名だけの返事が来て、「のぶやちゃん、てがみ、ありがとう。のぶやちゃんのてがみよんで、にいちゃんも、ほんとうにうれしいよ。よく、がんばったね。にいちゃんも、とおくからおうえんするからね」と書いてありました。それ読んで、僕は、とっても、うれしくて、とび上がって喜んだのです。父さんも母さんも
「字を教えてあげてよかったね」
と言ってニコニコして、居りました。
そんな、ある日。近所に幼い頃から遊び友達は居りました。その友達は、僕より一つ下で、名前は、松田君と大石君と言う友で有り、良く家に来てこの不自由の僕の世話を色々として下さる本当に有りがたい友達で有りました。
その友達は時々、家に来てくれた時、僕は今、母さんから毎日、平仮名だけでも良く字を習って居る事を話すと、松田君も大石君も
「それは、良い事だね。しかし、すっかり平仮名を覚えたら、今度は、漢字を習ってみないか。俺達が、教えてやる」
と、言ってくれましたから、
「習ってみるから、教えて下さい」
と、友の前に頭を下げて言ったら、松田君達は
「よし判った」
と、言いました。
それから、松田君は、家から、古い国語辞典や、其の他の教科書を持って来て、漢字や、其の他の勉強を色々と教えてくれました。僕も、覚える気に成って、漢字や、この他の勉強を一生懸命に習うので有りました。
又、松田君も大石君も、夕方、学校から帰ったら、学校かばんを、自分の家の茶の間に投げて、必ず僕の所に来て、色々と勉強を教えてくれました。
又、僕一人で家に居り、ヒマのある時は、新聞や本を、一生懸命に見て漢字の勉強をするので有りました。
母さんや松田君達の応援や、僕の頑張りもあって、日々に字は上手に書けるように成って行くので有りました。
よく松田君からも、
「信八は、毎日良く頑張ってやるから、俺達も教えるはりがある。本当にうれしい」
と、自分の事のように喜んでくれるのでありました。
僕も、体が不自由でも、やさしい母さんや、良くしてくれる松田君達が居るから、とっても幸福だと、この時から思いました。
又、ある日。近所の人達が時々家にあそびに来て、僕の書く字を見て、
「しかし、信八ちゃんは、手が不自由なのに、とっても上手な字を書くね。家の子達は、信八ちゃんを見たら、色々とバカにするけれど、又、毎日学校に行って居るけれど、こんなに上手に書く事は出来ないよ。信八ちゃんをバカにする家の子供達の方はバカだ。信八ちゃんは本当に、偉いね」
と、言われました。それは、半分はうその言葉と判って居ても、うれしいものです。
又、ある人は、
「母さんから、少し、習っただけで、これだけ上手に書く事は出来るのだから、体が不自由でなく、学校に行って良い先生達から習ったら、まだまだ上手に書く事が出来るのに。信八ちゃんは体が不自由なばかりで学校も行けず、本当に可哀想だ」
と、言われて、涙を流し乍ら、皆さんから、ほめられたり、同情されたりして、僕の心は少しばかり複雑で有ります。
又、ある人から、今からでも良いから、学校に行く話が時々あったが、けれど僕は、元気の良い子供達にいじめられるのが恐くて学校に行く事は出来ませんでした。でも、母さんや松田君達に、字を一生懸命に習って居ると、だんだんと心が明るくなって行くのを感じるので有りました。
本当に字を書く事は良い事だと、つくづく思って、母さんや松田君や大石君に、心から「ありがとう」と感謝するのでありました。
その内、淋しい事がありました。月日が経って、松田君も大石君ももう学校を卒業して、遠い都会に手に職をつけるため、行く事に成ったからです。あんなに良く世話や字を色々と教えてくれ、又、仲良く話したり、あそんだりしてくれた松田君達は遠くに行ってしまう事は、本当に淋しい事で有りました。
しかし、松田君や大石君は別れて行く時、
「俺達は、何時までも、信八とは、仲良い友達として付き合って行こうよ。俺達も時々手紙を出すから、信八も字を知って居るのだから、俺達に出してくれよ」
と、手をにぎり合って別れたのです。しかし、松田君達に行かれて、僕の心は淋しかったです。
ところが、二、三日してから、松田君達から、心温かい手紙が来ました。僕はとっても嬉しく、早速、読みました。松田君の手紙には、「信八元気か。俺達も都会に来て、毎日、一生懸命に働いて居ても、信八の事は何時も思い出して、なつかしく思って居る。これから、信八、俺達を仲良い友達として、付き合ってくれよ。俺達も、頑張るから。信八も頑張って、母さんからでも、うんと字を習って、俺達に手紙をくれる事を楽しみにして、待って居るから」と、やさしく書いて有りました。
今、家でぶらぶらして居る僕を、友達としてくれると言う、松田君達の心はとっても嬉しく、涙が出て来て仕方がないので有りました。
僕も、すぐ、不自由な左手で書き、返事を出すのでありました。
遠くに別れて居ても、時々のやり取りして居る内に、友情はだんだんと、深く成って行くように感じて、僕は、心から嬉しく成って来るので有りました。
これも、母さんや松田君達から、字を習って来ましたから、今は遠くに居ても、松田君と手紙のやり取りして、付き合って行けると思い、心から嬉しく思うのでした。
又、そうして、字や色々と、教えてくれた、母さんや松田君達に、心から感謝するので有りました。
それからも、父さんは農業の仕事が忙しくて、あまり相手にしてくれませんが、母さんは、仕事のヒマを見て、字を教えてくれました。
又、母さんと僕は、話はとっても合ったから、色々と世間話をし乍ら、字を教えてくれました。母さんは、何でも話してくれましたから、僕は、大好きで有りましたから、一寸でも離れていたら、とっても淋しくて仕方有りませんでした。
ところが、そんな優しくしてくれた母さんと別れる時は来ました。
それは、僕は大変に体を悪くして、幌加内から、大変に遠い、芦別の病院に入院したので有りました。それも、僕の心の病気で、芦別の病院に入院する少し前から、色々と、優しくしてくれた母さんに、乱暴してしまったのです。
でも母さんは、別に怒らず、涙顔して居りました。今まで、別れた事のない母さんで有りましたが、今度だけは、どうしても別れなければならないのです。
僕の心の病気がすっかり治るまでは、暫くかかると言う事でした。
その間、何時も、優しくしてくれた母さんと別れて暮す事は、とっても僕は淋しくて、たまらなかったので有りました。今まで母さんと別れた事のない、早く言ったら、僕はあまえん坊であったのです。
しかし、今度は、わがまま言う事は出来ません。仕方なく、母さんと別れて、芦別の病院に入院するのであります。
母さんは、僕と別れに言いました。
「信八、これからは入院生活は長く成る事と思うけれど、時々、母さん達の事を思い出したら、手紙をちょうだいよ。母さんも、必ず手紙を出すから」
と約束して、別れたので有りました。
又、母さんは、こんな事も言いました。
「信八は遠い芦別の病院に行っても、気分の良い時は字を書く練習をしなさいよ。信八は体が不自由でも、良い頭をして居るのだから、これからも、一生懸命に字を書く練習して行ったらきっと、まだまだ上手に書けるように成って行くでしょう」と。
優しく言われて芦別に来ましたが、芦別に来た時は、どうも心が落ちつかず、字を書く事も、あまり出来なかったのです。病院内でぶらぶらして居る、毎日で有りました。
それから、暫くしてから、幌加内の母さんから手紙が来ました。手紙には、僕を心配して、色々と、書いて有りました。
僕は、とっても嬉しく成りました。母さんの手紙を読んで居る内に、本当に明るく成って行くので有りました。そうして、すぐ僕は、不自由な左手で、何時間も掛けて返事を書きました。
それからは、僕と母さんは、時々、手紙のやり取りして居るから、本当に楽しく、今まで暗かった心も、すっかり明るく成って来るので有りました。
又、松田君達からも時々手紙も来るから、僕は、とっても嬉しいので有りました。
いくら、母さんや友の松田君達は遠くに離れて居ても、手紙で話が出来て、本当に楽しく成って来るので有ります。何時も遠くに居る母さん達でも、近くに居るような気がするので有ります。
字を教えてもらって、本当に良かったと思いました。又、字を書く事は素晴らしいと思ったりするのです。
それから暫くして、僕の心の病気も大分良く成って来て、納内のあかとき学園に入所したので有りました。
始めの内は、楽しく話をする友達も居らず、大変に淋しい思いをしましたが、しかし僕は、色々の友に手紙を出すと、すぐ返事が来て、本当に楽しく有り、書くのは、面白くて仕方が有りませんでした。今でも、母さんや友達と文通はなかったら、僕の心は暗いままで、淋しい毎日を送って有りましょう。
母さんや松田君達に字を教えてもらったおかげで、毎日を楽しく送る事が出来るのだと思います。僕はあらためて、母さんや松田君達に感謝するのであります。これは、僕にとって母の恩、友の恩で有ります。
しかし、その母さんも、ある病気で六年前に、遠いあの世に、不自由な僕をこの世に残して、旅立って行ったのです。
あんな良い母さんにあの世に行かれて、この僕は、とっても淋しい気持で一杯でありましたが、遠くに、又、元気で友の松田君達が居るから、僕は淋しくてどうにもならん時には、色々と手紙を書いて出すと、何日後に明るい返事が来るので、楽しく成って来るので有ります。僕は、何時も思うが、友達と言うものは、本当に有りがたいものだ、と思います。
母さんや友の松田君達から字を教えてもらって、本当に良かったと、つくづく思うので有ります。