第42回NHK障害福祉賞優秀作品
「私の名前を尋ねてくれて有難う」〜第2部門〜

著者:吉田 敏子 (よしだ としこ) 山梨県

知的障害者更生施設「滝乃川学園・成人部」で働き始めた時、私は五十八歳でした。全寮制の学園生六十人と三十人前後の職員たちの食事を作る調理員として採用されました。調理の経験はありませんでした。
平成十一年の真夏。白衣に身を固め調理場で働き始めると先輩調理員達の厳しい言葉が次々に飛んで来ました。「私、あんたを教える暇はないの。解らないことは全部、栄養士さんに聞いて」「あなたは歳を取っている割には料理の基本を何も知らないのね」「この忙しい職場に、戦力にもならないような素人を採用して、施設長はどうかしてるわ」
勤続二十五年の最古参の調理員は「あんた、どうしてこんなキツイ職場に来たの。定年まで待てなくてみんな辞めていくのに。みんなが辞めていく歳になって此処に入って来るとは、全く良い根性してるわ。ほんとにどうして此処に来たの?」とあきれ顔でした。
その一年前、高齢離婚していた私は住む場所と仕事を求めて各地を転々としました。「滝乃川学園で調理員を募集している。採用されれば職員寮に住むことも可能である」との知らせが友人から届き、すぐに面接を受けました。そして、その場で採用が決まったとき、嬉しさよりも不安に押し潰されそうになりました。知的障害のある人とはどんな人たちなのか、どのように接したらいいのか全く解りませんでした。その上、料理も苦手だったのです。
二週間の見習い期間の後、五人の調理員の一員として仕事を分担するようになると、先の先輩達の言葉が決して意地悪から出たものではないことを理解しました。作業量に比べ働く人員は少なく、誰もが手一杯の仕事を抱えていて他の人を助ける余力がないのです。常に時間に追われる張りつめた空気の中で、私は次々と初歩的ミスを重ねました。
ガス釜に点火するのを忘れ昼食時にご飯が炊けていなかったり、若布を茹ですぎてドロドロにしてしまったり、百四十個のロールキャベツを巻き終わると、もう煮込むための時間が残っていなかったり……。
どんな失敗にも先輩達は無言でした。それだけに私は二度と同じ失敗を繰り返さないよう全神経を張りつめ、毎日無我夢中で働きました。

ある日、別寮の食堂に昼食を運ぶ当番が回ってきました。この学園には男子寮、女子寮、別寮と三つの寮があり、それぞれ二十人が暮らしています。なかでも比較的障害の軽い二十人の男女が自立訓練を受けながら生活しているのが別寮でした。別寮には別寮だけの食堂があり二十人は職員と一緒にここで食事をしていました。
別寮に行くのはその日が初めてでした。
私が主菜、副菜、ご飯、汁物などを忙しく運び込んでいると、突然、柔らかな声が耳に飛び込んできました。
「なまえ、なに?」
「なまえ、なに?」
顔を上げると笑顔で私を見つめている男の子や女の子が四〜五人います。彼らの視線の先には私以外には誰も居ません。彼らは明らかに私に話しかけているのです。そう理解したとき私は戸惑いました。長い間、こんな風に優しく話しかけられることがなかったからです。そのうえ相手は学園の寮生です。職員でもない私が勝手な対応をしてもいいのかと迷いました。
知的障害者の学園で働きながら、その日まで彼らと直接触れあう機会はありませんでした。仕事を覚えることだけで精一杯。調理場以外のことに目を向ける余裕がありませんでした。
彼らは、私に近寄ってきて私の白衣や腕に触れながら「なまえ、なに」「なまえ、なに」と私の名前をしきりに尋ねています。私は一瞬、黙ってその場を離れようと思いました。どうしたら良いのか解らなかったのです。しかし、彼らの優しい目と柔らかな笑顔に促されて、すぐに思い直しました。
「吉田って言うの、私の名前は吉田敏子よ」
喉が詰まって小さな声しか出ません。
すると彼らは口々に嬉しそうに声を上げました。
「よしださん、よしださん」
「としこさん、ふーん」
「よしださん、どこにすんでる?」
「職員寮に住んでるのよ」
「しせつちょうの、みたにさんも、すんでるよ」
「みたにさんは三かいだよね」
「そうだよ、みたにさんは、さんかい。よしださん、なんかい?」
「私は二階なの、二〇四号室」
「よしださん、でんしゃでくるの?」
「職員寮は学園の中にあるから、電車には乗らないの。歩いて来るのよ」
「よしださん、こどもいる?」
「男の子が二人いるわ」
「こども、どこ? どこにいるの? あかちゃん?」
「ううん。もう大きいの。髭が生えてるわ」と、言った途端、私は自分の答えが可笑しくて思わずフフフと笑ってしまいました。そして自分が笑ったことにびっくりしました。長い間笑っていなかったのです。
調理場に小走りで戻りながら心の中が暖かくなっているのを感じました。何故だろうと頭の中で忙しく考えました。調理場で失敗しては、情けなさ、申し訳なさに身の置き所もない私。心を石のように固くすることでやっと自分を支えている私。世の中の全ての人から見放され、無視されているように感じていました。
そんな私に優しい声で話しかけ、私の名前を尋ねてくれる人がいたのです。それは新鮮な驚きでした。
私に素直な関心を示してくれる人がいたのです。この発見が心の中を明るくしているのでした。
私を見ている人たちに、いじけた私ばかり見せたくないと思いました。元気を出して仕事をしようと、背筋がピンと伸びるようでした。
次の日も別寮に食事を運びました。
また男の子や女の子に取り囲まれました。と言っても彼らの本当の年齢は五十代だと言うことでしたが、小柄な体つきや素直な表情から受ける印象は幼い子供と接しているようでした。
「ねえ、ねえ、なまえ、なに」
「どこにすんでる」
「でんしゃでくるの」
前日と全く同じ質問に苦笑しながら、私も同じ答えを繰り返しました。そんな日が二〜三日続いた後で、彼らは笑顔で呼びかけました。
「よしださん、だよねえー」
「としこさんだよねえー」
彼らは私の名前を覚えてくれたのです。嬉しくて体が熱くなりました。そして私が彼らの名前を知らないことが急に恥ずかしくなりました。私もみんなの名前を覚えようと思いました。
その日から別寮や男子寮や女子寮の人たちとも少しでも言葉を交わすように努めました。仕事は忙しく一日中調理場にこもっているので、六十人の名前を覚えるのはかなり大変でした。

毎朝、出勤してくる職員を学園の門の近くで待ちかまえて「おはよう」と挨拶するのは別寮の春田さんです。彼は遠くからでも私の姿を認めると大きな声で私の名前を呼んでくれます。
「あーあ、よしださんだあ。よしださんでしょう」と駆け寄ってきて「おはよう」と言いながら大きな手で握手してくれます。私も笑顔で「おはよう」と挨拶します。
「よしださん、よしださんのなまえは、よしだなにこさんなの」
「吉田敏子。敏子って言うのよ」
「ふーん。としこさんか、これからよしださんのこと、としこってよんでもいい?」
「いいわよ」
「よしださん、これからおかってにゆくんでしょう」
春田さんは調理場のことをお勝手と言います。
「そうよ、今日も忙しいわ」
「ふーん。が、がんばってね」大きく手を振り声援を送ってくれる春田さん。その声に挫けそうな心を立て直しながら調理場へ向かう私でした。
その日、野菜を刻んでいると調理場の入り口で男性の声がします。振り向くと春田さんでした。
「ああ、よしださんだあー。よしださん、としこっていうんだよねー。よしださんのこと、としこってよんでもいい? ぼくのことは、のぶひこってよんでね」
思いがけない申し出に「はははは」と明るい笑い声を上げてしまった私でした。でも調理場はシーンと静まりかえったまま。黙々と手を動かしている先輩達です。私は急いで春田さんに近づき小声で言いました。
「そう、ありがとう。春田さんの名前はのぶひこさんなのね。解ったわ。今度から、のぶひこさんって呼ぶね」
春田さんは手を上げて行ってしまいました。
私は大きく緩みかける頬をぐいと引き締め調理台に向き直りました。でも春田さんの気持ちが嬉しくて野菜を刻む手が一気に軽くなりました。

遅番は昼から夜八時までの勤務です。
主な仕事は食事に使用した食器を洗うこと。翌日の朝食の準備を完璧にやっておくことなどです。一人では背負いきれないほど沢山の仕事がありました。一分の時間も無駄には出来ません。広い調理場を走り回り、自分の夕食も、片手で仕事を続けながら立ったままで済ませていました。
食堂の灯りが消え、急に淋しくなった調理場で汚れた食器と格闘していると、突然声を掛けられました。調理場と向き合った食堂に春田さんが立っています。
「よ、よしださん、なにしてるの?」
「食器を洗っているのよ」
「た、たいへんだねえー」
「そう、たいへんよ」
「が、がんばってね」
それだけ言うと彼は別寮に戻って行きました。
でも「たいへんだねえ」と言う春田さんの声には本当に心からの同情が溢れているのです。その声のしみじみとした響きにいつも慰められる私でした。
遅番のとき、春田さんは必ずやって来て「たいへんだねえ」と声をかけてくれました。
遅番の私を元気づけてくれる人がもう一人いました。食堂に置いてあるエレクトーンを毎晩弾きに来る横山さんです。横山さんも春田さんと同じ別寮で暮らしている男性でした。
横山さんは食堂の灯りをパチンと点けると、おもむろにエレクトーンを弾き始めます。
「包丁一本さらしに巻いて旅に出るのも板場の修行……」
昔流行した歌謡曲です。なかなか見事な腕前で障害のある人とはとても思えません。
一曲弾き終わるたびに横山さんは私の方をチラリと見ます。濡れた手で私が大きく拍手すると、彼は額に垂れた前髪を右手ではらりと掻き上げると次の曲を弾き始めます。「港町十三番地」「憧れのハワイ航路」「高原列車は行く」「青い山脈」古く懐かしい歌が次々に披露されます。三十分ほどで演奏を終えると横山さんは私の所にやって来て尋ねてくれました。
「いまぼくがひいたきょくのなかで、よしださんがいちばんすきなきょくはなに」
私が「高原列車は行く」が好きだと答えると、私が遅番のときは必ず「高原列車は行く」を弾いてくれるようになりました。私も茶碗やおひつを洗いながら彼のエレクトーンに合わせて歌いました。「汽車の窓からハンケチ振れば 牧場の娘も花束投げる明るい青空 白樺林……」
歌っていると、昔この歌を母と一緒に歌った頃が思い出されました。落ち込みそうな気持ちを跳ね返そうと、なおさら大きな声で歌いました。「山越え 丘越え 遙々とららららららん 高原列車は ららららら 行くよ」
時々、声が裏返りそうになる私の歌声を食器洗浄機の騒音がかき消してくれました。
横山さんは、かつて大流行したこれらの歌をラジオを聴きながら覚えたのだそうです。素晴らしい記憶力の持ち主でした。横山さんはまた自分で司会をしながら弾くのも得意でした。
「次は『影を慕いて』です。幻の影を慕いてと歌いますが、この幻というのはある人の事を考えながらじっと壁を見つめていると、その人の姿が浮かんで来ることです。では森進一さん、張り切ってどうぞ」
横山さんの愉快な司会振りと見事な演奏は、遅番の日の私の大きな慰めでした。

十二月。別寮の廊下でミッチャンが私にぶつかってきました。そして「ゆうたくんがいじめた」と泣きべそをかいています。私はそっと彼女を抱きしめ背中を撫でました。ダウン症のミッチャンの体は柔らかく、とても暖かでした。私の胸に頭を押しつけているミッチャン。体の小さな私よりもっと小さなミッチャン。調理場では誰からも頼りにされない私でも、ミッチャンは頼ってくれるのです。私も強くなってミッチャンを守ってあげなければ、という気持ちが自然に湧いてくるのでした。
ミッチャンとの交流は固く閉ざした私の心を柔らかく開かせてゆきました。
「ミッチャン。どう。お昼ご飯は美味しかった?」
「うん、おいしかった。ぜんぶたべた」
「どれどれ、あー、本当だ。お腹がぽこんと膨れている」
「あのね、あかちゃんがいるの、ないしょ」
「あれー、そうなの。驚いたなあ。でも内緒なのね。解った。だけど赤ちゃんは何時、生まれてくるの?」
「あのね、クリスマス」
ミッチャンと私は肩を押しつけ合って笑いました。
滝乃川学園では毎年クリスマスのお祝いが盛大に行われます。調理場でも特別の献立が用意され細かな打ち合わせが繰り返されていました。
十二月二十四日になると父兄や来賓など大勢のお客様を迎え、食堂に設けられた舞台で学園の生徒や職員たちによる歌や聖書劇が披露されます。
その日、私の勤務は休みだったので、思い切ってカメラを持って美しく飾られた食堂に出かけました。ガラス戸越しに調理場で忙しく働く仲間の姿が見えます。仕事も一人前に出来ないくせにカメラなんか振り回して、と非難されるのではないかと、お客様の陰に隠れるように座りました。そして楽しそうに歌っている学園生や特技を披露する職員達にそっとカメラを向けました。
楽屋に充てられている玄関脇のホールへ行ってみると、そこでは聖書劇に出演する学園生達が職員に助けられながら衣装やカツラをつけるのにおおわらわでした。太い茶色や黒の毛糸で編んだカツラをかぶった東洋の博士や腰に帯を結んだ羊飼いたちに交じってミッチャンがいました。ミッチャンは白いドレスを身につけ小さな花束を抱いています。背中に何か付いているので後ろに回ってよく見ると、それは小さな羽根でした。ミッチャンは天使の役だったのです。白い衣装をまとい頬を真っ赤に染め瞳をキラキラさせているミッチャン。その可憐な姿は本物の天使のようでした。
マリアにイエスの誕生を告げる天使の役をミッチャンはにこにこしながらやり遂げました。東洋の博士役も羊飼いの役も劇に出演した全員がにこやかに堂々と演じて盛んな拍手を受けました。いつのまにか私は会場を動き回り熱心にシャッターを押していました。生き生きした彼らの表情を写真に残したいと思ったのです。調理場からの視線などすっかり忘れていました。
この時の写真がきっかけになり、学園生のお誕生日や還暦記念の写真を頼まれて撮るようになりました。こうして別寮だけでなく男子寮や女子寮で生活する学園生や職員の方々とも親しくなってゆきました。
調理場に来て一年半が過ぎていました。仕事の忙しさも緊張感も薄れることはありませんでしたが、それでも早番の日、星明かりの道を懐中電灯で照らしながら出勤する時も、疲れ切った体で夜道を帰る遅番の日にも、道路脇の木立の中に灯る寮の灯りが、今では一人一人の名前と顔を思い浮かべる事の出来るみんなが暮らしている寮の灯りが私を励ましてくれました。
窓から身を乗り出しながら「おはよう」「がんばってねえ」「さよなら」と手を振ってくれるみんな。「よしださーん」「としこさーん」と名前を呼んでくれるみんな。ニコニコと笑いかけてくれるみんな。
みんなの凄いところは人を分け隔てしないことです。私にしてくれたように誰に対しても同じ振る舞いが出来ることです。大きな声で挨拶し優しい関心を払ってくれます。嬉しい時、悲しいとき、怒っているとき、感情を豊かに表してぶつかってきてくれます。そうです。感受性の豊かな仲間に囲まれて私は生活していたのです。
いつのまにか私は沢山笑うようになっていました。
いつのまにか辛いと思う仕事に負けない気力が生まれていました。

六十歳になった夏、退職しました。知的障害者更生施設「滝乃川学園」で調理員として働いた期間は僅か二年でしたが、忘れがたい二年間になりました。
私は今、人生との戦いに疲れ、心に傷を負ってしまった人たちの回りに「ミッチャン」や「春田さん」や「横山さん」がいてくれることを心から願わずにはいられません。彼らが優しい隣人であり素晴らしい助け手であることを知っているからです。

吉田 敏子プロフィール

昭和十六年生まれ 主婦 山梨県北杜市在住

受賞のことば(吉田 敏子)

僅か二年の短い期間の体験でしたが、滝乃川学園で出会った「みんな」のことを、私を助けてくれた「みんな」のことを、誰かに伝えたいとずっと思っていました。今回の受賞はその意味でも大きな喜びです。
でも「みんな」への感謝の気持ちを八千字で表現するのは、とても難しかったです。
選考委員のみなさま、私の作品を選んで下さって本当に有難うございました。

選評(山口 薫)

作品を一読して先ず頭に浮かんだのは、戦後、琵琶湖のほとりに知的障害の子どもたちの「近江学園」を創設された糸賀一雄先生のことば「この子らを世の光に」でした。(「この子らに世の光を」ではなく。)
「滝乃川学園」は今から一二〇年も前に設立された日本最初の知的障害の人たちの施設ですが、高齢になってから調理場で働くようになった作者の、成人寮の知的障害の人たちとの心温まる交流が生き生きと見事に描かれていて感動しました。

以上