「いらっしゃいませ」明るい笑顔でお客様をお迎えします。「先生、今日はお願いよ」「はい、担当させていただきます」
年季の入った腕はまだまだ光を失わず、自然と手が活気を帯びてスタイルが作られていきます。私は現役の美容師。七十六歳。まだまだ負けられません。(すごい!)と思われるかもしれませんが、障害者手帳に記載されている障害名は脊髄性小児麻痺による右下肢機能障害及び股関節症(左人工股関節置換)による左下肢機能障害、二種・三級になっています。
後遺症に高齢という条件が加わることで、日々の生活に何らかの支障が出始め、仲良く付き合いながら暮らす術を心得ているものの、立ち仕事ゆえの足のむくみに加え、不自由な右足に入っている足底板がなかなか合わず辛い時もあるのです。にもかかわらず何故仕事を辞めようと思わないのだろうか? 他の人は言います。
「生き甲斐だからよ」「仕事が好きだからよ」本当にそうだと妙に納得しつつも、歳なんだからもうそろそろか? などと図々しくも悲哀を感じている今日この頃です。
昭和六年二月二十五日、暦は節分を伝え立春を告げています。春とはいえ余寒なお厳しく、田舎の風は凍りつくように冷たい。前日から降り続いていた雪もやみ、見渡す限り一面の銀世界が幸せを運んできたかのように、東の空がほんのり明るくなってきた頃、宮城県志田郡鹿島台町(現大崎市)にある一軒の農家に、元気な産声が響き体重二一〇〇グラムの可愛い赤ちゃんが誕生しました。待ちに待った初孫に、両親始め祖父母の喜び様はそれはそれは大変なもので、近所の人をも巻き込み飲めや歌えのお祝いが三日間も続き、産後の母は休むことも出来なかったそうです。この時父二十五歳、母十八歳。一度だけの見合いで結ばれた母は、私が生まれてから父に恋心を抱き、毎日が楽しく本当に幸福だったのよ、年老いた母は当時の状況を生き生きと話してくれました。その横顔に、今は亡き夫を慕う妻の思いを感じた瞬間でもありました。
家族の愛を一身に受けてすくすく成長し、妹も生まれ、お姉ちゃんになった昭和八年九月(二歳)の暑い日、元気に遊んでいた私は、突然「お腹が痛い!」と泣き出し、そのうち下痢と高熱でぐったりした私を病院に連れて行くにも、田舎のこと、近くにあるわけもなく五キロ離れた病院まで連れて行ったようです。診断の結果は、良くなるのも悪く(死亡)なるのも一週間が境目です。気をつけるように、と言う医師の言葉に、家族全員神仏に手を合わせることのみの毎日が続き一週間が過ぎた頃、あれほど高かった熱も下がり安心したのも束の間、今度は歩くことができなくなっていたのです。検査の結果は、脊髄性小児麻痺による右下肢機能障害という病名で、当時は右手にも力が入らず物を持つことができなかったそうです。家族中の嘆きは大変なもので、母は食事も喉を通らず泣いている日が多くあったと聞きました。両親に苦しみを与えた病、しかし、命を失うこともなく生かされたことに重大な意味が含まれていたのを知るよしもありませんでした。
昭和十二年四月(六歳)、鹿島台町尋常高等小学校に入学。楽しいはずの学校で心ない級友から受ける〈ビッコ〉という言葉に幾度心に傷を負ったことか、人口も少ない田舎町で障害を持った人をあまり見かけることもなく興味があったのでしょう。高学年になっても悪口はなくならず、級友だけではなく帰宅途中大人から受ける視線、更に胸を突き刺すような言葉の数々に、心も体もボロボロになり泣きながら家路を急いだ日のことが走馬灯のようにかけめぐります。
「また悪口言われたのか? 転んでケガしなかったか? 悔しいだろうなぁ、おじいさんも悔しい。でも、よく考えてごらん。世の中には病気や事故で両足が使えなくなり苦しんでいる人がたくさんいるんだよ。清子は、右足が短いのでビッコをひくけど両足で歩くことができる。すごいことなんだよ。ただ人に負けまいと無理をして歩くので足の裏には傷口がパックリ口をあけ、そこから血が出ている。それを見ると涙が出るほどモゾイなあ……。(モゾイとは方言で可哀相という意味)」と心を痛める祖父。その傷口を心をこめて毎日手当をしてくれる祖母。裏の山から松脂を取り囲炉裏で、瀬戸びきの茶碗に入れ炭火の上に五徳を置きその上でゆっくり溶かし上面を取り除くと美しい飴色になった松脂ができるのです。患部をきれいにふき取り、その後柔らかくした松脂で傷口を包む大変手間のかかる手当てなのです。
この時代農家の仕事は大変重労働で疲れているのに、足の悪い孫を思い居眠りしながらも楽しそうに丁寧にしてくれました。私はこの時間が最高に幸せでした。このような祖父母の温かさが、学校で傷ついた心をほっかり包み元気になり休むことなく学校に行くことができたと思っています。しかし、悲しい悔しい悪口はなくなりません。楽しいお祭りの遊び道具〈ヤジロベエ〉を操るときの「ピョコタン、ピョコタン」という言葉を、私が歩くのに合わせはやしたり、ふざけて石を投げられたりと、小学校卒業まで続いた侮辱の日々でもありました。その一方で、三人組と言われる程仲良しの優しい友との出会いで楽しい遊びもありました。まさに昭和十八年三月第二次世界大戦たけなわの頃、鹿島台国民学校をさまざまな思い出を胸に卒業したのです。
本の好きだった私は、伝記ものを読むうちに同じように障害を持っている野口英世に興味を持ち傾倒していきました。幾多の迫害にもくじけることなく苦難の道をも突き進む勇気と精神力の強さ、そして親を敬い社会のために尽くしていることに、幼な心を弾ませ憧れを持つようになりました。いつしか私も、どんなことがあっても決して負けない強い心を持ち、人の為に役立つことをしてみたいと、淡い夢を描くようになりました。
心臓が悪く病床にあった祖母にこの夢の話をすると、「良かったね。何事でも気付くと言うのはすごいことなんだよ。清子なら必ず出来る。頑張るんだよ。ただね、みんなと違い足が悪いのだから体に気をつけて転ばないようにしなければいけないよ。おばぁちゃんはいつでも応援して守っているからね」頭を撫でながら聞いてくれたことを思い出します。それからまもなく、庭の月見草が美しく咲いていた昭和十八年八月三日、大好きだった祖母に突然の死がおとずれました。どんな時でも一生懸命話を聞いてあたたかく力づけてくれたその温もりが時間の経過を越えた今も伝わってきます。戦争という激動の時代を無事のりこえた私は両親のすすめで技術を身に付け将来自立できるようにと美容の道を選ぶことになりました。終戦後の復興が急ピッチで進められていた昭和二十三年三月(十七歳)、希望を胸に上京し山野美容高等学校に入学。技術の習得に努めることになりました。
上京時の汽車は、腰掛ける所もなくギューギュー詰めで、上野駅まで八時間を超える長旅だったのです。そんな中、家出娘と間違われ「次の駅で降りて家に帰りなさい。みんな心配しているよ」と優しく諭してくれた行商のおばさんに、不安でいっぱいだった私は泣いてしまったのを思い出しました。美容の道を歩き始めて五年。親孝行のまねごとをしたいと思い昭和二十七年九月(二十一歳)、多くの人達のご支援を頂き美容室を開業することが出来たのです。
しかし、いつの頃からか、表面の明るい顔とは裏腹に素直な心、感謝の心が消え、我の強い人間になっていったのです。どこに行ってもいまだ感じる障害者を見る冷たい視線、負けてたまるかと心に誓う度に、知らず知らずの内に一番なりたくなかった「心のビッコ」に成り果てていたのです。これに気づくこともなく時は過ぎ、障害があるから結婚は出来ないだろうと歩ませてくれた美容の道が縁となり、昭和二十九年三月(二十三歳)結婚。翌年長女誕生、二年後に長男誕生から二か月たった頃、突然主人が手術を受けることになりました。奇跡的にも命をとりとめ無事に退院し、ほっとしたのも束の間、身代わりのように可愛い最愛の息子を失ったのです。生後九十二日という短い生涯でした。主人の嘆きは大変なもので、それに追い討ちをかけるように病気がちだった主人の母の容体が急変し孫の後を追うように五十九歳の若さで旅立っていったのです。(何故、私たちだけがこんな仕打ちを受けなければいけないの?)失意のどん底で喘いでいた日々。
そんな時主人からの一言が私の心の闇に光を当ててくれたのです。「人は命という時間を授けられこの世に生を受けてくるのではないだろうか。母であるあなたが悪いのではない、自分だけを責めるのは亡くなった子供に申し訳ないと思わないか? この子は私たちのために精一杯喜びを伝え思い出を残し天国へ帰っていったんだと思う。これからの人生を私たち夫婦がどう歩いていけばいいのか教えて行ってくれたのだろう。試練という字を残してね。これからはどんなことがあっても子供の分まで辛抱していこう。泣いている暇はない、親から頂いた美容の道があるだろう。苦しいけど頑張ろう」度重なる不幸にもひるまず毅然として諭す夫に申し訳なく涙が止まりませんでした。また、私が障害になり苦労している姿が一番辛く思う両親は、亡くなるまで責任を感じて「足が痛くて大変だね」「ごめんね」と謝るのです。「この足は病気でなったんだから心配しなくて大丈夫。本当に責任ないんだからね」同じ言葉を何十回繰り返したことだろう。その度涙ぐむ姿に親の苦しみなど理解できず、疎ましさを感じたことを思い出されます。
大切な子と姑を亡くし、何故私たちだけが? 苦しみ問い続けた日々、そのような時に「誰のおかげで今の生活があるのですか」と恩師から問いかけられた一言に心が凍る思いでした。両親が進めてくれた美容師の道。そのおかげで幸せな生活が得られたのにもかかわらず、親への感謝の心も忘れ、我だけ強く、思い上がりだけが幅をきかせ、他の人を思いやるでもなく一番イヤな心のビッコに成り果てていたのです。このような時遭遇したかけがえのない子の死。失って初めて気付く親のありがたさに言葉もありませんでした。これからの生き方を正せと、大自然からの啓示を頂いたように思いました。
その後、病の癒えた夫は会社を設立、進んで障害のある学生を採用し、工業高校に通わせ自立への道を歩ませようと長年にわたり取り組み、まるで我が子に尽くすかのように援助を惜しまず応援し続けていました。私は、美容室経営の一環として、昭和四十六年(四十歳)きもの着付け教室を開講し大勢の生徒さんで賑わいました。また、上級クラスを修了した生徒さん達が中心となり、私たちが出来ることで皆さんのお役に立ちましょうと、昭和五十年十月(四十四歳)麗しい人達の会? 麗人会と命名し発足したのです。
翌年美容師の欧州研修旅行に参加し、途中イギリス赤十字社を訪問する機会に恵まれ、ボランティアによるビューティーケア活動を紹介されました。
ビューティーケアとは、一九六〇年代にイギリス赤十字社のボランティアが始めたもので、長期入院中の女性患者に顔、肩、手などのマッサージ及び化粧をしてあげることにより患者の心を和らげ、美しさを取り戻させて、憂鬱な療養生活に少しでも張りを持たせ、生きることへの望みを起こさせるよう励ますことを目的としたボランティア活動です。
帰国後、イギリス赤十字社から提供されたテキストをもとに会員と共に研修を重ね、昭和五十一年六月(四十五歳)協力して頂いた仙台市内の病院の精神科病棟でビューティーケアの実践が始まりました。不安と期待に胸を弾ませながら患者さんの顔に化粧をし口紅をさすのです。もうろうとしていた患者さんの顔がだんだん明るくなってくる様子が手に取るように伝わってきます。化粧が終わると、乱れた髪を直しに鏡に向かい、じっと見つめている様子はあたかも現実の自分を受け入れているようです。「ありがとう」と自然とほとばしる感謝の言葉に、私達の胸が熱くなるのを覚えた日のことを一生忘れることはないでしょう。
しかし、美容師である私は技術の方法は学べても、その技術を患者さんに生かせるケアの方法がわからず、悩んだ末に再度英国赤十字社を訪問。ビューティーケアーインストラクターを目指し、サリー州バーネットヒルの英国赤十字トレーニングセンターでトレーニングを重ね学ぶことが出来ました。
昭和五十三年(四十七歳)精神科病棟での実践と違うプロセスで、東北大学医学部附属病院心療内科においてビューティーケア活動がスタートしました。個室で患者さんに寝て頂き、心身のリラクゼーションが得られるよう優しい言葉がけを大切に、フェイシャルマッサージやハンドマッサージを行います。眠れない患者さんがぐっすり眠れるようになりましたと担当医から報告を受け、感激した日のことが思い出されます。その後「ビューティーケアの心身医学的応用」と題し、日本内科学会東北地方会で発表して頂きました。日本においてもビューティーケアという技術は医学の分野でも役立つことを証明して頂いたのです。
このような嬉しさと裏腹に、私は生業の美容師として仕事をこなしつつ、ビューティーケアボランティアとして精力的に行動、その結果麻痺のある右足を長年にわたり庇ってくれた左股関節に痛みがはしるようになり、歩行に支障が出始め医師のすすめで杖を使うことになりました。そのときの心境が綴られています。
杖とは一体なんだろう。足の悪い人の友? 年を重ねた人の心の友? 人という字に支えが欲しい。青葉が美しい五月。私もピンク色の杖を持つことにした。「お母さん、格好気にしたら駄目。歩くのに楽なほうが大事なんだからね」と、看護師をしている末の娘からのプレゼントです。少し恥ずかしい、まだ若いと思っている、ちょっぴり優しくなれた。目線が変わると物の見方が広がったように思う。「ありがとう」と弱く辛かったであろう足に感謝する。
「足が腫れているね、かわいそうに痛いでしょう」「代われるものなら代わってあげたい。ごめんね」と、年老いた母は私に謝るのです。自分が病気にさせたと思っているのでしょう。突然涙がとめどなく流れる。
障害があるがゆえに導かれたビューティーケアの道。母よ胸を張って「良かったね」と笑顔のプレゼントを下さい。ビューティーケアの心を学びたいから。
昭和六十一年十二月(五十五歳)、仙台日赤病院内科病棟で、ビューティーケア活動が始まり、しばらくしてある美しい患者さんをケアすることになりました。七年前に癌を告知され、手術後、闘病生活を送っていましたが、病状が悪化再入院・痛みに耐えかね落ち込み、投げやりな日々が続いた末、やっとご自分の現実を受け入れ始めた頃でした。
励ましの言葉と共に、青白い顔にクリームが塗られマッサージによって、頬がほんのり赤みをおびるころ、心身のリラックスが得られたのか、福祉に携わっていた過去の仕事のことを誇らしげに語り始めました。ケアが終わり口紅をさしてあげると、鏡の中の顔をジィーッと見つめ、ポツリ一言「こういう顔が本当の私の顔なのよね」と呟く。痛みと不安の中で気付くことのなかった、常に美しくありたいという女性本来の願いが、心の安らぎと共に訪れ、口紅をさすことで開花し、まもなく人生の終局を迎えようとしている人にさえも、自分の美しさを気づかせ、うっとりとさせ、心に一時の安らぎを与えられるすばらしいビューティーケア活動です。さて、このようなケアの方法でよいのだろうか? 優しく心に満ちたケアとは? 等、実践を通し学ぶ日々。そのような時(ご苦労様でした。少し静養が必要ですね。)と、メッセージが届けられました。
平成九年八月三十一日(六十六歳)、仕事中突然頭が一回転したかに思えた次の瞬間、めまいと激しい嘔吐に見舞われ救急車で病院へ、即入院を余儀なくされました。少し病状が安定してくると変に不安が募ります。どうやら、同室の人達が持っている情報の多さと、行動範囲が限られているからでしょう。
毎日新聞の余録(平成九年六月十一日)に次のようなことが書いてありました。「行」とは、人の歩む形をかたどった文字で向かって左側は左足の進む形、右側は右足の歩む形、転じて「ユクコトナスコト」フルマイ等と物の本にあると、なるほどと感心しつつ思う。私は今まで、「イクコト」のみにフルマイながら何をナスコトをしてきたのだろう。
ビューティーケア活動に情熱をかけ、わが身を愛う余裕すらなく走り続けた二十一年。まったく無償の奉仕活動に対し、心よく資金を援助してくれた主人。又、ビューティーケア活動の名のもと家族や従業員に協力という犠牲を強いながらどれだけ病む人達のお役に立つ行いをしてきたのだろう。悔恨で胸がいっぱいになりました。
夜中、隣の患者八十歳が突然大声を出し、錯乱状態になり、対応に出た師長さんの自信に満ちた優しい言葉がけ、病む人の全部を受け入れた適切なケアの技術に、あれほど恐怖におののいていた患者の心が静かにゆっくりと落ち着きを取り戻していく。心から感動を覚えました。今まで求めていた「優しい心の満ちたケア」のあり様を学ばせて頂いたのです。
平成十五年(七十二歳)、股関節の痛みに歩けなくなり手術を受けることになりました。手術可能限界とのことで、よく我慢できたものと驚かれました。手術後のリハビリは、松葉杖を使って歩けるようになるまで三か月もかかり、辛い苦しい連続の日々でしたが、退院後は私を支えてくれる松葉杖と共に、どこへ行くのにも一緒に行動しています。思い起こせば、幼かった頃病気になり、失うはずだった命が授かり、その時果たさなければならない仕事(使命)をも頂いたように思います。
手術を前に英国赤十字社を訪問し、ビューティーケア活動の実状を知ると共に、現在実践活動の中心であるセラピューティックケアについて学んでまいりました。翌年九月セラピューティックケアの技術をベースに、誰でも簡単に覚えられ、どんな所でもすぐ実行出来るケアとして(ほっとケア)を創作発表させて頂きました。
ビューティーケア、ほっとケア、は受ける人の心を癒やし、してあげる人の心も癒やされほっと笑顔が生まれる、すてきなケアです。現在病院、老人ホーム等でボランティアの皆さんが実践活動をしています。
平成十七年三月十四日「年なんだから身体には充分気をつけて大切にしなさいよ」との一言を残し、五十二年間苦楽を共にした夫は、何の前触れもなく突然私の前から天国へ旅立っていきました。
障害を頂いたが故の苦しみ、その苦難の道を手を携え、支えられつつ歩いてこれた幸福。すべての苦しみも幸せへの道標だったのです。これからの人生それなりの健康を維持し、生ある限り亡き主人に支えられ、ビューティーケア、ボランティアの普及に情熱をかけたいと念願しております。