1949(昭和24)年生まれ。大分県出身。宮崎大学農学部卒業後、大分市役所に勤務。2006(平成18)年、57歳の時に若年性アルツハイマー病と診断される。翌年36年間勤めた市役所を退職。
2001(平成13)年に昭一と結婚。2004(平成16)年に子宮体がんの手術を受ける。そのとき夫から手厚く看病される。夫がアルツハイマー病を発症した時、今度は自分が支える番だと強く決意する。
大阪人間科学大学人間科学部教授。松本診療所ものわすれクリニック理事長・院長。
1956(昭和31)年生まれ。老年精神医学、介護家族の心のケア、家族療法等が専門で、長年にわたってみずから認知症の臨床にかかわる。日本認知症ケア学会評議員等を兼任。
株式会社辰巳商会総務部部長代理。
若年期認知症の社員が勤務している企業の人事担当者。
総合福祉施設京都桂川園地域福祉部長。看護師。ケアマネージャー。
滋賀医科大学付属病院を義父の介護のため退職。1990(平成2)年、認知症の人と家族の会に入会。1992(平成4)年、京都市上京老人デイサービスセンターへ。1999(平成11)年より京都桂川園勤務。
社団法人認知症の人と家族の会代表理事。
1943(昭和18)年生まれ。共働きで育児をしながら認知症の母親を8年間在宅介護。介護中の1980(昭和55)年、「家族の会」結成に参画。代表となり現在にいたる。
足立 昭一さんは去年11月、交通事故にあい30日間集中治療室に入院、つい一週間前に退院されたばかりです。妻の由美子さんとともに、若年期認知症の本人、そして妻の立場から、お話をいただきます。
みなさんこんにちは。大分から参りました足立 昭一でございます。
私は一昨年、アルツハイマー型認知症と診断されました。それに負けないために毎日トレーニングをし、農作業の手伝いなどもやって今までを過ごしてまいりました。36年間勤めた大分市役所を去年3月やむを得ず退職することになりました。けれど、私のできることは、まだまだどこかにあると思っております。なにがなんでも仕事をしていたいです。私にとって仕事は、私の誇り、アイデンティティそのものでございます。
私の目標は、「いい医療にあい、認知症完治第一号になりたい」そう思っております。そして妻を守りたいです。
人と語り合ってお互いに希望を持ち合い、この病気と立ち向かっていきたいと思っております。
認知症なんかには、負けないぞ!
こんにちは。「明るい認知症・足立 昭一」の妻の足立 由美子です。
主人は2005年頃より、ちょっと体調不良というか、何か自分でおかしいということで、メンタルクリニックにかかっておりました。医者からは「うつ病じゃないか」と言うことでお薬をいただいて過ごしていたのですが、なかなか改善されないことにすごく歯がゆさを感じ、仕事でも部下との打合せができなかったり、パソコンの操作が何度教えてもらっても分からなかったりとだんだん支障が出てきました。あと車の運転がなんとなく変だというのは感じていたんですけれど、本人は車のことで妻から言われるのはすごく不満のようで、危険でない限りはなるべく声はかけなかったんです。赤信号で進んだり、直進車が来ているのに無理に右折しようとしたりして、本人も「これは本当に危ない」と思ったようで、それからは運転を控えてくれるようになりました。
そういうことがあって、友人の紹介で病院に行っていろんな検査をしていただき、アルツハイマー型の認知症と診断されました。それまで2年間ほど「うつ病」という形で生活していた間は、手立てがなく、病気とどう関わっていいのか私も悩んでいましたし、夫もどういう生活をしたらいいのかすごく悶々と過ごしていたんですけれど、「若年性アルツハイマー型認知症」と診断されて、変な話ですが夫も私もそれほど大きなショックはありませんでした。なんとなく「何か手立てがあるのではないか」「治るのではないか」と、その時は知識がほとんどなかったので、楽観的な、ちょっとホッとした感じでその病名を受けとめました。家の中で生活をして私が関わって行く上では、私流のやり方で彼を治していきたいと意気込んだことを覚えております。
以来彼と接する中で、認知症の足立 昭一が自分らしく生きるには、私がどう関わればいいのかということを学んでいるところで、そういった点でお話をさせていただきたいと思います。
はじめのうち私は、すごく意気込んで介護に取り組み始めました。規律正しい生活、家事を分担したり、散歩をしたり、私が組み立てた介護をしていたのですが、一緒に日々過ごしてゆくうちに「今の彼の症状に、“介護”という言葉で本当に合っているんだろうか?」と疑問に思い始めました。彼自身もそう思っていたようです。夫婦で毎日つける日記の中にポツンと「介護者ではなくてパートナーになってもらいたい」と書いてありました。それを見た時に、ハッとさせられたんです。「じゃあどんなふうに彼に接していったらいいんだろう?」とすごく悩んで、答はいまだにはっきり出てはいないんですけれど、ふと、私は今まで「認知症の足立 昭一」として彼と関わっていたのではないか、そうではなく「足立 昭一の認知症」を見てあげなければいけないんじゃないかと思ったわけです。
それはとても難しい課題で、いまだに悩んでいますし、これからの課題でもあるんですけれど、日々彼と過ごして行くうちに「こういうことなのかな?」と自分の中で解釈しながら、それによって彼が生き生きしている姿を見て、じゃあこのやり方でいいんだというようなことを学びながら過ごしているところです。
診断をされた後、彼に二つの出会いがありました。ウォーキング、そして「認知症の人と家族の会」です。
まず「家族の会」に入会させていただいたことで、いろんな方の前で話して自分の思いをぶつける場所ができました。私だけではなく、いろんな方が自分の思いを聞いて、共感してくれたり、意見を言ってくれたりということが、すごく彼自身の性格に合っていたと思います。
ウォーキングですが、去年5月に大分で開かれた「こいのぼりウォーク」というイベントに急きょ参加しました。40キロぐらいを歩くんですが、30キロ手前で挫折して帰って来たんです。その時の彼の落ち込みようと次への意気込みは、本当にすごかった。「俺は、仕事も辞めたうえに、歩くことさえできないのか」とすごく自分を責め、そこから「来年は絶対完歩してやるぞ」と日々ウォーキングを始めました。「それをやらなければ男じゃない」「自分の誇りを守るんだ」と。それがすごく彼に合っていて、日々生き生きとしてきました。去年の10月には、今度は50キロウォークというものに参加したいと言ってきたんです。それは、ウォーキング協会の方たち20数人といっしょで、自分のペースで歩いてタイムも自己申告するというもので、彼にとっては未知の世界でした。すごく不安でしたが、やり遂げてもらいたい、挑戦する気持ちを持ち続けてもらいたいということと、私としても、次の挑戦をする時にどんなことに困るのかを知りたくて同行しました。
同行といっても、私は歩く練習をしていないので50キロも歩けません。それに、彼にとっても私がずっとそばで歩くことはプライドが許さないだろうと思いましたので、私は車で、水や着替えを持って、彼より先まで行って車をとめて様子を見たり、時々彼のそばをちょっと歩いてみたり、そんな感じでした。
実際に途中で困ったことと言えば、それだけ長距離を歩くのであれば、パンツは短い方が歩きやすかったこと、水分を補給したくなったとき自分で自販機で買うということが上手くとらえられないこと、だんだん他の人と距離が開いてしまってどこを歩いているのか把握出来なくなったことくらいで、そのあたりをちょっとサポートをしました。でも本当に50キロを、一回も腰をおろさずにやり遂げました。
彼は次への挑戦として今年、100キロウォークに挑戦したいと言っています。前回の50キロである程度、彼の歩き方や困ることを把握できたので、次回は私なりに事前にしっかり準備できると思います。
彼が次の挑戦をできるための私にできるサポートをする、それが私なりのパートナーだと考えています。
次に仕事についてです。
本人は就労したいという気持ちがずっとあって、去年の10月に「家族の会」の人から、「農家で働いてみないか?」とお話があった時は本当に喜んで「ぜひさせていただきます」と仕事を始めました。とても遠い所で、自宅から列車に乗って、降りてからも10キロ近く歩くので、最初のうちは私が送迎していたんです。でもそのうち、すべて私がやってしまうことは良くないと思うようになりました。すると農家の方が、列車を降りてから所々で彼に見つからないように待っていて、きちんと歩いているか確認をして下さって、無事に着いたら私に連絡を入れて下さるという形になりました。帰りもやはりその10キロ近く歩くのを見届けて、「列車に乗りました」と連絡を入れてくれるようになりました。
その日やった仕事の内容も事前に電話で聞いておいて、帰ってきた彼には「どんな仕事をしたの?」と聞いて、忘れている時は私がヒントを出して話をしながら次の意欲につながればいいなということで、農家の方と協力してきました。
仕事もしてウォーキングもして、上り調子で生き生き毎日を過ごしていました。仕事に行く日は、子どもが遠足に行くような気分で出かけていって、私もそんな彼の姿を見るのが毎日楽しみでした。
ところが去年11月30日の夜、事故にあいました。とても大変な事故だったんですけれど、この事故の中でも私は、いろんなことを学ばせていただきました。
その日私たちは別々に行動していました。私は60キロ離れた実家に行っており、夫は農家の仕事を夕方終えて、家に一度戻ってから食事に出ていました。彼はいろんなお店を自分で探して食べて楽しむのが大好きなんです。私たちは、たとえ認知症であってもお互い別々の時間を作る、離れて自分の好きなことをするというのも本人の自分らしい生き方だからと、一人の時間を作るようにしていました。その日も自分の行きたいお店を決めていて、「今日僕は一人でそこに行きたいんだ」と電話が入ったので、「たくさん食べて楽しんで来てね」と。お酒もある店なので、お酒もちょっと飲みたかったんだと思います。
夜10時。いつもは家に帰り着いたら電話をくれるのですが、なかなか電話が入らないので何回もかけましたら、救急隊員の方が携帯電話を取ってくれて「足立 昭一さんが事故にあわれて今病院に搬送しました」ということで、ビックリして車をとばして大分に帰ったんです。治療後の彼は血だらけで傷だらけで、でも本人はまったく事故にあったというのが分からなくて。少し眠りかけていたんですけれど、その姿を見た時には生きた心地ではなく、「私があの時に一人にしないで、その店にいっしょに行けば良かった」と本当に後悔しました。自分たちの時間を作ろうということがこんな結果になるのなら、そうしなければ良かった。彼の前で謝りました。「ごめんね、ごめんね」って。彼はなぜ私が謝っているのか分からない状態でしたけど。
入院生活に入って、医者からは10日ぐらいで退院じゃないかと言われたんですが、次の日から容態が急変、熱が42度くらいまで上がり意識がなくなることが多くなりました。集中治療室に入る前に、ふとそのお店のことを思い出しのか、「あそこのお店に行った時、知らない人たちと盛り上がってすごく楽しかったんだよ」と言った言葉を聞いた時に、その時間は、誰に対しても人懐っこい彼らしく、本当に楽しくていい時間を過ごした帰りだったんだなと思って、結果的には事故につながってしまったけれども、これで良かったんじゃないかと思い直しました。集中治療室に入る前に医者から「呼吸器をつけるのでもうしゃべれなくなります」と言われて、その言葉が最後になるかのかもしれないと思いながら、「ああ後悔じゃないな」って思ったんです。「認知症だからできない」「させない」ではなく、自分らしい生活がどれだけできるかっていうことがすごく大切なのであって、寄り添う私がそこをしっかり把握しながら、二人で生きていけばいいんだ、そう強く思いました。
事故から学んだのは、後悔は誰でもしたくないですけれど、それが本当に後悔なのかを見極めるのが大事ということです。私流に言うと「後悔したってまあいいじゃないか、後でまた起き上がればいいんじゃないか」と考えることにしています。
入院中は「家族の会」のみなさんに本当に支えていただきました。病院に泊まりこんでいた私が洗濯で家に帰る時には交代して彼を見てくれたり、毎日彼の体を触って状態を把握して下さったり、集中治療室に入って意識がない時も、絶対どこか心の中に通じていると声をかけて下さったりしました。それは、認知症というよりも彼自身をしっかりと見てのことではないかと、本当に嬉しく思っておりますし、夫だけではなく私も本当に支えられて、「家族の会」という名前の家族を作れたのではないかなと、今、感謝を申し上げたいと思います。
いま彼は、入院生活を終えて自宅で療養しているのですが、2ヶ月半病院の個室から一歩も出ずに過ごしたのに加えて、ステロイドホルモンという強い薬を打ち続けたので、医者から「多少は脳に影響が出ると思います」と言われました。やはり脳の萎縮があり、家に帰ってもちょっと生活に支障があるのですが、この大阪でのフォーラムのことを、ベッドの中で楽しみにしておりました。この舞台に立たせてもらったのが、今からの彼のスタートラインになったと思います。
彼が集中治療室に入る前にかすれるような声で、「どんな小さなことでも諦めないぞ。ゆっくり突き進んでゆく」と言ったんですが、私にとってはその言葉がお守りになっています。
そのお守りの言葉を胸において、彼のいいパートナーとしてこれから歩んでまいりたいと思います。
医者の立場から、「若年期認知症」というのはどういうものかについてお話をさせていただこうと思います。
あらためて申すまでもないことですが、認知症は、ごくあたりまえのもの忘れではありません。それまで何の支障もなく知的な作業ができていたのが、ある時期を境に急激に低下していくのが認知症の大きな特徴です。人間は少しずつ記憶が低下していきますが、認知症というのはそのレベルを明らかに病的な範囲で超えて記憶が悪くなるものを指します。人によって進行がずいぶん異なるというのも特徴です。
また、ご家族のケア、周囲の環境が良ければ、認知症は進行しないのかというとそうではない側面があります。医学的に特に強調したいことですが、ご家族の方が一生懸命ケアをされていたとしても、ご本人の脳の変化が速い、あるいは脳が病気の変化を受けていくスピードが極端であれば、ご家族のケアとはまた別にご本人の進行が速い場合もあります。逆に、ケアが上手くいってご家族も疲弊することなくケアができると、病気自体の進行も明らかに遅くなるということもいえるのが、認知症の特徴です。
そして認知症は決して高齢の方のものだけではありません。私が担当している方の中にも、30歳になったばかりの方がいらっしゃいます。
次に、そうした若年の認知症の特徴についてです。
第一に、一般的に若い発症であれば進行が速いといわれています。これもただし書きがあって、若くて発症しても進行が速くない方もおられます。私が担当している方で、15年近く前に若くしてアルツハイマーを発症されて、それから一定のレベルまでは進行が速かったんですが、そのあと落ち着いて、以降の悪化がほとんど進まない方もいらっしゃいます。「若く発症すれば、ある時期までの進行が速いが、ある時期で安定期を迎えることができれば、それからは逆に若いことがプラスになることもある」と捉えて下さい。
ここで「若年期認知症」という表現ですが、「若年性認知症」という表現もあります。若年、つまり65歳未満で発症して現在もその時期にいらっしゃる場合を「若年期認知症」と申します。足立 昭一さんはそうですね。それに対して、発症が若年であって今は若年期でないという場合に「若年性認知症」と表現します。一般的な用語として「若年認知症」や、分かりやすく「若年で発症した認知症」という表現もあります。
第二に、若いため症状が激しくケアが大変ということ。この「症状が激しい」というのは、もの忘れ以外の症状を指しています。精神的な症状であったり、たとえば昼夜が逆転して混乱したため興奮が激しくなってしまった時など、若いと力も強いのでケアが大変だというふうなことが言われます。ただこれもみなさんがこういう症状を出されるわけではありません。出る方と出ない方がいるというのがこの二つ目の症状の特徴で、特にこれを「精神行動障害」といいます。いわゆる周辺症状といわれるものです。周辺症状が出ないようにすることが非常に大事なことです。
第三に、若年の方の場合のご苦労として、働き盛りで仕事をしていた夫が、あるいは家事をしていた妻が発病することによって、家族の方が経済面まで支えなければならない。あるいは家を切り盛りしなければならないという大変さがあります。
次に、若年で認知症を起こす病気についてです。
実を言うと、すべての認知症が若年発症する可能性があります。
一番多いのは《アルツハイマー型》の認知症です。脳の中にアミロイドというカスがたまるもので、特に若年発症の場合はアミロイドもたまりやすい。アルツハイマー型認知症という言い方とアルツハイマー病というのは、基本的に同じ病気を指します。
血圧、糖尿、脂質異常症などからくる《血管性》の認知症もやはり若年で発症することがあります。
それから《レビー小体病》、もしくはレビー小体型認知症といわれるもの。これは、幻が見えて、パーキンソン症候群という手足が震えたり足がすくんだりする症状が合併してくるものです。
《ピック病》は、別名「前頭側頭型の認知症」といわれます。頭の前の部分と横の部分が変化して起きるもので、アルツハイマー型、血管性、レビー小体型と比べると割合は少ない。側頭が変化することで、周囲の方が目を離すことができない状態、どこかに行ってしまわれたり、思ってもみなかった行動をしてしまったりというふうに、周りの方がちゃんと目を注いであげる必要があります。
ついひと昔前まで認知症というのは、ものを忘れる病気とだけ理解していたようなこともあったかもしれません。足立さんご夫妻のお話を聞けば、あらためて、ご本人の心の変化に目を注ぎ、寄り添っていかないといけないことに気づかされます。
「長谷川式検査」という、短期記憶や見当識(時・場所・時間等の感覚)などを比較的容易に点数化し評価できる検査があります。30点満点で20点が境界、それより低いと認知症の疑いありと判定されますが、実は、“身の置き所のなさ”や“この先どうなるのかという不安”は、検査で20点をこえている時にすでに出始めます。ご本人が最初に、「これまでの自分と違う」「自分には何かが起きたかもしれない」と思い始めるこの時にご本人の気持ちに寄り添い、ことばに耳を傾けるというのが、周囲の者に課せられることです。医学的にも、このレベルでご本人の不安を取りのぞいてあげることができれば、その後の認知症の進行が抑えられるという結果も出ています。
少し進んで点数が20点前後になると、気分の沈みが出て来ます。さらに進行すると、外に出ないひきこもり傾向やイライラ感が出て、感情が変わりやすい、喜怒哀楽が激しくなってきます。このあたりの症状が出始める前に、適切に医療との相談をしていただいて、場合によっては薬も使う。薬を使わなくても適切な治療法を組み合わせていくことで、こういった症状が出ないようにする。それが、認知症全体が進まなくなる一番大きな治療ではないかと思います。
ここで医者の立場として、病気の進行を遅らせるため、つまり記憶力の低下を抑えるために何ができるかということと、どうすれば精神行動障害、周辺症状を改善できるかを申し上げます。
実は、ご本人が自信を失わないようにいろいろな試みをさせてあげること、たとえば興味を示されることに対して前向きに取り組むこと、社会に「認知症になってもまだまだできる」というふうに思ってもらうような関わりを周囲からするということは、とりもなおさず、治療の一環なんです。つまり、やりがいのあることを続けていただくことで、認知症の進行が抑えられるというのがポイントです。
進行を抑える薬もあります。現在は一般名「塩酸ドネペジル」という一種類だけですが、この後メマンチン、ガランタミンといったいろいろな薬が出てきて、皮膚にはり付ければ飲むのと同じような効果が出るという薬も出てきますから、こういうものを組み合わせることによって進行を抑えることができます。精神行動障害、周辺症状も医師が適切に関わることで状態が改善すれば、病気の進行も抑えられる。二つは不可分で連動していると思って下さい。今後、もっと薬やワクチンができることで、医療とケア、社会の支援が絡み合って良好な経過が可能になるんじゃないかと思っています。
こうして考えれば、若年の認知症というのは、なったらおしまいという病気ではありません。なってからが勝負です。早く診断をつけて早く適切な対応ができることで、認知症の進行は抑えられます。今の医学では、「軽度認知障害(MCI)」の診断ができます。MCIは、認知症ではないが認知症の前の前の段階で、少し認知障害が起きているが、日常生活は正常にできる状態です。ですから不安になった時にこのMCIを含め早期の診断を受けることが、先々の治療につながっていくと思います。
足立 昭一さんや由美子さんがいろいろ経験して克服して来られたように、診断された後どのように心に寄り添ってもらうか、これが認知症を進めないための非常に大きな医学的なポイントであり、サポートになると思います。
今日は「若年期認知症〜本人と家族をどう支えるか〜」というテーマでフォーラムを開催しています。若年期認知症ご本人の足立 昭一さん、妻の由美子さんのお話を聞いていただいて、若年期認知症の人の様子はほぼお分かりいただけたかと思います。また松本さんの医学的な解説で、若年期認知症そのものについても一定の理解をしていただけたと思います。
ここから、では若年期認知症の方たちの生活ぶりや仕事に対する意欲などについて、私たちがどんなことができるのか。ご本人やご家族に対してどんな支えが必要なのか。社会的にはどんな対策があるのかということをみんなで考える、そんなシンポジウムになればと思っています。
まずは、仕事という点から話を始めます。
足立さんご夫妻の話にもあったように、働きたいというのが若年の方の多くに共通する願いです。ただこの願いが、現実の社会ではなかなか実現しない。足立さん自身も元気でユーモアがあって機転が利くのに、退職せざるをえなかった。「家族の会」に集まる若年の方たちも、働きたい気持ちを持ちながら退職している方が多い。その中で、谷本さんの会社では、若年期認知症の方に働き続けてもらっている。ただ認知症の場合、できることが少なくなっていくのも現実です。会社側としてはそういう方を雇い続けるということに、やはり困難が生じると思います。そういう点で辰巳商会の状況、職場の仲間の反応、会社の対応、その辺りのことをお話いただきたいと思います。
その社員が私に「認知症の診断を受けた」と申し出て来たのが、2年前、平成18年5月のことでした。彼からはその3年程前にも「うつ病」と診断されたと申し出があり、それなら産業医に診てもらおうということで診断してもらったんですが、なかなか良くならない。それからしばらくして認知症だという申し出があったわけです。人事担当としては、大変なことになったということで、会社のトップに相談しました。今まで20数年会社のために仕事をして来た社員をスバッと切り捨てることができるのか、一人前に仕事ができなくなったなら退くことを考えてもらおう、いろんな意見があったのですが、やはり、できる限りは会社にいてもらおうと決定したわけです。
そこで一番の問題は、彼が相対して仕事をしている方、相手の会社が、彼がそうだと知った段階でどう思うのか。隠し通しているわけでもないですし、得意先や取引先にはご理解いただいていると思うんですけれど、そういう病気の人間と自分は話をしなきゃいけないのかと思われても困るという思いがあって、そういう点からも慎重に対応してはという意見もあった。企業としては単にその社員うんぬんではなく、実際に仕事で相対している相手がどう思うかということも、やはり乗り越えていかなきゃいけない問題だろうと思うんです。そういう意味では、もう少し社会的に、認知症の人でも働ける限りは働いてもらうんだという声が増えれば、それが企業社会にも広がっていくはずですし、そうなればうちの認知症の社員も、もう少し長く仕事ができるんだろうと感じております。
いきなり核心に入った感じですが、若年の方たちが働き続ける場合の、企業側の課題を鋭く提起していただいたと思います。
去年2月に広島で「若年期認知症サミット」というものを開催しまして、若年期認知症サミット・アピールを出しました。その中で、「すべての企業が企業の社会的責任を認識して、認知症を理由にする解雇等を行なわず、本人の能力に応じた職種、職場への配置換えなどにより、定年まで雇用を継続すること。国はそのための実効性のある就労支策を実施すること」と述べています。ただ谷本さんの話を聞いて、実際はそう簡単なものでもないと思いました。仕事相手の会社や社員に理解がなければ、雇っていること自体が逆にマイナスになりかねないというお話しでした。
松本さん、鎌田さん、若年の方が働き続けていくことの、医療的な意味や福祉的なケアについてお話をお願いします。
医学的に考えても、たとえば就労したいと思っている方が、その能力の範囲内で適切に仕事をすることで、実は認知症の進行をある程度抑えることができる。ただ就労が続けられるということは、必ずしも同じ職場、職域に居続けるということではない。医学的に無理が重なってしまうと悪化するケースもあります。症状が進行したら、その方にとって能力の範囲、しかもその人がやりたいと思っているような範囲で、別の仕事につけてあげるというのが大事なポイントじゃないかなと思います。
ジョブ・サポート、ジョブ・トレーナー、ジョブ・アドバイザーなど、知的障害の方などにも良くついておられますけれど、認知症の方にもそういう形ができないかという試みが、いま東京などで始まっていますね。
それをふまえて谷本さんにお聞きしますが、現実にはその認知症の方ができる仕事の範囲は減っていくわけですね。その方が今まで担当していた仕事ができなくなる。その部分はどうしていくのか。人手や経費がかかることを会社としてどうお考えですか。
仕事でのサポートというのは、認知症に限らず日常的に行われていることです。普通会社では、一人の人間が何かに時間を取られたり他のプロジェクトに関わったりしてできなくなった仕事は、他のメンバーが埋める。それと同じことです。
通常と違うのは、認知症ですと、自分で車が運転できなくなったり、あるいは得意先や取引先を訪ねて、相手の担当者の顔を忘れてしまったり、ということがある。ですからその社員の場合、外出する時には、日常的に彼の仕事をサポートしている同僚を一人、運転手につけます。サポート役が運転して得意先に行き、相手の人と会うところまでセッティングする。得意先の顔が分からないところは、先方がパッと手を挙げてくれたりして、「私が話して来た人はあの人なんだ」と認識できるということがあるようです。
そういうコストについてはどう考えるのかということですが、会社として彼を雇用し続けていくと決定した以上は、これは当然に必要なコストだというふうに考えております。
当然に必要なコスト…。すべての企業がそんなふうに考えてくれればいいんですが。
臨床の場で、若年認知症の方々が仕事につけなくなったのをサポートして来た立場から言うと、ここ数年で少し認識が広がるまでは、認知症になったと分かった時点で、無言の圧力みたいなものがかかって、会社にいることができなくなるというのがやはり大きかったと思います。
やはり認知症という病気の難しさだと思います。実際には、できることとできないことがあるのに、「認知症になったら何も分からなくなってしまう。仕事ができるわけがない」という固定観念、偏見があった。一方でご本人は、うつ的になって自分に自信をなくしている。だから何が自分にできるかが分からない中で、「そんな仕事もできないのか」とか言われて落ち込んで、辞めてしまう。できることもあるし、少しヒントがあればそこから覚えだす。手を挙げてもらったら「あの人だ」と顔を思い出す。先ほど言ったジョブ・コーチやジョブ・アドバイザーが横にいれば、まだまだ持っている能力を発揮することができる。
谷本さんの会社は今のところ一人の方に対応されていますが、ひょっとすれば二人、三人になるということも考えられます。そうした場合、企業の思いやりとか腹の太さだけでなく、そういう企業を社会的に支える制度、現在障害者に対してある制度のようなものが、若年期認知症についても必要ではないかと思うのですが。
当社の場合そういうこととは関係なく、雇用を続けるという決定をしてコストを払いながらやってきたわけですが、国の補助金的なものがあれば、ものごとが進みやすくなるのは間違いないでしょうね。
働くことは非常に大切ですので、まずそこから話をしてもらいました。
話を進めて、若年で認知症になった方が生き生きとその人らしく生き続けるためには、本人に対するいろいろな支援が必要です。そういう点で私たちの仲間が言っているのは、早く、治る薬が欲しいということです。
薬はみなさん本当に切実な思いで待っていらっしゃる。市場に出る予定の薬が延期になったり、ワクチンが再度治験の対象になったりして、ガッカリされていると思いますが、数年のうちにいくつもの薬が出てきます。一つしかない薬がいいか悪いかと言っている今と違い、いくつもの薬を選択し組み合わせることでご本人の生きる意欲を保つということが実践できるようになる。ただ「夢の薬」はないというのも現実ですから、薬を飲めば嘘のように良くなると期待するよりは、薬は半分ぐらい、あとの半分は、同じ立場で共感を持って支え合ったり、家族が理解し合ったりすることが、実は治療、医療にも直結する。社会に向かって自分たちにもやるべきことが何かあると思っていただけるための治療が必要になってくると思います。
社会的なサービスという点でいうと、介護保険を使う方がやはり多いです。あと精神障害や身体障害の関係の制度を使われることもある。ただ介護保険はどうしても高齢者中心なので、体は元気でやりたいことがたくさんある若年の方々に着目したサービスがあるといいですね。
「家族の会」では、ご本人の集いを開いています。若年認知症のご本人同士が参加して話をする場です。仲間と会えて楽しく、気が晴れるし、忘れてもとがめられたりしない。最近では、告知を受けて「自分はアルツハイマー型認知症です」とか「ピック病です」と言って来られる方も増えています。病気を抱えてこれからどう過ごせばいいのか、仲間がいればいいヒントになるし、前向きに生きる意欲につながる。
最近ではご本人の交流できる機会もずいぶん増えてきましたが、松本さん、病気のご本人同士が集まっていろいろ話すというのは、医学的には、積極的な意味、効果があるのでしょうか。
医学的、心理学的な面で大きな影響があります。普段ご本人たちが話す時はご家族が横にいらっしゃる場面が多いのですが、本人だけが集まると、ご家族に気兼ねなく自由に話すことができる。自分と同じ悩みを持った人がいると確認することで、心の安定が図れる。安定することによって、前頭葉の変化がより少なくなるという効果が認められます。100%効果につながると言えないとしても、いくつもの試みが繰り返されて安心感が広がるというのが医学的に見ても大事だと思っています。
本人を支えるという意味で、企業においては、その人の能力を勘案し、補助の人をつけたりして、仕事を続けてもらうということがあります。ただこれは会社の幹部がそういう方針を出しただけでは上手くいかない。同じ職場で働いている人たちが、その方の病気に対して理解や協力する気持ちが大事だと思うのですが、そういう点で谷本さん、工夫や努力をされているんでしょうか?
それについては微妙で、当社の認知症の社員が、周りの人全部に心底支援されて仕事に取り組んでいるかというと必ずしもそうじゃないと思います。今まで一緒に仕事をしていた人が認知症になったがために自分の負担が増えたという面も出てくるでしょう。そういうことがあるにせよ、会社はこういう方針で動くという決定を幹部が下せば一つになって動く。内心はいろいろ思うことはあっても、上からの号令で動く中で、やはりサポートする時はサポートしていくんだと、社員もそう思いながら支援をしているのが現実だと思います。
そうは言っても、この2年間で社内で何かが変わったとか、認知症に限らずに病気の人などに対する社員の認識があらたまったとか、そんなことはないですか?
それは間違いなくあります。会社の取り組みが取材を受けたりして、「辰巳商会さん、いいことしているじゃないか」というお褒めの言葉もいただいたりするうちに、社員が「うちの会社もなかなかいい」と思ったり。それを期待して取材を受けたわけではありませんが、結果として社員の意識にそういう気持ちが芽生えて、患者である社員への優しさみたいなものにつながっている面もあるかもしれない。
鎌田さん、こういう会社は日本では一般的なんでしょうか?
かなりまれだと思います。私のところは身体障害者の施設もやっているのですが、障害者はなかなか雇用してもらえないのが現状です。大きい企業になるとそれだけたくさん障害者雇用の枠を持っていますが、障害者を雇うと手間がかかるから、違約金を払って済ませようとしている話を見聞きする。同じように認知症の方も、たとえば一つのことができる時とできない時があるというような、病気特有の特徴などを見極めながらサポートしなければならないことが、企業にとって手間がかかることもあり、現実的にはなかなか難しいというのが実感です。
テーマをうつします。若年の場合は介護する人が圧倒的に配偶者です。しかも現状では若年で発症すると勤めが続けられなくなることが多く、途端に収入の問題が起こる。そういう中で家族は懸命に本人を支えて頑張っているわけです。ご本人を支えると同時に家族も支えていく、その両面が必要なわけですが、家族を支えるためにはどうすれば良いかということについて、話を進めたいと思います。
松本さん、介護するご家族の身体的、精神的な疲れを支えるという点で、医療の面からお話をお願いします。
医療面から見て、若年の認知症のサポートに家族支援は不可欠だと思います。介護の日常の中でご家族が疲弊し追い詰められた状態にいると、ご本人の混乱が増えてしまうということがあるからです。我々がサポートすることで家族の気持ちが安定すれば、ひいてはご本人にも状態の安定が認められる。特に配偶者による介護は一対一のごく近い距離での介護ですから、お互いの心の安定を図らなければきちんとした医療もできないと言えるでしょう。
鎌田さん、ケアマネージャーであり福祉施設職員として、介護の専門職の立場から、家族に対する支援の方法をお聞かせください。
ケアマネージャーとしては、家族の困っていることは何かということをまずお伺いします。先ほどもあったように若年の方というのはなかなか福祉サービスに結びつかないし、結びついてもピッタリ合わない。施設とも話して、「こういう方がいらっしゃるけれども高齢の方とは違うから何かこの方が役割を持てる形のことはできないだろうか」ということで、ご本人の好きなことやできることも聞き、実際にそのサービスを見てもらいながら、「ここならできる」という形にもっていくのが、大事にしていることです。
本人の後ろには家族がいる。本人が施設に入所していれば、そこで笑顔で暮らしていることが家族の安心につながる。そういう意味で専門職のみなさんには、本人を見つつも家族のことも常に思っていただきたい。家族の立場から要望したいと思います。
谷本さん、企業は施設や病院と違って、なかなか家族に接することはないと思うのですが、いずれ家族に若年認知症の人を持つ社員も出て来るでしょうし、企業としてはそこで働いている人だけではなく、家族も視野に入れた従業員対策のようなものも必要になると思うんですが。
会社として患者の家族にどれだけ関われているかといえば、ほとんど関われていないのが現状です。ただ、その社員を雇用し続けるにあたって心配だったのが、「今は仕事ができているけれど、病気が進行して仕事ができなくなったらどうするんだ」ということ。仕事そのものができないという状態であれば、会社を辞してもらうしかないだろう。けれどその判断は誰がするのかといえば本人でも医者でも家族でもない、会社です。そこでご家族に会社にお越しいただいて話をしたんですが、いざ面と向かうと厳しいことはなかなか言えない。事前に、「こういう状態になったら退職ということを家族に考えていただこう」と打ち合わせていたのですが、いざその場になると誰も切り出せない。会社と、ご本人やご家族との関係というのは、実際はそういうものだと思うんです。言いたいことはあってもやはり人間として言えない部分がある。その時は患者本人の父親が、「本当に引かなきゃならなくなった時には、私が責任を持って引かせます」と一言おっしゃったので、それでOKとしました。
ちょっと「なにわ節」的ですが、社会全体が効率とか業績一辺倒で、人の心や優しさ、思いやりといったものを無視して進む中で、ずっと働いてきた人にできるだけ長く働いてもらうのはあたりまえだとか、辞めてもらうことをご家族に話そうとしていても顔を見ると言えないのが人間として当然だとか、こういうことが会社の柱になっているのがすばらしい。
千人規模で上場もしていませんし、株式会社ですが株の大半は従業員が持っている。そんな会社ですから、会社の決定について外部の人からとやかく言われることはほとんどない。大手の企業であれば、おもんばからないといけないことも多々あると思います、企業社会では利益を1%でも上げることが最優先という考え方もありますから。そういう意味では、自分たちの思いに従って決定できたということはあるでしょうね。
なるほど。自分の会社を自分たちで作っていくんだというのがすばらしいと思いますし、認知症だけでなくいろんな問題を考える場合に、そこに暮らしている者の気持ち、思いが生きるような地域や社会でありたいというようなことを谷本さんのお話を聞きながら思いました。
さてここまでこちらばかりしゃべってきましたので、もう一度足立 由美子さんに、家族の立場から、我々が話したことについてどう感じられたかをお聞きしたいと思います。
お話を聞いていまして、心に染みるというか、同感だなと思うことがありました。
谷本さんから、ご本人が取り引き先の会社に行った時に相手の人が手を挙げてくれるという話がありましたが、手を挙げる、ただそれだけで認知症の人は救われる。これはすごいと思いました。そうやって自然にサポートしてくれる人が増えれば、気持ち良く働いていける。家に閉じこもらず外にどんどん出て行ってアピールすれば、必ずそうやって手を挙げてくれる人が出て来るんじゃないかと思いました。
鎌田さんがおっしゃった福祉サービスについてですが、私も最初デイサービスに見学に行きましたが、とても夫には合わない、若年の人には合わないと思いました。夫のような症状の場合は、デイサービスに来ている方を支えるというか、職員と一緒に、症状が進んでいる方のサポートをする。そういうやり方で夫が生き生きしていけたらいいなあと思いました。
デイサービスでは、若年の方が来られた時は、個別的なケアをするために「若年加算」というものをいただける。けれど実際に若年の方をどんな形でサポートしていけばいいのか分からず、模索しているというのが現状です。たとえば歌ひとつとっても「汽笛一声」と吉田拓郎の歌では大きく違うから、そういう違いに配慮する。それと若年の人の居場所、役割があること。その上で高齢の人とも交流ができるような形。社会ってそういうものですよね、そうやって一つずつ工夫をして、合った時は若年の方もデイサービスを使ってもらえています。
とはいえ、実際にはもっと多くの若年の患者さんがいらっしゃるでしょうし、制度的には、若年の方がもっと能力をいかせる場所、趣味などができるデイサービスなり、サロン、カルチャーセンターみたいなものがあればいいと思います。
それでは最後に、ひと言ずつ今日のまとめの話をお願いします。
先ほども申し上げたように、会社はご家族の方にまでなかなか手が回らないというのが現状ですが、ある意味これは会社の使命ですから、今日勉強させていただいたことをまた明日からいかしていきたいと思います。
私が自分の父を介護していた時にうれしかったのは、「大変ですね。何かお手伝いできることがあれば言ってください」という言葉でした。この人は私を見てくれていると思えたからです。ケアマネージャーとしても、「私はいつも横にいるので困ったことがあれば何でも言って下さい」というメッセージを出すことを心がけています。みなさんも身近に認知症の方がいらっしゃったら、そんな言葉をかけていただければ本人も家族も救われます。
デイサービスの話が出ましたが、支援職とご本人の家族というのは、決して対立する関係ではありませんし、支援職でありながら家に帰ると自身も認知症患者の家族ということがあたりまえになって来ました。みんなが同じ方向を向いて、若年認知症のご本人とご家族を支えていければいいなと思います。
足立さん、ひと言ごあいさつを。
「人」という字は支えあっていますが、現実の社会はそうではありません。こういう場所に来ていろんなことを感じ、大分に帰って自分がそういう役目を果たそうと感じました。認知症だからといって逃げることは絶対にしません。妻とますます良いパートナーシップを発揮して、良い社会人になることをお誓いして、あいさつとさせていただきます。ありがとうございました。
足立さんが、「認知症完治、アルツハイマー完治の第一号になるんだ」とおっしゃっていた。誰も認知症を治すことなんてできないと言っている時代に、ご本人のこの前向きな気持ちはとても大事です。ただ本人の気持ちだけでは生き切れない世の中でもあります。個人の前向きの思いと、社会的な支援、両方があってこそ、認知症になっても人間らしく生きていける社会になる。具体的にどんな解決の道があるのかというところまで今日は話せませんでしたが、みなさんが認知症の方の現状とそれを取り巻く課題に少し気をつけるだけでずいぶん生きやすい世の中になるということ、制度も良くしていかなければならないということもお分かりいただけたと思います。今日の話が、みなさんの生活や人生をより豊かにするお役に立てば幸いです。
終わり