NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『人生波乱万丈・負けてなるものか』

〜受賞のその後〜

森川 るみ子 もりかわ るみこさん

1959年生まれ、パート事務職、広島県
高次脳機能障害
54歳の時に第48回(2013年)佳作受賞

森川 るみ子さんのその後のあゆみ

『人生波乱万丈・負けてなるものか』

受賞後の挑戦 講演活動をスタート

何事も常に前向き、チャレンジ精神旺盛で、活発に目標とすることを達成し、万丈に生きてきた49年の人生の中で、初めて迎えた“挫折”が、高血圧性脳内出血でした。左半身マヒ、高次脳機能障害という“重度障害者”になったのです。働くための遂行機能が低下し、歩く機能も物を持つ機能も失いました。生きていく上での仕事も健康な体も失い、まさに人生の波瀾の幕開けでした。
 しかし、私は、冷静に考えたのです。
 まず、私には、利手である右手と自分の思いを伝える話力が残っている。私の得意とする分野、文章を考え、まとめて、書く力も、思いを伝える講演の話力も、すべてが生きているのです。
 そう、私の生きる“使命”
 使命とは、自分の命を使い生きる役割の事。医師から、「2度と歩けません。一生、車イス生活です」と宣言された人間が、自分の足で歩きバスに乗り通勤し、社会復帰した経験を、1人でも多くの人々に伝え、勇気元気を届けるために、執筆し本にしよう、講演活動をしようと思いました。これこそが、私が生かされた役目であるのです。
 そう決めた時、NHK障害福祉賞の募集を偶然、職場で目にした私は、「これだ!」と思い、自分の体験記を応募しました。1回目は入選できず、2回目の応募にして、見事“佳作”に入選することとなりました。自分の目標を一つクリアー出来た事が何より嬉しく、この入賞を機に、2つ目の目標である、講演活動もスタートをしました。病気を発病する前から、人材育成の会社を立ち上げ、自ら講師として、講演活動をしていた私にとりまして、この人生の体験によって以前より力強い“魂の言葉”を届ける事が、出来るようになったのです。

新人研修を任されて、得意分野を発揮する

社会復帰をした会社では、新しい部署である人事教育部に配属となり、新入社員研修の中に、私の体験談を、社内講演と言う形で取り入れて下さいました。“諦めず、目標をもって生きる大切さを”をテーマに、毎年、100名近い新入社員さんに講演します。新入社員の皆さんからは、「当たり前のことが、何不自由なくできる。ことがどれだけ幸せなことかということを改めて考えさせられました」「逃げることなく、立ち向かう、その強さに本当にびっくりしました」など、本当に心温まるたくさんの感想を頂きました。励ますための講演が、逆に私が多くの励ましを頂き、ますます頑張れるエールを頂き、皆さんに感謝の気持ちで一杯です。
 感想文に一人一人にコメントを記入して返すことも、更には、あるテストを行って一人一人の性格を分析してその結果とアドバイスを私の手書きで返すことも、研修の一貫として、私に任されています。
 100名近い人の性格を分析して、その一人一人に向けた言葉を手書きすることは、片手の私には何倍もの疲労になるのですが、私が講師活動をしていた時からの得意分野であり、まさに私の“コア”な部分です。その得意分野が、こうしてまた日の目を見たことが、何よりも嬉しく幸せを感じ、また、遣り甲斐を感じ、疲れも吹っ飛ぶのでした。上司の方も、「森川さんの輝く分野を、発揮してもらいたい。森川さんの講演は、伝えたい思いがあふれていて、新入社員の皆の心に響く内容で、皆が元気になりやる気になりますょ。分析やコメントも的確で素晴らしいです」と、認めて下さいました。
 さらなるステップとして、次年度の内定者に向けた課題に対するコメントも、私に任せて下さるようになりました。入社までモチベーションを高めて入社してもらえるように、今年から、100名近い内定者に向けて、1回毎の課題に対する内定者の回答にコメントをつけて返すのです。ネットでのやり取りの為、同僚と上司のアドバイスを貰いながら共同で作成しました。

障害に悩むことはあるけれど

オフィス内で制服の森川さんが立っている写真

かなりのエネルギーを要する為、脳はかなり疲れ、仕事終わりには足が硬直してバス停まで歩くこともままならず、安全の為にタクシーで帰宅をしました。300を超える履歴書の合否の仕分け整理を、5時間連続して作業した日の帰り道は、バス停まで歩道を歩いている時に自分の意思に反して右へ右へと進み、帰宅ラッシュで混雑する車道へ出てしまいそうになりました。その直前に同僚が「森川さん危ない、車道に出ている。もっともっと左へ」と声をかけてくれたおかげで、事故を回避することが出来たのです。これぞ、まさに、家族も医師も心配していた高次脳機能障害の“半側空間無視”です。私は、右脳を出血している為、左側を見落としてしまうのです。受賞作の中でも触れていますが、パソコンの入力を確認する時も、左側を見落とす為に、何度もミスを繰り返すのです。何度も注意を受けて苦しんでいた部分で、デスク上では意識していたのですが、今回のように、歩行中では初めての経験です。リハビリの先生に相談すると、
 「それは、脳がオーバーヒートして疲れて、いつものように左脳が全く機能しなかったのですネ。時々、休息しながら、大きな深呼吸をしながら進める様にしましょう」
と、言われました。
 これは、残念ながら、健常者の方には、理解されない事です。それどころか、当の本人でさえ、コントロール出来ない症状ですから、大変なのです。
 私は、健常者の皆さんのように、何かをしながら仕事を進める事、同時に2つの事を処理することが出来ないのです。会社では、皆さんが、自分の仕事をしながら、外部からの電話応対をされていますが、それすら、私には出来ません。同僚と話をすることも出来ません。皆さんが、楽しげに会話をしている輪にも、参加できません。話をすると、仕事が進まない。ミスが発生してしまうので、私はひたすら黙々と、目の前の仕事を指示通りに進めることで精一杯なのです。時には、1日、誰とも話さず退社する事も、「おはようございます。お先に失礼いたします」とあいさつのみになることも、度々です。時に寂しさを感じる事もありますが、業務をミスなく、時間内に進める事が、第1優先である以上は、仕方ないことです。
 この会社との出会い(ご縁)はとてもありがたく、私は幸せです。60歳が定年ですが、私は最後の1日でも、しっかり恩返しをしつつ勤務したいと、今は強く思っております。

チャレンジを続けてきたからこそ今がある

そして、私の新たなチャレンジは、生活の為のダブルワーク(アルバイト)を見つける事でした。
 一人暮らしをする事となって経済的に苦しくなり、子どもたちにも迷惑をかけないようにする為、会社にも許可をもらってダブルワークをする事にしました。アルバイト先を探すところからのスタートでした。半身が動かぬ障害者を受け入れてくれるバイト先があるかも不明な中、無料の求人雑誌をコンビニで手に入れては、アルバイトを探す。年齢・障害と様々な問題がある中で、いつものチャレンジ精神で、可能性のある所から、順に電話をかけ続け、履歴書も、ヤッセヤッセと書きました。運よく面接をして下さる所も、何箇所かありました。元々フリーの司会者(フリーアナウンサー)をしていた私は、声がきれいで若々しくて聞き取りやすい上に、電話応対も接客も得意である事から、最初の電話応対では先方は好印象をもって下さいます。ところが、面接で障害がある私を見てビックリされる方も多く、何社も断られると、自分を全否定されているようで、つらくなりました。
 何度、部屋で泣いたことでしょう。その度に「これが現実なんだ」と自分に言い聞かせ、動かぬ左手足を見ては、「これも私なんだ」と大粒の涙を流し、気がつくと、障害者になって初めて泣いていたことに気が付きました。今まで、泣くこともなく、自分の心に封印をしていた感情が溢れ出したのです。
 以前、冷静な息子から言われたことを思い出したのです。
 「あなたは、今まで何でも出来ると思って突っ走って来たけど、今度は、出来ないことも増えるから、ブレーキをかけながら、進みんさいょ」
と。確かにそうだと思いました。
 しかし、これは神様からの試練だから、そう、明けない夜はないという。必ず朝になれば、太陽は顔を出す―きっと、きっと、もうすぐ夜が明けるー。
 「負けるな私」と自分を奮い立たせ、必ず道は拓けると信じて、毎日の仕事を頑張ったのです。
 すると、チャンスが訪れました。病院のレセプトのアルバイトが決まりました。仕事が休みの時、空いている午前中を有効に利用してのダブルワーク。母が生前お世話になっていた病院で、母を思い出しながら仕事が出来ました。母が導いてくれたご縁なのかと思いました。
 8年前(平成19年)に倒れ、生死をさ迷って奇跡的に生き返った私が、こうして働く姿を、誰が想像したでしょうか。
 仕事を失い、働ける健康な体を失い、住む家までも失い、正に、障害の体、身一つになった私が、波乱万丈の人生を、悲観し、泣いて過ごしていたなら、今のような私は存在しなかったことでしょう。

ケーキを前に森川さんと息子さん・娘さんのお孫さん達が揃った写真

「負けてなるものか」と、常に前向きに人生を諦めずチャレンジを続けたからこそ、今の自分があるのです。私を信じて、支えて下さる上司・同僚の皆さんと、私が輝ける職場(ステージ)を用意して下さった会社があるから、陰ながら心配しながらも見守ってくれる息子夫婦・娘夫婦がいてくれるから、そして「ばあちゃん」と呼んで慕ってくれるかわいい5人の孫たちがいるから、今の自分があるのです。全ての皆さんに心から感謝しつつ、私はこれからも、自分の体験と思いを一つ一つ伝えて、新入社員の人たちに勇気元気を届けてサポートしてまいります。

福祉賞50年委員からのメッセージ

森川さんの文章を読んで何よりも驚かされるのは、「自分の脳の中で何が起きているのか」をいつでも一歩引いたような立場から見ようとしている姿勢です。その森川さんが「障害者になって初めて泣いた」という日。「やっと泣けたんだ」という感想を持ってしまうほど意味のある涙のように思えてなりません。「感謝」という基盤があるからこそ、森川さんのガムシャラぶりには温かさがあるのでしょう。

玉井 邦夫(大正大学教授)

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