『受賞から12年』
〜受賞のその後〜
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藤野 高明 さん 1938年生まれ、元盲学校教諭、大阪府在住
視覚障害
65歳の時に第37回(2002年)最優秀受賞
藤野 高明さんのその後のあゆみ
『受賞から12年』
大切な人を亡くして
第37回NHK障害福祉賞受賞から、はや12年がたちました。
受賞式は2003年2月でした。お招きをいただき、その前日から妻・カヨコと2人上京し、指定のホテルに宿泊しました。うれしい旅行でした。
受賞式はNHKの放送センターで行われました。その折り、柳田邦男先生に親しくお声をかけていただき、お話ができたこと、本当に貴重な出会いでした。ハレの受賞式には東京に住んでいる妻の兄と妹、それに私の妹も福岡から駆けつけてくれました。人生にめったにない、晴れがましくも幸せな1日でした。
しかし、人生とは実に無情なものです。この年の12月には、私の受賞をことのほか喜んでくれていた福岡の母が89歳の誕生日を目の前に亡くなりました。
そして、3年後の2006年3月には、妻が心を残しつつ旅立ちました。さらにその3年後の3月には、受賞式にも参加してくれていた妻の兄が仕事先の四国で急死しました。身内との死別は心にこたえるものです。特に生活をともにしてきた妻との別れは、私自身の生活のあり方を急変させて、つらさと寂しさを何倍にも大きくしました。
新しい命の誕生
一方、私の気持ちを引き立て、励ましてくれたのは孫たちの誕生と成長でした。
妻は孫の誕生をこの上なく喜んでいました。「お父さんと結婚して一番良かったのは孫ができたことよ」と言っていました。娘の娘が初孫でした。名前は美紀子です。1年半後に二女の咲希が産まれました。妻の喜びは倍になりました。小さな命が健やかにたくましく伸びていく様子を何よりも大切に見守りながら、病気と闘っていました。その子たちがこの4月からは中学1年生と小学5年生になりました。
妻が亡くなってから息子のところに、男の子・泰祐(たいち)が産まれ、また娘のところには三女・優花が誕生しました。泰祐は小学2年生、優花は年長さんの「ゾウ組」へと成長しています。
天国の妻と同じ目線で孫たちの未来を見守ってやりたいなあと思っています。
新しい挑戦 パソコンのこと
パソコンにはあまり興味がなく、必要性もさほど感じていませんでした。ところが世の中には「勧め上手」そして「教え上手」という人がおられて、勧められるままにパソコンを購入し、教えてもらうことにしました。視覚障害のある多くの仲間たちがパソコンを使いこなすことによって、従来は想像もできなかったほどの情報を手に入れ、発信し、生活を向上させていることは知っていましたが、実際に自分がやり始めてその素晴らしさに感激しました。やってよかったと、勧めてくれた人、教えてくれた人に心より感謝しています。
目が見えなくても、画面を音声で読み上げる方法があるので、いろいろと活用できるのです。それはとても有用で楽しいことです。
日常的にやっているのはメールの送受信です。友達だったり、卒業生だったり、親戚だったり、また全国各地にいる視覚障害者運動の仲間たちだったり、メールをやりとりする相手は大勢います。ミャンマーに帰国した留学生とのメール交換には、科学技術の進歩の恩恵をもろに感じています。
そのほかに、日々の新聞記事を見るのも大きな楽しみです。いくつかの商業紙のほかに関心のある政党の機関紙、スポーツ紙、またたまには、わがふるさと福岡の新聞にアクセスすることもあります。
パソコンが使えるようになって大変助かっているのが辞書検索です。語句の正確な意味や、またどんな漢字を使うのかなど読んだり書いたりするときにはなくてはならないツールになっています。
ゆっくり時間をかけて読書(音声訳された録音図書を聞く)することもありますし、また気分転換にパソコンのソフトを相手に将棋を指すことだってできます。インターネットラジオで西武ライオンズの野球中継を聞くこともできて、私の日常をより豊かに潤してくれているのもこのパソコンです。
50周年の式典に招かれて
2010年8月、NHK厚生文化事業団設立50周年の式典が東京で開かれました。このときもまたお招きいただきました。ガイドヘルパーの近藤有子さんと上京し、真昼の日盛りの渋谷の街を歩いて放送センターに行った記憶が鮮明に残っています。式典と懇親会の会場で再び柳田先生にお会いし、お話し出来たことは大きな喜びでした。視覚障害者関係の団体の代表をしている友人たちとも出会うことができました。
この年、厚生文化事業団は記念出版として障害福祉賞の歴代の優秀作品から13編を収録した『雨のち曇り、そして晴れ』という立派な本を出されました。私の「人と時代に恵まれて」という作品も選んでもらいました。表紙には手で触っても分かる星のような印が13個ついていて印象を強めています。その執筆者の人たちともこの会場でお会いでき、親しく交流出来たのもすばらしい出会いとなりました。
糸賀一雄記念賞を受賞して
2011年11月、私にはさらにうれしいことが続きました。それは第15回糸賀一雄記念賞に推薦していただいたことです。
糸賀先生は滋賀県で近江学園、びわこ学園をつくられ、重度の障害のある人たちの福祉、医療、教育の向上に全力を尽くされた私たちの大先輩に当たる方です。
糸賀先生は障害のある子どもたちに光を当てるのではなく、「この子らを世の光に」という精神で障害者問題に取り組まれました。この発想の転換は、障害当事者である私にとっても大きな示唆を与えるものでした。これは障害者を福祉の対象とのみ考える視点から、障害者自身を人生の主体として捉えているところに真の人権感覚が息づいていると思うのです。私は受賞の喜びの中で、自分自身が糸賀先生のいう「この子ら」の一人であったことに思い至りました。
2冊の本
この12年の間に2冊の本を出すことができました。1冊は2007年に出した『未来につなぐいのち』であり、もう1冊は今年3月に出した『楽しく生きる』です。
全盲で点字使用の私が本を出すというのは一層、困難を伴う仕事です。点字の原稿を普通字訳してくれる人、それを編集してくれる人、写真や表紙絵、挿絵のことなど多くの具体的な協力なしにはできないことです。恩師・鴨井慶雄先生のおすすめとお力添えで完成した2冊です。「楽しく生きる」には柳田邦男先生が序文を書いてくださいました。
耐え難いほどの悲しみもありましたが、この12年間、元気で歩いてこられたことを心より感謝いたしております。
福祉賞50年委員からのメッセージ
13年前に藤野さんの人生記を読んだ時、「生きるとは」「人生を切り拓くとは」という最も大切な問題について、感動的な答がここにあると強く感じたのを覚えています。今回の手記では、その後、藤野さんは奥様や母上様を次々に亡くすという悲しい永訣を経験したのですね。それでも多くの人々とのメール交換や、パソコンを介しての読書を楽しみ、とりわけお孫さんたちの誕生と成長を亡き奥様と共にある目線で見つめるのが生きる支えになっているという。
藤野さんが20歳で点字の舌読に挑戦し、当時としては前例のない全盲で大学の門戸を開かせ、教職の道を拓くというチャレンジ精神は、高齢になって次々に悲しい喪失体験をしても貫かれ、明るく生きる生き方を見出していったのですね。何とみごとな人生の開拓者でしょう。あらためて心からの敬意を表したいと思います。
柳田 邦男(ノンフィクション作家)