NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『温もりある心の繋がり』

〜受賞のその後〜

蛭田 眞由美 ひるた まゆみさん

1961年生まれ、訪問介護事業所経営、福島県在住
脳性まひ
51歳の時に第47回(2012年)優秀受賞

蛭田 眞由美さんのその後のあゆみ

『温もりある心の繋がり』

夫と両親と、支え合いながらの生活

重度障害者である蛭田さんご夫婦の写真

我が家の1日は、いつも変わらず朝6時30分、ヘルパーさんの玄関のチャイムの音で始まります。しかし、最近はそれより少し前に始まっています。重度の障がい者である私達夫婦にも老化現象が現れ、「痛い!身体が痛い!胸が苦しい!」 横で寝ている夫の声で目を覚ますことが増えてきました。そんな時普通なら、「大丈夫?」と言いながら身体を撫でたり、体位交換をしたりするところでしょうが、何せ私も同様の障がい者。そんなことは出来るはずもないのです。そこで「私だって痛いのよ」「貴方はあれだけ食欲が有るのだから大丈夫!」と、さらっと言い放ちます。これで夫も納得して静かになり、やがて夜が明けヘルパーさんの車の音が聞こえます。
 3年前(2012年)に優秀賞を受賞した作品『三人四脚』では、両親と障がいを持つ私の3人が歩んできた道程を中心に書かせて頂きました。その両親は、84歳を迎えた現在も元気に暮らしています。父はこの間、喉に悪性の腫瘍が見つかりヒヤリとする場面も有りましたが、幸い早期発見だったので短期の入院で済みました。入院中の父は病人とは思えぬ程元気で、病院食を大盛で注文したり、朝起きてすぐ4階から1階まで階段で売店へ行くなどしたり、院内でも体力維持に気を付けていたようです。治療後の結果は良好で、なんと退院時に体重が2キロも増えていました。通常、高齢者が重い病気にかかったり、入院したりとなると、「ご家族にも一緒に病状説明をしたいのですが」などと言われるようです。私達がその時に応じて直ぐ同行するのは至難の技。今回も歯痒さと悔しさを感じつつも、お蔭様でスタッフを始めヘルパーさん達の快い協力のもと、入院手続きや見舞いに行く、必要なものを届けるなど、出来うる限りの親孝行が出来ました。
 私達夫婦は共に重い脳性マヒです。日常生活全てに介助の手が必要です。一人では何も出来ず、放って置かれたらトイレにも行けませんし、食事も出来ません。そんな私達が自分のしたい事を成し遂げて来られたのも、両親を始め、友人や知人、それぞれの立場の方々からの支援があってのことなのです。

震災を機に介護事業所を再開する 

私達は、自分達に出来る事で世の中にお返しをしたい、障がいがあっても、誰かの手助けがあれば自分達が望む生活が出来ることを伝えて行きたい、そんな思いで10年前に介護事業を主とした有限会社を立ち上げました。
 会社経営など未経験で、スタッフ共々悪戦苦闘の毎日でした。それでも懸命に前進していましたが、ついに息切れ、2年半で休業を強いられました。当時、私はかなり不安な日々を過ごしていて枕を濡らした夜も何度かありました。最もつらかったのは職場介助者として私を支えてくれていた女性スタッフとの別れでした。「お互いかわいいおばぁちゃんになって、日向ぼっこをしながら昔話でもしようね」と言っていたのに…。
 そして休業して2年後、あの東日本大震災に襲われました。誰かが側に居ないと生活が出来ない私達には、災害は死活問題です。取り敢えず私達は両親の所に身を寄せることにしました。幸いにして夫には男性のヘルパーさんが避難中ずっとついて居てくれたのですが、私にはヘルパーさんが来られなくなってしまいました。次第に原発事故等で当地の状況が厳しくなり、私達夫婦、母、夫のヘルパーさん、親類の娘の5人は、「どうしても愛犬と一緒に家に残りたい」と言う父だけを残して、1か月余り転々と避難生活を続けたのです。その間母は親類の娘と協力して私の介助、そして食事、洗濯と家事全般をこなしました。慣れない生活の中で、高齢の母にはつらかったはずです。しかし弱音一つ吐かず、文字通り『母は強し』でした。今思うと、あの非常事態を良く乗り越えて来られたと不思議な気もします。それには、色々な形で多くの方々からの手助けがあっての事でした。家に残った父を訪れてくれた方や、避難先の家を提供してくれた親戚の方等です。誰もが大変な思いをしていたはずです。私達は本当にたくさんの人に支えられているのだと痛感しました。
 そして、夫と共に震災後間もなく休業していた会社を再開しました。夫の片腕となるべく、スタッフには避難中離れていながらも心と心が通い合っていた男性が入り、また、休業前、最後まで勤めていたスタッフも加わってとても心強いスタートでした。

出会いと交流の場を作りたい! NPOの設立

『ゆっこばぁばの台所』の様子

私は障害福祉賞に応募した頃、ある大きな思いがありました。それは誰もが生き甲斐を持ち、その人らしく充実した人生が過ごせるような地域作りがしたいと言う事でした。その実現には人と人との連携が不可欠です。直接的な人同士の触れ合いも希薄になって来ています。そうした事から出会いの場の提供を目的としたNPO法人を立ち上げようと決意していたのです。やがて法人が立ち上がり活動を開始しました。様々な事業の中の一つに、多世代間交流を狙いとした『ゆっこばぁばの台所』と銘打ったものがあります。
 『ゆっこばぁば』とは私の母。母は若い頃惣菜屋さんか食堂を開いてみたかったと言う程の料理好き。昔ながらの素朴な母の味は私の友人からも定評のあるところで、それを若い世代に伝えたいと企画しました。一応料理教室なのでレシピを起こそうと試みますが、それがひと苦労。長年の経験から勘で調理しているので、調味料の数字を聞かれても困るようです。当日まで、何度も試作品を食べさせられます。いざ本番、『ゆっこばぁば』はレシピとは違った事を始め出します。私は大慌て。味見は指か手のひらです。『ゆっこばぁば』の明るいキャラクターが笑いを誘い、和気あいあいと時が過ぎて行く教室です。お子さん連れの方の参加者も大歓迎です。
 ある時、こんな事もありました。ママと一緒に来たお子さんが、エプロン姿で『ばぁば』の傍を離れずついて歩き、お手伝いをしようとしているのです。各世代間の人が触れ合いを通し、それぞれが持つ、より良いものを吸収しあって、共有出来ればとの願いが通じた瞬間でもありました。

親から受けた愛情を周囲への優しさにかえて 

花束を持つ車イスの蛭田さんと、後ろにご両親の写真

現代社会にはコミュニケーションツールが数多くあります。顔を合わせることなく誰かと繋がっていると感じる場面もあります。私のように外に出るのが困難な者にとっては、瞬時にして情報や知識が得られて便利な反面、直接的な関わりが少なくなり、他を思いやる気持ちが薄らいでいるようにも思えます。
 「親の愛情をたっぷり受けている人は、周囲の人にも優しく出来る」 最近聞いた言葉です。まさにその通りだと思います。親から真の愛情を受けていれば優しい気持ちで人と接する事が出来て、自ずと思いやりが生まれ、周囲に人が集まって来るように思います。
私は母からこんな事を言われ続けました。「あなたは一人でも半分でも生きて行かなければならない時が必ず来る、泣いていてはダメ!」 そして、すべての人や物に対して「ありがとう」という感謝の気持ちを忘れるなと。
 両親は私にしっかりと寄り添い、世の中の厳しさと大切さを、強い愛情で育んでくれました。夫はよく「もう一度生まれ変われるとしても、また障がい者でも構わない」と言っています。私も同意見ですが一つだけ条件が付きます。同じ両親の娘として生まれ変われることです。母の美味しい手料理とそれを届ける父の笑顔がいつまでも見続けられることを心から願いつつ、私達はこれからも皆さんの温もりある心の繋がりに支えられながら生きて行くことでしょう。

福祉賞50年委員からのメッセージ

ご両親からの強い愛情のみならず、小学校、中学校時代の友人からの大きなサポートにも恵まれた筆者。「受けた愛を、今度は周囲にも分け与えることができる」眞由美さんご自身が実践された結果として多くのファンが生まれました。ご主人共々おっしゃる「もう一度生まれ変われるとして、また障害者でも構わない」という言葉。健常者には理解しがたいでしょうが、障害を持つ私は共感できます。十分に障害を受け入れ、自分を取り巻くすべてのものに感謝し、毎日が充実している人の誇りが言わせた言葉だと。

鈴木 ひとみ(ユニバーサルデザイン啓発講師)

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