『私の生きてきた道』
〜受賞のその後〜
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林 芳江 さん 1963年生まれ、北九州自立生活センター代表、福岡県在住
脳性まひ
25歳の時に第23回(1988年)最優秀受賞
35歳の時に第32回(1997年)優秀受賞
林 芳江さんのその後のあゆみ
『私の生きてきた道』
自分のルーツを想う時
1963年8月3日、私は下関市で生まれました。戸籍上は4人姉妹の次女ですが、姉妹は3人とも早逝、私が両親の愛情と期待を全て受けることになりました。
1歳で脳性まひによる重い障害があると判った時から、軍人気質の家庭で育った母は、スパルタ教育ならぬスパルタ訓練、大人になって困らぬよう身辺自立ができるように、歩けるようにと、様々な療法を探しては試します。5歳になると北九州市の療育施設へ入れられ、多感な時期を他人の中で過ごします。これらが影響したのか、大人になってもらうあだ名は“サバイバー”とか“カメレオン”とか、グロテスクで可愛くないネーミングですが、生命力の強さや弾力性を表現されていると思えば笑って受け止められます。
また、大工職人だった父は繊細で生真面目な性格、動植物を愛玩し娘にもとても甘い人でした。勿論、父親譲りのナチュラルな性格も私の本質にはあると思います。
そんな両親から受け継ぎ、また環境の中で育まれた私の心は、敏感な感性としなりのある丈夫さを併せ持った性格として確立していったのでしょう。それは障害者運動をリードする上でも、福祉事業を取りまとめて行くうえでも重要な資質として役立っていると考えています。両親とも早くに他界してしまったため、大人の話が交わせなかったのは残念ですが、折々、両親がいたらどんな顔をするだろうと空想し、自分の軌道を顧みる時、両親への深い感謝の念を感じます。
福祉賞を分岐点に、1人で2つの生き方を
自分で言うのも変ですが、人生前半の25年間は、前向きに努力を重ね頑張る障害者の典型のような生き方でした。当時は障害者の機能回復のみが重視された時代で、靴下をはくのに30分かかっても自分でやることが大事、ボタンをとめる練習しても無理なようならボタンの無い服にするのが常識のように教えられてきました。
14歳で療育施設を卒業、やっと3人で家族らしい生活もつかの間、17歳の時に父が急逝し母子で生きていくには、何としても仕事に就きたいと焦りますが、結果的には空回り、職業訓練校は出たものの就職はできませんでした。それでも授産施設に入り、印刷課で写植を7年間、年賀状やPTA新聞等の版下作製の作業をがむしゃらにやりました。
そんなある日、施設長から「NHK障害福祉賞」の応募要項を渡されました。それこそが運命の鍵でした。ありのままに重ねてきた日々を手記にして『私の旅路は各駅停車』と題して応募すると、最優秀賞を受賞させて頂くことができました。自分も周囲も青天の霹靂のよう、さらにこの受賞が大きな転機をもたらす流れへと繋がります。手記を基にした紹介番組「あすの福祉」の放映をきっかけに、ヒューマンケア協会の樋口恵子さんに勧められ「ピアカウンセリング集中講座」に参加申し込み、東京への一人旅に初チャレンジします。
まったく想定外の展開の始まりです。ピアカウンセリングの中では新しい障害の概念を学び、身辺自立に縛られない自立生活の取り組み方を知りました。その場ではダイナミックに生きている先輩や仲間との出会いもあり、もの凄いカルチャーショック。それは、あたかも自分の周りを取り囲んでいた見えない柵が取り払われたような気分だったでしょうか。さらに樋口さんからは、体を酷使する働き方ではなく、ピアカウンセラーとして仲間の自立を助ける仕事をして欲しいと、自立生活センターで働くことも勧められました。
こうして福祉賞を転機に私の世界観は変わっていきますが、時期を同じくして別の差し迫った事情が発生していました。 1989年春の福祉賞の授賞式の頃には既に母の異変が始まっており、2人にとって初めての東京、晴れやかさとは対照的に底知れぬ不安が過っていました。大喜びの母ですが式典出席の洋服を自分では選べません。緊張しすぎかなあと思いながら、私が服を見繕い授賞式と東京観光を楽しみました。それから暫くはNHKの取材など目まぐるしい日々、脚光に紛れながらも母は物忘れがどんどん酷くなり、やがて若年性アルツハイマーの診断、さらに追いかけるように悪性リンパ腫を発症し、厳しい闘病生活に突入していきます。
この時、一瞬で親子の扶養義務関係が逆転しました。決断は全て私の責任です。当時福祉事務所は家を引き払い施設に永住することを勧めました。しかし、私は逆に施設を辞める決断をしました。当時はホームヘルプ制度も少なく、ボランティアを募らなければ暮らしが成り立ちません。自立生活と入院中の母の看病の両立は壮絶で、特に生活費と支援者の確保は常に切実、多くの人々に支えて頂きました。一方、人の関わりは善意だけとは限りません。偏見や犯罪行為等という負の力との戦いも容赦なく、母のみとりを終える間の3年間で、すっかり人間力を鍛えられていました。
そして。歩くことを電動車いすに替えて、苦手なことは人の手を借りる、身体機能に縛られず可能性を発揮してみる、という新しい生き方に変わっていきました。このエンパワメントの実感こそ、その後、障害福祉を提供する立場になってからも、仲間の自立を支える進め方を考える柱として大切なものになっていきます。
女性障害者としてリーダーであるということ
1995年に重度障害の仲間たち数名で北九州自立生活センターを立ち上げ、2001年にはNPO法人格を取って介護事業に参入しホームヘルプサービスや移動支援などを始めますが、代表者としてその舵取りは一筋縄にはいきませんでした。介護事業にまつわる紆余曲折も語りつくせないものがありますが、さらに女性障害者としての立場を語るだけでも一冊の本が書ける程です。悪げもなく偏見や差別は日々身近にあります。例えば些細なことですが、障害の有る人も無い人も共に働く我が職場ですが、来客に責任者として挨拶し名刺を交わすと相手の目が泳ぐこともあります。女性障害者と社会的責任はなかなか重なりにくいようです。
また、女性としての性を認められるところにも未だに厚い壁が存在します。若い頃にはコンプレックスに歪んだ恋も幾度かしましたが、幸いにして今は人生を豊かにしてくれる夫がいます。別姓・別居。違和感あるスタイルでしょうが、ヘルパー利用が不可欠な日常では苦肉の形です。もう20年間同じ職場で多くの時を一緒に過ごしました。夫とは年齢も価値観も趣向も随分ちがいます。一緒に歩み続けられることが不思議なぐらいですが、ただ2人で大切にしてきたことが『対等性』です。日本の文化ではまだ男性優位、健常者が保護者と決めつける癖があり、その厄介な癖は、職場でも生活面でも様々な悪戯を仕掛けてきます。しかし、自立した女性として私のバックアップを夫が貫いてくれることは、私の社会参画の大きな礎です。
障害者差別解消法が施行されるこの時節、輪をかけて忙しくなり、行政との関係も保健福祉局に留まらず、様々な分野の会議に出席する場が増えました。障害者運動と事業運営、このバランス取りは一層大変になりますが、これからが共生の社会づくりの本番です。一方、障害者間で支援を受けられる格差が増え、やり場のない憤りを感じながらも、その解消を運動のテーマに加える必要があります。障害者の復権のために活動する、そこはぶれずにこれからも進みたいものです。多忙な毎日ですが、肩の力を抜いたしなやかなリーダーシップを取り、一方でプライベートの充実も図れるよう、仕事を切り離した夫との旅行を計画中です。
“皆で一緒に幸せになる社会”を願いつつ。
福祉賞50年委員からのメッセージ
人生を切り拓くとは―林さんの50年余の歳月は、まさにその答を示したものと言えますね。もちろんいろいろな人との出会いと支えがあったればこそでしょうが、やはり決定的に重要なのは本人の、価値観や生き方を劇的に変えていく柔軟な心の持ち方だと思います。「サバイバ―」「カメレオン」は、言い当てて妙です! 「人間力」というとらえ方も、みごとです。苦難をすべてプラスに転じていく生き方ですね。別姓・別居の結婚のスタイルは、パートナーの新しいあり方として、モデルになると思います。
柳田 邦男(ノンフィクション作家)