『私の生きてきた道』
〜受賞のその後〜
-
野末 浩 さん 1964年生まれ、グループホーム入所、東京都在住
知的障害
28歳の時に第27回(1992年)優秀受賞
野末 浩さんのその後のあゆみ
『私の生きてきた道』
とくまる福祉作業所での20年
2015年3月12日、とくまる福祉作業所の郵便貯金の通帳を20年ぶりに新しい通帳と交かんした。この20年、花と嵐と雨の連続だった。
まず、花。M先生がとくまるを辞める直前の平成11年3月、Sさんというかわいい女の子が、とくまるに入ってきた。僕は、その子に一目ぼれしました。
そして、嵐その1。今から10年前にM先生が辞めて、今から10年前に、S先生が後任としてやってきた。とてもかっこよくきびしい人だった。
そして、嵐、その2。今から3年前にS先生がやめて、小池先生がとくまる福祉作業所の新しい所長となった。スポーツ万能の若々しいかっこよいイケメンの所長だ。
そして雨とは、好きだった、T先生が、8年くらい前にやめてしまった。先生は、きれいで、おとなしい先生だった。今の所長の着任と同時に、K先生が入ってきた。先生は美人でおとなしくて、きれいな人だ。そして僕のとくまるでの20年は、たんたんと変わりばえもなく、すぎていった。
実家からグループホームへ
2014年2月、今の板橋の実家から、三園にある「グループホームほのか」に入った。2014年2月から2015年2月まで、「ほのか」でできないことが多く、利用者とよくケンカをした。しかし、お互いをいしきするのをやめてから、ケンカをしなくなり、はなれていったのである。
今でもK先生を見ていると、やめたT先生のことを思い出す。短かったが、僕の気持ちをりかいしてくれて、わかってくれたいい人だった。
さて、2015年1月から3月まで、介護施設で、僕の母が腰のホネと足の付け根のホネを骨折して、整形外科病院に入院した。僕も2015年1月から2月まできつかったが、2015年3月になってよくなってきた。2015年3月までは、本当にいやでつかれる日々だった。そんなとき、とくまるに心理相談の先生がやってきた。精神科のカウンセラーが僕の心の悩み、苦しみをきいてくれた。30分の短い時間だったが、僕のムネのいたみとかつかえが、とれるような気がした。これから先、こういう人が現れたらいいなと思っている。やはり、このような精神科のカウンセラーは必要だと思う。
そして、もう1人、とくまるに、S君というなんてきが現れた。S君は内弁けいで、とくまるの中で、いばっている。彼の母が、70歳になったが、S君を受け入れてくれるグループは、ほかにないだろう。それだけ、僕のほのかへの入所も大変だった。何倍もの倍りつをこえて、一番最後に、すべり込んだのが「ほのか」である。だから、ほのかの仲間たちをこれからも大切にしてゆきたい。
趣味を楽しむ
さて、僕の趣味は、鉄道とカラオケと読書である。
鉄道は2014年10月、日比谷公園で行われたJRグループ主催の鉄道フェスティバルで、JR西日本のブースに3時間並んで、2015年3月14日開業の、JR西日本運営の北陸新幹線のチョロQを1つこう入した。2000円だった。決して高いとは感じなかった。
次にカラオケは、香西かおり、氷川きよし、小林幸子、都はるみの各氏が好きである。いつも実家にいるときは、彼らの歌を熱唱した。
そして、読書は、母が整形外科病院に入院している間、神田神保町の三省堂本店の3Fの辞書売場で、新明解国語辞典とデイリーコンサイス英和-和英辞典小型版を買い、実家で、夜中のひま時に、NHKの朝ドラマ「マッサン」のセリフの意味を調べていたのである。それらを読んでいるとき、おちつくのだ。
以上が、入選いこうの私の生きてきた道でした。ごせいちょう、ありがとうございました。
福祉賞50年委員からのメッセージ
23年前に野末さんの最初の作品を読んだ時、「僕たちは、みな、それぞれ、希望を秘めて、生きています」という言葉に感銘を受け、野末さんがスポーツで「苦手とする、友達とのふれあい」の楽しさを知ったと綴った懸命な手書き文字に、ひたむきな気持ちを感じたことを懐かしく思い出しました。その後山あり谷ありの日々を過ごし、もう50歳を超えたのですね。鉄道、カラオケ、読書と3つも趣味があり、野末さんが毎日を楽しく味わいながら過ごしているのを知り、心が明るくなりました。エールを送ります!
柳田 邦男(ノンフィクション作家)