『アルバムを彩る出会いと言葉』
〜受賞のその後〜
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清水 紘子 さん 1977年生まれ、ピアニスト、兵庫県在住
視覚障害
23歳の時に第35回(2000年)優秀受賞
清水 紘子さんのその後のあゆみ
『アルバムを彩る出会いと言葉』
自分の考えを文章にすることは、その考えをより明確にし、形にすることだと思う。私にとって「NHK障害福祉賞」への応募は、これまでの、自分自身の経験を通して感じたことを、より深く考える大変良い機会となった。視覚障害者である私の手記「心のアルバムを開いて」が、思いがけなく優秀賞をいただいてから15年。受賞当時、まだ空白だった心のアルバムのページに、その後どのような出来事が刻まれただろうか。
私を照らしてくれた主治医との別れ
生まれつき弱視だった私は、7歳で右眼を、17歳で左眼を、いずれも網膜剥離で失明した。左眼は、手術後わずかに光を感じていたが、それもやがて、霧の中に消えていくように見えなくなっていった。
私が生後3か月の時から、ずっと眼を診てくださったお医者様は、3年前静かに旅立たれてしまった。先生がお亡くなりになられたことを知った時は、しぱらく呆然とした。そして、色々なことが思い出され、涙があふれてきた。眼の治療でお世話になっただけでなく、折に触れ、私の近況をご報告させていただくこともあり、障害福祉賞で受賞した時も、先生はとても喜んでくださった。その時先生からいただいたお手紙は、私の大切な宝物である。そのお手紙には、お祝いの言葉と共に、「これからの長い人生、あまり肩を張らずに頑張っていただきたいと思っております」と書かれてあった。その言葉に先生のお声が重なって、私の心にそっと響いている。先生は私にとって、心の大きな支柱だった。
私に残された視力が、たとえわずかになろうとも、その視力を大切にすることをいつも仰った先生。そして、視力を残すために、いつも最善を尽くしてくださった先生。両眼が全く見えなくなった今でも、先生への感謝の気持ちが消えることはない。
ピアノ演奏を交えての講演活動を重ねる
私は現在、学校や自治体主催の、人権や福祉の講演会で、ピアノ演奏を交えながら自分自身の経験をお話しさせていただいている。
経験談の間に演奏する曲は、ショパンの「革命」や、シューマンの「トロイメライ」など、クラシック曲を中心にしながら、子供たちが対象の時はディズニーの曲なども取り入れている。子供たちが大好きなディズニーの曲になると、口ずさんだり、リズムに合わせて体を動かす子供もいるようだ。
「夢」を意味する、シューマンの「トロイメライ」には思い出がある。
「トロイメライ、良かったぁ」
講演会の取材に来られていた新聞記者の方が、しみじみと言ってくださったのである。「聞き入っていたもんなぁ」と、他社の記者の方。「トロイメライ」の温かく柔らかな曲調と、記者の方の短いけれど、心のこもった言葉が相まって、私の思い出の一曲となっている。
また、ハチャトリアンの「トッカータ」という、雰囲気の異なる曲も演奏する。そして、会によっては最後に私が伴奏させていただき、会場の皆さんと一緒に歌って終わることもある。
障害福祉賞での受賞後、NHK障害福祉賞第40回記念「共に生きる集い」や「NHKハート・コンサート」に出演させていただいたことは、私にとって大変貴重な経験となった。出演者の皆さんと、一つの舞台を作り上げていく喜び、その中で演奏させていただける幸せ、そして終演後の充実感と、いつまでも続く感動…。あの夢のような舞台は、今も私の心に深く刻まれている。
このような、講演会やコンサートを通して、多くの方との出会いがある。様々な出会いに接し、両眼失明というあの絶望の中、ピアノをあきらめないで本当に良かったと、心の底から思える瞬間が、これまで幾度となくあった。
「僕には、夢があります。でも、最近その夢はちょっと無理かなあと思って、あきらめかけていました。でも、今日の清水さんのお話とピアノを聴いて、その夢に向かってもう一度頑張ってみようと思いました」
ある小学校で、講演させていただいた時のことである。講演後、児童からの質問や感想を受けていた時、6年生のある児童が言ってくれた言葉である。とてもうれしかった。この言葉を始め、聴いてくださっている方々からの温かい言葉の数々が、講演活動を続ける原動力となっている。
「つらい思いをしているのは自分だけではない、皆何か苦しみを背負いながら生きているのだというお話が、とても心に残りました」
講演終了後の控室で、涙ながらにこう言ってくださったのは、女性の教師だった。先生はその前年、体調を崩し休職されていたそうだ。きっとその間、つらい思いをされたのだろう。色々な思いからあふれ出た涙だったのだろう。
私はこれまでに、眼の手術や治療のために何度も入院を経験した。その中で、色々な病気で入院している人がいることを知り、つらい思いをしているのは自分だけではないのだと感じたのである。生きてきた背景も、抱えている悩みや苦しみも様々だと思うが、皆何かを背負いながら生きているのではないだろうか。このような思いを講演会で話しており、それが少しでもお役に立てばと思っている。
障害を持って生まれたこと
また、思いがけない質問から、私自身考えを深めることもあった。ある小学校でのこと。保護者の方からの質問だった。
「視覚障害を持って生まれたことで、親を恨んだことはありますか」
今までにない質問だった。一歩踏み込んだ内容に、私はやや戸惑いながらも少し考えてからこう答えた。
「親は、私を眼が不自由な状態で、産もうと思って産んだわけではありません。また私も、視覚障害を持って生きることを、選んで生まれてきたわけではありません。誰に責任があるわけでもなく、これはどうすることもできない現実なのです。ですから、私は親を恨んだことはありません」と。
視覚障害を持っていることで、不便に思うことは多々あるが、それで親を恨んだことはないのである。自分の力ではどうすることもできない、変えようのない現実があるならば、その現実の中で自分に何ができるかを考えることが、生きていく上で大切なのではないかと思っているからだ。私の障害を全面的に受け入れ、共に歩んでくれている家族には、感謝の気持ちでいっぱいである。
盲導犬ピアザの存在
私の傍らには、ラブラドール・レトリーバーのピアザがいる。私のもとで、8年9か月間盲導犬として働いてくれたピアザは、昨年8月、11歳の誕生日で盲導犬を引退した。その後も、引退犬として引き続き我が家で過ごしている。ピアザが盲導犬の時は、私と一緒に講演会の舞台にも上がっていた。ピアザとの、舞台での思い出も少し書いてみたい。
講演会が終わり、どん帳が降ろされた時のことだった。ピアザだけがどん帳の外側に取り残されたのである。ピアザは慌てふためき、その姿に会場は大笑いだった。
また別の講演会では、こんなこともあった。私が緊張しながら話す中、「ワフッワフッ」と、ピアザの寝言が聞こえるではないか。私が話を中断すると、しばらく会場中にピアザの寝言が響き渡った。ピアザは、私よりもずっと度胸があるらしい。ハーネスを付けて「仕事中」のはずだが、「昼寝中」と看板を書き換えねばならないほど熟睡していた。もちろんこの時も、会場は笑いに包まれたのだった。
ピアザは舞台で、存在そのものがいい味を出していた。なかなかの役者であった。盲導犬を引退した今は、一緒に舞台に上がることはできないが、これからもピアザと過ごす時間を大切にしていきたい。
これまでの、出会いの数々が残してくれた思い出が、私の心のアルバムを豊かに彩ってくれている。これから、どんな出会いがあるだろうか。私もまた、誰かの心のアルバムの1ページに、ほんの少しでも色を添えられるような存在でありたい。まだ見ぬ出会いに期待を膨らませながら、ここで一旦、受賞後の心のアルバムを閉じることとしよう。
福祉賞50年委員からのメッセージ
自分の経験を、子ども達や若い世代に伝えていく活動は、素晴らしいと思います。多くの人に勇気と感動を与えてきたのではないでしょうか。今後も音楽という素晴らしい媒体を使って、多くの人の障がい者に対する理解を深めていって頂きたいと思いました。
貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)