NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『そうか、これがうまく生きるという事か!障害福祉賞受賞10年後の発見』

〜受賞のその後〜

笹森 理絵 ささもり りえさん

1970年生まれ、精神保健福祉士、兵庫県在住
発達障害
35歳の時に第40回(2005年)優秀受賞

笹森 理絵さんのその後のあゆみ

『そうか、これがうまく生きるという事か!障害福祉賞受賞10年後の発見』

受賞を機に変わったこと

障害福祉賞授賞式での笹森さんの写真

障害福祉賞を受賞してちょうど10年が経った。
 十年一昔と言葉の上では言うが、私にとってはそんな気が不思議としない。それはやはり受賞した事によって人生に大きな変化があったからだろうと思う。
 受賞当時の私は、中途診断だったこともあって自分がいわゆる「障害者」であるという事がわかってから日も浅く、家族も含めて受け止めきれていない事がまだまだあった。いったいどっちに向かって歩いて行くのやらも模索中で、ようやく少し前を向きかけていたような時期だった。
 受賞してまず何が変わったか…。
 それは自分に自信を持つ事が少し出来たということだろうか。
 発達障害がある人にはよく見られる事だが、幼い頃からの失敗体験ばかりで自分に自信を持てない人が多い。私もそうだった。
 出来ないことにばかり気を取られ、自分には出来る事もちゃんとあるという発想が乏しく、自信を持つ事がさっぱり出来ていなかったし、ひどい自己否定感に悩まされていた。
 でも、そんな自分が「賞」をもらった…人から肯定してもらったことで、「私には出来ることがある」と、少し自分に自信を持つ事が出来た。そして更に、「障害」ということを冷静に客観的に見られるようになった。
 何よりも自分が大嫌いで仕方がなかったのに、こんな自分でもいいのかもしれないと、自分を愛することを覚え始めたのもこの頃だ。最初は、タンポポの綿毛の一本程度のような小さな自信だったが、これが後々に鮮やかな花を咲かせ、全国に向けて種を飛ばして行くきっかけになっていくとは当時はさすがに思っていなかったけれど。

助けられる側から助ける側へ

とにかくそれまでは、結果的に人から助けられる事の方が多かった私だが、自信がつくほどに、自分を愛するようになり、人の役に立ちたいと思った。特に、発達障害で困り感を持っている親子、悩んでいる当事者に寄り添いたい思いを持ち、本当の意味で、「支える側」に回るにはどうしたらいいかを考えた。
 そして受賞から2年後、思い切ってもう一度大学に入学した。私を少しずつリカバリーさせてくれたのが精神保健福祉士さんで、私もその「精神保健福祉士」になれば、もしかして誰かの役に立てるかもしれないという一心だった。
 だが、精神保健福祉士は国家資格であり、大学で一から精神保健や社会福祉を学び、外部実習に出て、更に国家試験を受けなければならない。ハードルはかなり高いと思ったが、発達障害の特性の一つである算数障害で出来ない事だらけになり、目指していた考古学を諦めざるを得なかった1回目の大学時代とは違って、今は発達障害の特性がわかっている以上、何かうまくいかないことがあっても、その原因は概ね推測できるのだから対処はできるし、私自身が諦めさえしなければ、きっと達成できると思った。
 それにしてもハードだった。
 当時の私は障害福祉賞を受賞したことをきっかけにNHK教育テレビ(当時)の「ハートをつなごう」や「福祉ネットワーク」などに出演し、それに伴い講演活動の機会も増えていたので、移動する新幹線の中や宿泊しているホテルでも大学のレポートを書き続け、試験勉強をしていた。
 その上に大学2年目に何と3人目の息子を授かり、昼夜関係問わずの育児までが加わって、休む間などまるでなかった。まさに24時間365日、走り続けていたとしか言いようがない。
 当初は精神保健福祉士だけ取得する予定だったのが、やっぱり社会福祉士資格も取りたい…と欲を出して、乳飲み子を抱えながら、更に学ぶ学科や実習が増えて、ますます忙しくなった。
 今にして思うと、なぜそこまで出来たのか、我ながら不思議でならない。「多動性と衝動性と過集中の特性の賜物」と言うほかない。

もう諦めたくない!

正直に言えば、大学に入学して1年が経つ頃、一度、モチベーションが大きく落ちた事があった。教科書に書かれている事と、実際の障害者の現実はあまりにかけ離れていたからだった。こんな「きれいごと」を勉強して何になるんだと怒って教科書を投げ捨てたこともあった。何か月も単位取得試験を受けるのをやめてしまった時期までもあった。
 それでも辞めずに戻ったのは何故なのか。
 諦めたくなかったからだ。
 障害特性から来る難しい事には対処法があると、私は受賞後の人生を少しずつ深めながら学んだ。対処しても難しい事が時にはあることもわかっている。でも、「出来ない事」と「諦める事」は違うという事も学んでいた。以前の私はそこがわかっていなかったから、人生失敗だらけだったのだ。
 そんな時、ある人が言ってくれた。
 「確かに教科書はきれいごとばかりだよ、でもね、基本を知っていないとできない支援がある。だからそれも必要な勉強のひとつだと思う事だね」と。
 確かにそうだと私も思った。ここで辞める事は最初の考古学のように「出来なかった」ではなく「諦めた」ことになる。それはイヤだ、もう同じことを繰り返したくないと思った。
 そして私はまた多忙な日々の中を再び大学へと戻って行き、そこからの自分は前にも書いたように、考えられないような勢いで学び続けた。
 いよいよ、あと1週間で国家試験という時期に長男が突然、家を出ると言い出した。次男との兄弟関係の破綻が原因だった。前々から、のんびりした長男と火のような次男は兄弟逆転現象でトラブルが多かったが、いよいよ限界に達してしまったのだ。それも追いつめられた状態で時間がない。
 試験に向けて追い込みをしなくてはいけない時期に…と思いつつ、長男の願いに添うために私はあちこち走り回って、彼が希望した施設の入所手続きを済ませる。
 この頃の私はまるでピエロの綱渡りのようだった。
 次男の不登校傾向の始まり、長男の心の限界、三男の発達障害の診断と続き、満足に試験勉強が出来たとは到底言えない中で迎えた国家試験だったが、結果的に精神保健福祉士は見事に合格した。奇跡としか言いようがない。

講師としてマイクを持って話す笹森さんの写真

そして今。私はフリーの精神保健福祉士として発達障害啓発の講師だけでなく、神戸市の発達障害ピアカウンセラーとして地域の相談員のお仕事もさせてもらっている。助けられてばかりだった私が、今は人の役に立つための専門職として働いているのだ。

うまく生きるということ

息子さんの入学式で家族3人の記念写真

数年が経ち、子どもたちも今は彼らなりに落ち着いて生活している。「旦那」は変わらず一部始終をそばでいつも見守ってくれている。
 受賞後10年経って、周囲から「笹森さんは今はうまく生きていますね」と言われる事がある。その言葉がずっとモヤモヤしていた。別に私はうまく生きているとは思っていない。でも最近、ようやく気がついた。
 「うまく生きる」という言葉自体を考え違いしていた事に。
 何も格好よく要領よく世渡り上手に生きる事が「うまく生きる」ことではない。「うまく生きる」とは実は、障害があっても不便せずに困らずに快適に生きる事なのではないかと。
 このことに気がつけたことで、とても私は生きやすくなった。それが受賞後の最大の変化かもしれない。以前は、自分は何者かと探しまわっていたが、それも今はしない。だって自分は自分以外の何者でもないことがわかったから。探す必要はなくなった。
 当時まだどこか混沌としていた自分が、今は片付いてすっきりしている。片付けられないなど発達障害の特性を持ちつつも、こうして人はそれなりに進化発達するのだということがわかる10年となった。

福祉賞50年委員からのメッセージ

「出来ない事」と「諦める事」は違うということを学んだ…10年前の受賞を機に、新しい自己認知にたどり着いた笹森さんは、何気なくこう書きます。この言葉には強烈な力を感じます。「出来る事」の多さが生き方の上手さだと考えがちな私たちにとって、何度でも吟味してみたい言葉です。

玉井 邦夫(大正大学教授)

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