『矢野賞を受賞して』
〜受賞のその後〜
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坂下 信八 さん 1942年生まれ、施設入所、北海道在住
知的障害、精神障害、肢体不自由
66歳の時に第43回(2008年)矢野賞受賞
坂下 信八さんのその後のあゆみ
『矢野賞を受賞して』
賞をもらうまでの自分
今から7年前にNHK様から矢野賞を貰いました。とっても嬉しく思いました。
矢野賞を貰う前は、本当に心は暗く、いっそ死んでしまおうと思う事が毎日のように続いておりました。
ところが、7年前の春にNHK様から、思いがけなく、自分の生きてきた事について作文の応募案内がありました。学園(入所している障害者支援施設)の島田さんの勧めもありましたので、僕は書く事にしました。
僕は色々考えまして、母や友人が色々と字を教えてくれたことに感謝をする意味を込めて「母の恩 友の恩」と言う題で書くのでありました。
心は相変わらず暗いままでありましたが、書いている内に、だんだんと心は明るくなっていくのでありました。
僕は不自由な手で一生懸命に書きました。余りうまくはかけませんが、約1か月余りかかって書き上げてNHK様に出しました。きっと優勝はしないと思いながらも、出してみました。
それからも少し心は暗く、毎日のように部屋で横になって、色々と考えている内に、ますます心は暗く、生きているのが嫌になっていくのでありました。
そんなある日の夕方でした。僕はあまり楽しみも無く部屋でころがって居ると、島田さんは僕の所に来て「坂下さん電話です」と言うから、僕は誰だろうと思いながら、電話に出たら、女性の声で「坂下さんがNHKに応募した『母の恩 友の恩』が矢野賞を受賞しました。本当におめでとうございました」と言われましたので、僕はとても嬉しく、そばに居た島田さんも喜んでくれました。
僕は不自由な体でもやれば出来ると思って、今までの暗い心も無くなり、いっぺんに明るい心になって行くのでありました。
それから電話をかわって島田さんはNHKの人と何やら話して、終わってから「東京のNHKから取材に2、3日後に来るから、色々と忙しく成るよ」と言うのでありました。
テレビ出演 懐かしい人々との再会
それから3、4日してからNHKのディレクターの女性が来て、僕に今まで生きてきた事について聞くから、僕は明るい声で今までの事を話すのでありました。
僕たちが話して居る所に、芦別の病院に長く入院していた時に僕の世話をしてくれたボイラーの大石勝さんが来て、僕の事を色々と優しくディレクターに話してくれました。「坂下さんも色々と苦労したね」と聞いてくれました。それから島田さんが「坂下さんは今度、受賞したのでテレビに出してもらえる事に成っているから楽しみにして居なさい」と言いました。
ディレクターさんも「本当にテレビに出てもらいます。その為に今、取材を色々として居ますから」と言うのでありました。僕はその日の来るのが待ちどおしいのでありました。また島田さんは「坂下さん、手紙が来ている」と言って手渡してくれましたが、僕は誰だろうと思って良く見ると、もう50年前に字を教えてくれた僕より1つ年下で、今は旭川に居る大石昇君でありました。手紙には受賞をしたお祝いと近い内に会いに行くと書いてありました。僕はとっても嬉しく涙が流れるのでありました。そうして2日後に大石昇君は、手土産を持って会いに来てくれました。大石昇君は大変に老けて見えましたが、話して居る内に心の優しさは50年前と変わって居らんような気がしました。
それから僕がテレビに出る夜が来ました。
仲の良い友達や学園の先生たちが集まって、僕の出るテレビ放送を見るのでありました。自分はどんなふうになって出るのだろうかと、とってもきん張ものでありました。テレビの前に集まっていた皆さんから「本当に良いテレビでした」「信八のこれまで生きてきた苦労が良く分かります」「僕達も一度で良いからテレビに出たいものだ」と言われまして、僕は体が不自由であっても幸福でありました。
激励の手紙が僕を明るくしてくれた
それから毎日のように色々とお世話になって居ります人や友達から、次から次へとお祝いの手紙が来るのでありました。
またテレビを見てくれた全国の皆さんからも、お祝いと「これからも何事にも負けずにがんばって下さい」と励ましの手紙がくるのでありますから、僕はとっても嬉しいのであります。
全国から来た手紙の中で忘れてはいけない人は、僕と同じく受賞をした西岡奈緒子さんです。西岡さんは、足が悪く立って歩く事が出来ず、今は夫に助けられて歩いて居ると手紙に書いてありましたから、僕は体が不自由だから、これからはお互いに助け合って生きていきましょう、と明るい気持ちで返事を書くのでありました。それからも西岡さんをふくめて全国の皆さん達と手紙のやり取りをするのでありました。僕は受賞をした事で、とっても明るくなりました。
何故この頃、明るい気持ちで居る事が出来るのか、口ではうまく言うことは出来ませんが、ただNHK様から矢野賞をもらってから僕は体が不自由でも出来るという自信が付きました。
最後にお願い
こんなに良い事もありました。不自由な手で習字を書き、札幌の障害者のアート展に出したら賞を受けた事もありました。僕は心から嬉しく涙が出る思いです。
以前の僕は精神が悪く、時々生きて居るのはいやになり、みんなをこまらせてやろうとして乱暴をして、何もして居らん人に向かって、おそろしい事ばかり言って来たから、坂下さんは大変に気が違って居ると言われていたが、この頃は、おちついて居り、良い人になって居るから、ここで精神薬をへらそうと、病院の先生や学園の先生は相談して、大分精神薬をへらしてもらいました。精神薬をへらして気分も良く、話す事も上手に出来るようになり、どこかにあるいて外出するにも楽しく出来るようになり、僕や周りの人たちも喜んで居りました。
毎日の気持ちはおちついて、明るかったですが、この頃の僕の気持ちは、またおちつきません。精神薬を減らし過ぎたかも知れません。折角へらしてくれた精神薬をまた飲む事は出来ません。そこでNHKの皆さまにお願いですが、短い文章で良いから募集をしてくれませんか。僕は書く事によって気持ちは明るくなると思いますから、宜しくお願いします。
NHK様、この僕に賞を下さってありがとうございました。
<坂下さんを支えてきた支援員の方からコメントをいただきました>
以前の坂下さんは、何か気にかかる事があると、大声を出したり暴れて物を壊すなど、精神的に落ち着きませんでした。それが受賞後は一変し、以前の様子を話しても若い職員は誰も信じないほど、現在まで落ち着いて生活されています。
その理由は本人に聞いても「よく分からない」のだそうですが、本人の歩みが入選作品集やテレビ番組で紹介され多くの人の共感を得ることで、長く坂下さんを苦しめてきた孤独感が少し癒されたのでないか、そんな気がしています。
島田裕之さん(現:共同生活支援センターすずらん センター長)
福祉賞50年委員からのメッセージ
坂下さんの作品を声に出して読んでいくと、こころがとても熱くなってきます。お母さんから学んだひらがな、友だちから教えられた漢字で手紙が書けるようになった。手紙は坂下さんの人生を励まし続け、そして矢野賞の受賞。「手紙一本書ける力を」を目標にした戦後の障害児教育の教師たちの実践と重なります。
生きていると、つらいことや嫌なこともあるけれど、楽しいこともある。そんなことを手紙でみんなと共感しながら生きられたらいいですね。
薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)