NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『私の生きて来た道』

〜受賞のその後〜

浜野 伸二郎 はまの しんじろうさん

1952年生まれ、無職、兵庫県在住
脳性まひ
53歳の時に第40回(2005年)佳作受賞

浜野 伸二郎さんのその後のあゆみ

『私の生きて来た道』

63年間の人生経験をいかす

浜野さんの著作3冊の写真 パソコンに向かっている浜野さんの写真

私は、先天性脳性小児まひを抱えつつも、今日まで生き永らえて来ました。先の受賞から早や10年。十年一日と言いますが、その間も相変わらず病と縁が切れず、医師・看護師・友人・知人、さらにはボランティア・ヘルパーさんと多くの方々に助けられて今日まで来ました。もちろん家内の慈愛に満ちた献身的な介護は変わることなく、私に生きる力を与え続けてくれています。私を取り巻く沢山の方々と家内に心から感謝をしています。
 私は、自分の身体が不自由なばかりに、生まれてから63年にわたり、実に多くの助けを必要としてきました。人生の山を越え、こんな私でも誰かの役に立って来ただろうか……と振り返る時があります。不自由ながらも私流のやり方で、私に助けを求める人たちに勇気や励ましを発信してきたかも知れないと思う時があるのです。
 私は、障害者として生きてきた自身の人生経験を、車椅子に身を委ねたどたどしい口調で講演させて頂く機会があります。障害者ゆえの実体験の話に、涙を浮かべられたり、真摯な眼差しを投げかけてくださることもあります。そんな光景を目にすると、語っている私も自然と胸が一杯になります。後日「感動して胸が熱くなりました」とか「浜野さんの生きざまを知って、自分の迷いがふっ切れました」などの、手紙やファックスを頂く事もあります。
 また、私の著書を購読された方から「勇気や希望を与えられた」とか「元気をもらった」など、数多く感想を頂き、最後に必ずと言ってよいほど、「浜野さん身体に気をつけて頑張って下さい」とのメッセージがそえられていて嬉しく思っています。そんな時、私でも人の助けになっているのかも……と喜びを感じます。金銭や労力での助けは障害者の私には出来ないのです。

『命の電話相談』でカウンセラーデビュー

かつて私は、医師から「麻痺性進行性側湾症という病で30歳ぐらいまでの命かも……」と告げられ、それからの自分に必要な勉強をしなければと思い立ち、高等学校を中途退学しました。その勉強の一つに心理学があり、カウンセラーの知識を習得しました。
 その後、講演や執筆を続けるなかで、現代の若者たちがその生き方に悩み苦しんでいることを知りました。1年1年命が続いていることに感謝しながら生きてきて、命の尊さを訴えている私は、10年ほど前からこうした若者たちの相談相手になれればと、正式なカウンセラーの資格を取り、『命の電話相談』でカウンセリングを始めました。
 『命の電話相談』では、悩みを持つ思春期の青少年たちの心の声を生で受け止めます。父親が蒸発し、道路工事の旗振り仕事をする母親に育てられた女子高生が、集団でクラスメイトからいじめられ、物を隠されたり金銭を要求されて困っていたケース、引っ込み思案な男子中学生が、集団で仲間から暴行を受けていたケース。さらには虐待・薬物・売春・進路などの相談もあります。初めはただ聞くだけです。電話の向こうの声は、涙声から、やがて穏やかなトーンになっていきます。電話でのやり取りが重なると、次第に声に生き生きとした張りが生まれ、自分で自分の道を模索し始めます。そうして青少年たちが立ち直って行く様子を感じ取れることが、我が事のように嬉しく感じられます。
 この10年の間に、若者たちを取り巻く社会環境は著しく変化しました。それはいつの世も同じと言えるかもしれませんが、便利さと引き換えに無くしたもの、それは地域社会・学校・家族などの、人と人の繋がりではないかと痛切に感じています。
 そうした時代のひずみの中で悩み苦しんでいる若者たちが、電話一本で繋がる『命の電話相談』で、心情を吐露し少しずつ変わっていくのです。アナログな繋がりに安心感を抱くのでしょうか。私の世代では理解しづらい現象が、多くの若者たちを取り囲んでいるようです。デジタルな社会でも、人が人として心豊かな環境を取り戻してくれること、これが最優先だと思っています。
 昔の人は、「人生は持ちつ持たれつ」と言いました。思いやりに溢れた響きで、私は大好きです。この言葉は言い換えたら「助け合い」「お互いさま」と言うことになるのでしょうか。
 私の歩んできた道のりは、健常者と障害者の垣根を越えた助け合いの人生でした。それを享受することの多かった私のような障害者が、人の悩みや苦しみを聞き、おなじ立場で話し合い、時に人生の先輩として助言出来ることは、私の人生にもプラスになり私自身の生きる糧になるのです。

39回目の結婚記念日

奥様の介助で食事をとる浜野さんの写真

私事ですが、結婚してもう39年になります。妻の献身的な介護のお陰で、命を守られ今日まで永らえています。結婚当初の熱い思いは世間並みに色あせて行ったものの、世の男性たちと違う感情が私にはあります。世間では、熟年夫婦の互いを「空気みたいな」と表現しています。生きて行く上で必要不可欠だけど、普段は意識の外の存在と言うらしいのです。
 私の場合、39年の長い歳月、妻が私の手足の代わりを務めてくれました。妻あっての私なので、「空気みたいな」とはとても言えません。慈しみをもって私を介護し続けてくれる妻が愛おしい、そんな思いを抱いて今日まで来ました。重度障害者の夫を支える妻という運命を選択することは、生半可な決意ではなかったはずです。
 お互いに老いを認め合うこの頃です。私の介護をしつつ妻は私にこう言いました。
「私も65歳、いつまでも若くないのよ。介護が出来なくなる日も近いのよ。その心構えをしておいてよ……」と少し寂しげに行ったものの、その横顔が愛くるしく感じられました。
 『介護し介護された』夫婦の時間、なんと39年に及びます。妻が私を慈しんでくれたように、私も妻を愛しんで来られたか? 不器用で言葉足らずの39年だったので、還暦を迎えた年の結婚記念日には、私の本心をてらいもなく伝えたいと思い、初めて感謝の気持ちを思い切って口にすることにしました。

 記念日の朝、寝ぼけ眼の妻に私は「おめでとう」とにこやかに言いました。きょとんとして妻は「なにが……」と首をかしげ尋ねました。「今日は結婚記念日だろう」と私。
「そうだったわね」とまんざらでもなさそうでした。
 そして思い切ってこう切り出しました。
「君が生まれてなかったら、私は君に出逢えておらず、君との結婚生活もなかった。初めて口にするけど、君には感謝しているよ。苦しい家計を遣り繰りし、片時も離れることなく病弱な僕を気遣い介護してくれて本当にありがとう」
 すると妻は、ペロッと舌を出して「なに言っているの、水臭い。私たち夫婦なのよ。あなたとの結婚を決意した時、そんなこと折り込み済みよ」と言ってのけたのです。

浜野さんと奥様の写真

その言葉と裏腹な想像をしては、幾度となく疑心暗鬼に陥ることもありました。盆や正月くらい介護から解き放されたい、ときには化粧をして着飾り、一人を楽しみたいとか……最悪、私の顔も見たくない、そんな気持ちを一度や二度は抱いたに違いないことだろうと察しつつも、お互い口には出せませんでした。
 私は妻の言葉に落涙し、夫婦であり続けた時間の長さに感謝し、これからは夫婦漫才のように半分本音、半分冗談の言える夫婦になりたいと思っています。

福祉賞50年委員からのメッセージ

なんという羨ましい夫婦生活だろう・・・それが、浜野さんの文章を読んで感じるいちばんの思いです。10年前の受賞作では1年ごとに生きていることを確認し合うお2人の姿が述べられていましたが、今回の文章からは結婚生活がお互いの人生の6割7割になり、不動の「芯」になっていることが伝わってきます。「障害」を「不幸」としてしかイメージできない方たちには必読の作品をいただいた気持ちです。

玉井 邦夫(大正大学教授)

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