『チャレンジドの輝く町へ』
〜受賞のその後〜
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千葉 智恵美 さん 1967年生まれ、無職、岩手県在住
知的障害
33歳の時に第35回(2001年)佳作受賞
千葉 智恵美さんのその後のあゆみ
『チャレンジドの輝く町へ』
阪神大震災の1月17日から今年で20年目をむかえました。又、2015年の3月11日で東日本大震災からも、丸4年がたちました。
私は20年前に静山園(障害者支援施設)を卒園して社会人になり、20年目をむかえました。
あらためて東日本大震災の時は、岩手・宮城・福島の3県が、全国と海外の皆さまよりいろいろお世話になりありがとうございました。感謝いたします。
「チャレンジド」という呼び方
さて私は、その震災の1年前の平成22年1月に、国会中継で鳩山由紀夫元首相が「チャレンジドの皆様へも、喜ばれる国づくりをします」と言った言葉が忘れられません。鳩山元首相が、おっしゃった「チャレンジド」とは、私や、静山園やグループホームや作業所へ家から通っている人、又、家から就職している人々の事、つまり障害をもった人々のことです。「チャレンジド」と国会で元首相がおっしゃったのです。「神からの試練を、与えられた人々」とゆう意味だそうです。アメリカのアーティストのスティービー・ワンダーさんが、おととしのくれに「チャレンジドが、何でもできる世の中をつくります」といったことも記憶に新しいです。「チャレンジドの皆さん」といった首相は、鳩山元首相が最初で最後だと思います。そのあとの菅首相も、野田首相も、現在の安倍首相も、国会で発言したのはあまり聞きません。だからあの時「チャレンジドのみなさん」と呼んでくれました鳩山由紀夫元首相、ありがとうございました。又、スティービーワンダーさんも、「チャレンジド」と呼んでくれてありがとうございます。ワンダーさんへ「サンキュー」とお礼をいいたい。
後輩の活躍ぶりにおどろく
ふしぎなことに私は、あのプロ野球選手の大谷君とおなじ水沢南中学校の出身である。あのプロ野球の大谷しょうへい選手と、おなじ母校である。年ははなれているが、まぎれもなくOBです。正直言って平成生まれの人から、地元(岩手)からあんな有名人が出るとは、ゆめにもおもいませんでした。しかも、自分が昭和の時代に卒業した母校から、同じ水沢人からあんな立派な後輩がでて活躍して嬉しいです。母校の先輩としてほこりにおもう。大谷君成人式おめでとうございます。
おなじ南中生なのに、私は、今失業中の7年目をむかえて、おまけに緑内障と眼科の先生に言われました。7年前より現在まで1か月に一回通院して、眼圧とか視野の検査とか、視力検査もしている恥ずかしい先輩であります。それでも知り合いには「大谷君と、同じ南中生よ」と言っている私であります。私は今失業中の身でありますが、当たり前に通院出きるかんきょうが、すごくありがたく感謝しております。
外国人と知り合う
さて前回の作品の(平成13年に入選した)時、私は北上のホテルの清掃員をしておりました。14年前です。その時は母と私の二人ぐらしでしたが、8年前の平成19年から「後を継がない」と言ってた弟も帰ってきて、その年より三人暮らしとなりました。東京から帰って来たころは「けんじょう者の姉がよかった」と言われ、ときどき姉弟けんかになりました。そんなわが家です。
私は2年前より奥州市佐倉河へいろいろなボランティアに通っています。天気のよい日は自転車でいって、雨や雪の日は歩きでいっております。そこでは、お料理教室とか幸福な人生を送るためのお話を聞いたり、又、べんきょう会などに参加しています。
神様は、私へ大きなプレゼントを、くれました。
プレゼントその1.海外へいくこともない私へ、この水沢にすんでいて、外人の知り合いを6人つくってくれたことです。(1)中国人のおじさん(2)かんこく人の姉さん(私より年下)(3)マンハッタンの黒人のお兄さん(4)ケニアのおじさん(5)カナダのお兄さん(6)ミシシッピーのお兄さんです。
2つめのプレゼントは、この6人の外人からの言葉です。「あなたは日本人なのだからえいごは、はなせなくてあたりまえです。私たちとお話をするときは日本語でゆってね」といわれたことです。ありがたいです。必ず私がかいものへゆくお店には、この6人のうちの1人がいます。「リックさんハロー」とあいさつをします。又、水沢駅の待合室ではマンハッタン出身の黒人のお兄さんへ「ハロートーマスさん」とゆって、他のお客さんが見ていようが、手と手をあわせて2人で「ハイタッチ!」とあいさつをします。このトーマスさんは今は亡きマイケル・ジャクソンの大ファンの人で、いつもウオークマンでマイケルの音楽をきいています。「今日もマイケルの歌聴いていますか」「はい、きいています」とトーマスさんです。
6人の外人さんとお話をするようになっておもったことは、いつも外国がみぢかになりました。たまに私へ「ナマステ」とあいさつをする人も、います。私も「ナマステ」とあいさつを、してます。
そこでおねがいが、あります。私がかいた文章が、この6人のそこくの中国・かんこく・マンハッタン・カナダ・ケニア・ミシシッピーの「チャレンジド」へ、ちょっと生いきなおねがいですが、私の顔写真いりでちかい将来ほんやくされてよまれることを、ねがいます。
2055年 未来の私の生活
年をとっておばあちゃんに私がなるころには、前からいってみたいとおもってた「かいご問題0(ゼロ)の国ブルガリア」へいきます。そしてなぜ、この国が介護問題が0なのかのなぞを、べんきょうしてきます。この夢は何十年後かにかなうでしょうね。たのしみです。
これを、かいてからどれくらいつき日が、たったでしょうか。未来の私がそこにいる。せいれき2055年となりました。なんと私は、80代のこうはんとなっている。だが、くらしている場所は今すんでいる真城じゃない。くらしているすまいは、夢だったあこがれだったブルガリアです。よれよれの自分をそうぞうする人がいたが、びっくりするくらいわかいときの自分とか、88才とは、おもえないくらいわかがえってしまったのです。そしてブルガリアでの勉強のけっかをみとめられて、ヨーグルトのおかげかどうかわかりませんが、せんたくも、そうじも一人でやっているのです。先にたち、「障害をもつ人々の親が亡くなったあとの生活を、どうするか」の話を、全世界の「チャレンジド」へ言っていた。「私は、ブルガリアへきて今88才になりましたが、子供のころや、10代や、20代の時よりも、今がしあわせです。子供のころに、いじめにあった分、大人の今が、じゅうじつしてます」。
福祉賞50年委員からのメッセージ
「障害者」ということばが嫌いだ、という思いを綴ってから14年。千葉さんは東日本大震災を経験されました。おそらく、「障害」の有無に関わらず、誰もがとてつもない生きる苦しさと喜びを同時に味わったことでしょう。その時間が、千葉さんにまた新しい夢を与えてくれたようです。器用でなくても、ひとつのことをしっかりと考える。何度でも考える。その姿勢がとても光って見えます。
玉井 邦夫(大正大学教授)