NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『自身に勝つ』

〜受賞のその後〜

武田 賢二 たけだ けんじさん

1932年生まれ、無職、愛知県在住
脊椎カリエス
63歳の時に第29回(1994年)佳作受賞

武田 賢二さんのその後のあゆみ

『自身に勝つ』

自立を決意して果たすまで

父の死まで私は両親の介護に甘えきった日を過ごしていましたが、「こんなだらしない自分ではいけない、何としてもまず歩きたい」と切実に思うようになりました。ちょうどそのころに私の運命が大きく変わる人との出会いがありました。その人は医師の永井教授で、障害者のことをよく知る人でした。父が亡くなってから5年、「就職できる体になったら必ず社会への恩返しをするのだ」との思いで臨んだ手術は成功し、家庭での膿の処置も不要になりました。現在のようにリハビリを専門にする施設もなく、自身が生活の中で動くのが即リハビリでした。
 退院が昭和29年4月と決まった時、病院から直接、県立身体障害者更生指導所の洋裁科に行き、一年間真剣に学びました。指導所を卒業する時も母のところへは帰らず、徳島市の紳士服の店へ住み込みで弟子入りをしました。繊維関連の企業の多い名古屋へ出て、紳士服縫製会社で念願の会社員という立場になったのは昭和35年の春でした。
 昭和44年、母が亡くなりました。3年余りの入院に費用がかかり、蓄えはすっかり無くなりましたが、母の最期を見届けることもでき、よかったと思っています。私のことでは本当に苦労したであろう母が「体の悪い子に面倒見てもらうことになるとは」と泣いていました。
 母が亡くなってすぐ、自動車免許取得のため退職しました。その後車がどれだけ私の助けになったことか。身体障害者福祉会の区の会長になって、一人ひとりと会って話をしていくことの大切さや、家族の方にも話をきいていくことのプラス面を知ることができるなど、本当に車のおかげで世界が広がりました。
 このころは29歳で結婚した妻と2人で婦人服からイージーオーダー(デパートの)など経て、また以前勤めていた会社の紳士服縫製をしました。その合間に市の相談員などを務め、忙しくも張り合いのある年月を過ごしました。

受賞後の歩み

全国身体障害者スポーツ大会の障害急歩、50メートル背泳ぎ2種目に出場の武田さんの写真

障害福祉賞に入選した翌年の平成7年(1995年)10月28日、第31回全国身体障害者スポーツ大会「うつくしまふくしま大会」に、名古屋市代表に選ばれ参加しました。
 陸上は障害急歩、水泳は50メートル背泳ぎ、2種目に出場しました。水泳は日ごろ名古屋市のスポーツセンターで練習をしたおかげで金メダル、陸上は銀メダルでした。皇太子殿下ご夫妻のご臨席の下で大変よい思い出となりました。子どものころ体操の時間は見学ばかりだったことを思うと、遠い福島の地で泳いだり、急歩したりできるのが不思議な気がしました。
 また競技の後のお楽しみ会場では、福島名産のこけしの絵付けに参加しました。私の真剣な顔とコンパニオンの人の心配そうな顔がとてもいいと福島民友新聞に掲載されました。妻に土産のこけしを渡すと「あなたに似ている」と大笑いされました。福島ではいろいろの場面でお世話をしていただいたが、東日本大震災から4年経った今も復興が進んでいないとのニュースを聞くたびに胸が痛みます。

 平成10年12月、厚生大臣表彰を受けました。テレビでしか見たことのない厚生省(当時)に妻と行きました。大臣から一人ひとり表彰状をいただき、「就職できるようになったら社会に恩返しをする」と手術の時に誓ったことが思い出されました。その後、皇居で、天皇、皇后両陛下より励ましのお言葉をいただき、皇居の見学もでき、本当にありがたくて涙が出てしまいました。
 平成12年、68歳で運転免許を返すことにしました。定年のころより黄斑変性症・新生血管黄斑症という眼の病気になったからです。便利な車をやめるのは大変口惜しい気もありましたが、30年間無事故無違反で過ごしてきての決断でした。

妻の癌発覚

平成19年8月、妻ががんの告知を受け、私はうろたえてしまいました。日本の医療技術の進歩は素晴らしいとは聞いていたが、妻の癌の告知を受けた時、私は頭をハンマーで殴られたような気がしました。
 頭の中を、「癌、イコール死」という図式が回り出しました。これからどうしたらいいのだろう。いろんな事が頭に浮かび、それが交錯し何も考えがまとまらないのです。家の事はすべて妻任せで来ました。洗濯機一つ使えない。いや使わなかった。こんな男に50年余りもつきあってくれた妻が、手術を前にして家の中を片付けたりしていました。鉢植えの水やりが大変だろうと処分したり、すべて私の事を考えての事でした。
 常々、あまり自分の気持ちを口に出さない妻に「言いたい事は言えばいいのだ」ときつく言っていた私でしたが、妻の病気で言わない事の大切さも分かりました。一年中5時前に起床する妻が黙って雑巾がけをしている時、癌に対する不安を懸命に消しているように見えて声をかけませんでした。「それがありがたかった」と、後で言われました。

車イスの武田さんと傍らに立つ奥様の写真

私には気持ちを強くもつための心の支えがありました。それは私達二人が尊敬する人の言葉です。「強くなれ、強くなれ、絶対に強くなれ、強い事が幸福である、勝利である」と。癌に立ち向かっていた私達にとって最高の励ましでした。これを家中に何枚も貼って自分を奮い立たせていました。今まで予期せぬことに遭っても乗り越えてきたのです。今回も絶対に負けないという自信が湧いてきました。手術は4時間ほどかかりました。子供のない私たち、一人で手術の終わるのを待っていると、近所の人が来て元気づけてくれたり、まわりの人達に助けられ、本当に感謝、感謝の気持ちでした。
 医療関係の方たちや、周りのあらゆる人たちのお陰で、妻は今とても元気に過ごしています。いつの間にかまた、室内もベランダも植木鉢がいっぱい並んでいます。姫リンゴの花や君子蘭がみごとに咲きました。告知を受けた時のショックが嘘のように今は平穏の日々です。一日でも永くこの平穏が続くのを願っているこの頃です。

充実した人生の最晩年をすごす

私は80歳で、市の身体障害者相談員や区の身体障害者福祉協会の役員などのすべての役を退き、現在は週に1回「癒しのデイサービス名古屋熱田」という、昨春できたばかりの施設へ行っています。薬膳中心の食事、風呂、マッサージなどと優しくしていただき、新しい友もでき、新鮮な気分で楽しんでいます。目が悪くなったのでカラオケ、将棋などは芯から楽しめませんが、「外へ出たら皆と話をして笑っておいで。家では何でも読んであげるから」と妻は言う。もう7年くらい毎朝、新聞を40分ほど読んでもらっています。

 歩けない時、窓から走り回る友達を見て泣いた日、修業時代の苦しかったことを思うと、今の境涯に感謝でいっぱいです。いつも自分を律して、目標に向かい、より良い方へと考えてはきたが、それにはその時、その時に縁した人たちの支えがあり、今の幸せがあるのだと心から感じています。がむしゃらに突っ走ってきた私に「これからは少し肩の力を抜いて一日を楽しんだら?」と妻は言う。障害があった故に、あらゆることに真剣に取り組むことができたと思っています。すべての事柄が私を強くしてくれたおかげです。
 20歳のときに誓ったとおり、福祉にかかわって50余年、私なりに少しは恩返しができたのではと自負もあります。
 そして、「自身に勝った」との思いで人生の最晩年を充実の日々にしています。

福祉賞50年委員からのメッセージ

大先輩の武田賢二さんのような方が、日本の障がい者の自立を切り開いてこられたことをあらためて感じました。障がいのあるなしに関わらず、身を立ててゆく決心と覚悟は、現在の若者に何かを教えているのではないかと思いました。
今後も長生きをして、障がい者を始め、多くの人々に人生の知恵を伝えていっていただきたいです。

貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)

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