NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『私の生きて来た道』

〜受賞のその後〜

黒木 クニ子 くろぎ くにこさん

1937年生まれ、無職、宮崎県在住
リウマチ
73歳の時に第45回(2010年)佳作受賞

黒木 クニ子さんのその後のあゆみ

『私の生きて来た道』

病気の発症

寒い朝でした。庭の藪椿の花にうっすらと霜の積もっているのもあります。小学生が、朝7時頃私の家の前を学校へと通っていきます。元気のよい子どもは、「おはようございます」と、大きな声で言います。私も、「おはよう、がんばってね」と言います。毎朝同じことの繰り返しですけれど、私の健康の証だと思って、毎朝、子どもたちと顔を合わせることがうれしくてなりません。そして健康のありがたさをしみじみと感じています。

 30代後半から、私はリウマチを患いました。一生治らない病気です。あるとき、あまり熱が高いので、病院へ行きましたところ、診察の間違いで、2か月あまり食事もロから摂れず、毎日点滴で命をつないでおりました。でも奇跡が起きたのです。明日をも知れずと主治医に言われていたのに、新任の先生が、私の担当になられ、原因を見つけてくださいました。あきらめかけていた命が助かりました。この世にも神様はおられると本当に思いました。その後は、日に日に良くなり、1週間で治ってしまいました。長い間、寒々とした個室に入れられて、毎日毎日、熱に侵され、注射漬け、検査の連日でした。身も心も死ぬ思いでした。
 新しい先生の診察を受けたその日を境に、みるみる元気を取り戻すことができたのは、奇跡としか思えませんでした。家族皆で喜び合いました。皆が私を助けてくれたと思います。ありがとう。それからは、自分の健康を維持することを目標に心がけております。

夫を看病し、母を介護する

黒木さんのお孫さんと認知症のお母様の写真
元気だったころの黒木さんのお母さん(右)

そうこうするうちに主人が病気(肺気腫・脳梗塞)になり、その看病もするようになりました。当時、まだまだ私、50歳。休んでいる暇なんかありません。主人の病気を少しでも楽にしてあげようと、できることはと、今までの恩返しも考えながら、毎日苦にならない程度の暮らしをしておりました。主人は、病気のために酒もたばこもやめていたので、時々、甘いお菓子を食べるようになりました。小豆あんの最中や、甘いケーキなどをとてもおいしそうに食べるようになり、それが唯一の楽しみだったのでしょう。そんな時は、まるで子どもが食べているようににこにこしていました。平和な日常でした。
 ところが、一人暮らしの母が認知症になり、私も一緒に暮らすことになりました。病気の主人共々、3人でがんばることに決めました。認知症は、他人事のように思っていました。現実には他人にも迷惑をかけてしまうことがあり、その対処は私に課せられた仕事になりました。できることはしよう。他人からどう思われても、私を育ててくれた母ですもの。私がこれから面倒を見るのは当たり前です。認知症という病気は不思議な病気で、お天気様と一緒で、予想がつきません。
 朝も早くから自転車を引っ張り出して出かけようとします。私が止めるのも聞かず、気持ちよさそうに出かけました。ところが昼になっても、1時過ぎても帰ってきません。夏の日差しはとても暑いのです。あっちこっちと探し回り、やっと見つけました。母も暑さと疲れで、田んぼのちょっとした陰で座り込んでいます。やれやれと思いながら、母を責めても仕方がありません。長い間、一人暮らしで、自由な生活をしてきたのですから、無理もないことですけれど。またあるときは、夜中に寝床を抜け出し、町中を歩いていて、親切な方が警察に連絡してくださり、派出所まで迎えに行ったこともありました。母はにこにこして、若いお巡りさんと話をしているのです。何を言っていいのかわからず、なぜだか涙が出てきました。これから私は、一つ一つ勉強しなくては、と思いました。

 母の苦労は私も知っていたつもりです。私の父親は、昭和13年、生まれた私の顔を見ることもなく戦死したのです。シナ事変(日中戦争)の時でした。母親の苦労を見ながら、私も働くことを覚え、怒られながらも手伝いをし、自然に身にしみこんでいったのです。
 子どもの頃手伝いをしていたときに、疲れも出て、寂しくもなって(あたりは誰もいません)、私は、「お母さん、お月様が出たよ。もう帰ろうよ」と言いました。すると、母は、「月明かりで草がよく見える」と言って、仕事を止めようとはしませんでした。仕方なく私も、べそをかきながら続けたものでした。今振り返ると、母が私に教えてくれた、人生の教訓だったかもしれません。苦しいとき、楽しいとき、あきらめず、頑張れるようにと、母は身をもって、私に教えていたのでしょう。

 私の病気の時も、母は病室のある9階まで階段を毎日上ってきては、私を励ましてくれ、必死になって私を見守ってくれたのです。おかげで私も元気を取り戻し、その後病気になった主人の看病ができました。自分のリウマチの痛みどころではありませんでした。私は注射と痛み止めの薬でなんとか動けていましたので、不十分でも役立つことができたのです。そんな中、認知症の母は大きな声を出し、私を呼びます。「何ですか?」と私も大きな声を出しながら母の元へ行ってみると、母はキョトンとして、何しに来たのかと言わんばかり。まして、夜中の大声は近所まで聞こえるので、迷惑だと思いましたけれど、これも仕方ないと思っていました。
 とにかく、自分の時間はほとんどありませんでした。母のおしりの始末も済ませ、ヤレヤレと一息入れようかと思う間もなく、時計を見ると、食事の支度を知らせているではありませんか。重い腰を上げながら、台所でまた一仕事。そんな毎日が続いていました。

愛する人たちは失ったけれど

夏も過ぎ、暑さもややしのぎやすくなり、主人の病気も少しは楽になってきたかなあと思っていましたが、私の気遣いが足りなかったのか、どうも芳しくありません。とうとう今度は主人が入院することになりました。病院へお願いして、私は母を見張りながら夫の看病をするのですが、あちらこちら、夜中に母を探し回ったりで、なかなかゆっくりできません。真冬の寒い夜でも、母は気が向いたら出て行きます。とうとう私が転んで、主人とは別の病院で股関節の手術をすることになりました。母を施設に頼んで入院です。息子は大変です。私たち3人の世話で、仕事の帰りには病院通いをしてくれました。そして、私が手術で入院をしている病院に電話がありました。息子の声で、「お父さんが死んだよ」。急な知らせに信じられないという思いでした。
 世の中にはこんな不幸な思いをする人は私だけではないと思い直し、まだまだ、明日をがんばらなくてはと、シーツと病院のベッドの上の天井をにらみつけていました。人それぞれの運命としか思えませんけれど、とても悲しく思った長い時間でした。
 退院も決まり、家で母と2人の生活になりました。母は、主人のいないのを気遣って、「どこへ行ったのか? 病院へ行っているのだね」と、やはり寂しいのか、毎日のように尋ねます。本当のことはわかりません。母より先に死ぬとは思っていなかったようです。思い出しては尋ねます。わびしい思いがします。そんなある日、母が私に、優しく言ってくれた言葉が忘れられません。「今日はごちそうだね」こんな優しい言葉をかけてくれたことは初めてでした。私はびっくりすると同時に、寂しさを感じました。

 それから間もなくして母は遠い世界へと旅だってしまったのです。主人の最後の記憶もまださめやらぬ、主人が亡くなってから2年後のことでした。

黒木さんとお孫さん2人との写真

今は一人で暮らしております。私はがんばっています。でも主人と母を思い、いつの間にか涙がほほを伝うこともあります。
 でも、今は孫たちが毎日のように来てくれ、私を励ましてくれます。一日一日を大事に楽しく暮らせる日が続いてくれますようにと願っています。

福祉賞50年委員からのメッセージ

佳作受賞の「楽しく生きる」は73歳のとき。ご自身のリウマチの痛み。ご主人の闘病と死。そして母親に認知症。そんな「たたかいのような日々」のなかでの表題の意味は奥深い。クニ子さんのお父さんは、昭和13年、日中戦争のなかで生まれた彼女の顔をみることもなく戦死。その後、クニ子さんはお母さんの苦労を見ながら、働く人になった。
受賞後5年の歳月の中でお母さんも遠い世界へ旅立たれた。朝7時の近所の子どもたちの朝のあいさつに「おはよう、がんばってね」の応答シーンがしみじみあたたかい。

薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)

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