NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『生きるちから』

〜受賞のその後〜

折山 精 おりやま せいさん

1928年生まれ、無職、東京都在住
視覚障害、肢体不自由
69歳の時に第30回(1995年)矢野賞受賞

折山 精さんのその後のあゆみ

『生きるちから』

1. いのち、とはなんだろう

人間が自分のいのちについて考え始めるのは、いつごろからでしょうか。私は、3歳ごろに、はしかという流行性の病気で目が見えなくなり、家の中を手さぐりではい回っていたのを覚えております。そして父の背中で揺られながら、遠い街の眼科に長い間、通いました。私には暗い夜の道で、しかも父が足早に歩くので落とされないように、ただしっかりと背中にしがみついていました。道中で、蛙の声や電車の警笛や車の響きを、ただ心細い気持ちで聞いていましたが、やがて医者が動かすロウソクの灯りがぼんやり見え始め、片方(左眼)だけ視力が回復することができました。小学校に通い始めると、道中で色々、いじめられました。時には石を投げられることもありましたが、成長した後の同級会でそのことを話しても、先方にはまったく記憶がなく、被害者と加害者との記憶の落差の大きさに驚きました。

2. 思いがけない障害の追加

障害者が白い目でみられていた戦争が終わると、こんどは思い思いに生きる競争が激しくなり、障害者は世間の片隅へと追いやられるようになりました。そんなころです。私は見えない片側の視界から、今でも恐怖を覚える感電事故を起こしてしまったのです。強い電流が右腕から右脚の関節部へと抜けて、あたりの肉は焼け落ち、しばらくすると、死臭を漂わせながら白い虫が湧き始め、外科医はただその虫の除去と消毒をするだけの、戦後の貧しい医療に身を任せるしか方法がありませんでした。

3. 地獄に仏か、占領軍に助けられる

私ははい上がるようにして立ち上がり、松葉杖から杖を一本にし、農村では生きる術もないと覚悟すると、敢えて混乱の、ところどころ煙が立っている東京の焼け野原へと、無謀にも生きる道を決めたのです。戦災孤児やら浮浪者が集う上野駅前の地下道や神田駅前の闇市あたりをさまよう毎日の末に、空腹と疲労で生気を失いかけて神田神保町にある救済軍の社会鍋に救われました。そして占領軍の職場が紹介されたのです。
 最後の職場はGHQ直属の民事検閲部(CCD)という手紙や電報などの一切の情報を極秘に調査する中枢の機関だったのですが、時の日本政府よりもすばやく、より正確な情報を得られるところでした。講和条約以後は、占領軍から駐留軍と名称も変え、司令部は解散され、私も憲兵大隊に紹介状をもらって転職できたのです。それはまるで夢物語のような驚くべき、今までの私の体験をまったく覆す体験でした。日本の職安では、優秀なタイピストを求めるという案内でしたが、私は優秀どころかまったくタイプの経験もなかったので、ただ参考のために参加したのです。
 そこは、MPと呼ばれる憲兵隊の本部で、私は厳しい条件を免除されたように通過し、最後に所長に話しかけられました。君は今日から弁当を持参してタイプを習得するように通勤しなさい、と。
 当時私は栄養失調で視力も低下していましたが、それを察してか、特別な照明器具を設置した上に、明るい窓際の席が与えられたのです。私はそこで在職中にタイプを習得したおかげで、失明している眼を義眼にする手術も可能にでき、長年私に根強く残った劣等感まで、ついに解放してくれたのです。

4. 新たな出発

暗い影のような劣等感から解放され、私は自信を持って生きる勇気を感じ取りました。障害の陰に隠れ、本人の意志をまったく無視された結婚に破れましたが、新しく本人の意志と愛情でようやく新しい家庭を持つことが許された私は、強い意志と絆で新たな出発をすることができました。
 幸せは、多くの苦難の中で育つものかもしれません。私は今は亡き両親に、今度こそは幸せになれると報告しましたが、私が障害者なるがゆえにどんなにか心配したであろうことか。その恩に報いるためにも、両親の生存中に初めて私の口からそんな言葉を聞くことができた両親の想いを察すると、最大の親孝行だったかもしれません。私の勝手な自己満足かもしれませんが、その報告を両親はどんな想いで聞いてくれたか、私の切なる思いが通じたと信じたいのです。しかし最初の子どもは聾児でした。

5. 車にひかれた聾児

聾児には車の警報も騒音も関係ありませんでした。筑波大の附属の聾学校の教育相談所が千葉県の国府台にあり、聾児には救いの道は教育しかないと聞いて、母親が手を握り、正常に誕生した妹を背負い、狭い危険な道を毎日通い始めていたのです。
 しかし、聾児は次第に慣れてくると自信がついてきたのか、母親の手を振り払うようにして危険な車道にはみ出してしまったのです。
 軽い聾児は飛ばされて、今度は反対側を走る軽自動車にひかれ、車の下敷きになりました。運よく通勤途中の警官が気付き、両側の通行を停止させると、何人か動員させて車を持ち上げさせ、下敷きの聾児を抱き上げました。
 母親は気を動転させましたが、か細くなく聾児の泣き声に生存の確認ができました。

6. 不思議な生命力と言葉の習得

父の私も感電事故で九死に一生を得ましたが、我が子もたくましく生き延びました。子どもは3か月もすると、病院の中を飛び回るように回復し、奇跡の坊やと呼ばれました。
 せっかくの教育相談所での指導でしたが、普通の地域の聾学校である大塚ろう学校へと移り、高等部以降は石神井ろう学校へと進学し、長い長い教育の末、聾学校の口話法という読唇術による言葉の習得と会話の発声方法を学んだのです。私も毎日、午後6時から一緒に夜遅くまで学びました。真剣勝負の修羅場になっていたのを覚えております。思えば懐かしいい親子の絆になりました。

7. 生きる力

折山さんと息子さん、お孫さんとの写真

かつて東京都教育庁で開催された聾教育の検討委員会の席上で、私は発言いたしました。
「……子どもが在学中に、せめて生きる力だけでもよいから身につけさせて欲しいものです……」と訴えました。
 しかし、その時、ひらめいたのです。ほとんどの障害児に、どんな条件のもとでも生き抜くことができるように天与の潜在能力が、すでに与えられているのではないか、と思いついたのです。人間の身体は、数知れない細胞の働きによって護られているのではないか、と。なかでも細長い脳細胞は、常に長く伸びたり縮んだりしながら、まったく新しい生命の回路を模索し続けています。おそらく、私がいただいた矢野賞も、そうした触発的な仕組みの中で生まれた成果だったに違いありません。
 矢野賞の受賞で、私は大きな自信と勇気を得られました。今日一日を頑張ろうという力になりました。やはり根底には与えられた不屈な生命力を感じるのです。

 私は現在88歳、すでに役職を引退して悠々自適の生活を送っています。息子は現在49歳、5人家族の主となりました。私の近くに住み、外出に誘ってくれたり、必要な手助けをしてくれます。幼少のことを思うと、今こうして私が世話になっていることが信じられない気持になります。障害者の家族というのは苦労したぶん絆が強くなるのでしょうか。2人の孫も毎日のように顔を見せてくれ、いろいろと私を気遣ってくれます。明るく楽しい生活を送っており、今は孫たちから「生きる力」をもらっているのです。
 オリンピックと並行して開催されるパラリンピックでは、毎回多くの障害者の活躍が見られます。障害者に秘められた潜在能力は、多くのコーチ陣の手で引き出されますが、何よりも本人の努力が、そこに垣間見られます。見る者に「生きる力」を与えてくれる東京パラリンピックの5年後の開催を楽しみにしています。

福祉賞50年委員からのメッセージ

我が身にも障害があり、かつ息子にも障害があるという人生から、どんな生き方もただ一度の貴重な時間だという気づきに至る経過をまとめ、矢野賞を受けた折山さんは当時69歳。現在は88歳で、立派に成長された息子さんの手助けを受けながら、5年後のパラリンピックに思いを馳せています。飽くことのない、という言葉がまさにぴったりの生きることへの意欲には感嘆させられます。息子さんやお孫さんに囲まれて観戦する日が来ることを心から祈りたいと思います。

玉井 邦夫(大正大学教授)

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