『「ただいま」から次の言葉へ』
〜受賞のその後〜
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松永 香奈恵 さん 1972年生まれ、主婦、滋賀県在住
視覚障害
39歳の時に第46回(2011年)優秀受賞
松永 香奈恵さんのその後のあゆみ
『「ただいま」から次の言葉へ』
居場所に帰ってからの変化
私が自分の居場所に帰ってから、もう4年以上がたちました。
障害を乗り越えたつもりになり、心を閉ざしていた時期がありましたが、暖かい友人や仲間とのふれあいの中で、自分の居場所に帰ってくることができたのです。
「障害を乗り越える」ことをやめてから、それまで私か周囲との関係をうまく作れなかったのが、障害によるものより、別の原因の方が多かったことを感じるようになりました。けれど、直接的に障害が要因ではなくても、間接的影響はあったと思います。
私は極端な性格で、真意を知ろうと深読みするかと思えば、ほとんど反射的に即答するところもあるのです。
たとえば、「メールできるの?」と聞かれたとします。この場合、それまでの話の中で、メールをしているということは伝わっているはずですから、質問されているのは、「できるかどうか」ではなく、「どうやってするのか」ということです。それは、熟考しなくてもわかるはずで、私もあとになって気づくのですが、つい反射的に「できるよ」と答えてしまうことがあります。すると、質問した人は、多くの場合それ以上たずねてはこないのです。
私が拒絶の意味を込めていてもいなくても、障害にふれられることを極度にいやがっていれば、「それ以上話したくないのだろう」と受け取られても不思議はありません。そして話は途絶えてしまいます。けれど、私は自分の「反射的回答」が、「それ以上話したくないのだろう」と受け取られているかどうかなど、気にもとめていなかったように思います。「聞いてこないんだから、なにもこちらからそれ以上言う必要はない」としか思わなかったのです。
今も、同じような「反射的回答」をしてしまうことはありますが、障害にふれられることを拒絶しなくなってから、周囲の雰囲気が変わりました。
友人や知人たちの多くは、「話したくないのではなく、趣旨を取り違えているらしい」と受け取り、いささか苦笑交じりに「そうじゃなくて、これを聞いたんだけど……」と聞き直してくれるようになったのです。
これは小さいようで、大きな変化です。私が感じてきた拒絶も、周囲が感じていたであろう拒絶も、行き違いや勘違いであることがいかに多かったかを示すことだからです。
障害は私を構成する要素
また、私を知る人は別として、やはり視力がないということは、人にとって大きなことなのも、少し理解できるようになりました。
初対面の方、ブログやHPをなさっている方が私に質問をなさるとき、かなり身構えていらっしゃるのを感じることは少なくありません。
当然ながらもっとも目立つことの一つは、視力がないことなのでしょうが、そこにふれていいのかどうか、踏み込んで非礼にならないかどうかと壊れ物にふれるように接してくださることがよくあります。そして、この危惧はけっしてまとはずれなものではないのです。実際以前の私は「障害者として活動しているわけではない」と、そうした見られ方に激しい反発を感じ、もしも「目の見えない人が」なんて書かれようものなら、猛烈に抗議したものです。
その私が、今は障害についてふれていいかをたずねられても、いたって平然と「いいですよ」と答えるようになっています。なぜなら、「視力がない」ことは、私を構成する要素の一つにすぎないからです。
「視力のない人」と聞いて、人がどう受け取るかはわかりませんが、それはなにも障害に限ったことではありません。
障害者と言っても、一人一人違います。できることも、苦手なことも、それぞれ違うのです。けれど、私自身、かつては、どこか「視力のない人の代表のプラカード」を背負わされている気がしていました。そうした見られ方が皆無とは言えませんし、画一化したイメージや、勘違いによる知識を持っている方もいらっしゃると思います。私が障害にだけふれないでと言えば、当然障害の部分はその人のイメージで作り上げられることになり、私という人間からはかけ離れた人物像になってしまうこともありうるのです。
「視力のない人の代表」としてではなく、「視力のない私という一人の人間」として伝えればいいだけです。私の視力がないことは事実であり、それも含めて私なのですから。
大切な人々に支えられて、新たなことにチャレンジ
居場所に帰ってからも、心のもろさは相変わらずで、突然ナーバスになって、「私は視力がないから、迷惑なんでしょ?」と、ほとんどだだっこのように振る舞うかと思えば、「どうせ私なんてダメなんだ」と、いきなりマイナス方向に突っ走ることもあります。
それでも「私の大切な人々」は、温かく見守り、支えてくれています。不安定状態に陥ると、落ち着くまで待ってくれたり、マイナス方向に暴走すると、ブレーキをかけてくれたりします。
かつて心にバリアをはっていた頃も、おそらくそうして手を差し伸べてくれていた人はたくさんいたのだと思います。心を閉ざした私には感じられなかっただけで、「一人で抱え込まないで、そのままでいいから言ってごらん」とけんめいに心のとびらを開こうとしてくれていた人はいたのです。居場所に帰ってから、私はそれを深く感じるようになりました。
おかげで、私はやりたいことに少しずつでもチャレンジできるようになりました。
新しい友人知人も増えました。その中には、私の詩に曲をつけてくれる人もいますし、自分から点字を覚えてくれた人もいます。
また、前作で「音楽祭で知り合った人」として登場してもらったAさんは、私の要望に答えて、曲を作ってくれました。
同様に前作で「再会し、優しさをくれた友人」として書きましたBさんにもらったつばさのブローチは、何年か前に失いましたが、心の左胸につけかえ、今も私が羽ばたくための大切な力になっています。
千羽鶴を折り2000年から始めた夏の広島訪問は今も継続中で、昨年も訪れました。8月6日、当日、「テレビに映っていたよ」と電話で知らせてくれた人がいました。
もちろん当日は私自身は現地にいるのですから、テレビを見られないということもあります。けれど、それに限らず、印刷や画像がわからない私を気遣って、どこかに出ているのを見つけて、知らせてくれる友人や知人がいるのです。
大切な人々とともに生きる
この4年余りの間に、私はいくつものチャレンジをしました。
折り鶴は広島に持参するためのものだけではなく、贈り物にしたり、携帯可能なものを作ったりとアレンジも増えています。昨年からは、折り鶴で文字を作ることも始めました。
また昨年は、本を自費出版しましたし、ブログも開設しました。
平和を求める活動、原発をなくすことを求める活動を中心に、夢を抱いて自由な空を羽ばたき、いのちの尊さと重さを感じながら、夢に続く道を歩いています。
そうした日々はうれしいことだけに彩られているわけではありません。けれど、闇の時期を経験した私は、「大切な人々」とともに歩めること、生きていられることが、どれほど尊いことかを感じてきたのです。
「ただいま」と言って帰ってきた私を、多くの人たちが迎え入れてくれました。
私はそんな「大切な人々」とともに歩み、もしもその人々の誰かが傷ついたり疲れたりしたなら、今度は私が力になり、支えになりたいのです。
そして、もしも私のように居場所を見失い、心の闇に彷徨って、帰る場所を探している人を見たら、友人が私にしてくれたように、温かく受け止めたいと思っています。
「ただいま」と言って帰ってきた私は、いつか誰かにこう言いたいと思います。
「よく帰ってきたね。おかえりなさい」
福祉賞50年委員からのメッセージ
乗り越える障害など実は無くて、それは受け入れるものだった。障害を一番拒絶していたのは筆者自身で、迷いながら、もがきながら、ようやく自分の居場所に辿りつく。実はそこには、思ってくれる人たちはすでに居た、ということに気がついた貴方。積年の思いを新たな活動の原動力にされている。本の出版や平和活動に、また、ご自分が癒されたように、今度は傷ついている誰かの助けになりたいと言う。心の機微を理解できる貴方なら、きっと出来ると思います。
鈴木 ひとみ(ユニバーサルデザイン啓発講師)