『エンパワメントの連鎖』
〜受賞のその後〜
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玉木 文憲 さん 1949年生まれ、自営業、大阪府在住
脊髄委縮症(受賞後、副腎白質ジストロフィーと診断がつく)
61歳の時に第40回(2010年)佳作受賞
玉木 文憲さんのその後のあゆみ
『エンパワメントの連鎖』
自分の歩みを語り、意味づけをする
10年という月日が経ち、その間に私の病気にも名前が付きました。副腎白質ジストロフィーという病気で、一番症状が穏やかだというALDというタイプです。厳しい大脳症状を示し、亡くなってしまう患者さんも多い小児タイプでなかったことは幸いですが、やはり治療方法の見えない難病であることに変わりありません。10年経った今では要介護度5の認定をいただくまでになってしまいました。
なのにこうして車いすに体を縛り付けてでも起きて活動している姿には、無駄とは知りつつ「なんとかなるサ」と強がりを言って障害者としての毎日を闘ってきたことが、決して無駄ではなかったのだと思い知らされます。
病気との闘いも同じですが、人間が一生のうちに果たせる営みには限界があります。この人生の意味を紡ぎなおす営みが、苦しみの拡大を防ぎ、連鎖を断つ力となるのではないでしょうか。人生はやり直せません。しかし、その歩みを他の人に「語り直す」ことで、過去の出来事に新たな意味づけを行い、「練り直す」ことができるわけです。当事者の本来持つ力を引き出して、自身の抱える問題を解決できるように自ら力づけることを「エンパワーメント」と言いますが、私はこの人生の体験の練り直しを「エンパワメントの連鎖」と呼びたいと思っていました。
体験をわかちあい、互いに勇気づける
多くの障害を持つ友人たちが集まる場で、リーダーのお役目をいただいた私は、彼らの病気や障害との体験を発表する場を数多く設けました。一人一人が生きてきた人生の重みとかけがえのなさを共有しようとしたのです。
これらに共に涙し、悩みを懸命に乗り越えようとする姿を全力で励ます。その体験のわかちあいを通じ、語り手も今後の人生を切り開く糧へと転じることができる。こう考えたからです。
強直性脊椎炎の障害があるAさんは寝返りも座ることもできない毎日の体験を話されました。それを聞いたBさんが「せめて仲間の待つ家にはこの足で歩いていきたい」という言葉にハッとしたそうです。Bさんは、その一言が、新たなステージへ挑戦する勇気をくれた、と嬉しそうに話してくれました…。
聞き手もまた、自分が抱える課題に立ち向かう勇気を、体験からくみ取り、わきたたせることができるのです。
こうした同苦=同じ立場での苦しみのやりとりによって、エンパワメントの連鎖を、結果的に実現できたと言えるのではないでしょうか。
私達障害者に求められるものは、障害に打ち克つ強さはもちろんのこと、障害の苦しみを乗り越える賢さではないでしょうか。賢さなどは必要だと言われても、すぐ身につくものではありません。
しかし体験発表と云う場を通じて「語り直す」ことができれば、聞き手はそれを自分なりに「練り直して」、自分の賢さとして身に付けていくことができるでしょう。こうした小さな積み重ねが、強く賢い障害者を生み出してきたと言えるでしょう。
これらすべてを自分一人で演じることは不可能ですが、障害を持つ友らにそういうステージを用意することは可能です。その効果は目に見える強さ、賢さにつながります。まさにエンパワメントの連鎖だと言えましょう。
失敗もありました。
かつて私は全国の障害を持つ友らと一緒に、障害者の在宅就労を目指して、社会の仕組みを変えようと働きかけるNPOを運営していました。障害者が仕事をすることを通じてエンパワメントの連鎖を具現化しようとするものでした。我が家の稼業の合間に活動するつもりだったのですが、NPOに期待する声の高まりとともに、NPOの合間にすら稼業に取り組む時間がなくなってしまいました。全国で在宅就労のチャンスを求めるフォーラムを開催し、マイクロビジネス協議会に参加するなど、休日もないほどの忙しさです。「忙しい」という言葉は嫌いなのですが、個人的には財政の大ピンチです。
また誕生したばかりのNPO(特定非営利活動法人)という組織に対する世の中の誤解が大きかったこともあり、収入の道を広げることができませんでした。仲間への給与すら支払うこともできず、申し訳ない気持ちが一杯で、即刻撤退を決め込みました。
撤退にあたっては全国の障害者から、撤退を惜しむ声ばかりでなく、撤退を非難する声が殺到しましたが、身内から栄養失調者など出すわけには行きませんでした。人間らしい判断ができたことを、よかったと思っていますが、計画に甘さがあったことは否めません。
体の自由はきかないけれど
その後も穏やかに身体障害は進行を続けましたが、穏やかではあれ、体を車いすに縛り付けておかないと、ほんの少しの日常活動にも不自由を感じるほどです。といって人生に幕を降ろしてしまうわけにはまいりません。
何度「もう終わりにしよう」と思ったか知れませんが、好きだった海外旅行を今でも続けています。
その中でも今年の正月に出かけたフィリピンへの旅行が、強く印象に残っています。
義弟がカメラマンで、世界中を走り回って赤ちゃんの写真を撮りまくっているのですが、フィリピンのピナツボ火山山麓にある噴火後のスラムを訪ねた時、冨田江里子さんという日本人女性の看護師さんと出会ったのです。
縁あって知り合った彼女はボランティアでクリニックを開設し、お産の手伝いを中心にしながら、ご近所さんの医療のお手伝いまでしています。貧しくて病院などにかかれない人ばかりですので大変な人気者なのですが、彼女はとりわけ、家もなく、お金もなく、学校にも行けず、病気を抱えた子供たちを決して見捨てずに、初等教育を行う教室まで開設しています。
そのクリニックまではマニラから車で4時間ほどのところなのですが、同じくフィリピンで果樹園を経営なさる男性が、私たちの移動を助けてくれました。彼女は村の子供たちに「明日車いすに乗ったオジサンが来るよ」と、あらかじめ予告していたようです。
子供たちの住むところは近在の集落のゴミが集められるゴミの山、車も通れない細い橋を渡った山あいの集落、そして海岸の砂浜沿いに青テントの住宅(?)が建ち並ぶスラムでした。それらの集落で集まった子供たちは、およそ200人。
看護師さんが用意していたお菓子や風船を、200人の子供たちの頭を一人一人撫で、通じてはいないのでしょうが激励の言葉をかけながらプレゼントして来ました。
それぞれの集落で子供たちと写した写真を見て絶句しました。子供たちが一人残らず素晴らしい笑顔で写真に納まっているのです。普段から差別され、いじめられ、ろくに食事すらできない彼らにとって、みんな公平に扱われたことが、限りない喜びであったようです。
この旅を終えて「本当に行って良かった」と思いました。自分の体を冷静に見る限り、電車を乗り継いで関西空港まで行き、わずか3時間半とはいえ、飛行機に乗って海外に出かけ、さらにそこで何泊もしてくるなんて考えられません。
手すりの付いていないベッドで寝起きすること、手すりもついていないトイレを使うこと、ましてやお風呂やシャワーも問題外です。日常訪問看護師さんのお世話になっている身には、トイレの問題も深刻です。
何度「やっぱりよそうか」と思ったか知れません。それでも、この体で行ったから、子供たちに喜んでもらえた。大体、砂浜に車いすで訪れた人間は前代未聞だそうです。「サンタさん、来年も来てね」と、厳しいリクエストまでいただいてしまいました。お正月のない国では、正月三日などまだクリスマスだったようです。「OK必ず来るよ」と約束してしまいましたので、来年の正月もフィリピンで迎えることになりそうです。
子供たちと立場こそ違え、これもエンパワメントの連鎖として、将来に向けて良い結果を出していけたらと思います。これからも動かぬ体で、エンパワメントの貴重な導火線役を務めて行けたらと思っています。
福祉賞50年委員からのメッセージ
「エンパワメントの連鎖」素晴らしい言葉だと思います。 我が国は、アジアの中では障がい者支援の先進国です。アジアの人々を訪ねて、結果として啓発していることは、非常に意義深いことだと思います。まさに「エンパワメントの連鎖」です。 障がい者の後輩として今後もぜひ頑張っていただきたいと思います。
貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)