『幸せの階段』
〜受賞のその後〜
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高原 光子 さん 1953年生まれ、鍼灸師、埼玉県在住
視覚障害
44歳の時に第32回(1997年)佳作受賞
高原 光子さんのその後のあゆみ
『幸せの階段』
子育て中心から鍼灸師としての生活へ
NHKの障害福祉賞に入選させていただいてから17年が経過しました。
当時中学生や高校生だった子どもたちも成長し、最近ではなかなか会えなくなってしまいました。私も子育ての忙しさから解放され、ほっとしながらも少し寂しさを感じています。当時私の口癖は「ああ、忙しい。自分のことが何にもできないわ」でした。しかし、子どもたちが一人また一人と巣立っていくごとに自由な時間は増えましたが、その結果として当然ながらその自由な時間をどのように使うべきかを模索する日々がスタートしました。「自分のために使える時間」、それはややもすればただ無為に過ぎていくときでもあります。「誰かのために何かをしていること」、それがどれほど私を輝かせてくれていたかをいまさらのようにはっきり気づかされたときでもありました。
現在私は自宅で鍼やマッサージの治療院を開業しています。以前から治療院としての届けは出していましたが、どちらかといえば子育てに重きを置いていて、治療行為はほとんどしていなかったのです。それが最近は鍼灸師としての生活がメインになりました。新たに鍼灸院をスタートすると決めたのはいいのですが、しばらく鍼やマッサージから離れていたために、人の身体に鍼を刺すということが怖くて仕方ありません。人からお金をいただくのですから、それなりの結果を出さなくては申し訳ないと思い、一念発起しました。
資格取得に挑戦
そこで手始めに介護支援専門員の資格を取るべく勉強を始めました。幸いテキストの点字版があると知り申し込んだのですが、点訳が出来次第発送するとのこと、試験日が11月12日だというのに、全巻出版されたのは10月の末でした。それでも当日までにそれなりの知識を詰め込んで試験会場に向かいました。ですが、この試験会場へのアクセスがこれまた難儀でした。社会福祉協議会にガイドヘルプをお願いしたのですが見つからず、諦めかけていたところ患者さんに助けられたのです。せっかく勉強したんだから試験会場までついていってあげると申し出てくれたのです。そしてとりあえず試験にはパスできました。
そして次はスクーリングです。それが埼玉県の場合、点字のテキストがありません。県の社会福祉協議会に交渉したのですが来年に間に合わせることはできるとの回答で、私はやる気をなくしてしまいそうになりました。それでも前の年に作られた他県の点字テキストを貸してもらい、なんとかスクーリングにのぞむことができました。しかし、これもスクーリング会場へのアクセスが大変でした。まあそれでも一応無事スクーリングを終え、終了証を受け取ることができました。
次にしたことは、鍼灸そのものの勉強でした。いろいろな講習会に参加しては、一からツボのとりかたを指導してもらったのです。その授業を受けながらも、実際の治療もしなければなりません。ツボのとりかた、患者さんとの会話、そして何よりこの場所に治療院があることをたくさんの人に知らせる必要があります。じっと待っていても患者さんはきません。
よく、患者さんが次の患者さんを紹介してくれるでしょといわれますが、それほど甘くはありません。昔は視覚障害者の仕事だと思われていた鍼やマッサージですが、今は健常者がどんどん進出してきています。おまけに最近は整体と称して無免許の業者が開業していて、一般の人には実際に国家資格を持っている鍼灸師と整体師との区別はつきません。その中で私の治療院を選んでもらわなくてはならないのですから、それなりの工夫が必要です。
私は以前から、自分の作品を紹介するホームページを持っていました。手作りの小さなホームページです。それでもホームページの草分けとかで、NHKの番組に取り上げられたこともありました。ということで、知り合いから力を借りて治療院のホームページを作ることにしました。ホームページは、作っただけでは検索サイトの順位がどんどん下がってしまいます。1ページ目に表示されなければ選んではもらえません。そこでホームページを毎月更新することを自分のノルマにしました。毎月話題を見つけなければなりません。健康情報を発信するためには、自分の知識を増やさなければならないのです。必然的に私は医学書を読み漁ることになってしまったのです。「今月のコラムを書かないと」とぶつぶつ言いながら、あれやこれやと医学書を読みます。その本に出てきた参考図書がまた気になります。そして、私は医学書を読むという楽しみを見つけることができました。
現在、治療院には毎月数十人の患者さんが訪れます。繁盛している治療院にはかないませんが、家事との両立を考えると私にはちょうどよい人数です。病院や他の治療院を巡ったが治らないという患者さんもいます。治療者が症状だけにとらわれて患者さんをみていないのではないか。そう考える私は、手による治療だけでなく患者さんとのコミュニケーションを大切にした治療を心がけています。
大好きなこと 合唱と散歩
次に私の趣味について書いてみます。先にも述べましたが、以前は暇つぶしに童話や小説を書いてホームページに掲載していました。ですが最近はそういうことは全くできてません。
現在私は合唱サークルでソプラノを担当しています。といっても、お年寄りばかりのサークルですが、入会して20年目になりました。練習は月2回。しかし負けず嫌いな私は毎日発声練習を欠かしません。たとえ5分でも10分でもCDを使って発声練習をしています。私は全くお化粧をしません。自分で確かめられないことはしたくないからです。それで考えたのが声美人です。お化粧ができないのなら、せめて声だけでも若々しくいたいのです。それでも昔ほど高音が出なくなり、声の質も変わってきています。これはかなり悔しいと感じています。
次に私の大好きなことは毎日の散歩です。散歩をしながら、どこからか聴こえる小鳥の声や花の香りで季節を味わっています。以前犬を飼っていて、毎日散歩に連れて行っていたのですが、その犬が亡くなってしまっても、せっかく身についた習慣ですから続けています。毎日同じ道をひたすら歩くだけですが、仕事が忙しかったり雨が降ったりで散歩に出かけられないと、なんとなく身体の調子が良くないような気がしています。普通の人のようにはさっさと歩いていないかもしれませんが、ずっと続けるつもりです。
一段一段幸せの階段をのぼる
こうして書いていると、私って結構がんばってるかな!と思ったりもするのですが、実際はがんばりやの自分と臆病の自分が交互に顔を出します。若いころには夢中でやってきた子育ても、果たして今の私に同じことができるかといえば否です。両親に無理だといわれながら視覚障害者同士で結婚して子育てをしてきました。若さとはすごいといまさらのように驚いてしまいます。若さはときには馬鹿さであり、その馬鹿さが結果を出してしまうのですね。
今の私は分別がついただけ臆病です。何かを始めようとしてもすぐに「きっと無理だよなあ。みんなに迷惑をかけてしまうかもしれないし」と考えてしまいます。今日はできるかなと思っても、次の日にはやっぱり無理かもと引っ込んでしまうのです。それどころか、何もかもいやになってしまうこともしばしばです。それでもちょっぴり踏ん張って、できるだけ前に進んでいきたいものです。幸せとは平坦な道を不自由なく歩けることではないと、私は自ら学びました。私が幸せを感じることができたのは、いつも少しがんばって自らの力で(ときには誰かの手を借りることもあるけれど)「よいしょ」と掛け声をかけながらも、一段一段ゆっくり階段を上ることができたときだったからです。そしてそれが誰かの役に立つことができれば、それは本当に幸せです。
福祉賞50年委員からのメッセージ
障がいがあっても次々と自分のやりたいことを成しとげてそのパワーは並大抵のものではないと思いました。逆に、点字による情報保障のような最低限の合理的な配慮を満足に出来ない社会の未発達が目立ちました。障害者差別解消法の元年に立つ私達、障がい者にとって非常に示唆に富むと感じました。
貝谷 嘉洋(NPO法人日本バリアフリー協会代表理事)