NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『生きているからこそ』

〜受賞のその後〜

鈴木 由紀 すずき ゆきさん

1969年生まれ、北海道在住
右腕神経叢麻痺
40歳の時に第44回(2009年)佳作受賞

鈴木 由紀さんのその後のあゆみ

『生きているからこそ』

トランペットを再び演奏するまで

私の病気は「複合性局所疼痛症候群」、CRPSと言います。
 黙っていても動いていても、風や水が当っても、服や布団が触れたりしても、右腕に激痛が走ります。でも、痛いからといって、何にも触れずに生きていくことは無理なこと!!

トランペットの写真

私は3歳から音楽を学んで来ました。しかし、小学校に勤めていた28歳の時、事故で右腕が麻痺してから電子オルガン、ピアノは諦めました。でも、大好きで大学で専攻したトランペットは辞めることはできませんでした。ドクターから手術後
「あなたの右腕はもう動きません」
と言われた時に、大学生の時に私に演奏の楽しさを教えて下さった富田先生が電話で
「由紀ちゃんは絶対に私がトランペットを吹けないようにはしないから安心してください」
とおっしゃって下さいました。

コンサートの写真 トランペットを吹く鈴木さんの写真

そして、中学2年生から大学受験までレッスンをしていただいていた、憧れの音色を奏でる札幌交響楽団の前川先生には、入退院の繰り返しの合い間に、左腕一本で演奏できる様にレッスンをしていただきました。でもやはり左肩、肘、手首の手術を受けていたため、左手一本で演奏し続けるのは困難でした。でも、先生は、私に「諦めなさい」とは、一度もおっしゃることはありませんでした。そして、トランペットを左腕だけで持ち、音程も左手で変えられるようにリングを増やしたり、足の膝で押せるように唾を抜くキーも長くしたりと、楽器を修理する方に注文してくださいました。楽器は仕上がりましたが、重さが1.8kgになってしまい、片手で演奏しても音が安定しませんでした。そんなときに主治医の先生が、義肢装具士の方に「トランペットを支える装具を作ってあげてほしい」と頼んで下さり、完成時には、装具士の方が
「夢に値段はつけられないから、これで夢を叶えてね」
とおっしゃってくださいました。その装具が完成してから3日目、約5年ぶりに1時間のステージに立つことができました。そのステージは麻酔科のドクターが用意して下さいました。私がステージに戻るために、たくさんの方々が時間を使って下さいました。だから私は皆さんに感謝し、演奏するための努力を惜しまないと、そのコンサートから決め演奏しております。

新たな活動がもたらした目標

2004年から、私はもう一つ活動を始めました。それは、私が1997年に事故に遭ったことに関連している『飲酒運転撲滅』の運動をしているMADD Japanでの活動です。ユースコーディネーターとして高校や大学、会社の新入社員研修の講師とし、「未成年が何故アルコールを飲んだらダメなのか?」という話や、飲酒した時の見え方になる疑似ゴーグルをかけてもらう授業を、日本の代表の飯田さんと一緒にやりました。そして、論文を書き、日本の理事に選んでいただき、右腕が麻痺してから初めて海外に行き、約半月、アメリカのセントルイスへ、MADDの研修を受けに行くことができました。飛行機の気圧の変化はとても痛かったですが、怪我する前の様に海外旅行へ行く自信がつきました。その自信が私の心をかえてくれました。
「働いて海外旅行に行きたい」
「大好きなイギリスに行って、イギリスのトランペット仲間と約束していた同じステージで演奏したい」

11年ぶりの就職

演奏活動は今までどおりにしたいし、リハビリや通院もあるため、派遣会社、ハローワークに登録して、私の働きたいと思ったところに履歴書を送ったところ、内定をもらいました。しかし、通っていた整形外科で肘の手術をすることになりました。手術はしたのですが、過剰に左腕を使っていたために筋肉が軟骨になってしまっていました。せっかく決まりそうだったバイトもなしとなってしまいました。そして、リハビリが落ち着いてまたハローワークに通いだした時に、ハローワークの障害者雇用担当の方が
「楽器屋さんの求人があって、希望出しても返答来たことがないから無理だと思うけど、履歴書を出してみますか」
と言って障害者のバイト枠で連絡を取ってくださり、履歴書、職歴を提出すると、3日後に、
「面接に来てください。来られますか」
と電話が入りました。そして、筆記試験と面接を受けた日に
「ぜひ、働きに来てください」
と人事部の方からお電話を頂きました。嬉しくて、すぐにハローワークに電話をすると、担当の方がとても驚いた様子で、
「えっ、連絡が来たのですか?えっ決まった?あなたがその楽器屋さんで働く第一号です。おめでとうございます。がんばって働いてください」
と言われました。
 小学校の教壇をおりて約11年目のお仕事、どっと緊張、心はわくわくです。週に4〜5日、朝10時30分〜18時30分まで、初めての接客のお仕事を始めました。私の一番の苦手は電話に出ることでした。左手で電話に出るのですが、お店の電話が大きく、肩のところに挟んでメモをとるのは、至難の業。でも他に同じような人はいないので、最初は大変なことを理解してもらえませんでした。高い所の物をとるのに台に乗ったり、脚立に昇ることもできません。重い楽器は持てません。できることは何なのか?できないことは何なのか?仕事をすべて把握しないまま同僚に教えてもらい、段々と仕事を覚えて1人でもできるようになってきた1年目、突然
「はい、鈴木さん」
と渡された物は、最初に店長から持たなくて良いと言われていたエレキベースでした。渡された瞬間、自分の肩から『プチン』と音が聞こえ上腕二頭筋が切れ、また入院生活に戻ってしまいました。この入院で、ペインクリニックのとても素敵なドクターと出会い、脊髄刺激療法で硬膜外腔にリードを挿入し胸に機械を埋め込みました。以前はズキズキとした痛みでしたが今はビリビリに変わり、痛みが少し弱くなりました。退院して職場復帰しました。

新たな病を得たけれど 今を生きる

それから順調に仕事をし、演奏活動も続きました。2011年3月11日に起きた東日本大震災で、自分に何かできないか?を考えたとき、福島には地震、津波、原発事故と、と1つの災害によっていくつもの被害を受け、家や家族を失った子どもたちがいることを知りました。
「ぽっかぽっかコンサートでは、ふくしまの遺児になった子どもたちに寄附を送りたい」と決め、復興がかかりそうな10年間、コンサートを続けることにしました。

 その後2012年11月の日曜日、仕事をしている時に1人の高齢の女性から
「お姉さん、合唱の楽譜を取って下さい」
と言われました。合唱曲集は棚の一番上、台に昇らないと取れない。私以外誰もスタッフがいない。仕方が無く台に昇りましたが、やはり、膝を怪我してしまい、また入院生活を送ることになってしまいました。
 そこで考えてもいなかった乳がんがみつかり、手術に放射線治療。

キャッチャーをする鈴木さんの写真 ボールめがけてバットを振る鈴木さんの写真

膝は思うようには治らず、1年4か月の入院生活の後、短い距離は杖で歩けますが、長距離は車椅子を使うようになりました。薬の副作用もあるのか、体力が無くなりました。体力をつけるにはどうしたら良いかを考え、インターネットで検索しみつけたのが「車椅子ソフトボール」です。
 以前から野球をやりたいと思っていて、北海道に車椅子ソフトボールのチームがあるのを初めて知りました。練習は週に一度、江別市の北翔大学の体育館でやっています。脚を切断してしまった方々や脊髄損傷の方々、病気で車椅子で生活している方々が一生懸命に車椅子ソフトボール用の大きなボールを打ち、投げたり、とても早く車椅子を操っていました。体験をしに行った時には「片腕の私にできるのかな?」とは思いました。でも、挑戦することも必要。そして、「できるかできないかではなく、やるかやらないか」と考え、チームに入り、今は大会に向けてピッチャーやキャッチャーのポジションの練習をしています。運動から遠ざかっていたため、汗をかく気持ちよさが楽しみに変わっています。また、チームで勝利を目指して練習する楽しさも味わうことができています。
 私は、トランペットを演奏できる嬉しさ、ソフトボールができる楽しさを体全体で感じ、「今を生きる」ことをとても幸せに感じております。

福祉賞50年委員からのメッセージ

自分の本当に好きなことを障がいのために諦めずに、道具や環境を変えることで続けるという姿には、同じ肢体不自由者として共感します。また、啓発活動にも参加されることには感心させられます。さらに、鈴木さんのトランペットを聴いた多くの人々が、どれだけを励まされたかは計り知れません。そして何よりもそれを自分の楽しみとして、人生を豊かにしていることには心惹かれます。

貝谷 嘉洋(日本バリアフリー協会代表理事)

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