NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『七転び八起き』

〜受賞のその後〜

岸本 神奈 きしもと かんな(旧姓:山木) さん

1984年生まれ、会社員、東京都在住
ギランバレー症候群(受賞当時)
17歳の時に第36回(2001年)最優秀受賞


※ギランバレー症候群
筋肉を動かす運動神経の障害のため、急に手や足に力が入らなくなる病気。多くの場合は呼吸器・消化器感染の後に発症する。症状は2〜4週以内にピークに達し、その後軽快し、6〜12ヶ月前後で寛解することが多い。しかし後遺症が残る場合もあり、約15%は後遺症で自力歩行ができないという欧米の報告がある。(難病情報センター ホームページより)
受賞時は車いす生活を送っていた岸本さんですが、リハビリを続けた結果、自立歩行ができるようになり、現在は車いすを使わずに生活しています。

岸本 神奈さんのその後のあゆみ

『七転び八起き』

NHK障害福祉賞を受賞してから早、14年の月日が経ち、その間に様々なことが起こりました。アメリカの大学へ進学、障害の解消、就職、結婚、出産。再び歩けるようになった今、車いす生活を送っていた約6年間がうそのように感じられますが、今の私がいるのは、全てあの6年間があったからこそだと思っています。私の世界観、価値観を変えてくれた貴重な経験でした。

授賞式での岸本さんの写真

私は今から14年前、アメリカの高校に留学中、肺炎からくる高熱が原因で運動神経が麻痺して歩けなくなり、以来、車いす生活を余儀なくされていました。ギランバレー症候群の後遺症だろうと言われていました。当初、私は素直に現実を受け止めることはできませんでした。それでも『直ぐに…今直ぐでなくてもいつかは歩けるようになるだろう』と自分に言い聞かせ、不便な生活に涙を飲んだことはありましたが、くじけても、悲しんでも歩けるようになるわけではない、みんなが悲しくなるだけ。「七転び八起き」のことわざの通り、転んでも絶対起き上がろうと決めて頑張ってきました。
 アメリカと日本の両方で車いす生活を送り、障害者に対する周囲の接し方や法律など、それぞれの福祉の違いを感じた経験から、高校卒業後は、福祉の先進国と言われるアメリカで学びたいと思い、アメリカの大学へ進学しました。

立てたけれど…遠のく歩行への希望

病気から4年が過ぎ、5年が過ぎて回復の兆しがあまり見えない状態が続くにつれ、内心では『もう駄目かな』と思う日が多くなりました。ある日、私のルームメイトであった大学の友人が、「もうこれ以上状態が悪くなることはないのであれば、何でも挑戦してみたら」と、東洋医学の治療を勧めてくれました。私は、藁をもつかむ思いでした。この治療を受けるクリニックは、エレベーターのない2階にあったのですが、友人たちが週に2、3回私を背負って連れて行ってくれました。その甲斐あってか、徐々に足の神経が反応するようになり、自力で立てるようにまで回復したのです。さらに歩行ができるよう専門的なリハビリを受けるため、大学構内にある病院を受診しました。しかし、そこでの医師の見立ては、「長年動かなかった足の神経が回復することは極めて難しい。立てるようにはなっても歩くことは難しいだろう」ということでした。
 これまで夢にまでみた“歩ける”という希望が、もうあと一歩で叶うと思っていた矢先、もろくも崩れ去った瞬間でした。ただただ悔しくて、悲しくて泣き続けました。しかし、私は筋金入りの負けず嫌い。『ここまで来たのだから、どうしても歩きたい。自分の足で歩いて日本へ帰りたい』歩けるようになることで、これまで支えてくださった人たちへの恩返しになると思いました。

両親へのサプライズプレゼント

ご両親と岸本さんの写真

私は、両親の結婚記念日のお祝いに歩く姿を見せるという、大きく且つ無謀な目標を立てました。実は、私は日本でリハビリに通い始めた当初、「自分がリハビリをしている姿は、お母さんにも誰にも見られたくない。もし、いつか自力で立って歩けるようになったときには、待合室で待っているお母さんを真っ先に呼ぶから。その時まで待っていてほしい。私、頑張るから」と母と約束を交わしていました。そこから短く限られた期限の中で格闘の日々が始まりました。リハビリに耐えるために、筋力をつける必要があると言われ、多くの友人の協力を得ながら、3か月間プールに通い足に筋力をつけるトレーニングに励みました。そして3か月ぶりに同じ医師の元へ戻ると、見違えるような変化にとても驚かれました。その後、学業の傍ら、鍼治療、筋力トレーニング、リハビリを続けました。両親の結婚記念日まで残り5日となった日、リハビリの先生から歩く練習をするよう言われました。そのとき、何故か身震いがしたことを今でも覚えています。頭では分かっているのに足が前に出ない。今までどのように歩いていたのだろう…体が固まって動くことができませんでした。先生は、「一歩足が前に出れば自然と次の足が出るから思い切って一歩踏み出してごらん」と励ましてくれましたが、気持ちばかり焦ってしまい、体は相変わらず動かぬまま。頭で考えれば考えるほど歩き方が分からなくなってしまいました。『私にはあと5日しかない…5日しかないんだ』と自分に言い聞かせたのは覚えていますが、最初の一歩をどのように踏み出せたのか覚えていません。一歩が出せるようになってからは、5歩、6歩と徐々に距離を伸ばしていき、見事目標を達成することができました。

留学中の岸本さんの写真 大学卒業式での岸本さんの写真

そして、両親の結婚記念日である2007年5月13日。私はこれまでのリハビリの成果をどうしても両親に見せたかったのです。一時帰国した私は、空港の出口で、「見て!見て!お母さん歩けるようになったよ!ありがとう、お母さん」と言ったつもりでいましたが、声にはなりませんでした。まだぎこちない歩きでしたが、迎えに来ていた両親に1歩、2歩と自力で歩く姿を見せることができました。両親は何が起きたのだろうか、だれが歩いているのだろうかと驚いている様子でしたが、これまで毎日私を介護し、励ましてくれた母に、真っ先に歩けるようになった姿を見せることができ、本当にうれしかったです。それから1年後、私は何の支障もなく、普通に歩けるまでに回復し大学を卒業し、日本に帰国しました。
 現在は、これまで私を支え続けてくれた幼馴染の元へ嫁ぎ、一児の母として幸せな毎日を送っています。

目線は変わっても、物の見方は変えずにいたい

“心の障害を癒してくれる人”それはお医者さんであり、カウンセラーであり、友人であり、家族であり、人それぞれだと私は思います。障害をもった大変さ、辛さは当事者にしか分かりません。私の場合、“心の障害”を思いのほか早く克服できた陰には二つの家族の存在がありました。日本の家族と高校留学時お世話になったアメリカのホストファミリーです。病に倒れ、歩けなくなった私を、自分の本当の家族のように深い愛情で包み、その留学期間を最後まで全うさせてくれたホストファミリー。感謝しても感謝しきれないホストファミリーにも歩く姿を見せることができ、やっと少し恩返しができたと思いました。
 私は突然の病から車いす生活を強いられ、たくさん不便な思いをしました。時にはつらい思いもしました。自分で自由に歩けないことがこんなにも不自由で不便なものか、と。しかし、不自由になったことで、人と人との絆の大切さを知り、たくさんのことを学びました。病気になったことで社会福祉という世界に興味を持ち、アメリカの大学で勉強しました。大学卒業前、インターンとしてホスピスで3か月間働きました。人の死に直面し、悲しい思いもたくさんしましたが、ソーシャルワーカーとして患者さんの残された余生をどれだけ有意義で充実したものにできるかを考え、サポートしてきました。その人らしい生き方とはどういうものか、最期まで自分らしい生活を送るためにどのようなサポートをするべきかを考えることは、自分の生き方を考えるうえでも大変貴重な経験でした。

岸本さんのご家族の写真

日本とアメリカで実感した、人々からの温かく大きな支え、そして、日本とアメリカの二つの家族の深い愛に見守られ、『私は、一人で頑張らなくてもいいんだ』という安心感の中で生活することができました。現在、私は車いすの100センチの目線から、立った目線で物事を見るように変わりましたが、高さは変わっても大切な事を見る目は変わらないでいたいと思っています。それを将来娘にも伝えたいです。私はこれまで本当にたくさんの方から元気を頂きました。今度は私の番です。私に出来る恩返しを、これからも探していこうと思います。

福祉賞50年委員からのメッセージ

6年間の車いす生活、医師による回復は難しいという見立て―にもかかわらず、懸命の筋トレやリハビリで、普通に歩ける力を回復させ、アメリカの大学卒業を成し遂げた意思力に敬服します。その後結婚し、一女の母となっているというが、車いすから立って歩く生活へと目線の高さは変わっても、「大切な事を見る目は変わらないでいたい」と思い、「それを将来娘にも伝えたい」という言葉は、とても重要だと思います。

柳田 邦男(ノンフィクション作家)

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