『車椅子のキャリアウーマン〜20年で紡いだ幸せ』
〜受賞のその後〜
-
安藤 朱美 さん 1953年生まれ、薬剤師、沖縄県在住
肢体不自由
41歳の時に第28回(1993年)最優秀受賞
安藤 朱美さんのその後のあゆみ
『車椅子のキャリアウーマン〜20年で紡いだ幸せ』
受賞のご褒美で旅した地へ移住
今、私は沖縄県の離島である宮古島に昨年から移住して、スローライフにひたっています。暖かなこの島との出会いは、20年前にNHK厚生文化事業団の心身障害福祉賞(当時)に応募し、最優秀賞をいただいたことがきっかけでした。
当時、脊髄の中の動脈と静脈がいれかわる動静脈奇型という病気のために下半身が完全麻痺し、すべてが車椅子での生活になりましたが、3人目の子供も出産し、さらには障害があっても社会人として働きたいという強い思いでIT企業に入社しました。私はどんな身体状況であれ、自らの持つ個性を活かせる仕事に出合ったこと、さらにはそのようなチャンスをつかむまでの自分と「障害」との関わりについて、自分史を書いてみたい強い衝動にかられ、心身障害福祉賞に応募しました。そして、それは「最優秀」という素晴らしい新たな機会を得ることに繋がったのです。その時にいただいた賞金で、大学時代の親友が住むこの宮古島に末娘と主人と旅行できたのです。
20年前の宮古島は、サトウキビと海のみ広がる島でしたが、その海の広大さと神秘性、また人の温かさにわずか3泊4日の旅でしたが強烈な思いを私の心に残すことになりました。それから、20年、何度か機会を作ってはこの島を訪れ、末娘の結婚を機に、60歳という節目にこの宮古島に移住を決意したのです。
障害の状態は20年前とほとんど変わってはいませんが、障害のない方でも感じる身体的老いは、年々身体の不調となって現れ、寒く、環境的にもめまぐるしい東京での生活から逃避したい気持ちも強くなっていました。移住して1年、年間の気温差が10度なく、冬場でも15度を下回らない環境は、下半身が麻痺して血液循環の悪い私の身体には非常に優しい環境です。島の人達との交流も増え、三線も習い、夏はウェットスーツをきて、浮き輪につかまりシュノーケリングも楽しみます。主人との二人だけの静かな毎日ですが、日々自然と対話しながら、心穏やかな日々を過ごせる毎日に感謝しています。
20年前の表彰式の会場で、受賞の喜びを皆さんにお伝えした時に、最後に「これからさらに色々な経験を積んで、またその後自分史を応募させていただきたい」とお話したことを、今でも鮮明に覚えています。今回、50周年の企画をいただき、その時がきたのだと実感して寄稿させていただくことにしました。
仕事と子育ての20年
受賞後の20年は仕事と子育てにフル活動でした。IT系外資系企業風土を持つ会社であったため、「障害」を理由に業務に差別をされることはありませんでした。また、在籍した部門がスタッフの教育・採用など企業の人材育成の根幹をなす部署でもあったことから、私は自分自身が社員教育に必要な分野を習得でき、新入社員や企業の中で仕事で悩んでいる人などの相談に乗ったり、また経営者や管理職の研修を企画したりで、1500人の会社の中で恵まれたポジションで様々な社員との交流をもつことができました。また、企業をなす人材の獲得部署である「採用」という仕事にも自ら手をあげ、採用の企画から実際の面接まで行うようになりました。そのような教育と採用という一人一人の人生に関わりあう仕事をするなかで、個人の「キャリア開発」の重要性に気がつきました。1日の大半を仕事場で過ごすわけですから、そこで自分の価値観や個性を活かせられることが「やりがい」に繋がる大きなポイントだということです。会社の規模や名前で応募してくる学生がほとんどですが、その会社の中にも自分にあった業種や職種・会社のもつ風土などがあることに気づいて欲しいと新入社員の面接を行いながら思い、適性試験も導入しました。今は、当たり前になっていますが、採用試験で職種別適性を入れる会社は少なかったと思います。常に働く社員の相談役でありたいという思いは、「キャリアカウンセリング」との出合いに繋がりました。また、私と同じ障害者の採用にも力を入れて、障害者雇用率もあげました。
仕事の同僚、上司、入社してくる後輩から、リクルート活動に関わる他社の人達まで、様々なネットワークを築くこともできました。そんな中、私も更年期を迎えました。毎日30人の面接や研修開催など車椅子で出張などもこなす重要な会社のポジションにいて、更には家庭では思春期の問題を抱える子供たちと学校とのやり取りなど、24時間フル活動のしわ寄せが身体の変調となってあらわれました。40度の熱を出して、足が象の足のように腫れあがる「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」にかかり、毎年数回、救急車で運ばれるようになってしまいました。仕事は楽しく、やりがいがあっても、年々自分の身体には負荷がかかっていたのだと思います。急に仕事に穴をあけることになっては迷惑がかかると、15年間勤めた会社を辞めたのが50歳の時です。そのあと、障害者を大企業に紹介する会社の立ち上げに関わり、何人かの様々な障害のある方に転職してもらうことができました。障害者の方にも自分を見る視点を変えてもらい、また受け入れる企業側にもその人がやりがいを持てる仕事につながるような人材の活用を提案しました。
そんな中、理化学研究所で障害者の募集をしていることを知り、応募して今までの自分の経験が更に広げられる仕事に出合うことになったのです。
キャリアを活かして転職
研究機関である理化学研究所については、ほとんど知らない世界でしたが、薬学部卒業で医療系の知識があり、さらには企業での採用や教育という分野の経験もあり、キャリアカウンセリングができる人材として、特任職員として採用していただきました。入所して知った研究の世界は「博士号」を持った高学歴な優秀な人たちが、「任期制」という限られた雇用環境でおびえる世界でもあり、派遣で研究に従事している人もありました。「ポスドク(ポストドクター)1万人」という博士の大量排出のなか、巨大組織で自分の位置を維持するのも大変な日々です。そこで研究に従事する技術員やドクターなどの転職や心の相談にのることが私の仕事になりました。
企業で培ったネットワークや障害者の人材紹介をした経験、採用担当者の視点などを活かし、研究者の方々のキャリアコンサルタントとして、任期制という不安定な状態から安定した環境の獲得に向けた相談を日々行い、多くの研究人材の転職サポートを7年間続けました。
この経験から、人はどんな優秀で地位のある人も、また障害があるなしに関わらず、その環境の中で問題や悩みを抱えていること、またその人たちが自分自身をよく理解し、その適性を活かしていくということがいかに重要であるかを再認識することができました。
ちょうど国が「キャリアサポート」事業に力を入れ始めた時期と重なり、私も初めてできるキャリアコンサルタントの認定試験に挑戦し、1回目のチャレンジで合格することができました。
また、仕事とは別に、脊髄損傷の患者団体で再生医療を支援し活動している法人の副理事として、ノーベル賞をとられた山中教授などとの関係も生まれ、京都大学にできた再生医療の研究施設である「サイラ」の開設祝賀会などにも出席でき、不治の病である脊髄損傷への新たな光を見いだす患者団体活動も続けています。
自然の生きる力を、自分の生きる力にかえる
幼かった子供たちもそれぞれの道を歩み始め、主人も長かったサラリーマン生活にピリオドを打ちました。私を支えて下さった方々や友達との永遠の別れも多々ありました。
走り続けたこの20年を振り返ってみて思うことは、全く歩くこともできない車椅子の生活が私に与えてくれたのは、どんな環境であっても、前に向かって進むことをあきらめなければ、たくさんの可能性と出会えるということです。「障害者」という自分の個性が、新たな仕事との「出合い」になり、「障害者」という自分の立場を忘れてやりたいことにチャレンジし続けたことが、様々な分野で活躍している方々との「出会い」に繋がり、私を必要としてくれる環境を産むことができました。人は必要とされる自分の居場所を見つけるために生きていると感じています。どんな人も、どこかでその人を待っている場所があるのです。だから生きることの大切さをどんな人にも知って欲しいと今も思い続けています。
車椅子生活になってから産んだ末娘の結婚の直前に、ある新聞の「生きる」という連載に私の60年の歩みを掲載していただきました。その「生きる」という連載には、様々な障害や病気と闘いながら、なおも生き続けている方々の、前に向かった強いエネルギーが感じられました。
今私が住んでいる宮古島は小さな島ですが、日本も世界から見たら、小さな島国です。この島で生きる人たちは、昔から自然という大きな力に守られ、また時には翻弄されながら、お互いが助け合い、共存して生きてきました。限られた環境の中で、どう楽しみ、どう生きるか。様々な信仰や祭り、行事を創りだす生活習慣は、ある意味、自然と対峙して生きる力を産みだすことに向かっています。
都会の生活で忘れそうな、自然から教えられる「生きる」力を感じながら、わたしのこれからの「生きる」エネルギーとして新たな「出会い」を求めて、この先も歩んでいきたいと思っています。
福祉賞50年委員からのメッセージ
下半身が完全麻痺の車いす生活でも、企業などの社員採用、転職、障害者採用、心の相談という分野で自分の能力をフルに発揮して、60歳の節目まで勤め終えた安藤さんの人生行路は、障害があっても人並みはずれた生き方ができる社会の在り方を考えるうえで、一つのモデルとして貴重だと感じました。「人は必要とされる自分の居場所を見つけるために生きている」という言葉は、ご自身の生きてきた実体験から生まれたものであるだけに、納得感がありますね。
柳田 邦男(ノンフィクション作家)