『地域で私らしく』
〜受賞のその後〜
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阿賀 玲子 さん 1966年生まれ、無職、福岡県在住
脳性まひ
44歳の時に第45回(2010年)優秀受賞
阿賀 玲子さんのその後のあゆみ
『地域で私らしく』
現在の私について
私は出産時に仮死状態で生まれ、脳性麻痺という障がいと、特発性大腿骨頭壊死症をもつ女性です。
養護学校に入学し、施設生活も経験して、小学6年生から校区の普通学校に行きました。成人してからは、障がいを持つ人達が働く場で働いていました。学生の頃は、障がいがあることで数多くいじめも受けました。
36歳から一人暮らしを始め、最初は1日4時間のヘルパー時間数しかなく、学生ボランティアさんに支えられながら暮らして、市に何度も交渉して、現在では1日24時間のヘルパー時間数を利用して地域で一人暮らしを続けています。今では、当時の学生ボランティアさん達もそれぞれの道に進み、家庭を持った人は子どもを連れて遊びに来てくれたり、年賀状作りなどを手伝いに来てくれたりと、交流が続いています。
現在の体の状態は、平成23年10月27日から低酸素血症で在宅酸素療法になり、更に26年4月1日から慢性呼吸不全で人工呼吸器をつけるようになりました。また、年齢とともに生まれつきの障がいも重度化して、手は以前より不随意運動と緊張が激しくなって首・肩・腕の痛みも酷くなり、パソコン操作なども厳しくなってきています。足は毎晩、むくむようになり長時間車椅子に座れなくなってきています。言葉は言いたいことがすぐに出にくくなり、体調が悪い時は話せなくなっています。嚥下の機能も低下して、食べ物にも工夫をしています。このため現在、週にPT(理学療法士)・OT(作業療法士)・ST(言語聴覚士)から各リハビリを受けながら機能の現状維持と低下予防に励んでいます。
以前からやっている水泳は、18年前よりコーチに指導をしてもらうようになり、今もリハビリを兼ねて続けています。試合も体調に配慮しながら出場出来る範囲で参加しています。新たに26年11月頃から、ボッチャを始め、夢は、水泳かボッチャで東京パラリンピックに出場したいと思っています。
ゲストティーチャーがくれた多くの出会い
障害福祉賞を受賞したことで、自分がやってきた事に自信が持てるようになりました。住んでいる校区の小学校にはゲストティーチャーとして7年間も関わらせて頂いています。子ども達に、私が経験したいじめのこと・障がいを持っていることで困ることや手伝ってほしいことなどを話します。
そして、子ども達の質問や考えを聞きながら一緒に障害や地域のことを勉強をしたり、給食を食べながら話をしたりします。昼休みに「だるまさんが転んだ」をした時、子どもから「阿賀さんは車椅子だから一緒に出来るようにルールを変えよう」と言いだして、皆でルールを考えて、私も楽しめるようにしてくれた時には、驚きと嬉しい気持ちで一杯でした。私も子ども達から色々と教わることがあります。学校以外でも道で会ったら、挨拶や声をかけてくれます。私は地域の皆さんに支えられて、生きていることを感じます。
あるとき、素晴らしい再会がありました。それは家の近くのコンビニに買い物に行った時のことです。支払いにレジに行ったら、若い店員さんから「阿賀さんですよね?」と聞かれて「はい、誰ですかねー」と聞いたら「7年前、H小学校で阿賀さんの話を聞いたものです」と言われて、喜びました。そして、また会おうと言いました。7年前の数回の授業に携わっただけで覚えていてくれたことにびっくりしました。
新しい出会いは、ほかにもあります。昨年から校区の小学校に赴任された校長先生と話す機会がたびたびあり、私の家にも来てくれています。今、校長先生の提案で地域のいろんな福祉を変えようと一緒に取り組んでいます。
いま、ゲストティーチャーとしての活動は、福祉大学・看護大学・PTAなどいろんな場に広がっています。地域の中で障害をもって生きている人たちのことを知ってもらいたいという思いから、自分が困っていることや助けてほしいことを話しています。看護学校では、将来ナースになったときに、言語障害や体の緊張など私がもっているような障害を理解して患者に接して欲しいと伝えています。講師として伺い、より多くの人と出会う中で、障がいを持っている一人として、どうしたら心のバリアフリーを築くことができるか一緒に考えようと語りかけています。
家族への思い
昨年は祖母が98歳で他界し、その別れがとても悲しかったです。祖母は、私が幼い頃から色んな事をしてくれました。運動会なども毎回のように遠方から手作りのお弁当を持って見に来てくれました。成人してからも話をしたり、相談をしたりと色々なことが思い出されます。頼りになって、かわいいおばあちゃんでした。ありがとう。
私を生んでくれた父と母に常に感謝の気持ちでいっぱいです。障がいを持って生まれてきたことに母はいまだに「悪い」という気持ちがあるようですが、私は障がいを持って生まれて来たからこそ、たくさんのことを経験し、多くの人に出会えたと思っています。物や人の心もバリアフリーじゃない時代に、私をここまで育てる事は大変だったと思います。時には厳しく、時には優しく。私の両親は、障がいを持っていても姉・兄・弟と違う扱いをせずに育ててくれました。こんな素晴らしい両親のところに生まれてきて良かったです。高齢になっていく両親に、親孝行をしたいです。
最近よく考える事は、年齢と共にいろんな病気が出てきているため、脳性麻痺による老化の進み方、予防法などを医療関係者に研究してもらい、対処法などを見出してもらいたいと思っています。
私は、どんなに障がいが重度になっても色々な支援を使いながら地域で、多くの子どもや大人と関わりながら生き生きと暮らしたいと願っています。
福祉賞50年委員からのメッセージ
養護学校や施設生活、校区の普通学校、障害者の働く場など多様な場で学び暮らした玲子さんは36歳で一人暮らしを始めた。「嫌なことも沢山あります。しかし、私が地域で暮らしながら困っている事や理解して欲しい事を発信していく事により、少しずつ変わっていっています」。「自信が持てるようになった」という受賞から5年。人工呼吸器を付け加齢とともに障害も重度化している。でも、水泳に加えボッチャを始めた。地域の小学校でのゲストティーチャーの仕事は7年続く。多くの出会いが生まれている。嬉しいな。
薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)