『人生は冒険、幸せは感じること』
〜受賞のその後〜
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山本 すみれ さん 1993年生まれ、ハンドメイド作家、愛知県在住
若年性パーキンソン病、橋本病
19歳の時に第47回(2012年)優秀受賞
山本 すみれさんのその後のあゆみ
『人生は冒険、幸せは感じること』
夢が叶った後のこと
人の心は、雲が流れていくように、変化し読みとれない。そして、一秒先の未来ですら何が待っているかなど想像できないのだ。
私が第47回NHK障害福祉賞を受賞したのは、約2年前(2012年)のことです。そこに綴った私の想い。それは健常者から障害者となり、気持ちが揺れ動く中で、自分になにができるのか、漠然としているけれど「働きたい」という一つの夢でした。今からお話しするのは、その先のお話です。過ぎ去ってみれば早く感じる。でもその時は、どれほど長く恐ろしい時間だっただろうとぞっとします。
受賞式の後、豊橋養護学校で残り3か月の学校生活を送り、無事に卒業。19歳で新社会人としての新たな生活をスタートさせました。機械部品の製造販売会社に障害者雇用で入社、同期は男の子のみ、それでも希望に胸をふくらませ、手だけで運転できるよう改造した車にエンジンをかけるのでした。配属先は人事グループ。主に、個人情報の管理、電話の対応、システムのメンテナンス、事務処理でした。仕事は楽しい反面、集中力が低下したり途中で体調を崩すこともありました。ですが、自分で稼いだお金はとても嬉しくて、夢が叶ったと思いました。しかし現実は厳しいものでした。
その瞬間、私の中の目標が消えてしまっていたのかもしれません。プライベートの面では、休みの日は今まで遊べてなかった分、爆発したかのように外出し、家にいることもだんだんと少なり、季節は夏へと近づいていきました。家族は私を無理をしないよう止めました。しかし、同世代の子たちと同じようにいたいという思いが強く、具合が悪くても黙っていたりして家族を悩ませていました。仕事にも慣れてきたころで、杖で歩いて動いていたからか仕事を任せられることがあり、新人だから頑張らないと、と考えて、できそうにないことも無理して大丈夫だと引き受けるようになっていました。
きっと、仕事もプライベートの生活の仕方も、バランス感覚が麻痺していたのかもしれません。配属先の人事グループは、常に社員に関連する部署でもあったので、肩に力が入りっぱなしで「本当の素の自分」を出すタイミングも失っていました。知らないうちに身体を苦しめていたとは気付かずに……。
闘病生活ふたたび
ある日からだんだんと物を飲み込むことがしづらくなりました。そして夏の終わりごろ、会社にいつものように行こうとした朝、急に視界が真っ白になり倒れました。うっすらとしか記憶がないのですが、救急車で運ばれホルモンの分泌異常の疑いがあるとされ、そのままかかりつけの市民病院に入院することになりました。会社、家族にも迷惑をかけ、その時やっと自分が調子に乗りすぎて、病気とうまく付き合うことができていなかったことに気が付きました。
一週間ほどの入院だとたかをくくっていて、ここからまた長い長い闘病が始まることなど想像もしていませんでした。食事はうまくのどを通らず足も歩きづらい。そんな中、会社のみなさんが続々とお見舞いに来てくれました。正直、会うことも話すことも怖かった。心の健康も崩していたのです。
入院中、学校卒業後の障害者をサポートしてくれる社会福祉法人の方、主治医、会社、母、私で会議をしました。会社側としては、障害について、病気についてどこまで突っ込んで聞いたらいいか分からなかったそうで、お互いがすれ違いを起こしていました。そして、私は家族の忠告も無視して身体をいつのまにかいじめていた訳です。
話し合いの結果、しばらく休職することになりました。軽いうつ状態、若年性パーキンソン病の薬の調整治療を行うことになりました。食事はうまくとれない、口内からは出血、日に日に弱り、気力を失くしていました。まるで初めて病気を患った時のようでした。それでも母は毎日私の世話をしに来てくれました。
病院で迎えた20歳の誕生日
いつのまにか11月になり、3か月が経過していました。ですが、誕生日は家族と家で過ごしたいと外泊許可をもらいました。
そしてめでたい20歳の誕生日の日、予期せぬ症状が私と家族を襲いました。身体中がけいれんするのです。ひどいときはとび跳ねてしまうほどです。何が起きたのか分からず、天罰というものなのかと思うほど、成人のプレゼントは酷なものでした。病院に帰ると詳しく検査をされましたが、原因が分からない。柵を4点ベッドにつけてもとび跳ねて床に落ちたりしてしまうほどです。家族も、今もあの悪夢を忘れられないと話しています。そして次は自発的に尿が出せなくなり、口内炎が10個以上できたりして苦しかった。けれど、母や看護師の前ではどんなつらい時も笑顔でいました。笑顔は幸せのホルモンを出すからです。
悲しいことはたくさんありました。一生に一度の成人式に振り袖も着られず入院していたこと。それでも行きつけの美容師さんに病室で髪のセットの相談をし、ドレスを来て外出という形で出席することはできました。家族のサポート、ヘルパーさんのおかげでした。
原因を追及するため大学病院に転院することになりました。強い薬の点滴をしても効き目がなく、そんななか嬉しかったのは、また自発的に尿が出たこと。自分を見つめ直すとともに小さなことができるだけで私にとって大きな幸せとなり、それは家族の幸せでもありました。母は昔のようにまた遠い大学病院まで通ってくれました。
退院 在宅治療を開始
年が明け2014年3月、すでに入院して半年がたっていました。色々な薬を飲み、徐々にではありましたが、けいれんは収まりつつありました。どんなにつらくても、床をはってでも、リハビリに根気強く周りに励まされながら取り組みました。完全によくなった訳ではありませんが、6月にようやく地元の市民病院に戻ってきました。
その時を機に、家族はどうにかして家に連れて帰りたいと思うようになりました。家に入るまでには階段があるので、新居の購入を迷いながらも決断し、引っ越しの準備を始めていました。家を買うことはとても大きな決断でつらかったと思います。私の障害者手帳は三級から一級に変更されました。病院でも入院期間が一年を過ぎようとしていたこともあり、在宅治療への切り替えの準備が始まりました。家族も病院も私のために頑張っている。私もせめて自分で車いすにうつることができるようにと訓練しました。また、尿意が分からなくなってしまったので、導尿の練習をしました。
そして、引っ越しも落ち着いた2014年の8月、ついに会議を重ね、往診、訪問入浴、訪問看護、ヘルパー、訪問リハビリのサービスを自宅で受けながらの生活が始まり、戸惑い、葛藤もしながら徐々に新しい生活になじんでいきました。
新しい夢にむかって
闘病生活は悪いことだけではありません。私は入院当時、鏡を見た時、とてもひどい顔をしていました。そこで始めたのが治療のない週末に化粧をすることでした。それは自宅に帰ってからも日々の楽しみとして続けていて、たまたま応募した雑誌のメイクモデルのオーディションに合格し、東京で撮影をするという貴重な体験をしました。その時、私と同じように障害者でもモデルや綺麗になりたいと願う人はたくさんいるだろうなと思いました。
そして現在、私は、ホームページを立ち上げ、大好きな手芸をいかしてあみぐるみと羊毛フェルトで作った作品を、注文を受けて一つ一つ作って販売しています。
人生は冒険です。新しい夢ができました。それは、手芸の講師の資格を取り、自宅で教室を開くこと。福祉施設でボランティアとして手芸を教えながら活動するとともに、化粧の楽しさ、おしゃれの楽しさを伝えていくことです。
私は自分の家族をほこりに思います。こんなにも一緒に病気と戦ってくれて、時には叱ってくれて、時にはとことん応援してくれて。ご飯を一緒に食べること、ケンカすること、ねること、家にいられること、こうした当たり前のことを幸せだと感じさせてくれる家族を大切にし、孝行していきたいです。幸せはごく身近に存在し、ただ気づかないだけ。
人生は冒険で広い世界を見つめ、挑戦してこれからを生きてゆきます。私は今、幸せです。
福祉賞50年委員からのメッセージ
夢とあこがれで「看護師」をめざした17歳は、原因不明の体調不良で入院し、一人で誕生日を迎えた。「夢をかなえられない」絶望感。葛藤。でも、転校した養護学校の障害を持った子どもたちの笑顔に勇気をもらい、「私は私」で自分の道を歩むと綴った素敵な受賞作品。それから・・・。希望に胸ふくらませての社会人生活もからだもこころも健康を崩し、「病院で迎えた20歳の誕生日」。それでも、ほこりにおもう家族がいてくれる。「人生は冒険」「笑顔は幸せのホルモンを出す」とすみれさん。応援します!
薗部 英夫(全国障害者問題研究会事務局長)