NHK厚生文化事業団 「私の生きてきた道 50のものがたり」 障害福祉賞50年 - 受賞者のその後

『共生社会に生きる』

〜受賞のその後〜

田邊 美起 たなべ みきさん

1964年生まれ、盲学校教諭、神奈川県在住
視覚障害
47歳の時に第47回(2012年)佳作受賞

田邊 美起さんのその後のあゆみ

『共生社会に生きる』

「冬は必ず春となる」

2012年8月21日、17時33分。残暑が厳しく、とても蒸し暑い日だった。仕事が終わって、いつものようにバスに乗り、駅に着いた。改札をくぐって、階段を降り、ホームを数歩、歩いて行くと学生のにぎやかな声がした。私は、学生達を避けようとして、左に大きく回り込んだ瞬間に、左足が宙に浮いた。
 「あっ、落ちる」
 私は、ホームから落ちてしまったのだ。自分で起き上がろうとしたが、左手首がびりびりと痺れて力が入らなかった。
 「折れたんだ」と思った。
 ホーム上では、学生達が騒いでいる声が聞こえた。
 「わー、どうしよう。ホームから人が落ちちゃったよー」
 私は大きな声で、
 「誰か、駅員さんを呼んできてください」と叫んだ。
 それから、数分後に、二人の駅員さんが駆けつけて来て、一人はホームの上にいて、もう一人の若い駅員さんがホームの下に降りて来てくれた。駅員さんは、どうやって私をホームの上に上げたら良いのか、困っている様子だった。
 「自分でホームに昇れますか?」と駅員さんが私に聞いてきた。
 私は左手首を骨折していることを伝えたが、早くその場から離れたかったので、自分で上がることにした。
 カバンと白杖を若い駅員さんに持っていてもらい、駅員さんの指示するとおりに、ホームの側壁のでっぱり部分に右足をひっかけて、左肘と右手で体を支えて、飛び上がった。すると、ホームの上にいた駅員さんが、私の体を引き上げてくれて、ホームに上ることができた。
 私のケガは、左手の橈骨遠位端骨折と右足部の剥離骨折だった。右のお尻もレールに強く打ち付けてしまったために、腫れ上がってしまった。今まで経験したこともない痛みとくやしさと情けなさで、涙が止まらなかった。声を上げて泣いていると、不思議に痛みも楽になっていくし、心の奥に押し込んでいた出来事(ストレス)も洗い流されていくように感じた。時には、子供の頃のように、大声を出して泣いたり、わめいたり、大声で笑ったりすることが、大切なことであると気づかされた。おとなだからとか、恥ずかしいからと、感情を押し殺してしまうために、心の病気になってしまう人が多いのではないかと思った。

田邊さんと家族の写真

私の落ち込んでいる姿を見て、娘が、突然、こんなことを言い出した。
「ママ、7月に障害福祉賞に応募したよね。きっと、ママの原稿が選ばれると思うよ。こんなにつらい目に合ったんだから、今度はいいことがあるはずだからさ」と。
 10月4日。この日は、骨折が治癒して、長い療養休暇を終えて、やっと職場に復帰できた日だった。その日の午後、職場の電話が鳴り、
「田邊先生、NHKから電話ですよ」と呼ばれたのである。
『冬は必ず春となる』だと思った。私は、感動して、全身が震えた。そして、すぐに娘にメールで報告した。

「通勤メイトの存在」

実は、ホームから転落したのは、これが2回目だった。中途失明者の私は、カンが悪く、白杖の使い方も下手なために、歩行能力は低い方だと思う。自宅から職場まで1時間半の通勤は、正直に言って命懸けである。けれども、こんな私が安全に通勤できるのは、通勤途上で知り合ったたくさんの人々のおかげなのである。
 現在は、朝は、電車の安全装置を作る会社に勤めているTさんと、遺跡を発掘する仕事をしているFさんと3人で通勤している。その前は、公務員のHさんが誘導してくれていた。最近では、Hさんは、帰りの通勤で私を見かけると声をかけてくれる。Hさんの前は、県立高校の校長をしているK先生だった。K先生との会話は、教師としても教わることが多くあった。
 また、帰りの通勤でも私を見かけると、声をかけてくださる方が数名いるので、本当に助かっているし、誰と会えるのかが、私の楽しみにもなっている。こんなふうに、毎日の通勤の中で、いろいろな方と知り合えて、温かい真心に触れられるのは、私が視覚障害者だからこそだと感謝している。

「24年間の教師生活」

学校での田邊さんの写真

私は、神奈川県立平塚盲学校の理療科の教諭をしている。理療科には、18歳から70歳位までの生徒が在籍している。3年間学習し、国家試験に合格すると、あん摩・マッサージ・指圧師、はり師、灸師の免許証を取得することができる。視覚障害者の多くが理療で生計を立てている。
 本校は、毎年10月に、体育祭か文化祭を各年で行っている。幼稚部から小・中・高・理療科までの全生徒が一緒になって行う。私は、着任当時から生徒会の顧問をしてきた。
 体育祭では、応援合戦があり、大工の心得のある生徒が中心になって、大きな板に、6つの穴(横2つ、縦3つの穴)を開けたものを4枚作ってくれた。そして、キャプテンの笛の合図に合わせて、ヘルメットをかぶった生徒達が、その穴から頭を出して、4文字の『人間点字』を演じた。
 「フレフレ、アカアカ。カテカテ、アカアカ」
 これは大好評で、拍手喝采をもらって、生徒達もうれしそうだった。
 文化祭では、全校生徒の代表が歌自慢を競い合う『カラオケ部に対抗歌合戦』を13年にわたって行っている。
 カラオケ部というのは、私とS先生が17年前に新設した部活動である。視覚障害者は、元々、音楽が好きだ。バンド演奏や合唱も好きだが、一人でもできるカラオケも大好きである。中には、音感が優れていて、大変上手な生徒もいる。
 カラオケ部は、かつて、NHKの『のど自慢』に二人の生徒を出場させたことがある。一人は、30歳代の男性(全盲)で、鐘が連打されて合格した。もう一人は、高校生(弱視)で鐘は2つだった。
 このカラオケ部に対抗して歌合戦が行われる。第6回の優勝者は、インドネシアからの留学生で、キロロの「未来へ」を美しい日本語で見事に歌い上げた。
 私は、こういった学校行事を通して、ひとりひとりの生徒達の隠れた才能に光が当てられて、それが彼らの自信や誇りとなり、さらに、『生きる力』になってくれれば良いと思っている。

身をもって「生きる力」を示す

昨今、障害者の教育において、共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育の推進が勧められている。しかし、私は、自ら『生きる力』を得るためには、実践から学ぶことが重要であると考える。
 私自身も視覚障害者であり、実社会の中で、健常者と共生するために、日々、創意工夫しながら努力をしている。また、健常者の人々からの援助や思いやりがなければ生きていくことは困難である。そして、私たち、障害者が懸命に生きている姿は、健常者の人達に生きる勇気を与えることになると思う。だからこそ、ある時には、素直に心を開いて、周囲の人たちと協調性を持ち、また、ある時には、自己主張しながら周囲の人達に障害を理解してもらい、社会に適応することが大切であると、生徒たちに身を持って指導している。
 今回の受賞を通して、改めて自分自身を振り返り、原点に立ち返るきっかけになったことは、とても感謝している。教師とは、生徒にとって最大の教育環境である。これからも自分の原点を受け止めながら障害者として、教師として、『生きる力』を示していきたい。
 今日も私の頬を優しく風が撫でていく。

福祉賞50年委員からのメッセージ

駅のホームから転落したことが、2回。まさに視力障害者にとって、1時間半の通勤は命懸け。それでも盲学校教員の田邊さんは、生徒たちが自信や誇りを持てるようになろうと努める。その理念がすばらしいですね。今回の新たな心境レポートで、「障害者が懸命に生きている姿は、健常者の人達に生きる勇気を与えることになる」との考えから、「障害者として、教師として、『生きる力』を示していきたい」と自らの決意を書いている田邊さんの生き方に感動しました。

柳田 邦男(ノンフィクション作家)

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